第十三章 RUN AWAY
蘭は目覚めた。
飛び起きてここが病院であることに気づいた。
体中に巻かれた包帯。起きた瞬間に痛みが走る。苦痛を何とかこらえつつベッドから出て窓に歩み寄った。
体に点滴のチューブがつけっぱなしだが、液が生理食塩水だけであることを確かめて引きちぎる。
ベッドサイドにあるパイプ椅子を持ち上げ、鉄線が入ったガラス窓を叩き割ろうとした。
物音に気づいて入ってきた看護士が言葉を飲む。
蘭は悪鬼のように看護士に近づき、そのまま左手で首を締め上げた。
「ハラはどこ? オーキッドはどうしたの? ここはどこ?」
男が入ってくる。
ワイシャツとネクタイの上に作業ジャンパーを着た貧相な男。技術職系の服装に似合わぬ、昭和の文学者を思わせる外見。
「ここは陸上自衛隊の千歳基地病院。民間人の入院は受け入れていないが、君は対外的にはエックスの関係者だ」
自分が何者かも名乗らず、前置きも無く、開口一番畳み掛けるように疑問に回答する。
話が早いのは蘭の好みだが、苛立っていた蘭には単に人との会話進行能力にに欠陥がある奴だとしか思わなかった。
作業着の男は対人に慣れてない人間らしく、こちらの都合や理解を無視して言いたいことをまくしたてた。
「ハラくんも重傷だったが君はもっとひどかった。全身打撲に加え肺気胸を起こして呼吸停止。現場で胸を切開して人工呼吸をしなきゃ危なかった」
胸にナイフを突きたてて肺に溜まった血を抜き、気胸を起こした胸郭に息を吹き込んで呼吸機能を回復。
北部方面隊の自衛隊救急車が到着する前に施された、蘭の生死を分けた救命措置を誰がやったのかは言わない。
蘭は看護士が逃げるように去った後で、作業着姿の男を上から下まで眺めた。
「お国のエックスね」
「そうだ。オーキッド計画の開発主査でもある」
「あんたが安月給の落ちこぼれ?」
「両方合ってるだけに何とも言えない」
蘭が最初に抱いた文学者みたいだという見立ては間違っていないらしい。
明治、大正の文豪連中の中でも睡眠薬で酩酊したり女と心中したり、欲望や誘惑に弱い生活をしながら片手間に小説を書いてた類の連中に似ている。
小説家みたいな顔した技術者。理論より空想が好きそうな男は言葉を並べる。
「我々が一時休止しているオーキッド計画だが、技術実証機のデータを活かした新造機の開発が検討されている。しかしそれを扱う者が……」
蘭は傷に障る言葉を打ち切った。
「ないわよ」
言った後で胸を押さえる。包帯で包まれた左足と右手と胸と背中、どこが一番痛いのかわからないくらい痛い。
「オーキッドは死んだわ。もう無いわよ」
コンビニエンスストア ロータスマート
店長の氷室がレジを打っていた。
ディアーの喪失。
それまで反政府組織ロータスマートによるハラとオーキッドの確保には暗黙の了解をしていた国家エックス組織エックスファンタジー同好会が掌を返し、横取りという形で北部方面支部でのハラの身柄保護とオーキッドの残骸回収を行った。
欧州エックス組織との契約は正式に破棄された。
損害は保険で充当されたが、これまで要した経費も報酬を担保に融資してもらった資金も回収できなかった。
その欧州エックス組織からは、ロータスマートが自らの組織の支部として持ち株関係の契約を締結するなら、損失した経費を支払うと共に低利の融資をするという話を持ちかけられていたが、氷室は断った。
国から捨てられたエックス・エックスが安心して暮らせるために作った組織と、その計画。五人の組織構成員が病院送りになり、晃は死んだ。
国家エックスとして仲間の死を多く経験していた氷室。誰かが死ぬことは国家との衝突を使命とする組織には避けられない。そんな時に死ぬべき自分が生き残り、これからの未来がある若者が死んだ。親より先に子が死んだ。
殺したのはあの氷室が唐揚げと読んだ女の子ではない、誰かが死ぬ場へ背中を押した自分自身。
氷室は機械的にレジを打ち続けた。
