世界87,600時間

アヴィ・S

cats eye

白猫は、確かにその場に居た。

もう一度顔を上げてそこを見てみると、白猫はそこに居なかった。














 争いも、憎しみも、復讐心も、恐怖も、何も生み出さない。生み出すものがあるのだとすれば、それは狂気と無意味な死体だけだろう。

 番号付けと、巻き込んだモノの規模で言えばそれは、第三次世界大戦とでもいうべき戦いだった。しかしその戦いの名を呼ぶことは忌避され、ただ一言。現在『戦争』とだけ一言言えばその戦いのみが指される。

 血の匂い、鉄の燃える匂い、死体の焼ける色。ただしかし、奇妙なことに。人間が消費され続けたその戦いで、他に消費されたものといえば、時間。そして、消費された人間が身に着けていたもののみだったのだ。

 建築物、自然環境は一切無事。

 理由としてあげるなれば、その戦いは人と人との血で血を洗う戦いではなく。人間と、『夜に住まう住人』と称される魑魅魍魎、妖精、妖怪、魔女、悪魔、獣人などなどとの闘いであったことだろう。

 だから、戦いに勝利した人間は、魔法を魔法を失った。

 世界に、奇跡は起きない。偶然は存在しない。全てが数値と化学式で証明できる。

 だが、戦いが人間の勝利で終わる少し前。ある魔女が言ったのだ。

「なあ人間」

 それは、血まみれで、もうなんの力をふるうこともできない敗者の命乞いであり、聞き流すこともできたはずだったのだ。

 だが、戦いが終わる少し前に、ある魔女はとても悲しそうで。まるで、使い方のわからない玩具を振り回す子供を、憐れむような目で以って言ったのだ。

「なあ人間。それでは、お前たちは壊れるよ。我々もお前たちも、把握できる『全て』なんてものは限られている、だがね、人間。それでも、把握できている『全て』を証明できてしまい、奇跡が起こらなくなってしまった世界では、お前たちは壊れるよ」

 そう、聞き流すことなど造作なくできたはずの言葉は、最期の最後で。

 呪いとして、ヒトの心に突き刺さる。

 ある魔女は、言ったのだ。

「取引などではないよ、これは。私たちの敗北は、もう決まり切ってしまったようなのだから。だから、そう」

 ある魔女は、そう、言ったのだった。

「存在しない、敗者たる我々のことは、好きにすればいい」

「殺すも生かすも」

「だがね、人間」

「我々は、から、大きなことを言うことなどできはしないが。我々オカルトの否定され切った世界では、お前たちは確実に壊れてゆく」

 だから。その言葉を聞き、人間は考える。
















 昼間は、人々の笑顔にあふれる場所であっても、夜は何が起きるかなどわからない。暗闇は、人も、人ならざる者も、惑わせる。



 惨劇には、血の匂いがつきものだ。

 赤い赤い、血に染まった床。

 殺されたのは、一人の女性。

 目撃者は三人。

 一人は、ハンチング帽を目深にかぶり、白いひげをたっぷりと口元に蓄えた初老の男性。ボロボロのスニーカーには、たくさんの汚れがこびりつき、元の色がくすんでしまっている。長い時間、用意されたパイプいすに座ったまま、ピクリとも動くことなく黙りこくって何も話さない。

 一人は、若い男で、おろしたてのスーツと新品の革靴を身に着けている。こちらは老人とは違い、イライラとあちこちを歩き回り、椅子には座ろうともせずに時折尻ポケットの携帯を気にしている様子だった。

 もう一人は。白に近い金の長い髪をした、幼い少女だった。ふんわりと広がった袖口に手は隠れ、スカートの下から覗き見える桜色のバレエシューズを履いた細い足は、座った椅子が高すぎるのか、床についていない。場の異様な空気に緊張しているのか、身を強張らせ、無表情にあわただしい大人たちを黒の双眸で見つめている。

 殺された女性の遺体は、惨たらしいものであった。

 全身に走る、切れ味の鈍い刃物で切り付けられたかのような裂傷。頭蓋骨は粉々に砕かれ、顔面はいびつに歪んでいる。

 これほどの異様な有様だが、不思議なことに。監視カメラも、目撃者三人の瞳も、女性が害されていく様子は映しているのに、犯人のすがたを映していない。全くの手がかりがなく、さらには凶器として使われたのであろう物品も、さっぱり見つからないままであった。

