第十二章 RUN

 蘭とオーキッドに突風を叩きつけた主は、オーキッドの前方上空で反転し、そのまま空中で停止する。

 mil24攻撃ヘリ。

 ロシアの地上攻撃、輸送兼用ヘリ。

 陸上自衛隊の中でもさほど予算充分でない部署によって購入された、軍事ビジネスの世界では非常に高価なヘリ。

 防衛省内エックス機関がなけなしの金をはたいた一機はエックス・テクノロジーの実験機として改装され、後にテストパイロットを勤めたエックスの手によって奪われた。

 エックス・テクノロジーによって作られたオーキッドの前に現れたのは、同じ技術を付与された攻撃ヘリ。

 ヘリの前後に分かれ独立したコクピットとガンナーシートには、オーストラリアから来たエックスの姉妹が乗っていた。

 前部の火器管制席に座った長身の黒髪少女は背後の操縦席を振り返り、円蓋風防越しに小柄な金髪碧眼の姉と視線を交わした。

「どうする、お姉」

「撃つ、でも、その前にちょっとお喋り」

「お姉にお任せ」


 蘭が北海道に着くのとほぼ同じ頃、一機の攻撃ヘリが大間港の埋立地に着陸した。

 mil24グループの中で最も高性能と言われる南アフリカ製のアップデート機、スーパーハインドに似た外観と青い迷彩。

 エックス・アクティヴィティによって稼動する対地攻撃、輸送ヘリの試作機、ディアー。

 操るのはジェットタービン・エンジンを稼動させる能力を有したエックス、吉川姉妹。

 かつて日本国政府とオーストラリア陸軍の両方に籍を置いてエックス・テクノロジーによるヘリ開発に従事し、完成したヘリごと持ち逃げした吉川晃と司。

 脱走から反政府組織ロータスマートへの加入まで、政府が事前に書いた筋書きに従った吉川姉妹は、当初から決めていた通り北海道に降り立ってすぐに氷室に自分たちが政府の内通者であることを告白した。

 当初は政府のスパイ役を自分たちが自由に暮らすための割のいい仕事と考え、ロータスマートへの加入もその一環だと思っていた吉川姉妹。

 ロータスマートに入り、共にコンビニで働き、エックスによって失った普通の暮らしを取り戻そうとしている氷室の考えに触れていた二人は、もうこの人を騙せないと思った。

 オーストラリアから日本までの機中で氷室に自分たちの秘密を打ち明けようと姉に頼んだ妹の司と、二つの政府を裏切り敵に回す妹の提案をお茶でも飲もうかと言われたかのように気軽に引き受けた姉の晃。

 司は北海道に飛び立つ前に氷室に自分たちが組織の裏切り者であることを告げた。晃は特に表情を変えることもなく、司ちゃんの言うとおりだとだけ言う。

 自分たちの組織の内部情報を政府に垂れ流し続けたスパイの告白を聞いた氷室は返答した。

「そうみたいですね」

 氷室はその一言だけで話を終わらせ、さっきから吉川姉妹と話していた夕食に何を食べるかの話題に戻る。

 事実、二人が打ち明けた内容は氷室にとってこの後で二人に奢ることになっている大間港のマグロ丼よりどうでもいいこと。

 氷室は内通者の存在について知っていた。布袋の調査によってそれが吉川姉妹だということも以前から確認していた。国家のスパイである吉川姉妹をそのまま手元に置き、今回の重要な仕事にも参加させる氷室の考えは、この内通を交流に変えること。

 ビジネスは自分が得するためにある、しかし商業の市場を守ろうとする商人は商売敵を蹴り落とすより、商圏そのものを拡大し共に利益を得る方法を模索する。

 反国家組織の長である氷室の最も大きな目標の一つである国家との敵対解消。国家エックス・テクノロジー組織内にもまた、民間との提携を望む集団が居た。

 氷室の考えを聞いた布袋は吉川姉妹の裏切りを逆手に取り、別系統のルートで吉川姉妹との連絡役をしていた自衛隊北部方面隊の自衛官と話をつける。

 人物の特定さえ出来れば接触は難しくない。最初はネットゲーム同好会の勧誘を装ったメールを送った。以後の連絡に使われた紙に手書きの郵便手紙はオーキッドの情報介入でもキャッチできなかった。

 連絡ルートの構築に役立ったのはかつて布袋が在籍していたエックスファンタジー同好会電算室の上司。ビジネス上の人間関係よりも職場での先輩、後輩のほうが話の通りがいいこともある。

 布袋が組織を抜けた後も生活について気をかけてくれていた元上司は、やはり同期のコネを使って組織の中枢部に渡りをつけてくれた。

 ロータスマートが既に契約をしていた海外エックス組織への報告については、時期を見て協議を重ね慎重に行う旨を伝えられる。

 つまり相手が文句を言いにくくなるタイミングを見計らってバラし、うまく成功報酬は頂戴しろという話。

 交渉はスムーズに進み、ロータスマートとエックスファンタジー同好会の共同ビジネスが始まった。

 その第一歩は二つの組織が奪い合っていた高機動情報介入ステーションの技術実証機オーキッドとその稼動能力保有エックスの確保。

 氷室が国家エックス組織との間に構築した相互協力関係。それを知らぬまま情報収集役を務めた吉川姉妹に真実を伝えるのが最後の仕上げ。氷室は吉川姉妹が自発的に自らのスパイ行為を打ち明けてくれるのを待っていた。

 自分たち同様に歪な成長をした吉川姉妹を信じていた。

 これから先、国家エックス組織との協力関係を続けていくため重要な人物になる吉川姉妹。ビジネスの継続に必要なのは利害や契約書ではない。互いの信頼無くしてこの仕事はできないと、ずっと決めていた。

 氷室はもしも彼女たちがスパイ行為について黙したまま現地に向かったら、その時はこの仕事の契約を破棄すると決めていた。

 吉川姉妹が信用できないわけではない、まだ彼女達が若すぎて人間的に成熟していないということ。

 そんな二人をリスクのある確保対象との衝突の場に押し出したのでは、かつて彼を捨てた国家エックス組織と変らない。

 正直なところ氷室はその可能性のほうが高いと思っていたが、吉川姉妹は彼が思うよりずっと早く成長していたらしい。

 嬉しくはなかった、まだ十代のうちに大人にさせられた彼女たちの複雑な人生に対して苦々しい気持ちが湧いてきた。

 だからこそ、変えなくてはいけない。

 氷室との提携を決めた組織の上層部もまた示し合わせたわけでもないのに同じ考えを持っていた。

 彼らもまたエリート官僚のように組織の効率的運営を行うほど賢くなかったが、子を持つ親であり、若者を導く上司でもあった。

 複数の国と組織の思惑に翻弄された吉川姉妹の行動は、ひとつの方向性に従ったものだった。

 ただ飛びたい、海で波に乗っていたように空で風を受けて飛んでいたい。

 姉妹はその意思のみに拠って今までの行動を決め、善悪も損得も空と風が決めてくれた。

 複雑な経緯と単純な意思。

 蘭とハラに似ているような二人を乗せたヘリはオーキッドと対面することとなった。


 ホバリングする攻撃ヘリ。

 機首と両翼に武装を搭載したヘリは着陸する様子もない。

 浮遊している状態は交渉や何かの受け渡しのためではない。いつでもこちらを攻撃するための体勢であることは蘭にもわかった。

 約束されたハラの身元受け入れ、どう見てもそれを平和的に実行する準備には見えなかった。

 オーキッドは即座にヘリの外見を外部カメラに捉え、拡大、解析した。

 機種番号は無し、自衛隊および日本国内の民間ヘリ運行会社に同一機種の保有情報なし。

 現時点では何も無い情報から、過去の履歴を高速で検索したオーキッドは、一つだけあやしいファイルを拾い上げた。

 オーキッドはハラとの接続で大幅な処理速度向上を果たした情報介入機能を稼動させ、ゴミ山を選別するように膨大な情報をかきわけて国家エックス組織がエックスファンタジー同好会となる前に進行していたエックス・アクティヴィティ航空機の情報を見つけ出した。

