第十章 二人

 蘭は湘南の海に沿った道路を江ノ島で右折し、いくつかの国道を辿るルートで北上した。

 ハラとの接続で自己修復機能を取り戻したオーキッドは既に損傷した車体各部の修復を終え、傷一つない姿で日暮れの道路を滑らかに走っている。

 いつも通り蘭が制限速度を大幅にオーバーし、混みあった夕方の道を駆け抜ける中、オーキッドはこれからの予定を話した。

『オレがエックスファンタジーの連中に掛け合って、ご主人様の身柄を保護させる』

 オーキッドは防衛省内部に存在するエックステクノロジー運用、管理組織の名を挙げた。

 この高度情報介入ステーションが人間に準じた知能を実装した最大の目的は、ただのデータベースには不可能な人間との交渉や折衝を可能とすること。

 重大な決め事には不可欠の人とのコミュニケーションを機械に任せようなどとは、普通の人間には思いつかないことだったが、いい大人が魔法じみたモノにかまけるエックス・テクノロジーに係わった奴らの多くは、面倒な他人とのやりとりを機械が替わってくれればいいと願っていた。

 オーキッドを作った技術者の多くは、いくら話しかけても用意された答えしか返してくれないモニターの中に居るキャラクターと自由な会話が出来るなら、ロボット三原則を始めとする機械を設計、製作する者のモラルなんてどうでもいいと思うような奴ばっかりだった。

『ラン、さしあたってお前の仕事は、ご主人様を安全に身を隠せる場にお連れすることだ』

 蘭はさして考えもせず答えを出す。

「じゃあウチ来ればいいじゃない」

『バカ! ご主人様はデリケートなんだ! 相応のランクのホテルに部屋を用意して、食事も一流の……』

 道幅は広いが夕方の混雑が始まったバイパス。蘭は他車を右に左に抜き去るドライヴィングをしながらオーキッドの言葉を遮った。

「お坊ちゃん、決めなさい」

 助手席に座るハラはグローブボックス前のインターフェースゲートに両手を置いている。さっきから自分の去就に関する話に反応する様子が無い。

 自分に話しかけられたことに気づいたハラは、言葉や表情での反応は無いまま、片手をインターフェースゲートから離し、蘭の腕にそっと触れる。

『よろしいんですかご主人様? 私が言うのもなんですが、この一時雇いの運転手は素行、性格共に最悪に近く……』

 腕に触れたハラの手をふりはらうように、蘭の拳がモニターに飛ぶ。

 ハラはその動きに自分には無い意思の強さを見た。エックスとして匿われていた時には見かけなかった種類の人間。蘭のオーキッドへのパンチで一度離れた手をハラはもう一度触れさせる。

「このお姉さんと……一緒に居るのが……いいと思う……」

「決まりね」

 自動車専用のバイパスが一般国道になり、東京都下に入ったオーキッドは国道を外れて市街地の道路を少し走った。

 オーキッドの高精度なナビよりも正確な、地元の人間だけが知ってる渋滞回避ルートを使う。

 夏の陽が最後の明かりをしぶとく残す七時前ごろ、オーキッドは蘭の暮らす学園寮に到着した。

 普段オーキッドを地元民の駐車場替わりとなっている公園横の道路に路上駐車させていた蘭。今日だけは寮の前に横付けした。

 その公園から寮まで、蘭の足でまっすぐ走れば五分ほどの場所だったが、ハラは靴を履いていなかった。

 寮の前で二人が降りた後、オーキッドは蘭の前では初めて使う自動操縦装置を起動させながら心配そうな声を出す。

『ご主人様、何かあった時はすぐにわたくしをお呼びください』

 黙ったまま微かに頭を前後に振るハラ。

 続いてオーキッドはご主人様に話しかけた時とは打って変わって気遣いの無い声を出す。

『おいランてめぇご主人様に無礼な扱いをしたら承知しねぇからな!』

 蘭は返答替わりにオーキッドのリアバンパーをランニングシューズのつま先で蹴った。

「いつもんとこに停めときなさい」

 オーキッドが自動操縦装置によって自らの意思で走行できることを、蘭はもう知っている感じだった。

 そうすることを前提とした言動から、いちいち説明するまでもなく察することが出来るくらいの関係を築けたのは、何度となく交わした言葉と一緒に走った時間が育んだ感情の共有。オーキッドの初期設計の段階で守ることを入力された少年ハラにはまだ無いもの。

 名残惜しい様子でノロノロと発進した無人のオーキッドが走り去るのを、蘭は特に何の感情も抱かず見つめている。

 もし、蘭の能力と行動力、オーキッドのあらゆる機能と機動性を以ってこの少年を奪還する前だったなら、車が人間による支配を拒む機能を二度と使わぬよう破壊していたかもしれない。


 蘭は二階建てアパートを丸ごと借り上げた学生寮に裸足の少年と共に入った。

「まさかわたしが寮にオトコを連れ込む日が来るなんてね」

 住人がほとんど帰省し静まり返った寮。 しょっちゅう施錠し忘れる蘭の部屋のドアは今日も鍵が開いていた。

 ハラが見た蘭の部屋は、今まで自分が居たどんな部屋とも違う種類のものだった。

 六畳の洋間。狭い玄関の靴脱ぎには蘭が何足も履き潰したスニーカーや陸上用のスパイクが放り出されている。

 女の子らしい色合いとは程遠い部屋の片隅にはベッドとライティングデスク。部屋の隅にあるテレビはタオル掛けにされていた。

 ベッドの足元には今、蘭が着ているものと同じランニングシャツとショートパンツ。そしてジャージと下着が何着も放り出されている。

逆側の壁には工事現場で見かけるようなスチールネットが立てかけられている。

 ネットにハンガーでぶら下がっているのはやはりランニングシャツとショートパンツ、ジャージ。

 学校指定のトレーニングウェアは半分くらいだったが、残り半分の私物ジャージとランニング、ショートパンツも赤系が多い。

 陸上競技ウェアで赤く彩られた壁の隅っこに掛けられた学園制服の紺色は半ば赤に埋もれてる。

 ネットの横にはシャツや下着が大雑把に畳まれ、詰めこまれた箱。スチールネットのある反対側のベッド脇にも同じような箱がある。宅配の食材を入れるようなプラスティックの箱の中には洗濯物。

 部屋の右側にあるスチールネットにかかった洗濯済みの服を着て、脱いだらベッド脇の箱に放りこむ。

 箱が適当に満杯になったら、一階の給湯室にある寮生共用の洗濯機に箱ごと持っていってまとめて洗濯する。

 蘭自身は合理的だと思っている衣服収納方法はハラの目には無秩序で野放図なものだった。

 常に整然として清潔だった研究施設の一室に暮らしていたハラは、不意に自分が住まわされている部屋とは別の棟にある研究室を思い出した。

 その仕事内容とは相反する散らかった部屋。理系研究者の仕事場風景とどこか通じるものがある。

 唯一の学生らしい家具である部屋の隅に置かれたライティングデスクの上には、数冊の陸上競技雑誌が置いてある。

 蘭は雑誌グラビアの有名陸上選手や走法、試合レポートの記事を読むことはほとんど無いが、広告をシューズやウェアのカタログとして見るために置いている。

 教科書や筆記用具の類は見当たらなかった。

 蘭はランニングシューズを脱いでハラの後から部屋に入り、慣れない部屋を見回すハラの後ろに立った。

「先にシャワー浴びなさい」

 蘭の言葉にはハラにとって有無を言わさぬ響きがある。

 ハラは部屋のキッチン向かいにあるドアからユニットバスに入り、服を脱いだ。物心ついてすぐの頃から入浴は一人でさせられていたから、風呂の使い方はわかった。

 安アパートやビジネスホテルより少し広く、トイレとは別になったバスは綺麗で、そもそも散らかるような物が無い。

 蘭は外が雨で屋外でのランニングやトレーニングが出来ない日は、よく部屋を隅々まで掃除して運動の替わりとしていた。

 ハラがズボンとシャツを脱ぎ始めると、背後で物音がした。

「一緒に入ったほうがいいか?」

 入浴中も絶えずカメラ越しに見張られることに慣れていたハラも、いきなりドアを開けて顔をつっこんで来られるのは初めての経験。

 蘭に背を向けていたハラは振り返りざま両手を蘭に突き出しながら首を横に振る。

 幼い頃から主治医や研究者に体中をいじくり回された時には無かった感情。ハラは初めて羞恥という感覚を意識した。

 アダムとイブが恥じらいを知ったのは赤いリンゴ。少年にそれを教えたのは突然部屋に飛び込んできた赤い車と真っ赤な服を着たお姉さん。蘭の赤いランニングシャツには少年を守って戦った証である赤黒い血のシミがついていた。

 風呂に備え付けのソープとシャンプーを使い、規則的な動きで入浴を終えたハラは、自分の服が下着まで持っていかれていることに気づいた。裸のハラは脱衣所から頭だけ出す。

「おねえさん……服……」

 ハラの服を洗濯物の山に放り出した蘭は、少年に貸す着替えをしばらく探していたが、とりあえず蘭自身が湯上りのバスローブ替わりに使ってる大きいサイズのTシャツを放り投げる。

 ハラは丈の長いTシャツを着た。

 裾が膝下まで届くシャツはワンピースドレスのような様で、少年の中性的な姿を更に際立たせる。

 ハラが入浴を終え、シャツ一枚の姿で出てくると蘭は左のスチールネットから今着ている赤いランニングシャツと同色のTシャツ、ジャージのズボン、そして下着を出し、ユニットバスに入る。

 短い入浴が終わり、真新しいが見た目には変わらないTシャツとジャージズボン姿の蘭が、それまで来ていた血の汚れのついたシャツを放り出す。シャツについた赤黒い染みを見ながら蘭は少し辛そうに呟いた。

