第十一章 旅
千葉県西部の港湾地帯。
水平線の向こうに現われた影は次第に大きくなり、音と風圧を一緒に運んできた。
飛んできたのは空色のヘリコプター。布袋と氷室の前に一機のヘリが着陸する。
mil24ハインド対戦車攻撃ヘリ。
かつてソ連軍の主力ヘリとして歩兵に恐れられた、対地攻撃と兵員輸送を兼用した欲張りなヘリ。
連邦崩壊による兵器の拡散で、現在は旧東側のみならず数多くの国に輸出され、南アフリカでは近代改修された機が生産されている。
日本の自衛隊も技術研究のために購入することを検討し、頑張ってお金を貯めている最中だと言われるロシア軍の現用軍事ヘリ。
民間エックス互助、研究組織ロータスマートは、表向きは日本に一機も無いと言われる機を千葉に着陸させるため、人目を忍ぶ方策を練った。
布袋はフランスの映画機材製作会社が、民間ヘリをベースに作ったレプリカ機の試験飛行ということで当局に届けを出している。
過去にある映画の撮影で、ソビエトの兵器を出すシーンを撮るため、アフガニスタンの反政府勢力が鹵獲した兵器を購入したところ、撮影中に盗難に遭った事件があった。
それが議会を騒がすレベルの問題になって以来、本物の中古機より多少高価くついてもリスクが低く、撮影後は同業者やマニアに高値で売り飛ばせるレプリカ機製作はビジネスとして成立している。
布袋が着陸地点に選んだのは石油コンビナートの海寄りにある、埋め立てられて間もない人工島。
広い範囲で関係者以外立ち入り禁止となっている一帯。整地工事が一段落し作業員も居ない埋立地は航空機マニアの撮影に晒される気遣いも無い。
着陸した対戦車攻撃ヘリコプターは蘭の乗るオーキッドと同じく、外観のモデルになった機とは異なる性能を得ていた。
このヘリを使用することを決定した氷室を眺めながら、それに必要な実務を受け持った布袋がローター音に逆らうような大き目の声を出す。
「何で町内会の共益費支払いもきびしいウチがこれを使えるんですか?」
計画を遂行する上で最大の問題となった資金の問題を解決したのは氷室だった。
布袋が彼から番号を聞いた口座には今回の仕事に何とか足りる残高があり、布袋はそれを無駄なく使った。
「バブルの頃にはね、資本金十億も無いアパレルやゲーム製作の企業が多国籍企業を買収したことがあったんだよ。資金も収益の還元も海外資本で、実際のところは名義貸しと雇われのプロデュース屋をやっただけ」
「そんなことしてたらいずれ行き詰まりますよね」
バブル崩壊を直接は知らない世代ながら、その後の長い就職不況の波を被った二人は苦い笑いを浮かべる。
問いへの答えになっているかなってないような、説明になっているようななってないような曖昧な言葉で布袋は察した、氷室はこの仕事における主導権をどこかに切り売りすることで金に換えた。
着陸したヘリのローターが停止し、前後に独立した半球状の風防ハッチが開く。
中から出てきたヘリパイ装備を身に着けた二人は、機体のタラップを踏んで地上に降り、ヘルメットを脱いだ。
前部のガンナーシートから出てきた長身のコ・パイロットは長い黒髪に黒い目。東洋人の容姿。
後部操縦席から出てきた小柄なパイロットはおかっぱに近い金髪でグリーンの瞳。西洋人を思わせる姿。
身長百五十cmに欠ける金髪碧眼の操縦手が日本式に深々と頭を下げる。
「おひさしぶりです、店長」
隣に立っている黒髪の副操縦、銃撃手は身長約百七十センチの氷室とほぼ同じ背。親しげに布袋の腕にまとわりつく。
「飛びっぱなしでお腹すいた~久しぶりに副店長の作ったウドン食べたいよ~」
氷室は二人にまず感謝の言葉を伝えた。
「よく来てくれました、吉川さん」
攻撃ヘリから降りてきた二人のヘリパイは若い姉妹。そして民間エックス互助研究組織ロータスマートの一員だった。
吉川姉妹は、日本からほぼまっすぐ南下した場所にあるオーストラリアのボンダイ・ビーチで産まれた。
高名なサーファーでありながら海岸沿いに停めたキャンピングカーでの暮らしを生涯貫いたオーストラリア人の母と、サーフィンの腕は二流以上一流未満だがライフセイバーとしては超一流だった日本人の父との間に生まれた姉妹。
最後まで入籍することの無かった父親が日本国籍のままホリデーワーキングビザによる滞在を伸ばしに伸ばしていたため、姉妹には出生と同時に日本とオーストラリア、二つの国籍が与えられる。
オーストラリアも日本同様に二十歳を迎え、自らの国籍を選択するまでは二重国籍が認められている。
キャンピングカー暮らしながらプロサーファーとしての収入で金銭的には豊かだった父母のおかげで、姉妹は幼い頃から日本とオーストラリア、両方の海とサーフィン、そして二つの言語に親しんだ。
姉妹は、一年の半分を過ごしていたオーストラリアの国防省が就学年齢前の子供に対して行う検査で、エックスとしての適性を認められた。
国籍は日本とオーストラリア、エックス・アクティヴィティを確認したのはオーストラリアという複雑な経緯を辿った姉妹は以後、日本とオーストラリアのエックス教育機関を往復するようになる。
日豪混血の吉川姉妹が有していたのは動力機関へのエネルギー供給という、蘭の亜種のようなエックス・アクティヴィティ。
適性がレシプロではなくタービンシャフトエンジンだったため、吉川姉妹は日本では小学生の内から日本の陸自で当時研究が開始された軍用ヘリへのエックステクノロジー導入計画に協力させられた。
オーストラリアでは陸軍の予備役エックスとして籍を置くことになったが、後に二人は日本がオーストラリア軍へエックス動力源ヘリの技術供与する連絡役を担うこととなる。