 かつてアメリカで発案され、後に中止となった設計書を買い取った日本がオーストラリアと共同で行っていた開発計画。

 報告書には実機を事故損失し、新造機を作る予算が交付されなかったことで事実上の打ち切りとなったとある。

 それらが何かの内緒事を隠すためのデタラメである可能性についての情報も拾い上げた。

 エックスファンタジー北部方面隊との面会約束を取り付け、どうやら人払いまでされた自衛隊の庭先に飛んでいる一機のヘリ。

 パイロットとガンナーの顔面骨格から個人特定したところ、操縦しているのはロータスマートの組織構成員。

 答えはひとつ。

 蘭とオーキッドの敵である反国家エックス組織と、オーキッドを身内ながら疎ましく思っている国家内の連中が手を組んだ。

 当初の約束であるハラの身元保証など望むべくもない。

 ハラを売り飛ばそうとしている連中が自衛隊エックスのヘリに乗り、こちらに銃を向けている。オーキッドは蘭に自らが収集した情報を手っ取り早く伝えた。

「あたしらは騙されたのか?」

『クソッ気づくべきだったよ』

 仇敵だった反国家エックス・テクノロジー集団、ロータスマートと自衛隊との間の内通。

 北部方面支部が「独自の判断で」行ったロータスマートとの相互協力を入間の本部は黙認していた。

 依頼と契約に従ってエックスの能力を行使する民間エックス集団に、国が依頼をする。国は行方不明のエックスと、強奪された攻撃ヘリを取り戻す。

 元より吉川姉妹のヘリ強奪は日本国政府の筋書きに従ったものだったが、日本は共同事業者のオーストラリアに奪われつつある主導権を取り戻す手札を必要としていた。

 反政府組織に盗られたヘリは自衛隊がマッチポンプ的に取り戻して面子を保った時点で用済み。

 組織内で不良債権化したオーキッドとハラは、他国に高く売りつけることで健全な投資商品と化す。

 それらの実行役を務める民間エックステクノロジー研究、互助法人ロータスマートは山分け分が目減りしても組織収益としては充分な報酬を手に入れ、金銭の利益より価値のある国家エックス組織との相互協力関係を構築する。

 損を得に変え、敵を追い落とすのではなく双方が納得できるだけの利益を得る。

 日本のエックス組織が行ったのは、同じ日本の銀行や商社が好んだビジネススタイルの流用。

 かつて薩摩藩は薩英戦争で英国の艦船と戦い、双方に甚大な被害をもたらしたが、戦後処理で生じた相互の交流は後に他藩より太い英米との関係という形で活きた。

 似ていなくもないが、こっちはエックスという小規模な世界の中での話。

 最小限の出費と労力で最大の効果を上げる方法は決まった。

 ロータスマートに支払う報酬はそれらの利益や損失に比べれば僅かなもの、あとは舞台を準備してやればいい。蘭とオーキッドは自らその罠に飛び込むことになった。

 別の言い方をすれば官民の癒着という言葉になるが、それは誰も傷つけず皆が利を得る方法を模索した結果の必然。

 今、目の前に居る蘭とハラ、そしてオーキッドというささやかな犠牲を除けば、の話。


「お姉、わたしたちの仕事はあのバードケージを潰して小鳥を持って帰ることだ」

「もう一人」

「あのフライドチキンは素性もわからねぇ野良エックスだ、放置していいってよ」

 後部操縦席の晃の視線は、ずっと蘭に注がれていた。

「あれは咲こうとしている花、わたしの望まぬ花を咲かせてしまう前に、摘み取ってわたしの花瓶で咲かせたい」

「ガンナーはパイロットの拳 お姉の意思はわたしが必ず実行する」

 突然、オーキッドの通信アプリケーションが着信を知らせる。

 自衛隊用帯域バンドの無線や携帯電話回線ではない。建設現場や自動車レースの競技中に短距離の音声連絡、データリンクを行う時に使うテレメーター通信

「はじめまして坂本蘭さんとハラさん、それからオーキッドさん わたしは吉川晃、エックスファンタジー同好会北部方面隊の代理人です」

「ヘリを降ろしなさい」

 蘭は挨拶を返すことなく返答した。

「そのデカい銃をブラ下げたヘリを着陸、停止させろって言ったのよ。それから代理じゃない北部方面隊の代表者をここに呼びなさい」

「あなたの要求全てにお応えできないかもしれません」

 金属的な高さを感じさせる声、それに似合わぬ冷静で理知的な口調。

 発言をしている人間の精神的な余裕より、その一枚下に隠されたヒステリックな感情を伺わせる。

 感情の液体が目一杯詰まったグラスを目の前で落とすか落とさないか弄んでるような声。

 蘭は苛立っていた。

「ハラを受け入れると約束した組織の親玉に、これからのハラの扱いについて約束させなさい。契約書なんてもんはいらないわ。オーキッドが発言を全て記録する」

 記録したデータは即座に複数のクラウドやミラー、アップローダーに転送され、オーキッドが破壊されたとしても回収不可能な形で残ることになっている。

「では、わたしたちの要求をお伝えします」

 ここで吉川晃は通信を妹に司に引き継いだ。

「二人とも両手を上げて車から降りろ!そのまま十歩離れるんだ。おまえらがここから生きて出られる方法はそんだけだ」

 通信を交代したことは蘭にもわかった。

 金属的な響きを耳に残す声は、ハスキー気味ながらやたら声量の大きい別の女の声に替わった。

 高圧的な言葉遣いをする人間にありがちな見かけ倒しとは無縁な、自信と意思を秘めた声。

 最初に通信した金属的な声が無駄な殺しはしない理性と衝動的に相手を刺しまくる感情が隣り合った人間なら、こっちは殺すと言えば必ず殺す奴。

 蘭はオーキッドのサウンドシステムで聞いた姉妹の声を鼻で笑う。

「へぇ?」

 姉妹の声は、感情の昂ぶりが頂点に達した蘭にとって苛立ちこそすれ不快なものではなかった。

 丁寧だが腹の読めない奴ばかりだったエックス関係者の中にやっと話の通じそうな奴が居た。

 殴る前に書類の提出を要求しそうな役人より、上げた拳を握り締めてる奴のほうがわかりやすい。

 その声がこちらへの敵意を表しているのなら、こちらも同じ意思で返すべきだろう。

「悪いけどデートはお終いね。帰るわ。こっちの要求が通るまでエックスファンタジーの支部をひとつづつブっ潰す」

 口調に反して蘭の両手は震え始めた。ステアリングを強く握る。

 目前にある戦闘ヘリへの恐怖。ただ道路を走り回ってた頃には無かった危機感。単なる筋肉と神経の準備運動。

 幾つもある理由の中のどれなのか自分ではよくわからないまま体は震え、空調の行き届いたオーキッドで汗が一筋流れた。声だけは震えていないことに感謝した。

「とりあえず北部方面隊が一番大事にしてるっていうゲームとエロ画像のデータをズッタズタにしてやるわ」

 離れたところから一台と一機の動態とやりとりをモニターしているエックスファンタジー同好会北部方面隊。スタッフにどよめきが走る。

 この高度情報介入ステーションが、入間のエックスファンタジー同好会本部の抱えていたデータを大量に消失させたことは伝わっている。

 実際、蘭がオーキッドを使って行ったのは、防空警戒システムに割り込んでの脅し行為だったが、動転したスタッフの何人かがデスクトップを誤操作したりお茶をこぼしたり、デスクから落としたメディアを踏み割ったりした。

 恵庭演習場の倉庫を一つ棟借りしたエックスファンタジー北部方面支部。

 本部よりいくらか恵まれた設備を所有しているスタッフの大半は、一斉に自分のデスクトップにスマートメディアや外付HDDを接続し、自分の溜め込んだデータやファイルを退避させ始めた。

 目前で行われている対決の記録と自分のzipデータの退避、どちらを優先するか決めかねていた幾らか真面目なスタップも「バカ野郎仕事と画像のどっちが大事だ!」と怒鳴られて保存作業に集中している。

