ナルキッソスの恋人
雪瀬ひうろ
第1話
透明な音色の余韻だけが狭いピアノ練習室の中に響いていた。それが存在をなくし、空気の中に完全に溶け込んでしまうのを待って初めて、小さな拍手の音が生まれた。
「やっぱり上手ですね。先輩は」
彼女はそう言って微笑む。それが私達二人の日常だった。
白のブラウスに黒のハイウエストワンピース。触れたら壊れてしまいそうな華奢な体つき。彼女の小さな肩を越えてなお流れる髪は艶やかに黒い。
「別に……。まだまだだ」
「そうですか? 私からしたら先輩の演奏はうちの学校でも頭一つ抜けてるように思いますけど」
「そりゃあ、かいかぶりもいいとこだ」
実際、うちの音大のピアノ科の中で、評価が私よりも上の存在などいくらでもいる。それらが教師のえこ贔屓のためであるなどと嘯けるほど私の面の皮は厚くはない。それは正当な評価だ。
こんな風に私を褒める彼女だってもしかしたら私よりもその腕前は上かもしれない。
「私は先輩の演奏が一番好きですよ」
私はほんの一瞬の逡巡のあと、彼女の賛辞に無言を返した。これも私達の日常を形作る一つのピースだった。私が演奏し、彼女が何の根拠もない称賛を私に贈る。今日も代わり映えもしない退屈な一日だった。
その沈黙を振り払うようにして私は言った。
「帰るか」
「はい」
そして、私達はそれぞれの家路につく。そこまでが私達の日課だった。
彼女と私が交際を始めたのは、彼女がうちの音大に入学して間もなくのことだった。特段語れるようなきっかけがあるわけではない。自宅に所有するピアノにいま一つ納得のいかない私は(私の所有するものは、なぜだかいささか音が固い。理由はわからない。あるいは精神的なものかもしれない)大学にあるピアノ練習室を主な練習場所としていた。そこで私が二年のときに新入生の彼女と出会い、私が交際を申し込んだ。人並みに恋愛というものを経験してみたかったのだ。
だからといって私が彼女を、面映ゆい言葉を選ぶなら、愛していないわけではない。私は大学生としてごく自然な精神をもって彼女を愛している。そのことになんら嘘偽りはない。
彼女は私の演奏を賛美した。特別な美辞麗句を並べたわけでもなく、具体的な技巧を指摘するのでもない。ただ彼女は「上手だ」と子供じみた何の含蓄もないことばを漏らすのだ。確かに私は飾り立てられた綺麗事を聞きたかったわけでも、厳正厳格な批評を求めていたわけではなかった。しかしだからといって、阿諛追従を求めていたわけではない。彼女の言葉には遠慮もへつらいもなかった。少なくとも私はそう感じていた。そういう意味では受け取るにやぶさかではない言葉なのかもしれない。
余計な思考を振りきり、自室のピアノに向かい作曲の作業を続ける。作曲、と言ってもほんの遊びのものだ。素人の駄作の域を脱せてなどいない。当然だ。作曲は私の専門ではない。あくまで私は演奏家なのだ。その演奏だって決して胸を張って誇れるほどのものではないが。
とはいえ仮にも音楽に取り組むものとしていい加減なことはしたくはなかった。音符を書き込む私の手が止まる。今日はここまでにしよう。音楽の神が降りてこないのに作業を続けることは冒涜だ。そんなことを言っていたら私には、ほんの一小節だって音符を躍らせることはできなくなってしまうが。
結局今日もほとんど作業は進まなかった。仕方がない。こういう日もある。別に期限があるわけでもないのだ。気長にやろう。
ルーチンワークとなった自分への言い訳を終え、私は無造作にベッドに転がる。作曲をしないからといって他に何かすることがあるわけではない。大学の試験も一段落ついたところだ。毎日の最低限の修練さえ怠らなければ、何も私を駆り立てるものはない。要するに暇だ。本来ならこういうときにこそ作曲をするべきなのだろうが……。生来の無精が鎌首をもたげる。悪いのは私への託宣を怠っている神であって私ではないのだ。
