第九章 ラジオの双子
一台の黒いグラン・ツーリスモが横浜市内の有料道路を走っていた。
他車の流れに溶け込む速度で走る、黒い車に乗っていたのは若い男女。
二人は同じ顔をしていた。
一人は運転席に座り、黒い車を操縦する若い男。もう一人は片手の指でスマートフォンタイプの携帯電話を摘み、もう片方の手で石ころをひとつ握り締めた女。
双方とも中性的な顔と体型をしていて、男女の区別は肉体や服装には見つけられない。
色落ちまでよく似た揃いのジーンズを履き、素肌にデニムのジャケットを着た二人の性差は、声と髪型から窺えるのみ。
運転席の男は黙々と運転操作を行っている。助手席の女は携帯電話を膝に置き、掌に乗るくらいの石を耳に当てている。
男の首にも、女とは色合いが違うが形の似た石が下がっていた。
「兄さん、始まりました」
女は首から紐で下げていた石を耳から離すと、指を動かして男に方角の指示をした。男は黒い車を国道バイパスの出口車線に移動させる。
女が指先の簡単な動きだけで伝えた方角に従い、黒い車はバイパスと交差する県道へと滑り込んだ。
二人が乗っていた車は蘭と少年ハラの乗る赤いオーキッドとほぼ同一の形状。
違うのはオーキッドが車の形を模して作られた高度情報介入ステーションなのに対して、黒い車はエックス・テクノロジーが何一つ入っていない、市販車をベースとした改造車。
国産車の中で最も高い性能で知られ、世界中の車と比してもトップクラスの走行能力を持っていた車は、更に各部のチューニングで市販された車とは別物の性能を発揮させていた。
車がハードウェアならソフトウェアに相当するのは操縦する人間。
黒いチューンドカーに乗る二人にとって、車で速く走ることは人生そのものだった。
二人は同じ母胎から産まれた双子だった。
二卵性ながら遺伝子の配列にほとんど差異の無い男女の双子。
かつての二人は国家エックス・テクノロジー組織に所属するエックス。現在は民間エックス組織の構成員としてコンビニ勤務と組織の仕事で生計を立てる二人。
同じ顔の双子は今まで、同じ人生を同じ歩幅で歩んできた。
神奈川の母子家庭で二卵性双生児として生まれた兄と妹。双子は物心つく前から動く機械が大好きだった。親元で過ごしていた幼少期、二人でいつも車やバイクの本を読んでいた。親が目を離すとすぐに二人で家の軽自動車に入り込んで、ラジオを聴きながら何時間も過ごした。
週末は母に車での外出に連れてって貰うのが何より好きだった。夏と冬の休みに母と共に行った遊園地やスキー、海水浴でも行き帰りの車中で過ごす時間が何より好きで、現地に着いた二人は遊具よりも駐車場に停めてある車を見て回るのに夢中だった。
小学校高学年の時、双子は健康診断結果を盗み取った国家エックステクノロジー組織によって二人揃って放射性同位体遺伝子エックス・アイソトープを発見される。
国がエックスの子供を攫う時の常套手段である「伝染性の難病を発見された」という名目でエックス・テクノロジー組織が設立した教育機関の小等部に入学させられた。
いつもエックス・テクノロジー関係の仕事を面倒臭がる国が学校としての認可を与えていない全寮制の教育設備。
双子は陸上自衛隊の遊休施設内に押し込められた狭苦しい学校に放り込まれ、外部との接触を制限された。
エックスとしての学生生活が始まってからも、二人は車やバイクの絵を書いては教師に叱られ、寮の部屋で車のプラモを作って叱られ、どこかから壊れたバイクを拾ってきては叱られた。
教育施設の高等部に進んだ二人は、守秘のためバイトが禁じられた中で僅かな報奨金の出るエックステクノロジー関連の仕事を積極的にこなした。
二人揃って十六歳になってすぐ、双子は教育機関の許可を得て二輪の免許を取り、中古の原付を買った。幼い頃から自分たちの車を欲しいと望んだ二人は、二人が十八歳となる日を指折り待った。
二輪の免許を取った時のように教育施設を総括する責任者に自動車免許取得の希望を伝えた。
返ってきたのはその教育施設の大学部を卒業する二十二歳まで、エックスの学生には纏まった金を稼げる仕事も免許を取る自由も与えられないという通告。
自動車免許を取得し、自分の車を買う許可を出せるのは四年の大学部課程を終え、卒業した後。
二人は十八歳の誕生日を間近に迎える高校三年の途中で国家エックス・テクノロジー組織の教育施設に希望退学届けを出した。
エックスの人員削減が進む中で、学生ゆえ退職金も年金も出さずに済む早期退学はあっさり認められた。
この食うに困らぬ囲いでは、二人が幼い頃から夢見ていた自分の車に乗る日はあと四年先延ばしにされる。
その四年が待てない。
二人が国家の庇護から出奔する理由はそれだけだった。