 前方を飛ぶディアー。

 旧ソ連時代に開発され、南アフリカでアップデートされたスーパーハインドを基にしたエックステクノロジー試作機。

 動力以外にはエックステクノロジーによる恩恵は無かったが、ロシア製の機体構造に西側のアビオニクス、東西折衷の兵装を備えている。

 地上攻撃と兵員輸送の多用途機ながら、両翼にはロケット砲のポッドとレーザー誘導の対戦車ミサイル、機首には20mm機関砲。

 機関砲はトラックを一台吹っ飛ばす力があり、無誘導のロケット砲は装甲車、ミサイルは戦車を破壊できる。 

 蘭の震えは止まらなかった。

 これから始まるであろう日本中のエックスファンタジー同好会との衝突より、今目の前で銃を向けているヘリが怖かった。

 普通の高校生だった頃にはテレビの中だけの出来事だった武器による攻撃。それを目の前にしながら停止しているという事実が蘭を焦燥させた。

「話し合いが円満に終わらなくて残念です、それでは破壊処理を実行します」

 オーキッドの前方をホバリングしていたディアーは反転し、高度を少し上げながら機動を開始した。それがスタートの合図。

 蘭は未だ震える両手でステアリングをしっかりと握り、アクセルを踏みしめる。

 ハラとの接続で性能を向上させたオーキッドの、体をシートに叩きつけられるような加速。震えは止まったような気がした。

 走っている限り大丈夫。今の蘭には自分を望む速さで走らせてくれるオーキッドが居る。

『ランてめぇ何考えてやがる!』

「わたしよりあのヘリを見なさい、来るわよ」

 オーキッドは既に自身の監視装置を稼動させ、目の前のディアーの機動や兵装を注視していた。

 蘭が危険を告げる直感に従って行った突然の暴走。オーキッドは客観的な観察結果から、このまま言いなりになっても安全の保証など無いことに気づいていた

 ヘリの機体下部で閃光が瞬いた。

 蘭は反射的にステアリングを切り、パドルシフトを二段落としてアクセルを踏み込む。光に向かって走った。

 高い動力性能を持つ車特有の、地を這うのではなく跳ねるような走り。攻撃ヘリとの間にある五〇〇mほどの間合いをあっという間に詰める。一拍遅れてオーキッドが鋭く指示を下した。