「そろそろ洗濯に行かなきゃ、面倒臭いわね」

 スチールネットにかかってるショートパンツとシャツ、ジャージはまだ充分あったが、ベッド端にある洗濯物入れの箱に山盛り積まれた服はもうベッドの高さを追い抜いている。

 蘭にとって、反政府エックス組織との戦いと激しいカーチェイスで傷ついた流血の痕は、数日前につけたカレーうどんの染みと大して変わりない。少なくとも洗濯の手間は同じだし、その手間が蘭にとっては面倒臭いものだった。

 ハラは丈の長いシャツ一枚で、研究所やロータスマートの隠れ家でそうしていたように何をするでもなく床に座り込んでいる。

「なんか飲む? 水以外の物ってあったっけ」

 蘭は炊飯器がひとつ置いてるだけで、食器も調理器具も見当たらないキッチンの横にある小さな冷蔵庫を開ける。

 水の入った大きなポットがあるくらいで中には調味料が幾つか入っているだけ。

 ハラのお腹がグゥと鳴った。腹が減るなんて経験はしたことが無かった。いつも食事はキッチリ六時、十二時、十八時に出てくる。

 ハラが囚われていた研究所や団地の一室で、食事という生活の義務を遂行する時間から一時間少々過ぎている。

 ジュースなんて気の利いたものが無かったので、蘭が水を満たした大きなグラスに陸上部で貰ったプロテインの粉末を落としてかき混ぜていると、ドアチャイムが鳴った。

「飯が来たわよ」

 蘭がドアを開けると、給食センターの制服を着た女性が居た。

「遅くなってごめんね。蘭ちゃん。今日は二人前だっけ?」

「姉さん無理言って悪いね。追加分は現金でいい?」

 小銭も札も入ってるガマ口を出そうとした蘭を、給食センターの女性は手で制する。

「いいの。おばちゃんに奢らせて。従姉妹の蘭ちゃんを頼って青森から東京に一人旅だって? 小さいのに偉いじゃない」

 蘭の暮らす学生寮に寮母は居ない。朝晩の食事は給食センターが届けてくれる。

 夏休み中も寮に残り、食事の宅配を希望する生徒は事前に配達希望日を記入したシートを出すようになっていて、帰省を七月末で切り上げた蘭も八月中の食事宅配を申請していた。

 ハラを奪還し追撃者をぶっ潰してる間、ハラの食事をどうするか考えていた蘭は、結局帰りの車中で給食センターに注文の電話をすることにした。

 携帯電話は部屋に置きっぱなしだったが、高機動情報介入ステーションであるオーキッドに「電話くらいついてないの?」と聞くと、オーキッドは渋々メインモニターに十二個のボタンが並ぶ電話の操作画面を表示させた。

 蘭はタッチモニターをプッシュすることさえせずオーキッドに通話先を伝える。オーキッドはご主人様はともかく蘭にアゴで使わされることなどまっぴらごめんだったが、これもご主人様のためと自分に言い聞かせながら番号を検索し、電話を繋いだ。

 当日の配達時間直前にも係わらず、電話を受けてくれたのは今、食事を届けてくれている女性職員。無理ならいいんだけどと言う蘭のオーダーを快く通してくれた。

「蘭ちゃんがもし部屋に彼氏でも連れ込んでたら、おばちゃんウチで一番高いトンカツハンバーグ定食を持ってきてたところよ」

「じゃあコイツは彼氏よ。明日から何日かわたしの部屋にいるからしばらく二人分で頼むわ、料金はわたしの分に乗せといてくれればいいから」

 学園の陸上部OGだということもあり、蘭と気の合う給食センターの女性職員は、蘭のことを何かと気にかけてくれている。

 特に蘭の進路や、蘭が一向に興味を示さない恋愛や化粧のことなどを、色々と頼みもしないのに教えてくれて、蘭もそれが嫌いではなかった。

「あら今夜だけしか奢らせてくれないの?」

 蘭はハラの頭をガシガシ撫でながら笑う。

「いい女に貸しを作るなってね。後で倍返しさせられるって聞いた」

 給食センターの女性職員は屈んでハラの顔を覗き見た。

 蘭と女性職員が話す間、シャツ一枚の姿を恥じるように蘭の後ろに立っていたハラは、女性職員に見つめられて俯く。

「確かに、あとちょっとしたらいい女を何人も泣かせそうな顔をしてるわ」

 どうやら蘭はそのいい女の一人に当てはまらないらしい。

 知らない人間とのコミュニケーションに戸惑って黙り込むハラを照れていると勘違いし、頭をひと撫でした女性職員は去っていった。

 寮に連れ込んだハラをうまく誤魔化せた上にタダ飯にまでありつけたのに、蘭は自分以外の人間がハラに触れることに少し複雑な感情を抱く。

「さぁ飯の時間よ、テーブル出しなさい」

 蘭が部屋の隅に立てかけてあった折りたたみのローテーブルを指差すと、ハラは黙って立ち上がり持ち上げようとするが、重さによろける。

「トレーニング用に重くしてあるわ、持ち上げられなきゃ、頑張って持ち上げるのよ」

 ハラはふらつきながらも、運動不足の細腕で何とか重いローテーブルを部屋の真ん中に置き、届けられた食事とお茶のポットを並べる。

 それだけでハラの額には汗が滲み、腹の虫は今までに経験が無いほどの空腹を訴えてきた。

 あぐらをかいた蘭とちょんと正座したハラは、差し向かいで鯖の味噌煮と里芋の煮物。インゲンの胡麻和えに味噌汁と白飯を添えた定食を食べた。

 ついさっきまでオーキッドを激しく操縦し、数回に渡り衝撃による吐血をしていた蘭は、いささかの食欲減退も見受けられず、食事を掻き込んでいる。

 ハラは規則的な動きで静々と食事をしていたが、研究所や団地に居た時とあまり変わらないように見える平凡な定食は、ハラにとって目新しいもののように思えた。

 食事がおいしい。あの団地の一室でホットケーキを与えられた時にほんの少し感じたもの。食事という義務を自分から進んで行おうとした時、自分でも理解できない感覚の正体に気づいた。

 蘭が食事中に流してるテレビではニュースが流れている。他のニュースの合間に起きたローカルな事故ニュースとして、ハラが今日の昼まで居た団地の事故についても報道された。

 一台の車が立体駐車場から団地の一室に突っ込み、自転車置き場を破壊した事件。

 ハラは蘭の顔を盗み見たが、蘭はスポーツ中継を見るように食事七割テレビ三割くらいで目をやっている。

 事件はショッピングセンターで買い物中の主婦が、オートマ車のアクセルとブレーキを踏み間違えて起こした事故である、との警察発表。

「幸い現場となった団地は無人で」蘭が見たこともないどこかの中年女性が過失による器物損壊で捕まったらしい。

 エックス・テクノロジーの国家による秘匿と情報改竄。そのシッポを踏んだ蘭は横目でニュースを一瞥したが、「ふん」とひとつ鼻を鳴らしただけで、飯を食うのに忙しい様子。

 ハラはよく煮込まれた鯖の中骨と皮を残したが、鯖を皮ごと食っていた蘭は一度よけた中骨を箸でつまんで口に放り込み、音たてて噛み砕く。ハラも真似をして鯖の骨を噛もうとしたが、口の中に刺さった骨の痛みに思わず吐き出す。

 研究所に居た頃から体中に検査器具を突っ込まれるのに慣れてしまい、痛みへの反応を失っていたハラが変わりつつある。

 そんなハラの内面を知る由も無い蘭は、ゆっくりとしたハラの食事が終わるまでテレビのスポーツダイジェストを眺めながら待っていた。なぜか蘭はテレビより目の前で食事をするハラの姿をずっと見ていたい気持ちだった。

「食器は水ですすぐだけでいいわよ、明日回収に来るから」

 食事を終えたハラに当たり前のように片付けを言いつける蘭。

 黙っていても食事が出てきて、食事時間が終了すると片付けられるのが当たり前だったハラにとって、新鮮な経験。

 ハラは蘭の分の食器まで集めて盆に乗せて流しまで運び、軽く水洗いしてシンクの横に重ねて置く。

 それからまたあの重いローテーブルを持ち上げ、足を畳んだテーブルをよろけながら部屋の隅に運び、立てかける。

 ハラにとって初めての「仕事」にハラは自分でも理解できない高揚という感情が湧いてくるのを覚えた。

 蘭は黙って食器とテーブルを片付けるハラを尻目に、食後の習慣であるストレッチを始めながら、内心では部屋に他人が居る暮らしというものも悪くないと思い始めていた。

 最初はオーキッドを速く走らせるための道具だと思いロータスマートから強奪した。今はこの何もかも真っ白な少年を見てると奇妙な感情が湧いてくる。少年がその白い体を色づけるにはどんな色を選ぶかという好奇心。蘭が自分の色をつけたいという気持ちは押さえ込んだ。

 簡単な片付けを終えたハラの手に、赤い塊が転がり込んできた。

 リンゴ。

 蘭の故郷である青森の特産のひとつで、実家が作っている果実。蘭も高校だか大学を卒業したらリンゴ農家になる未来が待っている。

 実家からは毎月大箱で送られてくるリンゴ。一日三個食べても食べきれないので陸上部の友人や寮の隣人にあげている。

 物心つくまえから夕食後にはリンゴをひとつ食べるのが当たり前の習慣で、蘭にとっては今さら好きでも嫌いでもない空気のようなもの。

 ハラも囚われの身だった頃にリンゴくらい食べたことはあるが、皮を剥かれ丁寧に切られたものしか知らない。蘭がリンゴを齧るのを見習ってハラも丸のままのリンゴにかぶりつく。

 実家が自家消費用として出荷用とは別に作っている、ワックスのついてないリンゴ。

 蘭の父はこのリンゴの栽培方法を指導するため海外のシ-ドル用リンゴ産地に赴き、それについていった幼少時の蘭は数年を海外で過ごした。

 強靭な歯と顎で早々にリンゴを食べ終わり芯を捨てた蘭がテレビを流しながら筋トレをしている間、ハラは蘭より時間をかけてリンゴをひとつ食べつくした。

 いつも研究所の一室や団地でそうしてたように座ったまま動かない。

 ただ、その目だけは違っていた。

 蘭の部屋を見回しているようでいて、目の前で体を動かす蘭から目を逸らすような盗み見るような目付きにも見える。

 蘭とハラ、学園女子寮の一室での奇妙な二人暮しは始まった。

 