子に死なれた親は一晩で十年老いる、もう、何も考えられなかった。
自動ドアのチャイムが鳴り、スーツ姿の二人の男が来店した。
エックスファンタジー同好会の会長、石野と副会長の瀧
「そろそろお見えになる頃だと思っていました。おでんの補充が終わるまで少し待っていただけますか?」
コンビニのレジ仕事を布袋に引き継いだ氷室は、国家エックス組織トップの二人によって同行を求められる。石野は店の自動ドア前で氷室に尋ねた。
「どこかお話できるところはありませんか?」
氷室はこの冴えない外見の二人が会長と副会長であることは知っていた。
直々に来るとは思わなかったが、自分が居た頃から零細で金欠だった国家組織エックスファンタジー同好会は、ちょっと忙しくなると社長が簿記も外回り営業もやる中小企業みたいな体質は変わらないらしい。
通常は会長の不在時に代行を務める副会長まで一緒に来たということは、組織が抱えてる業務の中でも進行中の案件はせいぜいこんな後処理仕事くらいしか無いんだろう。
「駅の北口に喫茶店があります。コーヒー一杯で千円取るところですがね」
石野はポケットに手を突っ込んでしばらく考えていたが、レジ前のコーヒーを何本か取った。
「売り上げに協力させてただきます」
氷室は石野を店裏に招いた。積んであるビールケースの一つを勧め、差し出された缶コーヒーを開ける。もし組織の長なる自分だけでなく構成員である店員にまで追求の手を伸ばそうというなら、その時は自らの身を挺して止めるつもりだった。
「あなたの組織はもうお終いです」
「そうですね」
「問題はあなたのお店が同じく危機を迎えているということです、来年度には駅前に大手コンビニが開店します」
「そのようですね」
氷室は缶コーヒーを飲みながら石野の話を聞く。お喋りの多い奴だな、と思った。
「我々は過去のエックスに対する冷遇が今回の事件を招いた事を受けて、改善を進めています」
石野の横に立っていた副会長の瀧は氷室に一枚のパンフレットを渡す。
「数年前に我々は十代のエックスを教育するための学園を設立し、それは何とか軌道に乗り始めています」
国際海外ボランティア技能訓練学校。
数年前。米軍に倣った国防のアウトソーシング化を進めた結果、陸上自衛隊設備のいくつかが閉鎖し売りに出され、一部の週刊誌に陸自の経営破綻と書き立てられたことは知っている。
静岡県小山市、富士山の麓にある陸上自衛隊富士学校もそのひとつ。
富士学校と富士演習所敷地の一部が厚生省傘下の法人に売却され、それは省庁間の土地転がしとして少し叩かれた。
このボランティア学園の正体が国家に秘匿された魔法使い、エックスとその関係者を養成する学校だという。
エックスの子供たちの普通の学校生活を送らせるための場所。ニセモノの教育用施設じゃなく本物の学校。
氷室や布袋、松井と常松、こないだ二人で二十歳を迎えた和と明は時期的にその恩恵を受けられなかった。
「施設は富士学校の居抜きで人材はシルバー雇用が中心、やっと学校の体裁を成すようになってきました、しかし福利厚生の面でまだ及ばぬところがある」
石野も、その後ろに居る副会長の瀧も学校に通えなかったエックス。
「富士学校内にコンビニを建てたいなんて言ったバカが居ましてね」
石野は煙草の箱を見せた。氷室は頷いて喫煙を許し、灰皿は無いので自分の飲んだコーヒーの缶を石野の前に置く。
「あなたに課す科料は、そこの店長としての仕事です」
氷室はコンビニのエプロンをめくると、自分の体に巻きつけていた爆薬を外し、目の前に置いた。
「条件はひとつです。捨てられたエックス。あの子たちに普通の若者としての暮らしを」
石野の横で一言も発さず表情ひとつ変えなかった瀧が顔をそらし指で目を拭っている。
学校に行けなかった。その事実は学生の年齢では特に痛手も無いが、年を重ねるごとに辛いものとしてのしかかる。