『突っ込め! そのままでいい』

 ディアーは無誘導のロケット砲を発射した。

 攻撃ヘリは前方の地上にある目標を正確に撃てるが、直下の獲物に照準を合わせることは出来ない。

 ディアーは素早く旋回し、ほぼ真下に来たオーキッドとの距離を確保する。

 オーキッドがこのヘリの攻撃をかわすには、射程圏外に逃げるか再び下に潜るか。

『左! アクセルそのまま』

 今度は蘭の判断よりオーキッドのほうが一瞬早かった。指示に従って操作を行う。

 最初の急加速の速度を維持したまま車体を振って横っ飛びさせたオーキッド。すぐ横で爆発が起き、土くれの爆風がオーキッドを襲う。

「くそっ!」

 爆風で吹っ飛ばされ、弾丸と同じ威力を有した石ころがオーキッドのボディに食い込む。損傷は自己修復機能で瞬時に回復するが、車内に居る二人には衝撃波が襲いかかる。

 ディアーは対戦車ミサイルを発射した。

 初弾は至近距離ゆえ無誘導でのロケット砲を発射したが、今度は5000m先の標的に誤差数センチで着弾するレーザー誘導のミサイルがオーキッドに向かって飛んでくる。

 蘭が千歳基地に到着する数時間前に恵庭の駐屯地に着陸したディアー。

 この機にミサイルを搭載したのは、かつてロータスマートの敵であったエックスファンタジー同好会北部方面支部。

『避けるな! 正面から受けてかまわない』

 蘭はオーキッドの言葉を信じ、さっきのロケット砲より太くて大きいミサイルに向かって走る。

 十センチの装甲鋼板を破るミサイルはオーキッドの真横を通過し、しばらく飛んだ後で地味な白煙をたてて自爆した。

「外した!」

「外されたね」

 高機動情報介入ステーションとして設計されたオーキッドには、内部に搭乗する人間と機材を守る機能が付与されている。

 衝突時の内部衝撃を和らげるような実用的装備は不足しているのに、誘導ミサイルのジャミング等の非現実的なオモチャは余計についていた。

 ヘルファイア空対地ミサイルの特性と、対戦車という目的ゆえの高速移動物に対する命中精度の低さ。

 オーキッドは過去のヘリと車両との戦闘データを検索し、勝率など皆無に近い記録の中から探し出した数少ない回避例に従った指示をした。

「たとえばさ、今目の前に舗装道路が現れたりして、あのヘリに背中を向けて全速力で走ったら逃げられるの?」

『路面状態が最高にいいとこを選んでも、オレの速度能力じゃ射程圏外まで逃げるのに十五秒かかるよ』

 オーキッドがいくら過去のデータを探しても、対空火器の無い車両が攻撃ヘリに狙われた時の生存率は絶望という情報しか出てこない。

『向こうは道路の無い空を時速350kmで飛べるってことを忘れんな、レーザーや赤外線の誘導装置はオレの機能で目隠し通せんぼ出来るよ、でも直射でやられたらお終いだ』

「お終い?」

『そうだ、死ぬ、俺もご主人様も、お前もな』

 死という現実が蘭の体を徐々に包み込んでいく。

 陸上部時代に走ってて熱中症や脱水症状、低血糖で身の危険を感じたことがある。実際に蘭はその現場に立ち会ったことは無いが、陸上誌にはそういう死亡例も出ていた。

 それでも今までの蘭は自分が以前、親族の葬式に参列した時に見た棺桶の中の青白い肉体になる実感は今まで無かった。

 自分は死ぬ、あの爆発する武器で吹っ飛ばされ、もう考えることも走ることもない物体になる。

『怖いのはミサイルよりも追従性の高い機関砲だ、アレ一発で車一台をバラバラに出来るってことを忘れんな』

「普通の車なら、でしょ?」

『大概の被弾ならオレの自己修復で何とかなる、でも当たり所が悪けりゃ一発でお終いだ、同じとこにニ発食らってもな』

 無神経に恐怖を煽るようなオーキッドの言葉。

 それが今の危険を知らせるものだと知りつつも蘭の震えは大きくなるばかり。

「死にたく、ないな」

 オーキッドの上空を擦れ違ったディアーは反転して再びオーキッドに接近する。

「こいつぁ役立たずだ!」

 ガンナーシートの司はキャノピー越しに対戦車ミサイルをひっぱたく。

「わたしたちは役立たずじゃない」

「そうさ、もちろんそうさ……お姉、出来るだけ寄せてくれ」

 車両に対して絶対的な優位を持ちながら、重量的な制約のため装甲や防弾性には不利のある攻撃ヘリ。

 相手が携帯対空ミサイルを持ってない限りほぼ負けることのない戦闘における原則の一つは、高度を下げないこと。

 吉川姉妹は常識の逆の機動を行った。

 事前の情報収集と現地での目視で、相手が武装していないことは確認していた。

 姉妹が行動を決めたのは知識や情報ではなく、キャノピー越しに感じた北海道の地に時々吹く山風。

 この風に乗れば相手に一気に接近し、防御の機会を与えないまま攻撃し反転退避できる。

 それまで一定の距離を保っていたディアーがタービンエンジンの音を響かせ、一気に接近してきた。

 機体に旋回と加速によるGがかかる中、前部ガンナーシートの司は微動だにせず火器照準を行うヘッドアップ・ディスプレイに焦点を合わせている。

 ディアーの機首から機関砲弾が吐き出された。

 ミサイルとは桁違いの発射速度、見えない弾道。

 『ラン! 右!』

 相手の機首が光ったと思ったら一呼吸もする間も無く、機関砲弾の一発がオーキッドのフロントフェンダーに当たる。

 普通の車ならそのまま車体の前部がもぎ取られる機関砲弾。車室から離れた場所への被弾にかかわらず蘭の体を激しい衝撃が襲った。

 ハラ奪還で団地の二階に突っ込んだ時。深沢姉妹の乗る黒い車を撃退すべくトンネルの壁を走った時を大幅に上回るダメージ。

 衝撃波による打撲が蘭の骨と内臓を痛めつけ、同時に発生する真空域は肌に裂傷を刻む。

 蘭はくいしばった歯の間から呻き声を上げながら、助手席に座るハラを一瞬見た。

 ハラは体を固くしながらも声ひとつ上げず耐えている。

 オーキッドはハラの体格や骨格、身体構造に合わせて作られている。

 外部から衝撃を受けた時に乗り手に伝わる衝撃波も、ハラの体への影響は最小限になるように設計されていた。

 オーキッドにとって規格外の蘭は激しいパンチを食らったが、ハラは同じく衝撃を受けながらも目の前のインターフェースゲートから手を離さない。

 蘭は隣で衝撃に耐えるハラを一瞬見て、負けてらんないな、と思いながら回避機動を続ける。

 今回の被弾では車体構造の関係で左側座席のハラが受けた衝撃波は小さかったが、もし車のド真ん中に一発食えばそんな差は飛ぶだろう。

 被弾衝撃を受けてないように見えるハラは、オーキッドが損傷を自己修復するたび体内を大量に駆け巡るエックス・アクティヴィティの痛みに耐えていた。

 再び掃射。

 避ける動きを察知したようにドアとフェンダーの継ぎ目あたりに一発食らう。

 オーキッドはそのまま着弾の衝撃で2mほど吹っ飛ばされ、地面に食い込んだ。蘭の右腕と右わき腹がイヤな音をたてる。

 無意識にステアリングとアクセルを微調整して回避走行を続けながら、蘭は生まれて初めて死の恐怖を味わう。走れば収まると思っていた震えは大きくなるばかり。

『ラン! 一秒以上まっすぐ走るな! 狙い撃ちを食うぞ』

「わかってるわよ!」

 蘭の恐れを見透かしたように接近してきたディアーからロケット砲の一撃。

 かろうじて左横に避けた砲弾の破片がオーキッドのボディに無数に突き刺さる。

 至近の爆風は巨大なハンマーとなって車体全体を前方に弾き飛ばした。

 ハラは初めて呻き声を上げる。

『ご主人様! 手をお放しください!』

「大、丈夫、オーキッド、お姉さんを走らせてあげて」

 自己修復は機能し続け、食い込んだ砲弾の破片を弾き飛ばしたボディは形状を回復したが、引き換えにハラの体内から大量のエックス・アクティヴィティを吸い取った。

 エネルギー保存の法則外にあるエックス・アクティヴィティはエックス・アイソトープ保有者の体から常に放射され続けている。

 体を構成する遺伝子全体が放射するエネルギーにひとつの方向性を与え、インターフェ-スゲートから受容するには体内の苦痛が伴う。

 電気のボルトとアンペアに似たもの、流量は同一ながら瞬間的に流速を上げられることで全身に張り巡らされた神経回路が圧迫を受ける。

 自己修復にもっともリソースを食うオーキッドのエックス・アクティヴィティはさっきから今までに無い高い数値を記録している。

 ハラは以前、実験室内で同様のエックス・アクティヴイティ供給実験をした時があった。

 オーキッドではない実験装置につながれ、インターフェースゲートに両手を固定された状態でエックス・アクティヴィティを供給したところ、全身を走る刺激に数分で失神した。

 現在のハラはあの時より少し背が伸び、あの時よりずっと厳しい神経負担に耐えている。

 脳神経が覚醒していないと全量が供給されないエックス・アクティヴィティ、まだ気を失うわけにはいかない。

 隣にはハラよりずっと痛い苦しみに耐えている蘭がいて、繋がってるのはハラがずっと一緒に居ると決めたオーキッド。

 機関砲弾。今度はリアバンパーのあたりに一発食らい、オーキッドは半回転する。

 被弾のたびに食らう衝撃波で既に蘭の全身は激しく傷つき、あちこちから血を流していた。

 どうあっても勝てない相手、逃げられない相手、どんなに走っても地を這うものの制約からは逃れられない。戦争中に戦車や装甲車両の搭乗員、あるいは歩兵が航空兵力に対峙した時に味わった絶望を蘭は知った。

 蘭は横目でハラを見る、体格的に蘭よりも被弾衝撃が少ないはずのハラ。

 痛いとも辛いとも言わないハラの白く細い手足はもう限界のように見えた。

 陸上をやっていると時々起きる、トレーニングで筋肉を限界のさらに先まで振り絞った時の体がガクガクと震える現象がハラの四肢に顕れている。

 それ以上の無茶をすると筋肉に、時に脳に深刻なダメージを受けるという肉体のサイン。

 入部したての後輩がよくこれで倒れていたが、日常的に運動をしていれば特に危惧すべきことではない。危険信号に従って適時の休憩を取ればまた走り出すことが出来る。

 ここには死以外の休息は無い。

「ヤメた」

 蘭は操縦操作を続けながら叫んだ。

「やめたやめた! 逃げるのやめた!」 

 アクセルから足を離した、オーキッドは荒地の走行抵抗で自然に減速する。 

「オーキッド、さっきの通信を逆引きして向こうを呼び出しなさい」

『それに賛成だ、このまま続けたらオレたちは絶対に助からない』

 通信回線はすぐに開いた。ヘリ内部の騒音と、さっき聞いた金属的な少女の声。戦闘の疲労とは違う、性的な感情の昂ぶりに近い荒い息遣い。蘭は前置き無しで通信を開始する。

「オーケイ、どうやらわたしは撃たれて死ぬみたいね、大人しく財布の中身をくれてやるわ」

「そちらの通信を受信しました」

 荒い息は収まり、最初に話したハイトーンながら理性的な声が聞こえる。

 こちらに向かって攻撃を加えた後、まるで友達との電話のように淀みなく返信してくる。

 女に見苦しく言い寄った男が、相手にその気が無いとわかった途端に紳士的な口調で照れ隠しするように、吉川晃は自らの衝動の解放を脇に押しやった。

 蘭は惰性で低速走行するオーキッドの車首をヘリの方角に向けてブレーキを踏む。

 ヘリは半回転して最初の対面と同じように、五〇〇mほど離れた低空をホバリングした。

「坂本さん、こちらの指示する手順に従って頂ければ、あなたの生命および身体の保全は約束します。オーキッドの返納後、帰りの航空券とオーキッドの保管に対する謝礼をお渡ししますので、引き続き北海道旅行をお楽しみください」

 事前に準備していた受け答えではない、ヘリの戦闘操縦をしながらも明瞭で論理的な応答が出来る。

 抜け目なく丁寧な口調、それに相反するような感情的な響き、高い声がそういう印象を与えるんだろう。

 蘭は何となく気づいた、エックスファンタジー同好会とロータスマートは自分たちを殺すためにこのヘリを派遣したのではない。

 今目の前にいるヘリパイロットは、自らの意思と判断、そして何かの感情に駆られて殺そうとしている。

 蘭がずっと抱いていた恐れは空を飛ぶヘリに搭載された火器ではなく、あのパイロットだった。

 人を殺すことが己の一部となってしまった人間。ヒトでなくなってしまったモンスターに触れたことで感じた背筋を走る寒気。

 蘭は自分が垣間見た人間感情の暗黒を振りほどくように問いを重ねる。

「このお坊ちゃんは?」

「ハラ君の身柄については我々が責任をもってお預かりします。以降のことについては防衛機密となることをご理解ください」

 ヘリをホバリングさせたまま通信は続く

「オーキッドはお返しいただきますが、同型の新車を買うに足りるだけの報酬を無税でお支払いします」

 微笑み混じりであることが伝わってくる柔らかな声。

 吉川晃が待ち望み遂に訪れた人を殺す瞬間。それが達成されない失望は既に別の人格に置き換えられていた。

 前部のガンナーシートで通信を聞いていた妹の吉川司は、姉の危険な人格が心の底部に仕舞われたことに安堵する。

「嬉しい話ね、ポンコツの中古車を盗んだら新車を貰っちゃうなんて」

『ポンコツで悪かったな……ラン、今までありがとよ』

 結局のところ、当初の蘭が要求していたハラの身元受け入れは実行される。蘭は自分が意地を張っているのがバカらしくなった。

 ただ、その受け入れがどういうものになるかについては国家機密に係わってない蘭にもわかる。

 オーキッドから聞いた情報で、ハラの身柄を欲しているのはうさんくさい日本のエックス組織ではなく欧州の電力会社をメインスポンサーとする民間エックス組織だということは知っていた。