 食後の運動が終わった蘭はアクビをしながら手首に巻いたアスリート用デジタル時計を見た。

「じゃ、寝るか」

 流し台に置いてある歯ブラシで歯を磨き始める蘭。部屋でもお茶やコーヒーより水を飲むことが多い蘭は、それまで傍らに置いていた水飲み用のカップでそのまま歯を磨くことが出来るのは楽でいいと思ってる。

 歯を磨き終えた蘭は自分の使ってた歯ブラシを流しの水で軽く洗い、カップと共にハラに無造作に投げ渡した。

 ハラは研究所に居た頃は毎食後に歯を磨くたび、ビジネスホテルにあるような消毒済みの歯ブラシを渡されていた。ロータスマートの団地では自分用の歯ブラシがあったが、監視する人間の歯ブラシや歯磨きとは別に分けられていた。ハラは奇妙な気持ちで蘭の歯ブラシを手に取ると、蘭が使ったカップに水を汲んで歯を磨いた。

 蘭は外着で部屋着で寝巻きも兼ねているTシャツとジャージズボンのままベッドに入る。ハラは部屋の中を落ち着きなく見回した。

 寝られそうなのはシングルのベッドがひとつ。そこには既に蘭が寝転がっている。

「面倒くさい、ここでいいでしょ」

 蘭がベッドの自分の隣を平手で叩く。

 一瞬ためらったハラがベッドに寝転がる蘭の隣に入ろうとすると、デスクから音がした。

「携帯が鳴るのなんて一週間ぶりくらいよ、誰よ」

 ベッドから体を伸ばして携帯を取り、着信ボタンを押した途端に怒鳴り声が響く。

『てめぇご主人様と一緒のベッドなんて何考えて……』

 ハラを奪還する時、サーモグラフィーを初めとした様々なデータから室内に居る人間の動きをモニタリングする機能は、ハラのエックス・アクティヴィティとの接続で大幅に性能を増した。

 どうやらオーキッドは一km弱離れた蘭の部屋をスキャンする自らの機能を悪い事に使ったらしい。

 悪事を知らぬハラと悪事を悪事とも思わぬ蘭、オーキッドはどちらのパートナーとしてもちょうどいいのかもしれない。

 蘭は携帯に向かって「バーカ」とだけ言うとマナーモードに切り替え、洗濯物の山に放り込んだ。

「寝るわよ」

 蘭の横に寝転がったハラは微かに震えていた。

 形のある具体的な恐怖じゃない。何から何までが変わり、昨日と同じじゃない明日が始まることへの拒否感に近い感情。蘭も反国家エックス組織との戦いに巻き込まれた時に覚えた感情。

 蘭は腕を伸ばし、ハラを抱き寄せた。携帯が再びバイブレーターコールの音を鳴らしているが無視する。

「大丈夫、大丈夫だから……ゆっくり眠りなさい。一晩寝れば大概の傷は直ってるもんよ……」

 ハラはあの白い部屋や団地の一室に居た時とは違う眠りの底へと沈んでいった。快適な温度や湿度に調整された部屋には無い眠り。

 エアコンを最低限しか使わない蘭の部屋はハラには少し温度が高めだったが、今のハラは何があっても守ってくれる腕に包まれている。

 

 決められた時間の睡眠に慣れていたハラは六時に目を覚ました。

 ハラの視界に飛び込んできたのは、蘭の裸体。

 シャワーを浴びたばかりらしき湯気を体から立ち昇らせながら、蘭は素っ裸で服のかかったスチールネットの前に居る。

 女性の裸に刺激を受けるにはまだ早いが、自分でも何なのかわからない衝動を覚えたハラは一発で目を覚ました。

 声を出す前に気配で気づいたらしき蘭がこちらを振り向き、応える。

「おはようお坊ちゃん、朝飯が来るのは七時だからあんたもシャワー浴びるといいわよ」

 蘭は裸のまま、服をぶら下げるスチールネットを置いた壁の際に置いてあるプラケースの中を漁っている。

 蘭を見ないようにしながらシャツ一枚でバスルームに入るハラに、蘭はハラが昨日から着ているシャツと同じような丈の長いシャツを投げ渡した。

「くそっパンツがラスいちよ。今日こそ洗濯行かなきゃね」

 蘭はスチールネット脇の箱から出した白い下着を履くと、中くらいのバストに合ったスポーツブラを身に着けた。陸上のランニングシャツやジャージがかかったスチールネットの隅。スカートとブラウスのかかったハンガーを外す。

 シャワーを浴びたハラがシャツを着てバスルームから出ると、赤紺チェックのスカートに白いブラウス姿の蘭が居た。蘭は居心地悪そうにスカートの裾を摘んでいる。

 普段の蘭は走る時も部活の時も、部屋着も寝巻きもシャツとジャージかショートパンツ。買い物でや遊びに出かける時はその上にジャージを着るだけ。

 ジーンズやワンピースのような普段着も幾つか親に送りつけられたが、衣装ケース替わりのプラコンテナの奥に詰め込まれめったに出されない。

 七時を回り、昨日の夕食を持ってきた給食センターの女性職員が朝食を届けに来た。

 白飯、味噌汁、鯵の干物、目玉焼きとハム、浅漬け。運ばれたふたつの盆。一つにはプリンの容器がついていた。

「蘭ちゃんが奢らせてくれないから、おばちゃんからのサービスよ」

「姉さんわたしにはそんなオマケくれたこと無かったよ?」

「欲しかったらこの坊やの前で可愛くアーンってお口を開けなさい」

 笑いながら夕べの食器を回収して去る女性職員。蘭は何か言い負かされたような顔をしていた。

 夕食の時と同じくハラがテーブルを出し食器を並べ、蘭とハラは向かい合わせで朝食を食べた。

 ハラが食べるプリンが欲しいと少しだけ思った蘭は意地になって我慢していたが、ハラはスプーンでプリンを口に運びながらこちらをチラチラ見るので、ハラの気持ちを考えて貰ってやることにした。

「おいお坊ちゃん……え~と、その、そのプリンをだな……あ……あ~ん」

 ハラは蘭を見て、プリンを見て、意味なく外を見たりしながら少し考えてたが、三分の一ほど残ったプリンをスプーンごと蘭のほうに押しやった。

 蘭はハラの使ったスプーンでプリンを食いながら、うまくもまずくもなさそうな顔をする。

 朝食を終え、ハラは食器を片付け、蘭は制服姿で日課のストレッチを行い、また二人で一本の歯ブラシを使って歯を磨いた。

 蘭はブラウスにスカート姿で玄関の前に立つ。

「今日は出かけてくるから」

 いつも一人だったハラ。

 あの絶えず監視される白い部屋に居た時も、ロータスマートの構成員に見張られながら団地に居た時も、ハラの心は一人だった。

 今は目の前にハラを助けてくれたお姉さんが居る。

 ハラがずっと眺めていた赤い車を空飛ぶように操るお姉さん。

 ハラはまた一人になった。

 蘭はハラの気持ちを気に掛けている様子は無く、壁にかかったカレンダーを眺めながら忌々しげに呟く。

「登校日よ」

 八月の始まりと共に動き出した蘭とオーキッドの生活。ハラが加わって迎えた朝。いつの間にか八月の半ばになっていた。

「昼飯までに帰ってくるから、それまで部屋で適当に遊んでなさい。テレビ見ててもいいし机にある物は何でも読んでいいわよ」

 蘭はオイルレザーのガマ口をポケットに入れ、シャワーの時に外していたデジタルのアスリート用腕時計を着ける。

 ランニングシューズが大量に詰まってる玄関脇の段ボール箱から学校指定のローファを掘り出して一度履いたが、脱ぎ捨てて靴箱に放り込むとランニングシューズに履き替え、靴紐を結んだ。

「じゃ、行って来るから」

 蘭は不安そうな表情をしたハラの頭を掴むと、しっかりとした口調で告げる。

「留守番頼んだわよ」

 一人にされたハラ。でもハラは蘭に留守番という仕事を言いつけられた。今までの一人じゃない。

 蘭はドアを開け、学生鞄も持たぬ手ぶらのまま外へと駆け出していった。

 部屋で一人になったハラ。研究所や団地に居た時と同じように一度床に座り込んだハラは立ち上がり、部屋の真ん中で両手の拳を握った。ハラの顔は、部屋に座り込むだけの日々には見られなかった力の入った表情をしている

「……留守番……だ」

 机に置きっぱなしの蘭の携帯が鳴った。

 ハラは戸惑い、思わず携帯を手に取る。着信画面は、オーキッド。

 蘭はオーキッドの電話番号など登録した覚えは無いが、高機動情報介入ステーションであるオーキッドにはアドレス追加など朝飯前。

 オーキッドは昨日、バイオコンピューター稼動能力エックスであるハラとの接続によって封印とも言える未完成デバイスを数多く完成させた。

 大人が携帯電話を使っている姿を何度か見たことのあるハラは、電話の受話器が持ち上がるボタンを押し、耳に当てる。

『ランてめぇご主人様になんて扱いだ!』

 人が怒る様など見たことの無いハラは、人工知能の怒声に息を呑む。それだけでオーキッドは自分が電話をかけた相手を理解したらしい。

 蘭とハラの居る部屋をサーモグラフィーで常にモニタリングしていたオーキッドは、ハラを部屋に残したまま学校へと向かう蘭を電話で呼び出して説教のひとつも垂れようとした。