エックス・アクティヴィティによる無限の航続距離を持つヘリコプター。
夢のような航空機械は実戦においてヘリを投入する状況ではさほど役に立つ部分が無かった。
本国から遠く離れた地でも活動可能という利点は、その能力を有したエックスが乗る機だけしか運用できない時点で軍事兵器としてはお話にならない。
日の目を見なかった最大の要因は、唯一の売りである航続距離を各国軍の人間に信じてもらえなかったこと。
当時も今もエックスの上層部にはまともなプレゼンを出来る奴なんて居ない。賢い奴は早々にエックスと呼ばれる落ちこぼれ集団には早々に見切りをつける。
アメリカやフランス等の航空先進国では既に実機が完成していたが、運用コストに対するメリットの少なさから早々に開発、配備が中止されたエックス・テクノロジー航空機。
数少ないタービンエンジン適応型エックスも、通常動力で代替のきく航空用エンジンを稼動させるより、規模も社会貢献も遥かにに大きい発電所等で働かせたほうがいい。
ヘリと違って無限の航続距離に利点のあるジェット固定翼機に関しては、各国がそれなりに金をかけて研究を重ねたが、結局グライダー程度のオモチャしか作れなかった。
現在は多くの国で、空飛ぶ円盤やオカルト的飛行体と同列のうさんくさい実験案件に留まっていた技術に、航空機業界での躍進を企む日本とオーストラリアが目をつけた。
アメリカの航空機会社がボツにした設計図を買い取り、日本とオーストラリアで共同開発したエックス・テクノロジーによるヘリコプター。
無限の動力を有する実機が完成した途端、姉妹はヘリに乗って自衛隊基地を脱走した。
mil24ハインドをベースに作られたエックス動力ヘリは、ハインドに関してはプラモデルの箱解説程度の知識しかなかった開発責任者によってディアー(赤鹿)と名づけられた。
日本とオーストラリアに共通し生息する小型鹿。害獣として迷惑をかけているのも変わらない。
ヘリで南太平洋を渡った姉妹はなぜか航空自衛隊やオーストラリア空軍に追跡、撃墜されることもなく、エックス・テクノロジー動力ヘリを勝手知ったオーストラリアの原野に隠匿する。
その直前、姉妹が日本とオーストラリアのエックス・テクノロジー組織に入り浸りになっている頃、姉妹の両親はボンダイビーチで数年に一度と言われる大波に二人で挑み、そして帰ってこなかった。
ヘリを乗り逃げしオーストラリアに潜伏した吉川姉妹はその後、ヘリを置いたまま手ブラで日本に入国した。
それに必要な架空名義の戸籍とパスポートを用意したのは、日本の反政府エックステクノロジー組織、ロータスマート。
国家エックス組織エックスファンタジー同好会から泥棒した資料から、偶然この計画とそれに携わるエックスの資料を見つけた氷室は、二人の経歴と抱えてる情報に価値を見出してオーストラリアまでスカウトに赴き、二人はそれを受けた。
二人は日本でのコンビニ仕事とエックス・テクノロジー供与の組織業務で渡航と滞在の資金を作ってはオーストラリアに飛び、ヘリの操縦とサーフィンを楽しむ生活を始める。
吉川姉妹は日本およびオーストラリアのエックス機関からは、なぜかお尋ね者としての手配はされず、普通のヘリより高価な実験機を盗んだエックスの姉妹への追跡や追及はやる気の無いものだった。
姉妹が欧州のエックス組織と係わりの深いロータスマートに入り、エックステクノロジーによって稼動するヘリの情報を国外に垂れ流すことは日豪両方にとって損失より利益のほうが大きいらしい。
欧州の航空メーカーの内部には、過去に自ら役立たずの烙印を押したエックス・アクティヴィティ動力ヘリに再注目する技術者の一派が存在した。
かつての稼ぎ頭だった軍用ヘリより今時は儲けが大きいと言われている民間用旅客機、ビジネス機の開発。
社に与えた利益に相応の地位と報酬を欲しがり欲張っていた民間機開発部署に、日本同様に国家内で立場の弱い欧州の軍事エックス組織が接触した。
飲み会の奢りっこ程度の相互接触と交流から、酒の席にオーストラリア陸軍のヘリ開発者が割り込んできたことでひとつのビジネスが産まれる。
結局、ヘリ屋を仲立ちに日本、オーストラリアのエックス組織と欧州のエックス組織が繋がることとなった。
欧米では一度国家が潰した案件の技術供与を、日本やオーストラリアが大っぴらに行えばいらぬ角が立つ、それなら強奪され情報流出する状態を維持したほうがいい。
かつて欧州は中東国家を相手に似たことをしていて、そのタネは秘匿されず公開されている数少ないエックス・アイソトープであるプルトニウムと核開発技術。
うまくいきすぎる話は不自然なほど障害無きまま進行した。
姉妹による攻撃ヘリの乗り逃げと、その後の反政府エックス組織加入は、元々の雇い主である日本のエックス・テクノロジー組織が企んだ筋書き。
好きなサーフィンをする時間さえ制限されるエックスを足抜けしたいと望んだ姉妹に、日本国政府が非公式に与えた脱走という仕事。
逃げる姉妹と追う日豪のエックス・テクノロジー組織という八百長を行うことを条件に、二人は国家エックスの身分を解くことを許される。
その後、二人が反国家エックス組織のスカウトに応じたのも国の手引きで、姉妹は組織の内部情報を通報する仕事も負っていた。
二つの祖国を持ち自らの足の定まらぬ状態に慣れている二人の少女は、国家エックス・テクノロジー組織のスパイとしての役を負うこととなった。
二人がサーフィンをしていて乗る波にも、ヘリで空を飛んでいて受ける風にも国籍は無い。
姉妹は互いがいつも見える位置にいれば、地に足をつけずとも風を受け波に乗って生きていける。