 引き渡されたハラは欧州に送られ、再び白い部屋の住人になるだろう。

 それでも、今まで蘭の勝手で危機に晒していたハラの命は助かる。

 元より走るため盗んだ車が元の持ち主に戻り、捕まるどころか感謝され、緊急時以外のオーキッドと同性能の新車が来る。

 少なくとも余計な口を利かないという点においてはこのオーキッドよりも蘭の好みだろう。

 悪くない話、甘い話。

「お姉さん」

 蘭はハラに見つめられ、感情を抑え込みながら答えた

「……仕方がないのよ……」

 蘭は顎が軋み音をたてるほどに歯を噛み締め、搾り出すような声を出した。

 渦巻く感情を意思の力で押さえつける。

 以前、蘭が足の靭帯を切ったときもそうだった。

 繋ぎ直した靭帯では今までほど速くは走れないことを告げられ、それでも速く走りたい気持ちを、限界を訴え痙攣する靭帯の痛みと共に飲み込んだ。

「ハラ、オーキッドを降りましょう」

 ハラは蘭から視線を外し、自分の膝に目を落とした。

「本当に死ぬ、死ぬために走っちゃいけないのよ」

『今回ばかりはランの言うとおりですご主人様、生きてこそです』

 ハラは俯いたまま黙る。

『ご主人様、この数日間をわたしは忘れません、離れていても心はひとつ、いつかまた会えると信じています……ランてめぇもまたどっかで会う気がするぞ』

 攻撃ヘリまで出したロータスマートとエックスファンタジー同好会は、蘭とハラが降りた後のオーキッドを破壊する決定をしている。

 蘭もオーキッドもハラも彼らが交わした契約内容まで知らないが、また会えることなんて無いという事はわかる、二人と一台は知っていて口にしない。

 ハラの目に一筋、涙がこぼれた。

 蘭はシートベルトを外し、ドアを開けて演習場の原野に出た。

 ついこないだまでよくランニングしていた東京郊外の未舗装路に似ていると思った。

 陸上競技用の舗装をしたトラックやアスファルトの道路ほど速くは走れないが、足への負担が少ない地面は自分の思うように走れる。

 こんな時にまで路面をチェックするのはいつものこと、蘭は自分の足だけでなくオーキッドで走った時のことを考えていた。

 オーキッドの四輪駆動と車高やタイヤのグリップ能力を自在に変えられる機能を以ってすれば、この不整地も舗装道路の八十%の速度で走れるだろう。

 蘭はオーキッドの前を回って左側から助手席ドアを開け、ハラの肩に手を置いた。ハラは俯き、両手を握り締めたまま、涙を零している。

「……イヤだ……」

 蘭は肩を掴んだ手に力を入れる

「イヤだ!」

 昨日まで蘭が片手でも持ち上げられた少年が、今は蘭が力をこめてでオーキッドから引き剥がそうとしても動かない。

「僕は一度奪われた……いつかこの車と会えるって……奪われた」

 蘭の心臓がドクンと鼓動する。

 さっきから死の恐怖に震える体は耳障りな音をたてていた。

 目の前に居るハラは違う。まだゆっくりとしたランニングと自転車程度の速度での運転しか出来ないハラが、体を丸めて細く頼りない筋肉を震えさせている。

 この小さく頼りない体は、まだ戦うことをやめていない。

「死ぬわよ」

「死んでもいい」

 ハラの体から、走る音がする。

 蘭が一度失い、再び手に入れた音。

 そして今、自ら失おうとしている己の半身。

 自分が何をしようとしていたのか蘭は目の前の少年に教えられた。

「お姉さんは言った、自由になるためには走ればいいって」

 蘭の頭を去来した記憶。

 走り続けた人生と、速く走ることを失った日々。

 オーキッドとの出会い。

「……わたしも一度失った……オーキッドに出会った時に、この速さをもう二度と手放さないって決めた」

 蘭は助手席側から体を伸ばし、モニターに咲く花に指を触れさせた。

「車は車、金出せば買えるものに命なんて賭けられない、あんたもそうよ」

『ひでぇ言い草だ』

「人は息するのを止めたら死ぬ、生きるのをやめたら命は終わる、わたしにとって生きることは走ること」

 蘭はハラに顔を近づけた。

「走りたい?」

 奪還して以来ハラの行動全てを勝手に決めていた蘭が、ハラに決定を委ねている。試すためでも導くためでもない、ただ決めて欲しい。

 ハラは言葉での返答をせず、背筋を伸ばしインターフェースゲートに手を置き、蘭をまっすぐに見返してくる。

 蘭は唐突にハラの頬を拳で殴った。

 スキンシップじゃない喧嘩の拳、ハラの頬が腫れ、鼻と唇から血を流す。

『ランてめぇ!』

 生まれて初めて殴られる痛みを経験したハラは、ショックを受けた顔で蘭を見上げる。

「痛い?」

 蘭はハラに顔を寄せた。

 ハラは表情を変えないまま、迷うことなく蘭を殴り返した。

 ペチっと音のしそうな弱いパンチだったが、手加減抜きの拳が鼻先に当たり蘭は鼻血を一筋零す。

 蘭は鼻をジャージの袖で拭うと「よし」と頷く。

 殴られる痛み、殴られたら殴り返すこと、それだけわかっていればいい。

「覚悟はできているみたいね」

『ご主人様はとっくに覚悟なさってる』

 蘭とハラは拳を打ち合わせ、そのままオーキッドのメインモニターを横殴りにした。

『わが身に替えてもご主人様をお守りします、ランてめぇの仕事はご主人様の替りに殴られることだ』

 蘭は笑った、もうう迷いは無い。

 オーキッドの室内全体に張り巡らせたサウンドシステムから吉川晃の声が聞こえる。

「どうしました坂本さん、車に忘れ物でもしたのですか?わたしたちとしてもこれ以上弾代がかかるのは困ります」

 晃の声、微かな苛立ち。不満よりも歓喜を伺わせる感情の昂ぶり。

 姉の晃はあの少女が何を判断し、どんな行動を取るのかをわかっていた。

 蘭については渡された資料を簡単に目に通した程度の知識しか無かったが、あれは自分と同種の人間。

 自分がこのヘリでこの世の全て、地に在る草木から人の生命さえ吹き飛ばす風になりたいように、あの少女はただひとつの感情に従って生きている。

 妹は再びオーキッドの助手席ドア横に立った蘭に機関砲の照準を合わせ、トリガーに指をかけていた。

 姉が今、両親が死んでから時々窺わせていた危険な兆候を見せていることはわかっていた。

 父と母が何人ものサーファー仲間と共にボンダイの大波に攫われていくのを目の前で見て以来、姉は両親を奪った風と波に憎悪を抱いていた。

 姉が弄んでいるのはオーストラリアで姉がしばしば撃っていた鯨やディンゴではなく自分自身の命であることを知っていた。

 目の前のあの女は、ずっと仮面で覆っていた姉の顔をむき出しにしようとしている。早くこれを終わらせなきゃいけない。姉を怖い姉にする悪い風を止めなきゃいけない。

 司が蘭を消し去ることは、自分たちの属する組織ではなく晃のため。

 吉川晃と坂本蘭。

 吉川司とハラ。

 よく似た目をした二組は肉眼で視認できるか出来ないかくらいの距離で対峙していた。

 オーキッドの横に立った蘭はホバリングするディアーを睨む。震えも恐れも感じられなくなった声でオーキッドに指示を下した。

「あいつらに伝えろ」

 オーキッドは車外に立つ蘭に指向性聴音機の焦点を合わせた。 蘭は再びディアーの方向を向き、大声を張り上げることはないながら充分な声量で言葉を発する。

「捨てられてふてくされたゴミクズ共」

 晃が目を見開く。怒りではなく、本当の自分の姿を見せてもいいという予感に同調した瞳の輝き。司は姉が殺人の衝動を開放することを恐れ、そのトリガーになろうとしている目前の女を恐れた