 しかし、この人工知能には機械ゆえの柔軟性の無さがいくつかある。

 蘭が携帯を持ち歩かないということを忘れていた。

『こ……これは失礼したしました! ご主人様に仕える身としてあるまじき言動をどうかお許しください!』

 電話口から聞こえるオーキッドの声にハラは返答する。

「お姉さん……居ない」

『居ない? あのヤロォ……いえ、あの一時雇いの運転手はとうとうお死にになりましたか?まさにザマアミロと言うにふさわしく……』

「お姉さん、登校日って言って……」

 ハラは彼なりに留守番の仕事を遂行しようとしていた。

『登校日だぁ? あいつ似合いもしねぇカタギの真似事しやがって……失礼しました、ご主人様は今お一人で?』

 「一人……お姉さん……昼まで留守番って……」

 今まで色んな人間の視線と監視に囲まれながらずっと一人だったハラ。

 今のハラは監視カメラもマジックミラーの観察窓も無い部屋に一人だけど、孤独じゃない。自分を信じて留守番を言いつけたお姉さんと、自分の身を案じてくれる車。ここには居ないけど、一人じゃない。

『もし退屈なら、わたくしが生まれた理由についての昔話を聞いていただけますか? それから、あまり話したくはありませんがあのろくでもない一時雇いの運転手のことも』

 ハラは頭を前後に動かして頷いたが、それを見ている人間が居ないことに気づいた。

 言葉に出さないと伝わらない。

 今までハラの空想の中に存在したオーキッドはハラの近くに居て、ハラの言葉を聞き逃すことなく受け取ってくれる。ハラは研究所に居た頃は苦痛だった言葉を発するという作業が、感情を表現する喜びを伴うものだと知った。

「うん、聞かせて、オーキッド」

 蘭への文句がほとんどを占めたオーキッドの話。自身の開発経緯や構造についての話を始めようとした途端に携帯のバッテリーが切れた。唐突に通話終了した携帯電話を持ちながら再び床に座り込むハラの表情は、あの白い部屋に居た時より和らいでいた。


 蘭は七月半ばの終業式以来久しぶりの校舎に来ていた。

 いつも学園周囲に散在する寮を巡回する通学バスに乗らず、走って登校する。

 汗に濡れると乾きが遅く厄介なブラウスであることを考慮して抑え目のペースで走ってきたので、この猛暑の中を走って息ひとつ乱していない。

 蘭はうっすら額に滲む程度の汗をかきながら教室に向かった。教室に入った途端、同級生に囲まれる。

「蘭! 陸上で実業団にスカウトされたって本当?」

「契約金に新車を買って貰ったって聞いたわよ!」

「それに今朝聞いたんだけど寮に男を連れ込んで……」

 朝っぱらから質問攻めに遭い、面倒になった蘭は事実無根の噂話を一言で断じた。

「ホントよ」

 蘭は自分を囲むクラスメイトをからかうようにへらへら笑いながら答える。

「やっぱ年下のオトコってのはいいわ、夕べも一晩中眠らせてくれなかったわ~」

 囲んでたクラスメイトの顔がすぐに失望の表情に変わる。蘭の嘘はすぐわかる。調子よく話を合わせる時は嘘、本当の時はとりあえず否定する。要するに機嫌よく愛想いい時はその態度からして嘘。蘭の本来の姿に近い不機嫌で面倒くさそうな顔をしていれば本当。

「なーんだ、じゃあ彼が出来たってのはウソね」

「どーせ実業団ってのもデマで、車もどっかの借り物か預かり物でしょ」

 それほど得意ではない嘘を、いつも通り見破られた蘭はふてくされたような顔になりながら、一応本当のことを付け加えた。

「走ってたら落ちてたから拾って帰ったんだよ、車もオトコもな」

 今日の登校日は担任教師の簡単な話とプリント配布があるだけで終わる。蘭は同級生からの遊びの誘いは断った。部屋にハラを残していることもあったが、このあとちょっとした用事がある。

 授業一時間分に満たぬまま終わった登校日。まだ十時前の学校を出た蘭はスカートを翻しながら走っていた。本当は校則違反だがローファーではなくランニングシューズを履いてきてよかったと思った。夏空の下でランニングシャツほど放熱性に優れていない上に動きにくい学校指定のブラウスは面倒くさかったが。

 蘭が学校から十分ほど走って着いたのは学園と最寄り駅の中間あたりにあるスーパーマーケット。

 二階建ての郊外スーパーに入った蘭は買い物カゴをぶら下げ、一階の食料品コーナーで食材を買いこんだ。

 寮に居れば朝晩の食事は届けられるが、昼食は自分で何とかしなくてはいけない。学期中は学食で済ますけど、長期休み中は自分で用意する。蘭自身の昼食も買い置きが残り少なかったし、二人暮しになることなんて予想してなかっただけに食料の買い込みが必要だった。

 一階の食料品フロアでの買出しは短時間で終わる。菓子パンのコーナーを通りがかった時に何か買わなきゃいけないものがあったような気がしたが、気のせいだと思って済ませた。

 蘭は続いて二階建て店舗の二階、衣料品コーナーに寄った。

 あの少年をいつまでも着たきりにしとくわけにはいかない。男の子の服なんて選ぶのは初めてだけど、着れる物を揃えればいいだろう。

「ウエストはこれくらいだったわね、足はこんくらいで、背はここまで」

 体のサイズを自分の手と体で測るのは蘭の得意技。

 触ったり持ち上げたりしただけで体重やバストをほとんど誤差なく当てて陸上部の女子にイヤがられたりもした。

 半ズボン、Tシャツにランニング、パジャマ、思いつくものを手当たり次第にカゴに放り込む。

「やっぱり買わなきゃダメかなぁ」

 蘭は男性下着のコーナ-でしばらく居心地悪そうな顔をしていたが、意を決して売り場に入り、白い男児用ブリーフを大量に買った。

 レジに並ぶ時も少々恥ずかしい思いをした蘭だったが、夏休み仕様になった売り場の男児マネキンを見てあることを思いつき、幾つか追加の買い物をした。

 登校日と買い物を終えた蘭は走って学園寮まで戻る。いつもは一人の部屋で今日は蘭の帰りを待ってくれている人が居る。

 買い物や食事の準備等の面倒が増えた。蘭にとって今までに経験の無い、不快ではない気持ちを感じさせる面倒事。

「ただいま」

 蘭が玄関ドアを開けるとハラはずっとそうしていたかのように床に座ったままこちらを向いた。

 感情の起伏に乏しいように見える顔、それでも帰宅してきた蘭の顔をじっと見つめている。蘭はハラに顔を近づけると、もう一度言った。

「ただいま」

「……おかえり……なさい……」

 蘭は笑って頷く。

 ハラがまたひとつ、何かのスキルを得た。この真っ白な少年に少しづつ色を足し、染めていけるなら今日の買い物も損ではないと思った。

 汗に濡れた体を水のシャワーで洗い流し、窮屈な制服からランニングシャツとショートパンツに着替えた蘭は床に座るハラを呼んだ。

「お坊ちゃん、昼飯の時間よ」

 蘭がそれ以上何も言わずとも、ハラは重いローテーブルを持ち上げて部屋の中心に置く。蘭は朝のうちに研いで炊飯器のタイマーをセットしておいたご飯を丼に盛った。幸い丼は洗い物をサボった時のために二つある。

 丼飯を前にスーパーマーケットで買い溜めた物を取り出した。

 ツナ缶。

 あまり食べ物に頓着しない蘭の唯一の好物。寮住まいでは朝晩の飯が出るが、蘭としては三食ツナでもいいくらい。

 蘭はホカホカの白飯にツナをぶっかけ、塩を振って醤油を少し垂らした。かきまぜることはせず、軽く突きほぐすだけ。

 陸上部の遠征や学食の休業で弁当を持っていかなきゃいけない時はある。いつも白飯とツナ缶ばかり持ってくる蘭に今さら驚く友達は居ない。ツナご飯の単調さを変える時に食べるのは、ツナサンドだったりツナうどんだったり、ツナを缶から直接食べたり。

 蘭はもう一つの丼にも同じことをすると、テーブル前に正座するハラの前にハシと一緒に置いた。ハラの目はツナを乗せた丼飯の前に釘付けになる。

 これは食べ物だろうか?

 いつもキチンと整った食事ばかり食べていたハラの前に出されたツナぶっかけの猫マンマ。

「食べにくいならグチャグチャ混ぜてスプーンで食べてもいいわよ、味が足りなきゃ醤油とマヨネーズあるから」

 目の前で蘭がツナ飯をかきこむのを見たハラは、真似をして醤油と塩をかけたツナ飯を箸で少し混ぜ、恐々した様子で口に入れる。

「おい……しい……」

「でしょ? ツナほど美味いものは無いわ」

 二人はツナ飯の食事時間を過ごした。

 静々と口に運ぶハラと丼飯をかきこむ蘭、ハラも蘭を真似て勢いをつけて食べてみる。蘭より熱さには弱く猫舌のハラが思わずむせるのを見て、蘭は丼で顔を隠しながら笑う。

 一人で朝晩の食事を食べている時も、蘭と同じくらい食うのが速い陸上部の友達と食べてる時もあまり笑ったことが無かった気がした。

 食事後、ハラは食器をまとめて流し台に持ってった。

 今日の食器は丼二つと箸が二膳だけだけど、給食センターの物ではなく部屋の備え付け。ハラもそれに気づいたらしく、流しの前で動きを止める。

 普通の子供が学校や家庭で習うことを研究所のテレビが流す教育番組で得たハラは、予想外の事態への対処については学んでいない。蘭は食器を手にしたまま固まるハラの背後から声をかける。

「洗い物は、まだ無理か……いいよ後で給湯室の食器洗い機で洗うから」

 ハラは丼と箸を流しの水で軽くすすいで脇に置いた時にひとつ気づいた。流しの隅にある蘭の赤い歯ブラシの横に、新しい青色の歯ブラシが置いてあることに。蘭のほうを振り返ると、いつものストレッチを始めている。