今回の作戦のため、ここしばらくオーストラリアに居を定めていた吉川姉妹は反政府組織のトップである氷室に呼び寄せられた。
日本国政府の内通者でありながら、氷室を自分たちの恩人と思っていた吉川姉妹は、自分のヘリパイとしての技量を活かせる仕事を引き受ける。
エックス・アクティヴィティで動くヘリ。燃料はタダでもそれを運用する費用は莫大なもの。氷室は海外資金の導入という苦渋の選択を受け入れた。
何度かの計画失敗で自己資金で計画を遂行するというそれまでの契約に無理が出て、どうにもならなくなるのを待ちかまえていたように欧州エックス組織と表向きは関係の無い欧州資本の投資信託会社が融資の話を持ちかけてくる。
融資契約の条件は布袋が予想したとおり、以後ロータスマートに欧州系組織の役員を送り込むという事実上の半乗っ取り。
金銭の損失や主導権の切り売りなんかより氷室の心が痛んだのは国家エックステクノロジー組織を逃げ出した後、日本とオーストラリアで新しい人生を見つけつつある姉妹を国家への反逆の場に引きずり出してしまったこと。
エックス絡みの仕事にいつも積極的な吉川姉妹の妹、長身黒髪の少女、司は氷室に確認する。
「で、そのチキンフライ・バスケットはどこに?」
「エックスファンタジー同好会内に居る情報提供者の話によると、北に向かっていることが確認されてます」
自分たちと同じ内通者の話題になっても、二人は動じない。母の血を強く引いた小柄な金髪少女の姉、晃は表情を変えぬまま布袋に短く問う。
「飛ぶのはどこですか?」
「鳥かごが必ず来る場所です」
氷室と布袋、そして吉川晃と司の四人は攻撃ヘリを埋立地に借りた格納庫に隠すべく、ローターの分解を始めた。
時間が切迫する中、そのまま現地に飛んだほうがスケジュール的には有利だったが、氷室は布袋自慢のウドンを食べさせるという約束と、姉妹の休息を優先させた。
蘭とハラはオーキッドに乗り、東京から青森まで繋がる幹線国道を北上していた。
戸籍も出生記録も無く、反政府組織から身柄を狙われるハラの保護を得るべく始めた北海道への旅。
蘭は昨日、ハラと共にオーキッドでドライブをしながら、国家エックス・テクノロジー組織であるエックスファンタジー同好会に恫喝に近い電話をかけ、組織のトップである石野会長からエックスファンタジー北部方面支部での身柄受け入れを確約させた。
夜が明けて次の日、ハラと学園に行き部活仲間と会った蘭は昼前に寮に戻り、旅の準備を始めた。
最小限の着替えとしてランニングシャツとTシャツ、ショートパンツとジャージ、ハラの服を陸上部の遠征に使っていたスポーツバッグに放り込み、蘭とお揃いで買った歯ブラシとカップを洗面道具の袋に詰める。
食事ができない事態に備えて食料も入れておく、ツナ缶が24缶入った紙箱をひとつ。一人一日三食として、蘭の考えではこれで四日分の食料になる。
キッチンの段ボール箱から出したリンゴをコンビニのビニール袋に詰められるだけ詰める。
実家で作ってて蘭の住む寮に大箱で送りつけられるリンゴは、特に好物でも何でもないが一日一個当たり前に食べるもの。この旅行が何日のものになるかわからないが、少なくとも一人の時の二倍必要になる。
下着はスポーツブラと一度ハラから借りて以来履き心地のよさで気に入っている白いブリーフ。
そして、団地でハラを奪還した時にかっぱらった一本のナイフ。
袋の封を開ける時に一度使ったっきりだが、なんとなくこれから必要になるだろうと思い、ベルトクリップのついた樹脂製ハンドルのアウトドア用折りたたみナイフを、ボトルホルダーにベルトがついたランニングポーチにクリップで固定した。
ボトルホルダーのオマケで札入れかタバコとライターが入るサイズの小物入れに、ほぼ全財産の入った軽いガマ口を入れる。
十分少々で旅支度を終えた蘭は、ランニングシャツにジャージのズボン姿でバッグを担ぎ、レーパンにサイクルジャージ姿のハラと共に寮の正門から走り出した。
寮からオーキッドを停めている公園横の道路まで、二人はいつも通りのランニングをする。ハラは真夏の太陽の下、途中で歩かない継続的なランニングが出来るようになっていた。
汗まみれで蘭に教わった深い呼吸をするハラの横を荷物を背負ったままずっと走り、息ひとつ乱さぬ蘭はスポーツバッグひとつの旅荷物をオーキッドのリアシートに放り込む。
『それでいいのか? もうここには帰れないかもしれないぜ』
「今着ている物が我が家よ、あと、あんたね」
蘭は操縦席につき、オーキッドの赤いボタンを押してエンジンを始動させた。
電子装置のみが作動する待機状態から機動状態になったオーキッドの助手席で、ハラはグローブボックス前のインターフェースゲートに手を置く。
正午を迎える頃、蘭とハラは東京都下を出発した。
北海道までのドライブは蘭が思っていたより時間がかかった。
当初は東北道をブっ飛ばし、今日の夕方には北海道へと渡るフェリーに乗るつもりだった。
蘭はハラと出会う前、オーキッドで方々を走り回っている時に、実家のある青森まで一晩で往復したことがある。
高速道路とフェリーを使えれば、明日の昼飯前には北部方面隊のエックスファンタジー同好会支部に着くことも可能だった。
実際にかつてチューンドカーで東京から北海道の屈斜路湖までの速さを競った非合法レース「キャノンボール」ではそれより短い時間で到達する猛者が何人も居た。
蘭は高速を避け、昼の混雑と信号ストップで飛ばすに飛ばせない国道を走っていた。
オーキッドによると、高速道路を走っていると国家組織エックスファンタジー同好会の連中に位置を把握されるという。