「お姉撃つぞ、小鳥を誤射してもしょうがない」

「待ちなさい!」

 妹を鋭く制する姉の声、続いて蘭の落ちついた声がヘッドセットから聞こえてくる。

「引渡しの手順を伝える」

 通信を引き継いだのはハラ。今までの生涯で出したことのないほどの声を出す。

「欲しければ……殺して奪え!」

 ハラの言葉を合図に蘭はオーキッドの左側から飛び上がり、ルーフの上を滑って右の運転席側に落ちる。

 オーキッドはもう左のドアを閉め、蘭を迎え入れるべく右の運転席ドアを開けていた。

 上半身から飛び込んでステアリングを掴んだ蘭は、せっかちな配達員のように座るより先にまずアクセルに足を乗せ、オーキッドを急加速させながらシートに座った。

 蘭はオーキッドのアクセルを踏み、対戦車攻撃ヘリに向かって突っ込んでいく。

 てっきり今の状態から全速力で逃げるかと思ったオーキッド。双方の性能と稼動データからいって、現状でディアーに背を向け逃げれば20%ほどの生存率が存在した。

『何バカなことやってやがる! 死ぬぞ? お前が死のうと勝手だがご主人さまが死んじまう!』

「オーキッド、大丈夫だよ」

 後半は悲鳴に近い声を出したオーキッドは、ハラの声を聞くと同時に異常なデータを感知して機械には無い息を飲む。

 助手席のインターフェース・ゲートからは、先ほどハラが苦痛と共に発生させた数値を超えるエックス・アクティヴィティが流し込まれていた。ハラは穏やかな顔のまま。

 エックス・アクティヴィティだけでないない、母が子の声、子が母の声を聞いた時のように落ち着くハラの声を聞きオーキッドは自らの性能を上積みさせた。

「さぁ速いのが来るわよ」

 既に司が蘭に照準を合わせていた機関砲。

 トリガーは引かれ、オーキッドの元にと機関砲弾が到達する時の予測位置に弾が降り注ぐ。

 照準ディスプレイからオーキッドの姿が消えた。

 蘭のアクセルワークで、オーキッドはその場から爆発で吹っ飛ばされるように加速する。オーキッドのモデルとなった国産最高性能車の数倍に達するパワー。

 蘭が初めて乗った時には市販車とさほど変らない動力性能だった。ハラが乗るようになって機動力と電子装備の大幅な性能向上が可能となったが、蘭は毎日の走りこみで自分に使いこなせるパワーを少しずつ積んでいった。

 今ならこの車であって車でない、蘭の足ともいえるモノの性能を余すところなく使いこなせそうだった。

 オーキッドのメインディスプレイ上部にある小型のサブディスプレイには車両の機動データが表示されていた。

 設計時にハラのエックス・アクティヴィティを基準に設定されたオーキッドの最高性能を一〇〇%として表示されたグラフ。

 数値はすでに一〇〇%のラインを突き破り、一二〇%台の後半からさらに上がり続けている。

 蘭という規格外のエックスが乗ったことによって、機動に必要な燃料ともいえるエックス・アクティヴィティを過剰に供給された状態。

 当初は供給のバランスが崩れることで一〇〇%の性能を出し切れなかったオーキッドは、自らのエックス・アクティヴィティ燃焼転換装置を蘭に最適化させることで、設計時より高次でのバランスを再構築した。

 設定の大幅変更を可能としたのは、かつて実験に参加させられていた時を超越した数値のエックス・アクティヴィティを放射し続けているハラ。

 力を得ていく蘭とハラに合わせ、あるいは対抗するようにオーキッドは成長した。

 セッティング変更を報告しようとするオーキッド、しかし蘭には不要だった。アクセルを踏んだ時の反応、ステアリングを切った時の動き、それだけで言葉にすれば途方もなく長くなるような情報は一瞬で伝わる。オーキッドはただ一言。

『ラン、ハラ様、オレがおめぇらを望む速さで走らせる』

 オーキッドは蘭の右足の力を幾千幾万にも増幅し、ディアーに向かって突っ込んでいった。

 ディアーは再び機関砲を掃射する。

 着弾によって発生する土埃の列。それさえ今のオーキッドには追いつけない。

 上空からの車両攻撃は通常であれば朝飯前の攻撃ヘリ。

 しかし現在、ディアーの眼下を走る赤い車は弾丸を避ける魔法を使ったかのように被弾を回避し続ける。

 対空火器すら無い車一台に苦戦する。縦する姉と火器管制を行う妹は苛立ちより充足を感じていた。

「お姉、やっぱり照準装置は全滅だ」

「司、ボンダイの波を覚えてる?」

 身を隠すものすらない平原状の演習地。その外側は岩の多い一帯が広がっていた。

 広い範囲で火山灰質の土で覆われた関東と違い、北海道の大地はあちこちにむき出しの岩盤がある。

 射爆撃演習に必須の余剰地。整地する金が出来るまでは放っとくという贅沢な土地の使い方をした岩石の荒れ地。

「波を追うのではなく、波に自分を追いかけさせる」

 かつて姉と毎日のようにサーフィンをしていた時、姉が教えてくれたこと。

 司が発射した機関砲弾はオーキッドには当たらなかったが、晃の操縦はオーキッドをある方向へと誘導した。

 オーキッドは縦横に走れる平原から、あちこちに岩山のある地帯へと追い込まれた。

 前方に立ちふさがる岩場を右に左に避けながら回避を続けるオーキッド。蘭が毎晩のようにオーキッドで走った経験は活かされた。前車を次々と抜き去る強引で無法なドライヴィング。

 あの時の他車と違いこの岩は停止しているが、蘭が走っていたのは他車が止まって見える速度領域。

 オーキッドに乗る以前、陸上のフィールドトラックを走っていた時から、幼い頃に近所の犬と走ってた頃から繰り返してきたこと。

 岩場に追い込みながらガンナーの司が予想したほどの機動力低下が見られないオーキッド。

 姉の策に小賢しく抗うオーキッドに苛立つ妹の後ろで、姉は無邪気な笑みを見せた。

 岩場に追い込んだ表層的な目的はあの地上走行車両の機動力制限。本当の理由は平原での銃撃ではなく、この岩場でオーキッドを葬ること。

 教科書通りの地上攻撃戦術を実行するだけでは命に触れられる実感は無い。岩はあの車を潰す武器になると同時に、守る盾になるかもしれない。予想外の事態を引き起こす罠があちこちにあったほうが面白い。