 今朝までの一緒の歯ブラシもよかったけど、ハラは自分の歯ブラシがあるのを見て、なんだか自分がここに居ることを蘭に許してもらった気持ちになった。

 食器を流しに置いてテーブルを片付け、ストレッチを終えた蘭と並んで歯を磨く。

「食事の時に出し忘れてた、これも買ってきたわよ」

 蘭がいつも使ってる、水飲みと歯磨き兼用の硬質樹脂で出来たアウトドアグッズブランドのマグカップ。その横に同じデザインで色違いのカップを置いた。

 二人での歯磨きが終わった後、ハラは食器よりていねいにカップをすすぎ、蘭のカップと並べる。

 仕事の無くなったハラは部屋の隅にちょこんと座ったが、落ち着く暇もなく蘭が声をかけてきた。

「じゃ、行こうか?」

 ハラは蘭を見た。

「走りに、ね」

 蘭が走らない日は無い。

 猪や鹿が毎日数十キロに渡って縄張りを巡回するように、蘭にとって食事や呼吸と同じように自然な時間が始まる。

 陸上部の練習で足を壊し、走らなくなった数ヶ月間は新しい足を得た今の蘭には遠い記憶。

 蘭は昨日から丈の長いTシャツを着ているハラに、スーパーマーケットで買った服をいくつか投げ与えた。

 子供用のランニングシャツにショートパンツ。

 蘭とお揃いのランニングウェアを着せられたハラ、痩せて白い体が際立つ。ハラは剥きだしの肩や太腿を手で隠した。

 ハラにとって袖の無いシャツは下着。それに足を出したまま外に出るなんて考えられないこと。体を隠すように丸め、蘭を上目遣いに見る。

 「……恥ずかしい……です……」

 芽生え始めた羞恥の気持ちを自然と口に出来るようになったハラ。

 蘭は肩をすくめ、買い込んだ服の中にあったTシャツとジーンズに着替えさせる。白い厚手の無地Tシャツ、買った時から色落ち、ソフト加工されているブルージーンズ。

「これなら平気?」

 ハラはTシャツの短い袖とズボンで隠れた足を見て頷く。

 小学生男子の定番な格好なのに、なせかハラには似合わないように思えてきて蘭は吹き出した。

 ハラを玄関に連れてきた蘭は自分と色違いで買ったランニングシューズを履かせ、靴紐をしっかりと結んであげた。ハラが寝てる間に掌だけで測ったサイズはぴったり。

 蘭とハラは寮から外に出た、夏の日差しが二人に降り注ぐ。

 研究所の白い灯りと団地の遮光カーテン越しの光に慣れていたハラは、太陽の眩しさに目を細めるが、嫌悪や拒否よりも心地よさを窺わせる表情をしている。

 蘭が教えながら最初はストレッチ。ウォーキングから早歩き。そしてゆっくりとしたランニング。この体ではそこまでが限界のようだった。

 ハラは研究所に居た頃、マシントレーニングや電極の通電で筋力維持をさせられていたが、それでも絶対的な運動量が足りず、何より灼熱の太陽の下で体を動かすなんて経験は無い。

 ハラが始めた大人の早歩きより遅いペースでのランニング。その速さに合わせられる蘭はそれが苦痛ではなかった。

 最初はここから。真っ白な少年のはじめての一歩を一緒に始められるなら悪くない。

 蘭とハラは三十分ほどのランニングの後、オーキッドを停めてある公園横の道に着いた。

『ご主人様、言ってくださればすぐお迎えに上がったものを』

 夏の熱気に全身から汗をかき、肌も今まで経験の無い紫外線で微かに赤くなったハラは照れたような顔をしている。

「……走るの……たのしい……」

「じゃ、今日はもうイヤになるまで走るわよ」

 蘭はオーキッドの運転席、ハラは助手席に乗り込んだ。二人の乗ったオーキッドは公園横の道路から発進する。

 ハラとの接続で大幅に性能を上げたオーキッド。蘭はいくら走っても走り足りず、どれだけ走ってもその全ての性能を使いこなせる気がしなかった。そんな時に蘭がすることは、ただひたすらに走るしか無い。

 蘭にとって、今すべきことは少しでも早くオーキッドの操縦に習熟することだと思った。

 隣に乗り、ごく自然にグローブボックスの蓋裏にあるインターフェースゲートに手を置くハラも、団地から逃亡していた時には無い好奇心や充実感が微かに窺える顔をしている。

 蘭とハラの一日はオーキッドで走り回りながら終わった。

 蘭は走りながら、オーキッドがハラを生み出した国家エックス・テクノロジー機関と行っているというハラの受け入れ交渉について聞いた。

 オーキッドによると相手方が答えを出すのにもう少し時間がかかるらしい。そして反政府エックス組織ロータスマートがハラを奪還すべく動いている兆候が見られるということも。

 登校日と留守番、一緒の食事、そして二人で走った時間、充実した夏の日だった。

 充実しすぎていたのか、蘭は洗濯に行くのを忘れた。

 

 日が暮れて寮に帰った蘭とハラ。

 昨日と同じく給食センターから届けられる夕食を差し向かいで食べ、一緒のベッドで眠った。

 ずっと以前からこうしているような暮らし。蘭はいつまでも続けてはいられないことくらいわかっていた。

 戸籍も無い、帰るべき場所も無い、そして反国家組織から身を狙われている少年を何とかしなくてはいけない。

 ハラを守るのは自分に走る能力を与えてくれたオーキッドのため、自分自身がこれからも走り続けるために必要なこと。

 色々と考えていても何のためなのかわからなくなった蘭は、隣で寝るハラを抱き寄せ、目を閉じた。

 少なくとも蘭はこの少年の匂いと暖かさを感じていると、今までに無いほど気持ちよく眠ることが出来る。

 翌朝目覚めた蘭は、まだハラが眠っている間に水のシャワーを浴びた。いつも通り裸のままランニングシャツにショートパンツ、ジャージのズボンをハンガーから外す。そこで蘭は壁際の箱に入ってた洗濯下ろしのパンツが一枚も無いことに気づいた。反対側の壁、ベッドの足元にある服の山を見回した蘭はそれまで自分の部屋に無かったものを見つける。ベッドで眠るハラと、蘭が昨日買い与えたハラの着替え。

「ん~と……うん、これ結構いいじゃない、今日はこれにしよう」

 ベッドの中で蘭が買い与えたパジャマ姿のハラが目覚める。

 昨日の朝、真っ先に飛び込んできたのは蘭の裸体。今日もハラの目の前に居た蘭はほぼ裸。蘭はハラのために買った男物の白いブリーフを履いていた。

「おはようお坊ちゃん、これ借りたわよ」

 ハラはなぜか昨日、裸の蘭を見た時よりも顔を赤らめ、俯きながら着替えをかきあつめてシャワールームに駆け込んだ。

 オーキッドとの出会いと様々な経験で、ハラは失われていた感情を取り戻しつつあった。

 このおねえさんと一緒に居るとドキドキする、一緒に寝るとドキドキするけど安心する。

 裸のおねえさんを見た時に感じる、ドキドキと同時に襲ってくる自分の中の別の自分が騒ぐような感覚が少年を戸惑わせた。

 シャワーを浴びて落ち着き、昨日蘭に買ってもらったズボンとシャツを着たハラ。

「今日もちょっと出かけてくるから」

「いってらっしゃい」というハラの声に送られ、蘭は寮の外に駆け出した。

 ランニングシャツにジャージ姿の蘭が向かったのは学園の敷地内。かつて馴染んだ陸上部の部室。

 去年から新しい部室棟が建てられ陸上部の部室も移動したが、蘭が高ニの時まで使われていた旧部室はまだ残っていて、管理課からは立ち入り禁止と言われながらも倉庫や雨の日の室内トレーニング場として使われていた。

 旧部室に居たのは蘭と同じ三年生の二人。

 夏前の大会で引退した三年生部員が溜まる旧部室に入った蘭。お目当ての部員を見つけ話しかける。

「ようハリ、久しぶりだな」

 細野 針

 身長一六七cmの蘭の胸あたりにツムジが来る、ミニマムなおかっぱ頭の少女、名前ほど細くない体型。

 なんでそんな名前をつけられたのか聞いたら、母親が服飾の仕事をしていたらしい。

 お針子の仕事に誇りを持ち、我が子が何の仕事についたとしても誇りを持って欲しいと願った母親は、男の子が生まれると思い針(しん)という名前を考えていたが、出てきたのは体重2000gも無いのに泣き声だけは元気な女の子。そのまま針(はり)という名をつけられた。

 蘭と同じく走ることが好きで、小等部から学園に通っているが、都内の隣市にある実家からの通学に使ってる競輪用ピスト自転車の速さもかなりのもので、放課後の遊びも買い物も自転車一台でこなしている。これでも五月生まれで蘭より一ヶ月年上。

 短距離で最も多く蘭を負かせた陸上部きっての百mランナーで、都大会止まりだった蘭とは違い何度か都の代表になっているが、通学や遊びに乗っていたピストバイクの面白さにのめりこみ、高等部に入ってからは自転車部との掛け持ちをしている。

 細野針は足を壊して春に陸上部をやめた友達の唐突な訪問に目を丸くしている。

針の隣には背が高く、長い黒髪と切れ長の瞳を持つ整った顔の女子が居た。三ヶ月ぶりに部室に来た蘭に笑顔ひとつ見せず軽く手を挙げる。蘭が陸上部で毎日顔を突き合わせてた時と何も変わらない挨拶。

 高橋 幸

 蘭と同じく中学からの編入生。

 中高と空手部に所属していたが、空手の師範である祖父の「高校の三年間は別の運動を極めろ」の言葉に従い、この学園で最も部員が多く競争の激しい陸上部に高一の途中で移籍してきた。