何気なく携帯電話を手繰り寄せ、メールを送信する。内容も何ということはない。送った瞬間、私の中から消えた。送信ボックスを見返すと『退屈なんだけど』とだけあった。もちろん、絵文字も何もない。これは酷いと思ったがどうでもよかった。
前日から放置していた本の続きを読み始めたが全く内容が入ってこない。神話の類を調べるのは好きだが、特段読書を好むわけではない。ただ知識を得るには読書が一番というだけのことなのだ。だから読んでいるのだが……。そこまで面白いものではない。私は再び文庫本を本棚の肥やしにすることにした。
なんだかんだと言っても時間は潰れた。メールを送信してから、かれこれ一時間といったところだろうか。返事はまだない。彼女の返信の遅さは常のことだ。気にすることではない。風呂にでも入ろう。
風呂からあがってもまだ返事はなかった。別に内容があるメールではない。別に不動のように返事を待つ必要はない。私は暇つぶしにパソコンを立ち上げた。
定期的に巡回するサイトを見終えてなお返事はなかった。私がメールを送信してから優に三時間は経っている。私の心中にちろちろと火が燃え始めている。どうしてさっさと返事をすることができないのか。私はなんども「新着受信」のボタンを押す。
しばし携帯とにらみ合った後、私は諦めて床についた。
暗闇と蒲団だけが私を包んでいた。瞼の裏の虚空を睨んでいるとどこか悔恨の情のようなものが湧き出てきた。よく考えるまでもなく先程のメールは酷過ぎた。私だって『退屈なんだけど』なんていうメールを送られたら「黙れ」と返信するだろう。あるいは「悔い改めよ」だ。それだって返信するだけ愛に溢れていると言える。『退屈なんだけど』などというふざけたメールを送る輩には無言の暴力をもって糾弾の意を表するのが理だ。私はなんという愚かしい行動をとったものだろうか。
私は胡坐をかいていた。甘えていたのだ。私のろくでもない演奏を肯定してくれる彼女が私の全てを肯定してくれる存在であるかのような錯覚を抱いていたのだ。実際彼女は優しかった。私を責めたことなど一度もない。あったとしてもその非は確かに私にあることだったし、その批難すらも諭すようになされた。彼女は菩薩か、いや聖母か。ともかく、私にとっては女神に等しい、そんな存在であったのだ。どうしてそんな至極当然のことに気がつかなかったのだろう。どうして重い石を背負い、腰を折り曲げねばならないほどの傲慢の性もった私が、天上に住み、神に愛された彼女に対して横柄な態度をとって良いはずがあっただろうか。
彼女に愛を告げたことに理由がない、などと考えるなど何という思いあがりであっただろう。そんな考えはニヒルをきどっていただけにすぎない。地獄の最下層でルシファーに噛み締められる三人の罪人に勝るとも劣らぬほど私は罪深い。これは裏切りだ。私は彼女に愛をいただいている不肖の身。彼女は私の主なのである。どうしてかのように尊大傲慢な意思をもちえたものか。まったく慚愧に堪えない。
私の演奏への賛美とて彼女の大海よりも深い慈悲心あればこそ。驕り高ぶり、彼女の慈悲を逆に評することなどどうして許されようか。いや許されるはずがない。許してはならない!
できうるならば今すぐにこの家を飛び出し、彼女の前に跪き、許しを請いたい。今の私ならば城壁の前で三日三晩許しを請うたとて、決して屈辱と感じる事などはない!
きっと彼女は怒っている。いやそのように考えることが既に不敬に当たる。きっと彼女は怒りをもってはいまい。ただ、憐れんでいるのだ、罪深い私を!