 晃は岩が作る死角を利してオーキッドに急接近する。互いの顔が見えるほど近づいたオーキッドとディアー、ミサイルが放たれる。

 一台の車など下の地面ごと微塵に吹き飛ばせる弾頭威力と高い誘導性能を有した対戦車ミサイル。

 誘導装置の妨害で回避された役立たずのミサイルを、至近の味方にボールをパスするようにぶつけてくる。

 蘭は咄嗟にステアリングを切り、視界の右端にあった岩山にオーキッドを衝突させた。激突の衝撃、破壊された車体は即座に修復される。

 オーキッドは左から掬い上げられるように飛び上がり、昔のミニ四駆アニメに出てきた必殺技のように車体を回転させた。

 その下をミサイルが飛んでいく。低く撃ち降ろすように飛んだ対戦車ミサイルは先端を地面に触れさせ爆発した。

「ローリング・シザースかよ、やりやがる」

「あの花は咲きつつある」

 司は視線を感じて火器管制中にもかかわらず後方を振り向く。普段はインカムでコミュニケーションしている姉妹は視線を交わした

「司ちゃん、綺麗な花を自分だけのものにする方法を知ってる?」

「花屋で買う」

「摘み取るんです」

「引っこ抜くんだな」

 オーキッドが地面に着地した途端に機関砲の弾丸が降ってくる。

 岩山への衝突と地面への落下で損傷したオーキッド。瞬時に走行に必要な部分が修復され、続いてボディ外板が修復される。

 車輪が地面に着地する順から修復する芸当はオーキッドの高度な演算と、それに足るエックス・アクティヴィティを供給するハラによって成された。

 内部に居る二人はオーキッドのように無事では無かった。

 岩にぶつかった時と着地した時、シートベルトの締め付けと室内を伝達する衝撃が二人を襲う。

 それらの衝撃には蘭よりも強かったハラは、自己修復の過程で体内を走るエックス・アクティヴィティにオーキッドの痛みを自らに移したように苦しんだ。

 痛みを受けながらも蘭とハラ、そしてオーキッドの戦意と判断能力は落ちない。

 蘭は車体が着地した瞬間にフルアクセルをふみ、最短の走行距離と時間で車体を半回転さた。回避不能な機関砲弾を車体後部で受ける。着弾の衝撃でリアバンパーが大きく凹み、車体が前に吹っ飛ばされた。

 機関砲弾に吹っ飛ばされることで集中射撃を回避したオーキッドに、狙って撃ったわけでない流れ弾が偶然当たる。ドアが大きく凹み、中の二人は強い衝撃を受ける。

 インターフェースゲートに手を置いたハラからはエックス・アクティヴィティが放射されていた。

 今までのあらゆるベンチマークテストを上回る放射によってカタログスペックを遥かに超える速度で自己修復するオーキッド。

 設計にはない蘭のエックス・アクティヴィティから供給される動力エネルギーと、ハラから得る演算のリソース。それだけではない。

 オーキッドは蘭とハラから受け取ったエックス・アクティヴィティを今までにない速度でエミッションに変えていた。

 蘭とハラを守りたい、そのためなら自らの機械的寿命なんてここで尽きてもかまわない。

 人間の感情と思考力を持つオーキッドは設計されて以来初めて、論理的判断を超えた強い願いを抱いた。

 オーキッドではなく前方の岩を狙ったロケット砲が命中する。

 砕かれた岩の石礫で重みを増した爆風。蘭は咄嗟にオーキッドを着弾地点に向け、爆風を正面から受ける。

 高速走行のために設計された空気抵抗低減ボディが破片のダメージを緩和し、車体がバラバラになるのを避けられたが、内部の蘭とハラは銃で撃たれたような衝撃を食らう。

 蘭は続いて来るであろう機関砲掃射を避けるべく高速で回避したが、全身に受けた衝撃が脳の判断力を落とし、オーキッドを岩山に衝突させる。

 蘭は自分の体よりも助手席で両手を押し付けているハラを先に見た。

 既に肺から吐き出した血と、全身に食らった衝撃で血まみれ傷まみれの蘭に比べ、ハラはまだ外からわかる傷を負っていない。

 蘭は見た目には怪我を負ってないハラの元より色素の薄い顔が蒼白になっていることに気づいた。

 危険な状態。

 ハラの小さな体は外傷よりも危険な体内への負荷を受けている。

 歯を食いしばった唇から一筋の血が流れ出たのを見て、内臓の損傷がかなり進行していると判断した。

 この少年を殺すかもしれない。

 蘭はスピードを緩めなかった。助けるために必要なのは走るのを止める事ではない、走り続けて彼が生きる最高の場所を与えること。

 二人はもう約束をした。  

『ランこの石ころ公園を抜けろ! こんままじゃこっちはアシを折られたも同然だ!』

「オ-キッド、私を信じなさい」

 蘭はチャンスを待っていた。

「ハラ悪いわね、ここで一緒に死んで」

「もし退いたらぼくが蘭さんを殺します」

 蘭は晃の操縦と司の射撃によって走行の邪魔になる岩の転がる場所へと誘導され、そこから出られない状態が続いていた。

 幾度も岩への衝突を繰り返し、そのたびに被弾時を上回る衝撃波と、室内に発生する急激な気圧変化で起きる真空域で外傷を負っていた。

 また衝突、岩石が削られる。

 蘭は岩にブチ当たり、砕き、壊す。

 二連射のロケット砲を左右同時に食らったオーキッドはまたしても岩への衝突コースへと突っ込む。

 蘭は何度かの激突で形を変えた岩に向かってオーキッドを走らせる。

 幾度もの衝突で左足は脳が命令を下しても血ばかり噴出して動かないが、もうブレーキはいらない。

 右手の骨が砕けている、左手はもう血と関節の固着でステアリングに張り付いて離れない。

 蘭は迷わず岩に向かって速度を上げる。

 オーキッドはやっと気づいた。

 蘭はこの大地で空飛ぶヘリを落とすべく、岩を削りジャンプ台を作っていた。

 撃ち落とす銃が無いなら、自分自身が弾になればいい。

 オーキッドは車体下部を破壊しながら岩に衝突した。

 走行装置の保護のためかけていたパワーの制限をすべて開放し、ハラと蘭から貰ったエックス・アクティヴィティの全てを使って岩山を駆け上る。

 ボディもガラスも瞬時の自己修復が成されず、割れ、へこみ、歪んだまま。

 ハラのエックス・アクティヴィティによる自己修復はもう作動しないかのように見えた。

 ハラもまた傷つき、意識朦朧としていたが、放射されるエックス・アクティヴィティは減少どころか増加している。

 車体は傷つき、ガラスの割れたオーキッドは足回りとパワートレインそしてエンジンのみに修復能力を集中していた。

 離れそうになる手をもう一度置き、壊れていく走行装置をコンマ秒単位で修復し、オーキッドに前進する力を与えた。

「走れオーキッド! わたしの命をくれてやる!」

 岩山のジャンプ台からオーキッドが空を飛んだ。

 重力の制約から脱したことで、逆に蘭の失血は増大する。

 生命に危機を及ぼす量の血を垂れ流した蘭は、目前に迫ったヘリから視線を外さない。

 あと少し生きさせてくれ。

 この空に描き、切り拓いた道をあのヘリより高く速く。

 重力の法則も物理の範疇外にあるエックス・テクノロジーも、この地球さえも追いつけない速さで走れ。

 走れ。

 オーキッドとディアーは空中で衝突した。

 前部ガンナーシートの妹は咄嗟に背後を見た。赤い残像が通過し、ヘリのローターが一本もぎ取られる。

 少年ダビデが石投げの布で放った石が巨人ゴリアテの脳天を打ち砕いたように、航空機による地上攻撃には絶対に勝てない一台の車両が空の魔物の翼を捥いだ。

 失血で死の淵にあった蘭は、オーキッドが速く高く飛ぶヘリを追い越し、自分がこの空を誰よりも速く走ったことを確かめると、誇り高く笑いながら、最期の力でアクセルを踏み込んだ。