 以後、陸上部で走り高跳びの都大会上位選手として活躍し、上段蹴りジャンプと自分で名づけた独特のフォームは彼女の美貌も手伝い他校でも有名になっている。

 蘭より五センチほど高く一七〇cmを超える長身で、陸上部一の美形と言われる高橋幸。同じ陸上部で同級生の蘭のことをやたら気に入り、よく空手の道への勧誘をしてきていた。蘭が走ること以外興味無いと知った後も部室や教室で蘭を捕まえては空手の技を教えたがる。特に蘭が何気なく足で蹴ってドアを開けたのを見て以来、蘭を「数万人に一人の足」とおだてて空手の蹴り技だけを集中して教えてくれた。走るためのトレーニング以外で足を使うことなど面白くもなんともない蘭にとっては大きなお世話もいいとこだが、たまの暇つぶし程度に付き合っている。

 幸は「朝晩に千本の正拳を撃て、さすれば気は淀みなく体内を流れる」が口癖で、陸上部のトレーニング中にも空手の修行をしている。少なくとも彼女が押し付けるように教えてくれた護身術はハラの奪還に役立った。

 話の前置きを嫌う蘭は、陸上部時代によく三人組で練習や遊びをした友達に、今日ここに来た目的を伝える。

「ハリ、余ってるウェアがあったら分けてくれない?陸上じゃない方の奴よ」

 この背の低い陸上部員はちょうどハラと同じくらいの身長をしていて、背にお似合いの幼児体型もハラにそっくり。

 久しぶりに会った蘭のいきなりの頼みごとに針は「いいけど……」と言った後に俯いて考え込む。

「そ……そのかわり、蘭、おねがい! もう一度だけ一緒に走って!」

 蘭の前に立ち、頭を俯かせたまま針は叫んだ。

 高橋幸は我関せずといった様子で空手部時代から愛用している握力鍛錬用の胡桃を握っている。

 涙ぐみながら訴える針は、蘭が「ん、いいわよ」と言ったことに気づかず話し続ける。

「蘭が走らなくなった理由はわかってる……でも……あたしもこの夏で引退だけど……蘭と走らなきゃあたしの陸上部は終わらないから……」

 台詞の途中で蘭の声に気づいた針は十五センチほど背の高い蘭を見上げた。

「せっかく部に来たんだからちょっと走っていこうと思ってたところよ、時間無いから百m一本だけだけどちょっと相手してよ」

 蘭はジャージのズボンを脱ぎながら答える。

 部室の低いロッカーに座ったまま片手の胡桃を握りこんでいた高橋幸は蘭を見て片方の眉を上げただけ。これでも端正な顔立ちながら無表情な彼女には珍しい感情表現。

 細野針と高橋幸、この二人だけは蘭が走らなくなった本当の気持ちを知っていた。

 高ニの終わりに足の靭帯を切った蘭。

 大会に出て結果を残せるくらいに回復しても、過去の自分より速く走れないならもう走る意味は無い。

 率直に話したことがなくても一緒に練習し絶えず顔を突き合わせていればわかること。

 自分なりの気持ちをこめた願いの最中に、蘭があっさり走ると言ったのを聞いた針は蘭を二度見する。

「うん……うん? え?えええええ! い、いいの?」

 ジャージを脱ぎ、ランニングシャツにショートパンツ姿となった蘭。

 早速ストレッチを始めてるのを見た針は慌てて自分もジャージを脱いだ。

「おまえはいいの?」

 針がジャージを脱いだ下は淡いオレンジの花柄模様。下着のパンツだった。幸が片手で胡桃を握りながら放り投げたショートパンツを慌てて履く。針のショートパンツと空中で擦れ違うように飛んできた蘭のアスリート用腕時計を器用に受け取った。

「サチ、タイム頼むわ」

 旧部室のすぐ横にある、土敷きのグラウンドに白線を引いただけの百mコース。

 陸上部員の夏の練習は専用舗装のコースやトラックで行われていて、旧部室前のコースには蘭と針しか居ない。

 履いているのはスパイクのついた競技用シューズではなくクロスカントリーランニングとロードワーク兼用のトレーニングシューズだったが、蘭は土のグラウンドでは競技用スパイクでもごく普通のランニングシューズでも短距離のタイムはあまり変わらない。

 ウォーミングアップ不完全なまま専用舗装じゃないトラックを走る時はランニングシューズのほうが足首への負担は小さい

 蘭は針と並び、短距離走スタートの姿勢を取る。

 以前にクラウチングスタートをした時は、目の前にナイフを持った金髪の男が居た。今、横でスタートに向け全身の筋肉に血液を漲らせている小さな女の子はもっと手ごわい。

 幸のあまりやる気の無い合図と共に蘭と針はスタートダッシュする。

 ひさしぶりの陸上部での走り。蘭は自分が無意識にシフトパドルを操作し、アクセルを踏もうとしていることに気づいた。

 百m走はあっさり終わり、針がゼロコンマ八秒ほど先行する結果に終わる。

「やっぱハリ速いな、勝てないわ」

 蘭は全身から汗を滴らせながら晴れ晴れとした顔で笑う。百m走に勝った細野針は小さい体を蹲らせて息を切らしていた。蘭は部内では短距離トップだった針が唯一追われる恐怖を覚えるランナー。数ヶ月ぶりに一緒に走った蘭は自分の記憶より強い力を放っている。

 片手で胡桃を握りこむトレーニングを続けながらストップウォッチでタイムを測ってた幸は、表情を変えないままひとつ頷いた。

「蘭は速くなっている」

「冗談でしょ? 三ヶ月前よりコンマ二秒はオチてるわよ」

「あらゆる物に惑わされぬ速さを得ている」

 確かに現役の陸上部員の時よりも走ってる時、妙にフィールドの路面状態や遠くに見える他の運動部の生徒の動きが気になった。

 オーキッドで走っている時は、はるか前方の路面にあるほんの少しの段差や他車の動きを把握していないと走れない。

 蘭が走る速度域ではそれらの外的要因は一瞬のうちにすぐ近くまで飛び込んでくる。

 走っている時の蘭はもしも今突風が吹いたり大地震で地面が割れても、全力疾走の90%の速さを維持して走り続けられるように無意識のうちに備えていた。

「きっと蘭の体内を良い気が流れているんだろう、空手の道に進む好機だと思わないか?」

 またしても空手の勧誘を始めた幸を適当にあしらった蘭は、針が陸上部の旧部室に置きっぱなしにしている何枚かのウェアを分けて貰い、ハラの待つ部屋に帰った。

 今度は蘭がただいまと言う前にハラが「おかえりなさい」と言う。

「お坊ちゃん、留守番のご褒美にお土産があるから、着てみて」

 ハラが風呂場で着替えたのはレーパンと呼ばれる膝上丈の黒いスパッツに半袖のサイクルジャージ。

 袖の無いシャツやショートパンツで外に出るのを恥ずかしがったハラのため、陸上部と自転車部を掛け持ちしている針から貰ってきた。

 蘭はレーパンとサイクルジャージ一枚づつでいいと言ったが、普段着る物には蘭と同じく無頓着ながら、陸上のジャージとサイクルウェアだけは各季節ごとに新しいモデルが出るたび色違いで何枚も買う針は、これもこれもと部室に置いていた三着のサイクルウェアを押し付けた。

 ハラは陸上用のショートパンツのように腿を露出しないレーパンと半袖タイプのサイクルジャージをあちこち触る。

 スパッツタイプのレーパンはパッドの位置やカッティングで男性用と女性用に別れていて、蘭が貰ってきたのも女性用だったが、着心地に関しては特に問題は無かった。

 針はパッドの薄いタイプのレーパンを好んでいたし、ハラはまだ骨格が男性と女性の分化をし始める思春期を迎える前の肢体をしていた。

 ハラは腿と腰のラインを出すスパッツタイプのレーパンを少し気にしていたが、顔を赤らめながらも頷いた。

「これは……これなら……恥ずかしいけど恥ずかしくないです……」

「よし、走るわよ」

 ショートパンツにランニングシャツ姿の蘭とサイクルウェア姿のハラは外に出た。

 その日も準備運動のストレッチから始め、ゆっくりとしたランニングでオーキッドを停めている公園横の道路まで向かったが、昨日よりだいぶ遠回りした。

 まだぎこちないハラのランニング姿は意外とハラに似合うサイクルウェアも手伝って昨日より様になっているように見えた。 

 蘭とハラは夏の太陽を浴び、心地よい汗をかきながらオーキッドの元に到着した。昨日はオーキッドに開けてもらった助手席のドアをハラは自分で開ける。 

『ご主人様!』

 オーキッドの外部映像を撮影するカメラは、サイクルウェア姿のハラを上から下まで眺め回す。

『なんとも勇ましいお姿で……これなら近いうちに一時雇いの運転手を解雇しても問題ないでしょう』

 蘭はオーキッドの言葉にバンパーへの蹴りで返答した。運転席のドアを自分で開け、バケットシートにどっかりと座った蘭はオーキッドに対して前置きの無い一言をぶつける。

「で、どうなってるの?」

『それがよラン聞いてくれ、ふざけた話だ』

 蘭がハラを奪還した一昨日からオーキッドが防衛省エックステクノロジー組織、エックスファンタジー同好会に対して始めたというハラの身元を受け入れる交渉。

 戸籍も出生記録も、苗字すら無いハラが生きているために必要な身元の証明と、身柄を奪おうとする勢力からの保護。

 蘭はオーキッドが語り始めた組織に対する文句を聞きながらオーキッドを発進させた。ハラもサイクルウェア姿でインターフェースゲートに手を置く。

 走っていたほうが考えは纏まる。蘭はオーキッドの操縦が自分の足で走るのと同じくらい自然な行動になっていることに気づいた。いつからだろうと考えててみた、隣にこの少年が乗る前ではなく、その後のような気がする。

 公園横の道路から市道を少し走り、高速道路に入った蘭は他車を抜き去りながらオーキッドの報告を聞く。

 蘭は面倒くさい交渉はオーキッドに任せていたが、人間との対等の交渉という他の機械に無い機能を持った電子頭脳は、遅々として進まない折衝の愚痴という形で進捗具合を報告してきた。