ドラマや美少女アニメの現実にはありえない学園生活のシーンを見ながら、それに比すべき自分の学校生活が存在しないことを何度も知らされる。
「予算がありません」
石野がさっきコーヒーを飲む金も無かったポケットを叩く。
「学資に加えて生活費までを賄う奨学金は出せません。しかしコンビニ店員と兼業の苦学生でよければ」
氷室は目の前の男に手を差し出した。
同じ頃、蘭は病室で同じパンフレットを見ていた。
富士学園。名前通り富士山の麓にある学園。エックスとその協力者となった子供たちが通う学校。小等部から大学部まである学園は卒業後の就職率もそこそこ良く、学費は国立としては高額だが事実上無料になる奨学制度がある。
このパンフレットを置いていった文学者みたいな開発主査の口頭説明によると、この学費はエックスの事を知らずに入学を希望する物好きを弾くシステムのうちの一つで、殆どのエックスが奨学金を頂戴している。
「ふざけんな」
蘭はパンフレットを叩きつけた。
ハラはその学園の小等部に編入させることが本人不在のまま決められたらしい。
国家エックス機関を揺るがす騒動を起こした蘭。
立場の弱いエックスファンタジー同好会には全てを隠蔽することは不可能で、国家エックスでない蘭が駐屯地内で起きた「事故」の当事者にになることは避けられないらしい。
夏休みは終わりに近づいていたが、元の学園に通い続けるのは難しいと聞いた。
蘭が犯罪者にならない唯一の方法は、富士学園に編入し国家エックス機関に自発的に参加すること。
国がよく使う追い込みに嫌気が差した蘭は、学園への誘いを断った。
自分を殺しにきた相手に尻尾を振るくらいなら、捕まってブチこまれるほうがマシ。元の学校に戻れないなら高校中退のリンゴ農家でもいい。
しかし農園で収穫や肥料撒きをする仕事は出来ないだろうと思った。
もう車に乗れないと思った。
数日後、蘭の病室に意外な客が来た。 松葉杖をついた髪の長い女。
重傷でベッドに縛り付けられたまま、自分の行く末を決めかねていた蘭のところに来たのは、あのヘリパイロットの吉川司。
司はまだ洗面所までの歩行がやっとの蘭に負けず劣らずひどい状態だった。
何とか両方の松葉杖で歩いているが、全身に包帯が巻かれまだ四肢のバランスさえ取れない状態。
「蘭って言ったな……おめぇ……富士学園に行け……」
蘭はベッドに寝転がったまま司の話を聞く。
数日の入院期間中、蘭はベッドサイドに咄嗟に投げつけられるものを置くようにしていたが、投げて脳天を砕くのにちょうどいい青銅の花瓶を掴もうとも思わない。
「わたしは行く。もう一度お国の首輪を締めることにした、店長に借りを返すため……それから」
司の息が切れ始めた。立って歩くのもやっとの状態でここまで来たらしい。
一度息を吸った司は、蘭が見たことの無い司の姉、晃によく似た顔で言った。
「お姉の墓にお前の首を飾るためだ」
司の姉、晃は機体の残骸から収容され、損傷の激しかった遺体は荼毘に付された後、故郷のボンダイビーチに散骨された。
蘭は顔をそむけ「出て行け」とだけ言った。
司は病院パジャマのポケットに手を突っ込み、一冊のメモ帖を投げる。血の滲んだメモ帖には走り書きの数字が書かれている。
「バスケットはそこに保管されてる」
司はそれだけ言うと背を向けて病室の出口に向かう。苦労して歩きながらも、外の廊下に出る前に一言付け加えた。
「小鳥にはもう教えたよ。あのガキはどうするか自分で決めた」
司は病室を去った。
外の廊下で倒れる音。看護士が集まって昏倒した司に集まる音。慌しくストレッチャーに乗せられる音を聞きながら蘭は呟いた。
「男は、強いわね」
蘭は司の投げたメモ帖を捨てようと思ったが、これもまた投げつけるのに役立つと思いベッドサイドに放り出した。
翌日、蘭の元にまたあの文学者みたいな顔した技術者がやってきた。
「君が行ったオーキッドとヘリの破損について何とか免責の決定をもぎ取った。ここで治療を行い守秘の契約を交わし、元の生活に戻るといい」