自動車のナンバーを読み取って位置情報を集約するNシステムを誤魔化すことは、オーキッドの能力を以ってすればいくらでも可能。
今までは監視する勢力に自らの再起動を伝えるため同じ数字を表示していたナンバープレートは架空の数字に書き換えられるし、情報そのものに介入して改竄することも出来る。
それに対抗する措置として、エックスファンタジー同好会は単純な人間の目視による監視体制を敷いているらしい。
高速道の主要位置に組織の構成員を配置して、通過を報告する。報告には自衛隊通信隊から借りた無線機を使用していて、オーキッドが情報に介入、改竄する前に埼玉の本部に届いてしまう。
数日前に起きた蘭によるハラの奪取と追撃の過程を監視していたエックスファンタジー同好会は、アナログの無線連絡が有効だったということに着目した。
追撃自体が失敗に終わり、蘭がまんまと双子の黒い車を振り切ったことについては、自分のアイデアを認めさせ、エックスファンタジー同好会の政府内での立場を、本音としては自分自身の地位と冬の賞与を少しでも上げたいと思った追跡責任者によって無視された。
本部命令による動員がかけられ、東京から北へ向かう高速道路の各所に監視者が配置された。
国家が超科学技術エックス・テクノロジーを秘密裏に研究、運用するため設立されたエックスファンタジー同好会。この組織では未だに人間の手によるアナログな方法が信頼されているのか、それともこういう形での人材大量投入に公共事業的な利益があるのか。
案外何かしらの事件が起きるとどこからか人が集まる匿名掲示板やネトゲーのように、祭りか何かと勘違いしているのかもしれない。
蘭は位置情報を把握されることの戦術的な意義など知らなかったが、居場所を知られるのは気に食わない。そこで北海道までの移動には原則的に国道を使うことにした。
今回蘭が巻き込まれたオーキッドを取り巻く騒動で、蘭の活動とハラ奪還に色々と手を回した国家エックス組織。蘭はエックスファンタジー同好会が自分の味方になるかどうかなんてわかりはしないと思っていた。
それに、もし国家組織が高速道路を見張ってるならその逆も然り。あのロータスマートの連中も似たことをしている。
都下を出たオーキッドは都心を迂回する環状線を経由して北へと向かう国道に乗り入れ、昼休みの時間が終わる頃に東京を脱した。
このペースじゃ今日は新潟か岩手あたりで一泊しなきゃいけないだろう。蘭は隣の助手席に行儀よく座るハラをチラっと見た。
夕暮れ
帰省渋滞が盆の前後に拡散するようになり、慢性的に混みあった国道をオーキッドは走っていた。
渋滞と信号で高速道路ほどスムーズに走れない国道を一日中運転していながら、蘭に疲れは見られない。
ハラはといえば、普通の人間にとってはストレスにしか感じない渋滞路の走行を楽しんでいた。
たとえ一時間に一kmも進めない動きでも、白い部屋にいた頃に比べれば遥かに自由な移動。
国道のロードサイド店舗の後ろに山脈や農地が見える、郊外特有のさして美景でない景色をハラは飽きることなく眺めていた。そして、隣で操縦する蘭の姿を何度も盗み見していた。
「今日はこの辺に一泊ね」
『おいご主人様にふさわしいホテルを選べよ。最低限一泊二万のスイートルームだ』
「そんなカネないわよ」
蘭は革のガマ口が入ったランニングポーチを叩いた。この中に小銭も札もクレジットカードも入ってる。
『しょうがねぇなぁ、今ATMを起動させるから』
オーキッドのモニターにコンビニの現金支払機と似た画面が表示され、コンソールボックス奥から数枚の一万円札が出てきた。
「あんた金も出せるの? 出しなさい! 全部!」
『バ…バカ! 俺がまだ国家機関に居た頃に組織予算の仮払い金を預かっただけだ。一応は血税だぞ』
蘭は片手運転しながらオーキッドが出した万札の束を手でもてあそんでいたが、両手を離してオーキッドに運転を預け、ランニングポーチから取り出したガマ口に押しこむ。
移動の主導権が蘭からオーキッドに移る自動操縦も、蘭はそれを拒むだろうというオーキッドの予測に反して必要な時には使うようになった。
『さ、これでまっとうなホテルに泊まれるだろ、検索してやろうか?』
蘭はそのまま、国道のロードサイドにあるカップルホテルに車を滑り込ませた。
国道を左折して少し入ったところにあるホテル。敷地の入り口ゲートを通り、表通りから車のナンバーを隠す植え込みの中にある駐車場スペースにオーキッドを停めた。
各戸独立したコテージタイプの各部屋にひとつずつの駐車スペース。十数メートル離れた右隣の棟は既に仕事をサボって内緒ごとをしているらしき営業車が停まっていて、左は空いている。
もしこのホテルに居ることを把握され、襲撃を食らうとすれば右から来る。
蘭は自分がこのホテルに押し入り、襲うと仮定して考えた。
自分なら通路がある建物の右側に車を停めて退路を塞ぎ、即座に部屋へ押し入る。予想通り右から来たらオーキッドで左の植え込みを破って国道に出る、それ以外にも複数の逃げ道が必要。蘭はいざという時の脱出ルートを頭で組み立てながら、バックで駐車スペースに停めた。
ドアを開け車を降り、後部座席からスポーツバッグを引っ張り出した蘭。ハラの乗る助手席を見たが、オーキッドは左のドアを開けようとしない。
『ランてめぇ何考えてやがる! こ……このホテルは……ご主人様にとても説明できないことを……』
蘭はお前こそ何を考えてるんだ? という目付きでオーキッドを見る。カップルホテルの壁を拳で軽く叩き、駐車場で絶句するオーキッドに問うた。
「コレ、いざって時は壊せる?」