明日の朝の一番に謝罪のメールを送ろう。イエスを迫害したパウロは復活したイエスに出会い、劇的な回心を果たしたという。私の心も同様に変わった。いまや私の中は彼女への信仰心で満ちている。
『すいません、昨日メール返せなくて。なんか携帯の調子が悪くて』
『あるよね。そういうの。別に特に用事なかったから
気にしなくていいよ』
大事なのは結果ではなく、心構えだ。自分でも何を言っているのかよくわからないが、要するにあんまり調子に乗らないようにした方がよいということだ。
「どう?」
「いいじゃないですかー。私は好きですよ」
彼女は未だ完成に至らぬ私の拙作をそう評した。私が作曲した曲を彼女が聞きたいと言ったので試しに聞かせてみたのだ。
「完成したら聞かせてくださいね」
「いいよ」
私はまた適当な安請負をする。この曲が完成するのはいつのことになるだろう。あるいは永遠に完成しないかもしれない。でもだからといって、そのことで私を責めるものなどいない。完成したら御の字だ。いま一つ上がらないモチベーション。結局、私は誰かに尻を叩かれなければ動き出そうとは思えないタイプの人間なのだ。
その日の晩、私は作曲に完全に行き詰っていた。これ以上はワンフレーズだって生み出せそうもない。
「ボツにするかな……」
書きかけの楽譜を握りつぶそうとする手が止まる。一瞬だけ彼女の顔が浮かんだ。
携帯電話を取り出し、メールを打ち込む。
『サビの部分だけどさ、メロディを変拍子にするのありだと思う?』
数分後、メールが返ってくる。
『良いと思います』
「………………」
作曲の作業を再開する。四拍子を試しに三拍子に変えてみる。悪くはないが、違和感の方が勝るように思える。いっそ七拍子にしてみるのもありだろうか。
『むしろ七拍子にするのってどう思うよ』
今度はしばらく返事がなかった。私はパソコンで適当にサイトを巡回する。携帯のバイブ音が私を現実世界に引き戻す。
『良いんじゃないですか』
「…………………………」
ピアノに向かい作曲作業を再開する。サビを七拍子にしてみる。この流れで突如七拍子になるのはあまりに奇抜すぎないだろうか。ここは四拍子をキープした方がいいのではないだろうか。
突如走る閃き。いっそ転調してみてはどうだろう。5度圏? 知るか、そんなもの。そしてオクターブも一つ、いや二つあげてみるか。いやいっそ下げるか。二つくらい下げるか。テンポも116bpmから132bpmくらいまであげてみて……。
妙にテンションが高くなってきた。自分がいったいどんな音楽を目指しているのかわからなくなりつつあったがそのような思考は捨てた。今の私は曲を作っているのではない、創造しているのだ!
『bpm上げて、オクターブ下げて、転調するのってどう思う?』
『まあやってみたらいいじゃないですか』
意味不明な曲になった。そもそも五度圏を無視するという発想が奇抜すぎる。ト長調をいきなりハ短調にするのはいくらなんでも無理があった。今まで青々とした草原を駆けるようなメロディだったのに、いきなり凍て付く氷河に叩き落されたみたいな印象になってしまった。しかもいきなりオクターブを二つも下げたせいで地獄の底から鳴り響いているような重低音が襲いかかってきている。まず「いっそ下げるか」なんて考え方自体がおかしい。bpm上げたから妙にアップテンポでもある。
『意味不明な曲になったんだけど』
結局、その晩、メールの返事はなかった。
私は何と罪深いのか! 一度ならず二度までも彼女に無駄なメールを送ってしまった! 禁断の果実を口にしたアダムとイヴでさえも二口目を口に含まなかったというのに。
私の傲慢の性はたとい煉獄に落ちたとて拭えそうもない。曲の不出来はどう考えても自身の責任であるにも関わらず、あたかも彼女に非があるかの如きメールを送ってしまった。私は屑だ! どうしようもない屑だ!
そしてそれでも彼女はこんな私もきっと愛して下さっているのだ。私はイエスとともに磔にされた盗人だ。自分が何をしているのかわかっていないのだ。彼女はそんな私をも許して下さるだろう。しかし、それに甘えることはすなわち罪である。悔い改めねばならないのだ!