国のブラ下げたエサに食いつかないとわかると、宥和案で厄介払いをしようとする。
気に入らない奴の言うことなんて気に入らない内容に決まってるが、今度がかりはその通りにしようと思った。
また何日か経ったある日、蘭は千歳基地内のある倉庫にたどり着いた。
生来の高い回復力をもってしてもまだ傷は残り、ヒビの入っていた骨は繋がりつつありながらリハビリの必要な状態。
自衛隊病院で監視下にある蘭に対しても、どうやら基地内の移動に関しては大した警備や警戒をしていないらしいことに気づいた蘭は病院を抜け出し、この倉庫まで歩いてきた。
防災倉庫という看板がかかってるがシャッターもトタン壁も錆ついた倉庫。
開けっ放しになったシャッター横のスチールドアから中に入る。
「遅かったですね。僕は走って来ました」
割れた天窓からの明りの差し込む倉庫には、蘭と同じ病院パジャマ姿のハラが居た。
まだ包帯の残る蘭よりはだいぶ元気そうな姿。ハラもまた司のメモを頼りにオーキッドを探し当て、ここに辿りついた。
ただ自衛隊の設備科が倉庫につける通し番号を書いただけのメモ。肝心の倉庫の位置を、蘭は保管に関係ありそうな人物を見つけ出し吐かせた。ハラの場合は担当の女医を泣き落として聞き出した。
倉庫の中にあったのは、満身創痍のオーキッド。
いつもなら蘭かハラが接近したことを感知すると起動する電子装置も、同時に始まる下らないお喋りも無い。
全身に無数の傷がつき、車体全体が歪んだ一台の車。
蘭とハラは視線を交わすと、二人でオーキッドに歩み寄る。
蘭にとってハラはもう、自分からあれこれと指示を下す存在じゃない。
何一つ言わぬまま一台の車を挟んだ合わせ鏡のように蘭はオーキッドの右側、ハラは左側に回る。
蘭は歪んだドアを力ずくでこじ開けた。ハラは開きっぱなしで垂れ下がり、端が地面についたドアの隙間から内部に入る。
傷つき破片が散らばり、固まってこびりついた血さえも洗浄されてないオーキッドの内部。
蘭は操縦席、ハラは助手席に座る。
この席に座ったのが全ての始まりだった。
蘭はランニングの途中で損傷し捨てられたオーキッドに出会った、あの暑い夜。ハラはオーキッドが団地を壊してやってきた昼下がり。
変わり果てた姿となったオーキッド。それでも二人は居るべき場所に帰ってきたような感覚に囚われる。
蘭はステアリングを握り、ハラはインターフェース・ゲートを開けて割れたプレートに両手を添えた。
無機的な機械特有の冷たい感触。オーキッドに触れた時はいつも暖かかった気がする。
死体の感触。
長い間そうしていた。壊れた車は何も応えない。
「やっぱりダメだったわね」
それでもハラはインターフェース・ゲートに手を押し付け続ける。
「蘭さんには聞こえないんですか」
もうやめなさい、と引き剥がそうとした時に蘭もやっと感じた。
最初は蘭とハラ、二人の両手に感じた微かな痺れだった。痺れは拡大していき、体中に広がっていく。蘭とハラ、そしてオーキッドが繋がっていく。
物理法則に従った機械的な接続じゃない。助けを求め触れ合いを欲し、必死で手を伸ばそうとする命。
蘭とハラはもう機械じゃない、自分たちの大切な存在の手を取り、決して離れないように引き寄せる。
体中に広がっていく痺れと痛み。あの最初の夜以降、オーキッドと自らのエックス・アクティヴィテヴィの接続に伴う痛みを苦痛と認識しなかった蘭。
今まで以上の痛みが蘭とハラを襲う。体中を襲った痺れは、神経に直接触れるような痛みと共に四肢を流れる。
離さない。止まらない。走り続ける。
黒いディスプレイが赤い閃光を発した。
小さな種が映り、それが発芽し苗となり、茎を伸ばしながら枝葉を広げ、蕾が生まれる。
「蘇れ、ぼくのオーキッド」
モニターに赤い花が咲いた。
開花と共にオーキッドの全身についた傷が閃光を発するように修復され、元の姿に戻っていく。