『そんな紙みてぇな壁、お前ぇごと突き破ってやるよ』
オーキッドはそこで蘭の目論見に気がついた。
蘭は当初、国道から駅前に出てビジネスホテルでも見つけ、泊まるつもりだった。
しかし車を停めてすぐ後ろにある部屋に入る郊外型カップルホテルの構造を見たとき、蘭は即決でここへの宿泊を決めた。
いざという時、逃走の足のみならず武器にもなるのはオーキッドしかない。
オーキッドを近くに置いておくことは、これから先に予想される危険を乗り切るため重要になる。
カップルホテルの安っぽい建材はオーキッドですぐ突破できそうで、コテージタイプの部屋は他の宿泊者のことを気にせず壊せる。
それでも納得しきれない様子のオーキッドだったが、自分がヘンな勘違いをした弱みもあり、渋々といった様子で助手席のドアを開けた。
ドアから出てきたハラは長距離のドライブで少し足をもつれさせながらも、ホテルのドア前に立つ蘭の横に歩み寄ってくる。
「じゃ、しっかり見張っときなさい、何かあったら呼ぶから」
『特におめぇを注意深く見張っといてやる、ご主人様、危険な目に遭った時はすぐにお呼びを』
ハラはけばけばしい看板と照明に照らされたホテルを物珍しそうに眺めていた。
このホテルがどういう目的のものなのかまでは知らなかったが、何か怪しいものだということはわかる。
管理棟を中心に駐車場と一体化したコテージ風の棟が散在する、地方特有の贅沢な土地の使い方をしたホテル。ドア横にある自販機のような機械のボタンを押すと、ドアのロックが解除される音がする。
蘭は人生ではじめてのカップルホテルに入り、その室内を興味深そうに見回す。
内装は外ほど派手ではなかった。淡いピンクのベッドシーツにアイボリーとワインレッドのニ色を基調とした壁。蘭は部屋の入り口近くにゲーセンの両替機のような機械を見つけ、ボタンを押した。
女性の声でのアナウンスが挨拶の後、チェックアウトの時間と料金清算方法を伝えてくる。カップルホテルの自動清算機が喋り出したのを聞いた蘭は、指差してへらへらと笑う。
「見て、オーキッドのお仲間よ」
意外と大人しめの部屋に少し落ち着いた様子のハラの表情が変わる。部屋の隅にあるもう一つの機械。ヌードの女性がでかでかと貼りつけられたアダルトグッズの自販機を見たハラは慌てて目をそらす。
「コイツも喋るかな?試してみる?」
混雑した国道で他車を左右に抜き去りながらブッ飛ばす蘭のドライブはいつもながらハラにとって刺激的だった。
ハラはその時とはなんだか違う種類の感覚を受ける。
白く清潔な部屋から蘭の住む学生寮の部屋に匿われたハラは、女っ気の無い部屋だったせいで自分でも以外なほど馴染んだ。
この部屋からは強烈な異性の匂いがする。ハラにはまだ自分と同種の人間とは思えない女性の匂い。
部屋の中で興味深げに動きまわり、あちこちを観察している蘭。
ジャージのズボンにランニングシャツ姿。
男と女というものを意識し始めたハラにとって、蘭は女とは別の生き物のような気がする、かといって男でもない。
ハラにはうまく言葉にできなかったが、男とか女とか、人間という枠さえ違う。ハラにとって全てともいえる存在。
部屋を隅々まで調べた蘭はハラのほうを振り向いた。
「まず風呂よ、それから晩飯」
蘭はガラス貼りのバスルームに入り、お湯を満たし始めた。
カップルホテルの狭い風呂とはいえ、寮のユニットバスじゃない風呂に入るのは久しぶりの蘭は機嫌がいいように見える。
スポーツバッグに放り込んであった携帯電話が鳴った。
蘭は面倒くさそうにバッグの中身をベッドにぶちまけ、取り出した携帯電話を掴む。
着信表示を見てもっと面倒くさそうな表情になった蘭はボタンを押して耳に当てた。
『どうでもいいことだがよ、その部屋を調べたが盗聴、盗撮の類いは大丈夫だ』
その日の夕食はオーキッドから金を貰って気の大きくなった蘭がルームサービスで注文したハンバーグ定食。
見た目が小学生のハラは見られるといらぬ詮索をされるだろうということで、食事を届けに来た時にはバスルームで待たせておいた。
ご飯大盛で注文した蘭はハンバーグを飯のおかずじゃなく単体で食った後、スポーツバッグから出したツナの缶詰を大盛りのライスにぶっかけた。
塩と醤油を少し垂らしたツナ飯を食う蘭を見たハラはなぜか安心する。
どんな所に居ようと、このお姉さんは変わらない。
「お姉さん」
ハラの前にハンバーグ定食を置き、さっさと自分の食事を始めた蘭が顔を上げる。
「僕にもツナ、下さい」
蘭はプっと吹き出し、笑いながらスポーツバッグから取り出したツナ缶を放った。
食事が終わり、ハラと一緒に夕食後のリンゴを食べた蘭はいつも通り食後のストレッチを始めた。
蘭の部屋に居た時は、あの重いテーブルと食器を片付けるのがハラの仕事だった。やることの無くなったハラは身を持て余し、ストレッチをする蘭の姿を見る。
以前は食事の片付けをするふりをして盗み見してた蘭の体。今はゆっくりと見ていたかったし、蘭もそれを許してくれる気がした。
ハラの前で前かがみになる蘭、女のひとにだけある胸の膨らみ、自分には無い、不思議なもの。
ハラの視線に気づいた蘭はハラの背後に周り、小さな体を抱え込む。
「へ~、お坊ちゃんもこういうことに興味あるの?」
ハラは慌てて俯く。
自分ではもうドキドキしないと思っていたが、今までに無いほど心臓が波打ち、顔が熱い。
「じゃ……してみる?」
蘭に背中から捕まえられながら、何とか頭を前後に動かす。
「……こっち、来て……」
今から何をすることになるんだろうか、ハラは蘭の言葉に逆らえない。
「わたしの前に立って、じゃ、まずは体を前に倒して、そう、上手よ」