私はどこか彼女の事をエコーと見ていた。そう、ヘラの理不尽な怒りを買い、相手と同じ言葉を繰り返すことしかできなくなったあのエコーだ。彼女は本当に考えてものを言っているのだろうか。私が言った事をただ鸚鵡返しに呟いているだけなのではないだろうか。そんな風に考えてしまったのだ。
それでも私は決してナルキッソスにはなれない。なりたくないのではなく、なることすらできない。たとえ、ネメシスに罰を受けようとも。
ナルキッソスは絶世の美少年だった。それゆえに同じ言葉を繰り返すことしかできないエコーを「退屈だ」とうち捨てたのだ、傲慢にも。エコーは悲しみのために姿を失い、木霊となった。そのために神に対する侮辱を罰するネメシスがナルキッソスに呪いをかけ、自分自身しか愛せないようにしてしまったのだ。
私はナルキッソスであってナルキッソスでない。私は絶世の美少年などではありえない。たといネメシスの呪いとて私が自分自身を愛することなどできはしないだろう。だが、ナルキッソスの醜く驕り高ぶった精神だけは我が身に宿しているのだ。ナルキッソスのような絶世の美少年とて許されなかったのだ。私のような下賤の醜き輩が許されるはずもない。
私は馬鹿だ。大馬鹿者だ。本当は嬉しかったのだ。彼女が私の作った曲を褒めてくれたとき。今までそんなことを言ってくれる人間は一人としていなかったから。本当は認めてくれる人が欲しかったのだ。それは曲だけの事ではない。演奏のことだってそうだ。私を私として形作る全ての要素で私を認めてくれる誰かを求めていたのだ。愛の告白を受け入れるということは相手を認めるということ。私が本当に欲しかったのは、私自身を認めてくれる人間だったのだ。
彼女がそうだった。彼女は私の全てを受け入れてくれた。しかし、私は彼女の優しさに胡坐をかき、甘え、あまつさえ心の底に彼女に対して傲慢な要求まで抱いていた。どうして彼女はすぐに私に返信してくれないのか。早く返信しろ、そんな風に考えていたのだ。私は浅はかだ。阿呆だ。どうしようもない人間だ。
ナルキッソスは水面に映る自分自身を見て、恋に落ち、口づけしようとしてそのまま水に落ちて死んだ。そんな罰すら今の私には生ぬるいだろう。それ以前に容姿も内面も技術も人に誇れるものなど何一つとして持たない私が自分自身を愛することなど決してできはしない。
私が今彼女に報いる方法は何だろうか。そんな方法はないのかもしれない。私の罪は棘のように私に絡みついている。それを断ちきる方法など本当にあるのだろうか。世界中のどんな宝剣秘剣を持ってしてもきっとできない。なぜなら罪は私の中にこそある。薄汚い私の命脈を断ちきることはできても、私の本当の罪を殺すことは叶わないのだ。
ならば、方法は一つしかない。
曲の続きを作るのだ。それが本当に償いになるとは思わない。これはきっと自己満足だ。薄汚れた私にお似合いのごまかしかもしれない。しかし、今の私にできる、たった一つの事であることには違いない。
偽善をなそう。悪たる私に善はなせない。しかし、偽善を使って装うことはできる。何もしないでただ朽ち果てるよりはずっといい。
今度ばかりは真剣だ。無駄な転調やテンポの変更はしない。あくまで順当に曲を形作る。彼女が褒めてくれた時の形を崩さぬように、慎重に……。
気がつくと空は白み始め、世界は新たな一日を始めようとしていた。
『ごめんなさい、寝ちゃってました。曲頑張ってつくってください』
いいんだ。もう作ってしまったから良いんだ。体の節々が痛むし、ひっかくような耳鳴りが鳴りやまないし、目は充血しているし、頭は割れるようで、満身創痍だが完成したんだから良しとしよう。
『今日会える?』
私は作った曲を彼女に聞かせた。体調は未だ優れないが最後まで演奏し通した。私の持てる全てを出し切った。これが今の私にできる最高の演奏だった。
曲の出来自体もなかなかのものだ。少なくとも私が今まで書いては捨て、書いては捨ててきた作品の中では一番の出来だ。
この曲は私だ。私自身だ。そうとまで思える。この作品を愛することは自分自身を愛すること。どうやら私はやっと誇れる何かを見つけられたようだ。
私は自身がナルキッソスとなることを是とは思わない。だが、自分自身のみを愛し、他を顧みないことと、誇れる何かを持つことは別の事だ。
今ならネメシスに罰を受け、この曲を愛し、この曲とともに心中したとて惜しくはない。それが罰ならば甘んじて受けよう。だが、私はもう決して罪を犯さない。絶対にエコーを木霊になんてさせやしない。もしもエコーがヘラに呪われたというのならば、ヘラを倒してでも彼女を救いだそう。なぜなら私は彼女を心の底から愛しているのだから。
私の感情の全てが研ぎ澄まされていく。暖かく気高く。私はもう決して奢らない。私の魂も肉体も全ては彼女を守るためにある。
私の全ての思いが詰まった曲。
「どう……だった?」
彼女は優しく微笑んで口を開いた。
「やっぱりサビのところで転調した方が良くないですか?」
「ははは」
私は乾いた笑いとともに、鉄槌を振りおろすように鍵盤を叩いた。
ナルキッソスの恋人 雪瀬ひうろ @hiuro
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