「不可解だな」

 そうつぶやいた壮年の男性は、でっぷりと太った腹を揺らして呟くと、おかしな証言を繰り返している少女を見て、軽く溜息を吐いた。名前を輝一てるいちという、禿ハゲ家系の男だ。

「警部」

 そう呼ばれ、振り向いた男の目に映ったのは、情けないことに顔面を蒼白にした部下。

「こ、これはどう考えても普通じゃないですよ。もしかして、『魔女の残党』の仕業なのでは………」

「くだらん」

 そう吐き捨て、しかしやはり部下と同じことを考え出していた自分を奮い立たせるため、彼が部下を怒鳴りつけようとしたときだった。

「ええ。そちらの方の言う通り、これが『闇の住人』のしわざであるなどと言うことは、ありえません」

 ゆったりと、人に物を語ることに慣れた、聞き心地の良いよくとおる声が、その場に静かに響いた。

 その人物は、決して堅苦しくはないスーツをさっぱりと着ていて、手には白い杖を突き、目元はサングラスで覆い隠されていた。

 その人物は明らかに染めたものでは無いとわかるきれいな長い金の髪をしており、日本人にしては白身の強い肌をした、背の高い男だった。

ともわかります。アリス、迎えが遅くなって悪かったね。少しばかり、道が混んでいて、とてもありがたいおせっかいまで焼かれてしまってね」

 そうにっこりと微笑みを向けた男に、椅子でじっと身を強張らせていたアリスと呼ばれた少女は、ゆるゆると首を横に振り、

「プロフェッサー悪くない。それより、この人たち、頭悪い。アリス、さっきから犯人教えてる」

 憤慨する部下を輝一は片手で制し、内心で部下以上に煮えたはらわたをなだめながら笑顔を浮かべると、

「しかしね、お嬢ちゃん。彼女の裂傷は、頭蓋骨の破壊と同時に起きたものではないことならまだわかるが。君たちが犯人を見ていないことについての説明が、寄生虫とどう関係があるというのかな?」

なら、まだ脳は生きてる!」

 ほほを膨らませ。警官たちと、一色触発の状態までに緊張の高まったアリスとの間に、一つ。

 あえて場を切り替えるための咳払いが落ちた。

「ア・リ・ス。すみません刑事さん。このは、日本語を組み立てるのが苦手で。そうですね、彼女話の続きは、そこで座った微生物学者、橋谷教授にでもお伺いしてはどうでしょう?」

 ゆったりと落ち着いて。男は、アリスの手を引くと同時に、閉じた両の目を、一言も発することなく座ったままである老人に向けた。

「この先は、門外漢の私の、あくまでも想像ですが、橋谷教授。あなたの研究は、微生物や昆虫が、寄生する際に宿主を操る種の操る内容を、人為的に操作する研究。そして、血に混じるこの香りは、共同研究者の有馬先生の愛用する香水。彼女と貴女は、数日前から研究の内容について意見が割れていた状態だったと、彼女自身から聞いていましたが。残念です。あなた自身にも、彼女の血の匂いがしっかりと、目撃した程度ではつかないほどついていますよ」

 では、私たちはこれでと立ち去ろうとする少女と男の後ろで、老人はがっくりと力を失って崩れ落ち、警官たちはあっけにとられ、見送ることしかできずにいた。

「お、おい!」

 そんな中で、輝一はうわずった声を上げた。

 そんな彼に向かって男は振り返ると、人差し指を自身の唇に当て、

「安易に『闇の住人』の名を出すのは結構ですが、彼らはそう遠くもない昔に滅びた存在。そこをお忘れなきよう、ことにこの街では」

 そして、と。

 僅かに下にズレたサングラスの隙間から、深い紫に輝く瞳を薄く覗かせた彼は、輝一にとってこの事件よりも不可解としか思えない言葉を残す。

「これから、顔を合わせる機会も多いでしょう。前任の柱警部から何もうかがっていないようでしたら、自己紹介でもしておきましょう」

 サングラスをとり、背筋を伸ばした彼につられ、思わず。その場全員が背筋を伸ばしてしまう。そんな、無音にして無意識化の圧力が、どこからかかかったような感覚だった。

「私は大和田一也オオワダ カズヤ国立ノア研究所付属学園の高等部で国語教師をしています、教師としては彼女の同僚で…あなた方と同じ公務員パブリック・オフィシャル、ですよ」

 淡い金の髪の少女は一也の傍らに寄り添って、冷たい黒の目で、そんな彼らを無表情に見つめていた。

 

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