ハラは蘭に手を取って教えられ、ストレッチ・エクササイズをすることになった。
蘭に体をぴったり密着させられながらも、心臓のドキドキは収まった気がする。
蘭はハラを背後から包むように抱きしめる、その体は熱い。
「ねぇ、わたし、今したいことがある」
「お姉さんがしたいことをしてほしいです」
「じゃ、一緒に行こ」
蘭はベッドのヘッドボードにある電話を取った。
「一時外出をしたいんだけど、どうしたらいいの?」
フロントで聞いた通り室内の会計機で料金を仮払いして部屋から出る。
ハラは針から貰ったサイクルジャージとスパッツ、蘭は部屋に居た時そのまんまのショートパンツとランニングシャツ。
ついてきたいと言い張ったオーキッドを駐車場で待たせた蘭が向かったのは、ホテルの敷地にほぼ隣接した緑地公園。
蘭がホテルのフロントに走りたいと言ったところ、ジョギング愛好家だというホテルフロントの係員がすぐ隣の公園を教えてくれた。
最初はウォーキングからスローペース、その後、ハラは公園内の遊具や施設を回るドッグランコースをゆっくり走り、、蘭は外周コースを犬のように走りまくる。
走り、汗をかき、屈託なく笑う蘭を横目で見ながら、ハラもここ数日で自分にもできるようになったランニングに集中する。
部屋の人工的な照明の下で見た蘭とは違う、汗に濡れ全身からエネルギーを発散する蘭。
今走ってる自分自身が蘭と同じく汗まみれで、スロージョギングながら肉体に心地よい疲労を覚えていることがとても素敵なことのように思えた。
その晩は蘭とひとつのベッドで眠った。
数日前に団地の一室から助け出されてからずっと、夜は蘭の部屋で一緒に寝ている。
今日のハラは何か違うような気がする。
カップルホテルの一室といういつもと違う空間だからではなく、何かハラの中身が変わった。
腕が触れるほど近くで並んで横たわるハラ、初めて自分のほうから蘭の胸に抱きついた。
「お坊ちゃん?」
ハラは黙ったまま、蘭をもっと強く抱きしめる。
蘭は柔らかく笑い、ハラを自分の胸に抱き包んだ。
今までのような不安な気持ちからの行動ではないことはわかっていた。ハラの中に芽生えた気持ちについてもなんとなく気づいていた。
それは蘭にとってイヤじゃなかった。
自分がどういう気持ちなのかうまく自分でもわからなかった蘭は、とりあえず今したいことをしようと考え、ハラの体を抱きしめる。
蘭とハラは互いを抱き合いながら朝を迎えた。
翌朝。
蘭のほうが先に目覚めた。
目の前にはハラの細く色素の薄い髪。
毎日風呂に入り、蘭と同じシャンプーを使ってながら、この髪は蘭とは違う匂いを発してるように思える。
普段は目が覚めるとベッドでうだうだすること無くすぐに起き上がる蘭。今朝は胸に抱いたハラの髪に顔を埋める。
しばらくハラの髪の匂いを嗅いでいた蘭は、ハラの体に回していた手を動かして褐色の髪を指で梳く。
眠るハラの額。女の自分よりずっときめ細かく、クリームをたっぷり使ったお菓子のような肌。どんな味がするんだろう。蘭はハラの額にそっと唇をつけた。ハラが目を開けていくのが見えたが、蘭は唇を離さなかった。
ハラの途中までゆっくりと開いていた瞼が唐突に開き、額にキスをする蘭を見上げる。
「おはよう」
「おはよう……ございます」
蘭はハラを抱いていた腕を解くと起き上がる。
「シャワー浴びて朝飯食べたら出発よ」
誰にも会わないまま自動清算機で料金を払い、カップルホテルをチェックアウトした蘭は国道を北上した。
昼前に蘭の故郷である青森に入る。
国道沿いの風景は何度か通った覚えのあるものになったが、蘭は特に何の感慨も抱かない。
オーキッドに乗るようになってから、距離や空間が自分にとって意味のないものになりつつある。
東京から八〇〇km。以前なら新幹線で半日を費やしていた帰省も今ならオーキッドで東北道を飛ばして三時間足らず。
退屈でさして面白くない列車の旅とオーキッドで飛ばす時間では、体で感じる時間の早さが違う。
東京を出てから二日目の昼下がり。蘭は青森県の最北端、北海道への入り口である三厩のカーフェリー乗り場に到着した。
夏の北海道旅行で混み合うフェリーを奇跡的に出たキャンセルのおかげでうまく予約できた蘭は、オーキッドから分捕った現金で支払いを済ませる。
蘭が親に持たされたクレジットカードで支払うのは危険な気がしたし、元より国家エックステクノロジー組織の不実と不始末に決着をつけるための北海道行きに自分の懐を痛めることは考えてなかった。
オーキッドが言うにはこの現金は洗浄済みで、札のナンバーから支払いを辿られる心配はないという。
オーキッドの高度情報介入機能を使えばオンラインの予約に割り込むことも出来たが、やはり痕跡を残すことを嫌った蘭は普通に窓口で予約をした。
船内にオーキッドを乗り入れさせた蘭はハラと共にフェリーの甲板に出た。
ハラは生まれて初めて見る本物の海と初めて乗る船を興味深そうに眺め、蘭は海と波を睨んでいた。
蘭はオーキッドより大幅に遅く、体感速度では自分が走ったほうが速そうなフェリー船の慣れない揺れに戸惑っていた。気分を紛らそうと遠くの空を眺めるとヘリが飛んでるのが見える。飛んで渡るなら少しはラクかな、と思った。
幼少時から何度か乗った飛行機は苦手だったが、船はもっと苦手、同じ揺れるなら時間が短いほうがいい。
蘭はさざ波をたてる津軽海峡の海面を眺め、ここをオーキッドで一気に走り抜けられればどんなに楽かと思い、襲ってくる不快感に耐えた。
海峡の上空を千葉港湾部のコンテナヤードを離陸したmil24エックス動力ヘリ、ディアーが飛行していた。