 国家エックスの統制組織で、ハラを産み出した機関だという防衛省内組織エックスファンタジー同好会は当初ハラとの係わりを否定し、「当該する人物は当組織の構成員及び関係者に存在せず」という返答を述べるだけだった。

 オーキッドが高度情報介入機能でかきあつめた、ハラが人工受精で産み出されオーキッドが製作された時の会計記録や帳簿、予算集めのため嘘八百で固めたプレゼン資料等の証拠を突きつけたことで、痛いとこを突かれたエックスファンタジー同好会の会長は機械を相手に懐柔を始めたらしい。

「条件付で保護に必要な便宜を提供する準備がある」

 現状でオーキッドがエックスファンタジー同好会の石野会長から引き出した譲歩。つまり具体的な形が無い提案で時間稼ぎされている状態。

 ハラとの接続で大幅に性能を上がったオーキッドをブっ飛ばしながら、蘭は自分が同じ場所に立ち止まっているような気持ちになる。

 オーキッドと出会ってから長い停滞を脱し走り続けてきた蘭にとって、ここ二日の待ちは退屈だった。学生寮でのハラとの二人暮し、それを悪くないと思いつつある自分にも苛立っていた。オーキッドが恨み言を垂れる防衛省エックス組織の対応にも腹が立つ。

 蘭はオーキッドの報告を遮り、ひとつの要求をした。

「そのエックスファンタジー同好会に電話を繋ぎなさい」

 最初は蘭が出たら纏まる話も纏まらないと言って渋ったオーキッドも組織の対応は腹に据えかねたらしく、電話回線装置を起動させる。

 何度かのコール音。

「株式会社オーキッドの者ですが、エックスファンタジー同好会の石野会長をお願いします」

 オーキッドが表向きは自衛隊の陸曹でゲーム同好会の会長である石野とコンタクトするため、既に何度も繰り返したゲーム製作会社の営業を装った電話。

 既に何度かの電話で慣れた様子の自衛隊基地電話オペレーターの声がオーキッドの室内を流れる。

「石野さんですね、今日もゲーム小屋に居るから今繋いであげるわ」

 何度かの中継音の後、オーキッドの室内全体を振動させるサウンドデバイスが壮年男性の声を流す。

「おいオーキッド、指定した時間以外にはかけてくるなって……」

 電話を引き継いだ蘭は開口一番、日本におけるエックステクノロジー運用、統制組織のトップに自分なりの挨拶をした。

「わたしが誰か知ってるわね?」

 電話口の向こうから緊張が伝わってくる。

 会長の石野が電話機に通話を録音する機材を繋ごうとしてひっくり返し、お茶をこぼした隣のオペレーターから文句を言われる声が聞こえる。

「長話をするつもりはないわ」

 話しながらも蘭は高速道路を常軌を逸した速度で飛ばしていた。

 オペレーターが通話から位置を探知しようとしたが、オーキッドは普段電話回線を使う時に接続する衛星通信ではなく地上中継の携帯電話回線で通話発信している。

 蘭の操縦によってジェットヘリ並の速度で移動する発信源は基地局を次々と変え、特定は困難。

「あんたらがこの少年にしたことのツケを払う気が無いなら、そのハコを今すぐにでも怪獣が踏み潰す」

 蘭はハンズフリーの通話装置で石野会長に一方的な言葉を伝えながら、オーキッドのモニターに表示されている切り花が何本も寄せ集まり、ラッピングされて花束が出来ていく様を眺めていた。

「君は何者だ? ハラなる人物の身元保証についての要求は聞いている、しかしそれらに必要な事務手続きは簡単には……」

 蘭はモニターに表示された花束のアイコンを指先で軽く叩く。

 既に走る能力だけでなく、その情報介入能力までもを使いこなしつつある蘭が考えつき、オーキッドに用意させたプレゼント。

 ハラとの接続で高いスペックを備えた高度情報介入ステーションは、自衛隊基地の一室にある様々な電子機器への侵食を開始した。

 埼玉の自衛隊基地にある倉庫のひとつを占めたエックスファンタジー同好会本部に緊急警報が鳴り響いた。本部内にあるオペレーションルームに置かれた全てのモニターが警告を示す赤い文字で埋め尽くされる。スピーカーから、通常のアナウンスでは聞きなれない声が大音響で流れる。

『当施設を標的とした飛翔体の接近を検知しました、着弾予想時間は五秒後、落ち着いて行動してください』

 オペレーターの前に並ぶディスプレイが揃って警告音を流す中、天気予報のようなアナウンスは繰り返される。

『着弾予想時間は二秒後、落ち着いて行動してください』

 蘭が高度情報介入ステーションたるオーキッドに発令させたニセの警報。電話口から騒然とした様子が伝わってくる。

 日本におけるエックスを統制、指揮するファンタジー同好会本部のオペレーションルーム。

 モニターと機材が並ぶ部屋で日本中のエックスを管理管制していた三割ほどの会員と仕事しているフリして私用でネットやゲームをしていた七割の会員が、一斉に表示された警告画面を見て揃ってパニックに陥った。

 エックスファンタジー同好会の存在する埼玉の自衛隊基地では、今日はあのゲームオタの部屋がうるせぇなぁと噂してた。基地敷地の外れにある倉庫がこれほど騒がしくなったのは半年ほど前に落雷でゲームデータが飛んだ時以来。

 アナウンスからきっかり二秒後。

 警告画面に表示される着弾のカウントダウンがゼロになった途端、本部のあちこちにあるモニターが唐突に花の蕾を映す画像を表示した。オーキッドのモニターで花の蕾がポンと音を立てて咲くと同時にモニターの花も一斉に開花する。本部が満開の花で埋め尽くされる中、会長の石野は電話を握りながら飛び込んだ机の下で蘭の声を聞いた。

「次は本物が行く」

 エックスファンタジー同好会は蘭がどうやって少年ハラを盗み出したかを知っていた。

 高度情報介入ステーションであるオーキッドをミサイルのように使って団地に穴を空け、自転車置き場と立体駐車場、そして街路樹一本を破壊した行為を秘匿改竄するため組織は多額の年間機密保持予算を払わされた。

 敵であるロータスマートの隠れ家で統制外のエックスである蘭が国に捨てられたオーキッドを使って起こした事件。

 国家組織エックスファンタジー同好会はエックス・テクノロジーを秘さなくてはならないという建前で予算を頂戴している。

 機密守秘の担当部署はウチのせいじゃない、オレのせいじゃないのにと言いながら各方面に頭を下げ、何とか事件をもみ消した。

「わかった、エックスファンタジー同好会北部方面支部での受け入れ案が出ていたところだ、早急に対処する」

 オーキッドは小声で『よしっ』と言ったが、蘭は不機嫌そうな顔のまま答える。

「早急? ふざけるな」

 しばらく電話の前で唸り声を上げていた石野会長は財布の中の金を全部盗られたような声を絞り出す。

「一両日……四十八時間以内に北部方面隊から書面を持った迎えをよこす……確約しよう」

「いらないわ、こっちから行く」

 蘭はオーキッドに指で合図して電話を切らせた。

「ところで北部方面隊ってどこ?」

 蘭と石野会長の電話中ずっと戦々恐々としていたオーキッドは呆れた。

『……北海道だ……』

 ハラは黙って蘭とオーキッドのモニターを交互に見ていたが、笑ったことのない少年は思わず笑い出す。

 この少年を笑顔にするには笑わせることではない、彼を白い箱に閉じ込め、彼がずっと恐れていた世の中の仕組みが笑っちゃうほど単純に出来ていることを見せればいい。

 蘭はハラと最初に会った時に言った、自由になるには走ればいいという言葉が嘘にならぬよう、自分なりの走る姿を見せようとした。

「じゃ、走ろうか」

 蘭とハラ、そしてオーキッドが一緒に走れば自由も笑顔も手に入る。

 その日も蘭とハラはオーキッドで一日中走り回り、二人で寮に帰り一緒に夕飯を食べ、二人一緒のベッドで眠った。

 学園寮での平穏な時間が終わろうとしていた。

 翌朝、朝食を終えたハラはサイクルウェアに着替えさせられ、ランニングに引っ張り出された。昨日も洗濯に行くのを忘れた蘭はハラの白いブリーフをはいている。二人の行き先は蘭の通う学園。

 オーキッドの駐車している場所より少々遠い学園までのランニングにも、ハラはゆっくりとならついてこれるようになった。

 夏のランニングで汗を流した蘭とハラが来たのは、昨日蘭ひとりで来た陸上部の旧部室。

 ここまで来る間、学園の敷地を小さい男の子を連れて走ってる蘭の姿を見た顔見知りが驚きの顔を浮かべる様を何度か見たが、蘭は無視することにした。

「居る? ハリ」

 今日も昨日と同じ二人が居た。

 都内に実家のある細野針と、空手の道を極めるまで帰らないと決めている高橋幸は夏の帰省には縁がなく、受験勉強にもあまり熱心ではなかった。

 古く擦り切れた畳敷きの旧部室で普段着替わりのサイクルウェア姿の針と、やはり家や部室でよく着てる空手の道着を着た幸は二人でテレビを見ていた。

 エアコンの効きが悪く真夏にはほとんど役に立たない寮よりも涼しい部室に溜まる部員は多く、その筆頭は陸上部の顧問。

 ノックもなく旧部室のドアを開けた蘭は、目の前に寝っ転がる針の尻を蹴った。

「部室に私物持ち込むなっつったでしょ~」

「顧問のハゲはゲーム機三つ持ってきてるぞ」

「あいつはどうしようもね~奴の筆頭だからほっときなさい」

 蘭の後ろから出てきたのは、サイクルジャージ姿のハラ。

「へぇ~」

 針は昨日蘭から聞いていた「青森から東京観光に来た従兄弟」を上から下まで見て妙な納得をしたような表情をする。

 その後ろに居た高橋幸はハラを見つめ、普段の端正な無表情とは少々異なる表情をしている。

「蘭……その子……」

「あぁ、昨日話した従兄弟のハラよ、今日で青森に帰るからウェアの礼を言わせね」

「いいって、どーせシーズンごとに何着も買うんだし、今日はグローブとシューズも持っていきな」

 寝っ転がりながら手を振る針の後ろ、畳の上に正座していた幸は座ったままにじり寄ってくる。

「蘭その子……くれ!」

 長身で大きな体の幸は小さくて可愛いものに目が無い。

 三人で遊びに行ってもぬいぐるみやキャラクターグッズ、時にナマモノの子犬や子猫の前で動こうとしない幸を蘭と針の二人がかりで引き剥がすことがよくあった。

 蘭はハラを抱え、慌てて幸から離す。

「バ……バカっ! やんねーよ! これわたしのだから! やんねーよ!」

 ハラは自分を後ろから抱え込む蘭と、陸上部一の美形と言われる顔をただならぬ様子で近づけてくる幸を交互に見ていたが、それよりいつの間にか横に立っていた針のことを興味深げに見つめる。