「オーキッド、あなたはわたしと一緒に、誰よりも速く速く走る」
前方に収まった機関部が回転を始め、弱く微かな振動は徐々に力強いものへと変わっていく。
高く澄んだ音は倉庫の壁に何度も反響し、二人の耳を心地よく刺激した。
オーキッドは再び元の姿を取り戻した。
モニターに咲いた花が蘭とハラをからかうように左右に揺れる。
『ようラン、おめぇはまだポンコツかよ』
少年のような少女のような、人をからかうような親愛を感じさせるような声。
『ハラ様、またお会いできるとは夢のようです』
蘭とハラ、そしてオーキッド。三人は笑い合った。
「あんたこそ一度壊れてバカになったんじゃないの?」
『オレはポンコツじゃねぇや、まずはあの集中管理されてる電動シャッターを開けてやる』
オーキッドの高機動情報介入ステーションがハラのエックス・アイソトープと接続し、自衛隊千歳基地のセキュリティ・システムに入り込む。
錆びた電動シャッターはあっさりと開いた。
開け放たれたシャッターの外には、息を切らせた男が居た。
あの蘭の病室に何度も来た、ワイシャツに作業ジャンパー姿のオーキッド開発主査。
蘭とハラが乗り、たった今磨き上げられて出荷待ちの新車のような姿になったオーキッドを見ていたが、背を向ける。
「オーキッド計画は技術実証機の喪失によって中止された。これからもそう」
それでも未練がましくオーキッドの走路を塞ぐ位置に経った主査は、蘭がアクセルひとつ吹かしただけで横に避ける。
「エックスファンタジー同好会は今後きみとその赤い車に一切関知しない。きみが関係を望むなら別だが」
蘭に話に耳を貸している様子は無かった。隣に座るハラに自分の傷に貼られたガーゼを「ほらまだミディアムレアだ」と剥がして見せてハラに顔をそむけられたりしている。
「ハラくんの希望を聞きに来た」
ハラは何言ってんだコイツって顔で開発主査を見る。かつて白い部屋の感情希薄な少年だった頃には見られなかった表情。
「蘭さんとオーキッドが行くところがぼくの行く所です」
蘭がもう一度アクセルを吹かした。オーキッドが誇らしくエンジン音を響かせる。蘭は病院から盗んだ外出用健康サンダルでも運転能力には特に支障が無いことを確かめた。
「そういうこと。邪魔するなら何度でもやるわよ」
オーキッドも便乗して主査に啖呵を切る。
『ブッ倒れてたけど寝てたワケじゃねぇ、北部方面隊の色んなヒミツを言いふらしてやろうか』
主査は小さな封筒を投げた。蘭は腕の動きに呼応して一瞬で開くサイドウィンドから手を伸ばしてキャッチする。
「ハラくんの住民票と戸籍謄本だ」
蘭は顔の前で軽く手を振る、蘭には珍しい感謝の仕草。
主査はオーキッドのフェンダーを撫でながら呟いた。
「さらばだ、わたしの息子」
『オレはオレだ、誰のものでもない』
コンビニエンス・ストア ロータスマート富士学校前店。
富士学校の正門から一〇〇mほどのバス停脇に建てられたコンビニエンスストア。
神奈川の単線駅前にあった店の看板や什器、在庫までもをトラックで運び、建てられた店。
無駄になったのはレジ前のおでんと唐揚げ、日配の惣菜、弁当だけで、氷室と布袋と店員たちがトラック内で消費してしまった。
開店して三日。学園前の店という土地柄からか、以前の駅前コンビニより混雑した時間とそうでない時間の差が激しいことに気づいた。
富士学園に出来た念願のコンビニ。利用する生徒や職員はその店長と店員がかつてエックス・テロリストと言われる反国家エックスだったことを知らない。
氷室は特に隠すつもりは無かったし、若者たちにとって自分の経験が必要な時が来たなら話してやろうと思っていた。
音がした。
店前の駐車スペースに乱暴に駐車する音に氷室は少し眉をひそめる。
『おめぇは相変わらずバックで入れるのは苦手だな。ハラ様のほうがよほど上手ぇぞ』
入ってきたのは高級車に不似合いなジャージ姿の若い女性とサイクルウェアの少年。