向かい合わせのベンチシ-トが設けられた兵員区画には、氷室と布袋が向かい合わせに座っている。
蘭と同じく飛行機が苦手な氷室は、旅客機より大幅に快適性の劣る戦闘ヘリの不快な乗り心地に耐えていた。
蘭とハラは短い船旅の後、夕暮れ近い時間に北海道の地に降り立った。
飽きること無い様子で港の風景を見ているハラと対照的に蘭はひどい顔色だった。
『まさかおめぇが船酔いをするとはな』
接岸するのも待ちきれない、上陸の順番を守るのももどかしい様子の蘭は、やっとフェリー港の広大な駐車場にオーキッドを乗り入れさせた。
「うるさい、走ったら直る」
心配そうに寄り添うハラ。蘭はフェリーターミナルで買ったミネラルウォーターを一口飲んだ。
『あぁ、こっからは国道でも高速道路みたいにブっ飛ばせるぜ。道警にはエックスファンタジー同好会から話が通ってるらしいから』
蘭はターミナルの広大な駐車場でジャージのズボンを脱いだ。下は陸上用のショートパンツ。
ドライヴィングシューズ兼用のランニングシューズの靴紐をほどいて一度脱ぎ、ソックスの上から足をマッサージしてからもう一度シューズを履き、靴紐をしっかりと結んだ。
「ちょっと走ってくるわ、ハラ、オーキッドの中で待ってなさい」
ショートパンツにランニングシャツ姿の蘭は広大な駐車場を走り始めた。
十分ほどして汗だくになった蘭は見違えるようにさっぱりした顔をしていた。走って汗を流したことで体内の毒素を洗い流したように見える。
蘭がオーキッドを駐車した場所に戻ると、オーキッドとハラは居なくなっていた。表情を変え、鋭い目で周囲を見回す。
目を離してる隙に奪還が実行されたのかと焦った蘭の聴覚が一つの音を捉えた。
聞きなれた音に気づいて振り返ると、遠くに停めてあったトラックの陰からオーキッドがゆっくり走ってきた。
『ご主人様お上手です、これでもう一時雇いの運転手など解雇しても問題ないでしょう』
最初に停めた駐車スペースに斜め気味に止まったオーキッド。蘭がドアを引き開けると、ハラが運転席に座っていた。シートの高さや前後位置はハラの体格に合わせて調整されている。確か蘭が初めて乗った時は自分で最適の位置を指示し直さないといけなかった気がする。
初めての運転で四肢を緊張させたハラは蘭の鋭い目に縮こまる。
「ごめんなさいお姉さん、どうしても運転してみたくて」
蘭は頬を緩め、ハラの頭をガシガシと撫でた。
「いいわよ、もうちょっと運転してみる?」
ハラが首をぶんぶんと振り、センターコンソールを跨いで助手席に移った。蘭は自分の体格には高すぎて前により過ぎた運転席に座る。
シートをバンバンと叩くとオーキッドは『ちぇっ』と舌打ちしながらシートを蘭の体格に合わせた位置に戻した。
『ご主人様には才能と適性がおありになる、ランてめぇはもう失業だぜ』
耳障りな笑い声を上げるオーキッド。蘭はディスプレイで揺れる花にパンチで返事する。
オーキッドに無限の速さを与えるエックス・アイソトープを備えたハラ。この少年を失くしたら速さを失う。
蘭がハラを見失った時に一瞬思い出したのは、かつて自分から走る速さを奪った靭帯断裂の時のこと。
蘭にとってハラは走る速さを与えるだけではない、走るという行為の一部のような存在になりつつある。
走ることでリフレッシュし、船酔いが収まったら食欲の出てきた蘭はフェリーターミナルの売店で北海道らしく鮭、イクラ、コンブの三種の具が入った特大のおにぎりを買う。
車内でおにぎりとお茶の食事を済ませ、北海道の地を走り出した。
本州の国道とは打って変わって広く空いている道を飛ばした蘭とハラ、そしてオーキッド。
広い北海道、最終的な目的地である千歳市に着く前に日暮れが訪れた。
蘭はシティホテルや昨日泊まったようなカップルホテルがある市街地を通り過ぎ、国道沿いの広い駐車場にオーキッドを乗り入れる。
道の駅。
トラックドライバーや自動車旅行者のため国道沿いに設けられた駐車休憩所。高速道路のサービスエリアに相当する施設。
北海道らしく本州の道の駅より設備も駐車スペースも大きく広い。売店が併設されたログハウス風の休憩所が灯りを点していた。
ハラがオーキッドの隣で蘭に習ったストレッチをする横で、蘭は道の駅で買った焼きたてのバゲットにナイフで切り込みを入れ、売店でパンと一緒に買ったレタスを挟みこんだ後、ツナ缶の中身を詰める。
普段はご飯に乗せる時もパンに挟む時も塩だけか少量の醤油を垂らした味付けを好んでいたが、これも売店で買った地元手作りのマスタードをかけた。
ツナを挟んだバゲットの食事をオーキッドの中で済ませ、並んで歯を磨いた蘭とハラはオーキッドのシートを倒した。道の駅に着く前に函館市内で買ったタオルケットを広げる。
「今夜はここに泊まるわ、大丈夫ね?」
ハラは黙って頷く。
今夜は車中泊を選んだ。ハラの保護を約束したエックスファンタジー北部方面支部の管轄に居ることは、蘭にとって安心より危惧を覚えるものだった。
奪還直後の追撃戦以来動きを見せないロータスマートも気になったし、ハラの保護を約束した北部方面隊は蘭とオーキッドの処遇については何も言ってない。
昨日は警戒のため、いざって時すぐにオーキッドを呼べるカップルホテルに泊まった。
北海道に入ってからずっと、蘭はオーキッドから離れること、ハラから目を離すことに対して警戒していた。
フェリー駐車場でランニングした時も、ハラとオーキッドが自分の視界から離れることに自分でも理解できない不安を覚え、ランニングを早めに切り上げた。