 オレンジのサイクルジャージに濃緑色のレーパンを着た針は、ハラが着ている青いサイクルジャージと黒いレーパンに触れる。

「おそろじゃん、お前」

 横並びになった針とハラ、蘭は思わず吹き出した。

 十八歳の女とオーキッドの話ではもうすぐ十一歳だという少年はどう見ても同級生にしか見えない。

 ウェアを分けてくれた針にハラの口から礼を言わせるという理由で部室に来た蘭、正直これが見たかっただけ。

 昨日、一昨日の蘭は、オーキッドが反政府組織と称する連中から強奪したハラを一人で部屋に置きっぱなしにしながら外出した。

 もしもその組織がハラを奪い返すことを考えているなら、部屋に一人で居る時こそ好機、安物の鍵しかない学生寮のドアなど容易に破って連れ去っていただろう。蘭はその可能性も少し考えたが、正直なところハラを盗まれないよう手元に置くことにはあまり積極的になれなかった。

 オーキッドの求めで強奪した少年。それはこれから蘭を未知の戦いに巻き込む存在。

 もしも部屋に居ない隙にハラを奪われたなら、それはそれで物騒な連中との衝突を自分だけ回避できれば好都合、そう思っていた蘭の思考にはここ数日で別の判断要素が入りこんできた。

 オーキッドをとてつもなく速くしてくれた少年を奪い返されたくない、せっかく買った高価いシューズを盗られては悔しいという考えに似たような、それとは少し違うような気分。

 自分の気持ちがわからなくなった蘭は、結局色んな言い訳をつけてハラを学校まで連れまわすことになった。


 幸は二人並んだ小さな男の子と女の子を見て、どっちにしようかと指で迷いながら、結局ハラと針の両方の手を掴もうとして蘭に払いのけら、針とハラを後ろから抱え込んだ蘭を指差して抗議した。

「蘭おまえ~! おまえもう十八だろ? そんな可愛い子と一緒にいたら犯罪だ! うん犯罪だ」

 背は二人より高いが冬生まれで蘭や針よりひとつ年下でまだ十七歳の幸は何とか蘭から針とハラを引き剥がそうとしている。もしかしたらハラを奪還すべく蘭と戦った反政府エックス組織ロータスマートの連中より幸一人のほうが厄介かもしれない。

「おまえはどうなのよ!」

「わ……わたしは社会に貢献している人間だからいいんだ!」

 幸はいつも一緒に居る針はオヤツとして後に取っとくことに決めたらしく、ハラの両手を取って語りかける。

「少年、君は空手をやってみる気は無いか?共に気を養い、そしてわたしの気と君の気を絡め合い……」

 興奮状態になった幸は針に羽交い絞めにされる。今まで男に興味を示したところなんて見たことなかった幸の何かのスイッチが入ったらしい。

 幸が蘭の許しを得てハラを膝の上に乗せ、ようやく落ち着いたようなので蘭は針にひとつ聞いた。

「ハゲはどこ?」

 針は再び畳に寝っ転がりながら一言で返す。

「五百」

「サンキュ、じゃあちょっと走ってくるわ」

 蘭はジャージを脱いでショートパンツとランニングシャツ姿になると、幸に撫でられながら緊張で固まってるハラに話しかけた。

「用があるから、しばらくここで遊んでなさい」

 ハラは幸に匂いを嗅がれながら、蘭を恨みっぽい目で見ていた。

 旧部室を出た蘭は、新しい部室棟の近くにある陸上部時代最も馴染んだ五百mトラックを走り出した。中距離の本番に近いペースでトラックを走った蘭。前をゆっくり走っていたジャージ姿の男に追いつく。

 背の高い痩せた壮年男性。

 頭頂部を隠したバーコード頭、度の強い黒縁眼鏡。どんな格好をして学校に居ても教頭先生ですか? と聞かれる外見の通り、高等部の教頭を務める教師。蘭は陸上部時代にトレーナーとして蘭を鍛えた陸上部顧問と並走した。

「久しぶりだな」

 蘭は走りながら返す。

「ここで会うのはね」

 現役の陸上部員だった頃は走らない日は無いと思ってた五百mトラック。

 蘭は陸上トラックを走りながら、学期中に職員室等では割とよく顔を見ていた教頭と一緒に走るのは数ヶ月ぶりだということを思い出す。

「お前のことで色々と面倒なことを言う奴がいてな、夜中に高級車を乗り回したり寮に男を連れ込んだり」

「そう思ってこのクソ暑い中を走りにきたのよ」

 蘭はショートパンツのポケットから出した一枚の紙を出した。

「坂本ハラ、青森にいるわたしの従兄弟、夏休みの東京旅行中にわたしが保護者として身を預かってる」

 教頭は走るペースを落とすことなく、蘭から渡された青森市内にある小学校の顔写真つき学生証を一瞥し、返した。

「乗ってる車はハラの親、わたしの叔父から東京を案内するアシとして借りてる。保険もちゃんと入ってるわよ」

 続いて出したのは蘭の年齢でも損害を担保する旨が書かれた自動車保険証書のコピーと、青森に居る蘭の叔父の連絡先。昨日のうちにオーキッドに作らせた各書類。

 蘭の父は一人っ子で母は女兄弟、叔父は居ない。渡した連絡先に電話をするとオーキッドが通話に介入し、嘘八百の受け答えをすることになっている。

 蘭がそれらの書類を要求した時オーキッドは『公文書、私文書の偽造に電話回線ジャック…お上に怒られるコトは殺人以外全部やらせる気かよ』と泣き言を言った。

 蘭と最初に会った夜、自身を信用させるため蘭の名が入った車検証を偽造した弱みがあるオーキッドは蘭に逆らえなかった。

「ハゲ、走ってるかって聞かないの?いつもみたいに」

 連絡先の紙片だけを受け取った教頭に、この顧問が蘭と会うたび挨拶替わりに言っていた言葉について聞いた。

「走ってるんだろう? 見てればわかる」

「うん、走ってる」

「ならいい、つまらんこと言ってくる奴は俺が何とかしとく」

 教頭は長距離走のフォームとペースを崩さぬまま呟く。

 この先生はこの学園が体育大学だった頃のOBで、学生時代から現在に至るまでフルマラソンのみに情熱を費やしている。

「走れよ、これからも、走る形が変わっても」

「あんたもね」

 踵を利かせてスピードを中距離走のペースまで上げた蘭は教頭に軽く手を振ってから抜き去った。

 五百mトラックでのランニングを一周で切り上げた蘭が旧部室に戻ると、ハラは空手の道着姿だった。

「そのお洒落なドレスはどっから盗んできたの?」

 まだ畳の上に寝っ転がっていた針が手をひらひらと振る。

「はーい、あたしので~す、一緒にカラテやろうとして着たら幸に脱がされました~」

 ハラと幸は部室の隅で白い道着姿、並んで空手の正拳を撃っている。

 幸の正拳は腕と拳が鞭になったように鋭いが、ハラが見よう見真似で撃つ正拳はプールで水を掻いているような姿。

 幸は日ごろ、この正拳をひたすら撃ち続ける過程を三年続けないと技など教えられないと言っている。言葉に反して蘭にはやたらと空手の蹴りと足技を教えたがり、蘭もたまに付き合っていた。

「うん上手だぞ、正拳はいいから組み手をしよう、な?」

 戸惑うハラを幸がなぜか柔道の技で押さえつけ、髪の匂いを嗅ぐという珍しい技をかけ始めた。 蘭はハラを何とか幸から引き剥がし、更衣室でハラを着替えさせる。

 蘭より五cm背の高い幸はサイクルウェアに着替えたハラの前に膝をついて目線を合わせ、両肩に手を置いた。

「少年よ、正拳を撃て、毎朝毎晩欠かすことなく正拳を撃てば我らは離れてても同じ地平に立てる……その……心は一緒だ!」

 幸は「い……言っちゃった! 言っちゃったぞわたし!」と言いながら真っ赤になった顔を手で覆い、畳の上を転がり始めた。その横で畳にちょんと座った針が蘭の目を見てくる。

「蘭、どこに行くの?」

 彼女が蘭にこんなこと聞いたことは初めてだった。名前通り勘の鋭い針は蘭に何かが起きたことに気づいている。

「走りに行くのよ」

 蘭がハラの肩に手を置くと、ハラもこっくりと頷く。

「また一緒に走れるよね?」

「当たり前よ、ケツ蹴っ飛ばしてでも走らせてやるわよ」

 顔を赤くしてお尻を押さえる針。

 蘭は何か文句言うときやちょっとしたスキンシップの時によく針の尻を蹴っ飛ばしてたが、針はそんな時いつも口では文句を言いながらもなんか嬉しそうな顔をしていた。

 蘭は二人の友達に別れを告げ、旧部室を後にした。これで長い別れになるなんて思ってなかったが、蘭は部室を出る前にもう一度振り返った。

「じゃあね、ハリとサチ」

 学園からハラとランニングし、昼前に寮に帰った蘭は旅支度を始めた。

 

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