食料品コーナーに直行して幾つかの缶詰を買った女性は、ミネラルウォーターの瓶をひとつ持つとレジに直行してくる。
「お会いするのは初めてですね」
「何度も会った気がするわ」
背後のバックスペースから店員がもう一人出てくる。
金髪の男。作業ツナギにコンビニのエプロンを着けた姿。頭部にはまだガーゼが残っている。
「店長、レジは俺が」
氷室は唐揚げを什器に並べる仕事に戻った。ハラの奪還で蘭にナイフを持って襲いかかり、木のソファをたたきつけられた男が蘭を見て、それから商品を見る。
「何か買い忘れたものは無いか?」
「忘れてたわ」
蘭はレジ前から菓子パンのコーナーにステップバックし、ホットケーキのパックをあるだけ掴む。
冷蔵庫の間にある入り口からもう一人出てきた。以前の坊ちゃん狩りを坊主頭にした小柄な男。
「あなたが買い忘れたのは多分これでしょう」
ミルクで溶いてフライパンで焼くホットケーキミックスの粉。
「探して無かったからこれにしたのよ」
雑誌の検品をしながら立ち読み学生を追っ払っていた布袋も姿を見せる。
「これからは在庫を絶やさないようにしましょう」
蘭はホットケーキミックスの袋を手にしながら頭を掻く。
「わたしに焼けるかなぁ」
ハラが蘭の手からホットケーキの袋を取り、レジに置いた。蘭と揃いで買ったガマ口をサイクルジャージのポケットから出す。
「僕が焼いて、蘭さんに食べさせてあげます」
団地に囚われていた頃とは違うハラの姿。その変化が意味するものは店員たちの和らいだ表情が物語っている。
「蘭さんが焼くとツナ味になっちゃいますから」
水とツナだけを買う積もりだったコンビニで予定より多い買い物を済ませた蘭は、ハラと共に店を出る。
一台の白い車が走ってきた。
オーキッドの外観、機能のモデルとなった国産高性能車の同一系統車種。二十数年前の車だが、発売された時の衝撃は後継車を上回り、公道やサーキットではしばしば二十年の時を超えて打ち負かす。
まだ旧車と呼ばれるには早く、今となっては走り屋ご用達となった車から降りてきたのは、ジーンズ姿の双子。
今日は中古でもまだ高価な車を買うローンに協力してくれた店長への礼を兼ねて、まだ残る移転作業の雑事を手伝うためこの店に来た。
双子はオーキッドに乗ろうとする蘭と一瞬、視線を交わす。
蘭は車ごと海に叩き落した双子に何か話そうとしたが、そのまますれ違った。
この走り続ける双子とはいずれ道の上で会い、互いの走りで語り合うことになるだろう。
双子はオーキッドに戻る蘭とハラの姿を別の気持ちで見ていた。
「兄さん」
妹の和は同じ顔の双子の兄、明を見てから、視線を促すように蘭とオーキッドを見た。ごく自然に手を繋ぎ合う蘭とハラ。
「いいなぁ」
明は妹の和の求めに応じて、互いに手を取り合いながら二人の新しい職場となるコンビニへ歩いていった。
門前のコンビニで買い物を済ませた蘭は、学園の門の前にオーキッドを停める。
無駄に広い敷地の向こうに校舎が見えた。
北海道から静岡までの道中で蘭とハラ、そしてオーキッドはこれからのことを話し合った。
とりあえずそのエックスの学校というところを見てみる、そこまでは決めた。
結局のところ具体的な事は何も決まらなかったし、決めなかった。
そこから先は二人が自分自身の目で見たもので決め、自らの足で進んでいく。
これから蘭の立場や居場所がどうなろうと、今乗っているオーキッドとの関係は変わらないし、横に座るハラもそう。
二人は一瞬視線を合わせると、蘭はステアリングを握り、ハラはインターフェースゲートに手を置く。
とりあえず二人と一台がやることは、遠隔操作で開閉する校門のコントロールを乗っ取り、こじ開けることから。
蘭とハラを乗せたオーキッドはエンジン音を高らかに鳴らし、走り出した。
(完)
RUN! トネ コーケン @akaza
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