蘭から見ればハラもオーキッドも自分だけでは自分の身を守れない。そして蘭自身も自分の身を守るためハラとオーキッドを必要としていた。
今までに経験の無い危機を感じていた蘭は、陸上の試合とどっちが緊張しただろうと考えながら、自分の体が微かに震え出していることに気づく。
蘭は試合前夜には経験の無い、形の無い恐怖を押さえ込むように眠った。
蘭の気持ちを余所に意外と快適だった車中泊でぐっすり眠った二人は翌朝に目を覚ました。
続けざまのツナだと飽きるだろうという蘭の気回しで、道の駅から少し走ったところにあるトラックドライバー向けの食堂で朝定食を食べる。
二人で夏の北海道までドライブに来たような雰囲気だったが、蘭の口数は減り、肌はハラが触れるのが怖くなるくらい敏感になっていた。
蘭とハラ、そしてオーキッドは道南から国道を飛ばし、道央の千歳市へと向かった。
オーキッドに市街の地図を表示させた蘭は千歳空港を抱えた市街地を避け、大回りするコースを取る。
都内より道の空いた千歳の街にもある信号や他車の流れを嫌ったのではなく、都市より郊外のほうが危険となりうる要素を早く発見出来る。
車での移動はゴーストップの多い市街地が最も危険という原則はイラクに駐留した米兵の乗る軍用車両と同じ。
本州の国道を走っている時にオーキッドがしばしば感知した監視の目は北海道に入ってからは観測されていない。蘭にそれを伝えると、表情は安心より警戒感を強める。
「で、その北部方面隊はどこに来いって?」
『北部方面隊の本部は千歳基地だ、隣接した恵庭の演習場で引渡しを希望するってよ』
「気に入らないわね」
『奪い返しに来るだろうな、ロータスマートは』
「もし、何か別の意図があったとしたら?」
『北部方面支部の通信記録をもう一度洗ってみる必要がありそうだ』
北海道の地をオーキッドは疾走した。
蘭は北部方面隊からハラの受け入れ許可の話が出た時から悪い予感がしていた。
奪還の動きを見せないロータスマートと、オーキッドの話ではそんな組織は存在しないかのような態度の北部方面隊。
北海道に入ってからもかなりの高速で飛ばしている蘭を、交通違反には日本一厳しいと言われる北海道警が追尾、摘発する様子は無い。
ハラの受け入れをあれだけ渋った入間のエックスファンタジー同好会本部の管轄下にあるはずの組織が、掌を返したように扱いを変える。
言葉では説明できないが、何かのお膳立てが整いつつあり、それは蘭やハラ、そしてオーキッドについて愉快ではないものだと思えた。
勘は危険を告げている。
それでも蘭は口を開けて待ち構えている罠に飛び込むことを選んだ。
蘭の勘が正しければどこに居ても、どこまで逃げても危険は去らない。ならばたとえ罠であったとしても自らをオーキッドで縦横に走れる場所に置くことが生き延びる唯一の道であるように思えた。
そこに死の危機があるならば走って生き伸びる。
蘭にとって一番大事なのは自分の命で、そのため他人が何人死のうと関心は無い。しかし蘭は隣に座るハラが自分にとって失いたくない存在になりつつあることに気づいていた。認めたくないがオーキッドも。
蘭は自分の身体と生命を守ることにしか関心は無い、そしてハラとオーキッドは蘭の手と足。
蘭はいつのまにか自身の一部に近い感情を抱くようになったハラの頭をポンと叩き、オーキッドがメインモニターに表示させている花に指先でそっと触れた。
蘭は陸上自衛隊千歳基地のゲートにオーキッドをつけた。
「当基地に何かご用ですか?」
蘭はオーキッドのサイドガラスを開け、門衛の自衛官に一言だけ告げる。
「エックス」
蘭の一言に表情を変えた門衛は、蘭と目を合わせないように一枚の紙を渡し、電動のゲートを開ける操作を始めた。
普段はファーストフードの店員並に愛想よく丁寧な接客で知られる自衛隊の門衛は、それで用は終わりと言わんばかりに背を向ける。
蘭は開け放たれたゲートからオーキッドをコンクリート舗装の敷地内道路に乗り入れさせた。
道路を走りながら基地内の様子を眺めたところ、広い演習場には緑の制服を着た人間は一人も居ず、動いている車両も無い。通常なら時間を問わずランニングや草刈りをしている隊員は見当たらない。
自衛隊の慢性的な演習場不足のおかげで、恵庭の演習場は通常、演習予約が途切れることはない。
陸自の北部方面隊のみならず各地方の隊、陸海空だけでなく海保や警察の機動隊までもが出入りしている演習場が今日は人っこ一人見当たらない。オ-キッドはその不自然を蘭に伝えた。
おそらくは守秘のためだろうという推測と、それにしては徹底しすぎているという疑問を添えた。
乏しい予算から捻出した守秘予算で場所を開けたんだろうが、ケチなエックスファンタジー同好会にはありえない大盤振る舞い。
蘭はオーキッドがデータの収集から導き出した疑問に直感で返答する。
「人が人の目を盗んでやるのは、ヤバいことでしょ」
『こいつらは身内の目を盗んでる、気をつけろ』
言うまでもなかった。
今朝目覚めた時から肌の産毛がオーキッドの合成革シートを裂かんばかりに緊張していた蘭。
演習場のゲートでメモを受け取って以来、両手をステアリングから一度も離していない。
北海道の原野が残る演習場の連絡路をオーキッドのナビで走る蘭の目に建設現場のプレハブのような兵舎が見えてきた。
門衛の自衛官が渡した座標が書かれた紙、その位置にさしかかる手前。
東京から北海道までの長くて短い旅の終着点、蘭の緊張感はピークに達していた。
風と影。
爆音と共にオーキッドの直上を風の塊が通りすぎた。
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