 前部ガンナーシートの司が見ている前で後部操縦席の防弾ガラス風防にヒビが広がる。割れたガラス越しに姉の顔が見える。何か言っている、聞こえない。

 風防は赤くなった。

 姉だったものが赤いガラスになった。いつも振り返れば居る姉が見えない。真っ赤で見えない、真っ赤で見えない。司は声の限り、叫んだ。

 オーキッドで岩場のジャンプ台から飛んだ蘭は、ヘリと衝突しながら飛翔の頂点に達した。

 落ちれば助からない高さであるということに気づく。

 放物線の描く落下地点は岩場で、この高さからの落下加速が加われば、既に損傷したオーキッドは車室を押し潰すほど破壊されるだろう。

 弾道飛翔による一瞬の無重力。

 不可避の死を目の前にしながら、ハラは恐怖も苦痛も無かった。

 白い箱の中に居る時からずっと抱いていた、もう死んでもいいという諦念とは違う感情で満たされている。

 蘭があの団地から自分を助け出してくれた時のこと。

 団地の二階にオーキッドで飛び込んできて、そのまま街路樹をヘし折りながら地面に着地し、脱走した。

 この誰よりも速く走るお姉さんは、ランはきっとあのヘリよりも、人の生死を統べる神様よりも速く走ってくれる。

 ランと一緒なら大丈夫、オーキッドと一緒なら大丈夫。

 飛翔するオーキッドの中で、ドライブを楽しむようにシートに身を委ねるハラは赤い花の咲くディスプレイに触れた。

 ディスプレイ一面を飾る花が赤く輝く。

 ディアーを掠りながら擦れ違ったオーキッドはそのまま地面に叩きつけられ、何度かバウンドして転がった。

 タイヤは四つともバーストし、サスペンションは破壊され、シャシそのものが大きく歪んでいたが、奇跡的に車室部分は原型を留めている。

 飛翔の間に最後の命を流し切ったと思われた蘭の指先が動いた。

 エックス・アクティヴィティの限界流量に達した体に着地の衝撃を受けたハラの心臓は一度止まり、再び動いた

 二人は生きていた。オーキッドは。

 車内中央のディスプレイでオーキッドの生命と感情を表す赤い花は消え、黒いディスプレイのまま。ただの黒い板。

 ディアーはローターを一枚失い、低空で失速しかけていた。

 前部ガンナーシートの司は、操縦装置をもう存在しない後部操縦席から引継ぎ、機体の立て直しより先にある選択を行った。

「お姉、見ててね、そっちに行く前にいいもの持ってくから」

 妹はもう飛べないヘリの操縦桿を握り、地に落ちようとするオーキッドに向かって突っ込んだ。

 着地の衝撃で大破したオーキッドに半壊したディアーが墜ちていく。車内の蘭とハラはかろうじて生命の兆候を見せながらも動けない。

 蘭は途切れ途切れの意識の中で、こちらに向かってくる司の姿を眺めていた。迫り来る死が妙にゆっくりに感じられる。

 傍らでインターフェース・ゲートに手を置きながら、もう動かないハラの髪を撫でてやりたかった。

 オーキッドに感謝の言葉を残す替わりに最後の力でステアリングを握り締め、もう何の反応もしないアクセルを踏んだ。

 赤い光。

 破壊され尽くした車内の中心で花が咲く

 もう何も映さなかったディスプレイが光を何度か閃かせ、一輪だけの花を咲かせる。

 花が発する赤い光は蘭とハラ、そしてオーキッドを赤く染める。

『ハラ様、わたしは世界一幸せな機械でした。ランてめぇもいいドライバーだったぞ』

 ディアーとオーキッドは地上で激突した。

 互いに弾き飛ばされ、オーキッドは車体を激しく歪めながら地面を滑走し岩に激突する。

 ディアーは再度地面に叩きつけられ、機体は胴部で前後に千切れ飛びそのまま動かなくなった。

 

 オーキッドだったものの中に居た。

 蘭は自分の視界が赤く染まっていることに気づく。

 右手を動かそうとすると腕は動かないまま赤い靄は余計に濃くなる

 なんとか動く左手の袖で目を擦ると、赤かった視界はやっと物が見えるようになった。 

 破壊されたオーキッドの操縦席で意識を取り戻した蘭。頭を持ち上げ、首を動かすのに激痛が伴った。それでも自分の左側を見た。

 自分の傍に居なくてはいけない者を確かめる。

 助手席のハラは傷ひとつ無い姿だった。血まみれの蘭が居る醜く破損した車内で、掃き溜めに降りた白鳥のような姿。

 それが外見ではわからない内臓の損傷で瀕死の状態だったとしても、蘭にはとても美しい姿に見えた。ハラは口を開く。 

「オーキッドが僕らを守ってくれたんだ……自己修復を切って、潰れて壊れて中の僕らを守ってくれた」

 オーキッドは自ら自己修復機能をストップさせ、車体をクラッシュさせることで衝撃を低減させた。

 もしもそのまま衝突していたら蘭もハラも、重症を負った体には致死のダメージを負っていた。

 蘭は後ろに傾いたシートから体を起こそうとしたが、体は動かない。

「…よくやった……よくやったわ……あんたはわたしと……ハラを守ってくれた……」

 赤い花がいつも咲いていたオーキッドのメインディスプレイ。黒い板に蘭は血まみれの掌を押し付けた。

「……あんたは……最高の……友達よ……」

 メインディスプレイに鮮血で蘭の手形がつく。それが手向けの花であったかのように、二人はオーキッドの死を受け入れた。

 蘭はなんとか動く左手で横に座るハラに手を伸ばす。ハラは弱々しいながら体を起こし、蘭の手に自分の掌を重ねる。

「もう少し我慢できるわね、全部終わらせてくる」

「蘭さん、信じてるから」

 蘭は半分開いたドライバーズシートを蹴り破り、外に出た。ガラスの破片が散らばる。

 もう右腕は動かない、左の足も折れてるらしく体重をかけるとグニャリと折れ曲がる。靭帯をひとつ切っただけで落胆の日々を過ごしていたのが嘘みたいだと思った。

 車外に出た蘭は動かそうにも動いてくれない左足に苦労しながら足を引きずり歩いた。一〇〇m少々の距離を苦労しながら歩き、墜落した攻撃ヘリに歩み寄る。

 機体の半分をもぎ取られ、横倒しになった機。

 後部のパイロットシートを覆う風防は血で赤く染まっている。前部ガンナーシートの風防は墜落の衝撃でフレームごと外れ、、中には一人の少女が居た。

 顔は血で染まり、腕は曲がらない方向へ曲がり、口からは血と赤黒い肉片を吐き出している。蘭が近づいてくる気配を察し、ヘルメットの下の目線だけが動いた。

 蘭はジャージのポケットから取り出したナイフを抜いた。五本のうち三本の指が動かなくなった左手でブレードを開く。

「……て……めぇ……」

 司は血の霧を吐きながら呼吸し、それから微かな声を上げた。

「……お姉と同じ海に還してくれ……それだけだ……」

 蘭は司の胸にナイフを突き立てた。司をシートに拘束するハーネスベルトをナイフで切り離す。

 横倒しになったヘリの前部座席から、司の長身な体を左手だけで力任せに引っぱり出す。

 右腕は体の横にブラ下がるだけで上げようにも上がらない、体を曲げるたび胸に痛みが走り、口から血が吹き出る。

「何の積もりだ」

 蘭は黙って司の体を引きずって歩く。

「やめろ、燃料転換液が漏れてる、爆発したら巻き込まれるぞ」

 エックス・アクティヴィティをガスタービン動力へと変換する液媒は強い揮発性と引火性を有していた。

 蘭はもう司を見ていなかった。

「やめろ」

 機から遠ざかる。

「やめてくれ!」

 ディアーに、赤い風防に、姉に伸ばそうとした手はもう届かない。

「わたしと……わたしとお姉を引き離すな!」

 ディアーのどこかが小さい火花を発し、それは瞬く間に機体全体を丸呑みする蒼白い炎となった

「お姉!」

 可燃性の液媒を墜落時に漏出させたディアーの急激な炎上は強力な爆風を発生させるほどではなかったが、パイロットとガンナーの席がある機体前部は炎に包まれて見えない。

「……お姉……連れてって……わたしも連れてってよ……」

 背後から煽られる熱風と炎に髪を焦がしながらも、蘭は司の体を引きずっている。

「……許さねぇ……」

 一言も発することなく司の体を引き続ける蘭の体が傾ぐ。そのまま、蘭は地に倒れた。刃を出したままジャージのポケットに突っ込んでいたナイフが転がり落ちる。

 蘭の呼吸は止まっていた。

 司は痛む体を何とか起こした。尻もちの体勢から何とか膝立ちになった司は蘭を見下ろし、ナイフを拾い上げる。

「お姉、いいよね? お姉ならこうするよね? わたし、お姉の居ないとこで生きていくなんて耐えられないもん」

 遠くから赤いランプが近づいてくる。緑色に塗装した自衛隊緊急車両。ディアーの爆発現場とオーキッドを包囲しようとしている緑の車群。

 司は仰向けのまま呼吸をしない蘭の胸にナイフを突き立てた。

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