伝染病の寛解、完治という名目で国家エックス・テクノロジー組織から放り出された双子は実家に帰る。
在学中は面会を制限され、数えるほどしか会えなかった母は既に別の男性と再婚し子供に恵まれていた。
継父は初対面の自分たちを娘と息子として扱い、表向きは長期入院していたことになっている双子が人生の空白を取り戻すため頑張ってくれた。義妹は新しく出来た兄や姉として甘えてきた。そして母は双子の記憶より優しかった。
実家に一ヶ月ほど滞在した双子は就職のためと言い、家を出た。
双子を暖かい家庭に迎えようとしてくれた人達は、双子にとっていつも互いが触れ合うほど近くに居た二人の間に入り込む邪魔者。
双子にとって唯一暖かい物とは、いつも隣に感じられる自分の片割れと、二人で触れるエンジンの熱。
互いの体が触れるくらい近くに居ながら、望んだ場所に行ける自分たちの車が欲しい。
二人が安らぎを得られる場所は道の上。二人の邪魔をする物全てを追い抜くスピードの中にあった。
家を出たものの仕事に恵まれなかった双子は、ほどなく民間エックス組織ロータスマートからの勧誘に応じた。
とりあえず今、双子が生きていくには金が必要。食べ物じゃなく住む所でなく、二人は車が欲しかった。
ロータスマートの一員としてありついたコンビニバイト。双子は二人分の稼ぎをほぼ全て注ぎ込んで免許を取り、二人共通の通帳に金を貯めて中古の軽自動車を買った。
それからの二人の給料は軽自動車のガソリン、オイル、タイヤ、そして改造費に費やされることとなる。
二人が解体屋から鉄屑値段で買った営業車落ちの軽自動車は、かつて世界ラリー選手権で活躍した車の同系車種。
最初は遅かった車は二人が金と時間をかけるほど応えてくれた。
まず同一車種の競技車を解体で探し出した。ターボエンジンと四輪駆動のパワートレインを移植したのを皮切りに、エンジンを更にチューンアップし、足回りとボディを強化、内装や電子装備を交換する。
双子は速くなりつつある自分の車の外見をスポーティーにドレスアップする塗装やステッカー、エアロパーツには興味を持たなかった。
見た目は白い地味な軽自動車、外見上の差異はホイールとタイヤ、径の大きいマフラー。
カーオーディオも不要。二人が幼い頃から好きで双子のエックス・アクティヴィティにも深く係わっているラジオがあれば充分。
車を買った解体屋がチューンドカーや高性能車の価値に疎かったおかげで、廃車や事故車から高性能なパーツが格安で手に入った。
双子はコンビニバイトや組織の仕事の合間を縫い、寝る間を惜しみ、運転を交代しながら走り回った。
食べる物も着る物も最低限。今日も双子が着ているのは着古したジーンズ上下とキャンバス地のスニーカー。
服はもちろん靴のサイズさえ同じ二人に着る物の区別はなく、ときに下着さえ間違えたりする。
車ばかりに金をかけ、ろくなものを食べない二人のため、店長や店員達がいつも期限切れの惣菜やパンを取っておいてくれた。
双子はなぜか自分だけの車が欲しいと思わなかった、買うのも乗るのも二人の車。
同じ母胎から生まれた双子。薄紙一枚で隔てられても半身を失ったような気持ちになる双子にとって、一台の車の中は最も安息が得られる場所だった。
改造した軽自動車で走り回っていた双子は関東のあちこちの走り屋スポットで「大物喰い」と呼ばれた。
チューンした軽自動車で大型車を追いかける。パワーが足りず追いつけない事のほうが多かったが、双子の軽自動車に追いすがられた大型高性能車オーナーの多くは、双子の高い操縦技量を認め。より高性能な車に乗り換えることを期待した。
双子は小さい車にこだわっていたわけでもなく、いずれ稼ぎが溜まったら大きくて速い車に買い換えようと思っていたが、二人の腕が触れ合うほどに狭い軽自動車を気に入っていた。
そんな二人に、組織から双子が乗る軽自動車の数十倍の価格がする車が与えられた。
双子に求められたのは、二人が最も得意とする仕事。
蘭が民間エックス互助研究法人ロータスマートの所有する団地の一室を破壊し、囚われていたハラを奪い取った夕方。
双子の兄はロータスマートから貸与された黒いグラン・ツーリスモを走らせていた。
それまで乗っていた軽自動車と同じ4WDターボであったこともあり、兄妹はごく短い期間にこの車の運転に習熟した。
この日本で最も速い車を更にチューンドした車で喰う大物とはどんな奴か。双子の兄は危険性の高い仕事への恐れよりも獲物を前にした高揚と好奇心を感じていた。
「その車は速いのかな」
左右シートの間にあるコンソールボックスに携帯電話を置いた妹は、首から紐で下げていた石をデニムジャケットの胸元にそっとしまう。電話や石ころに触れてた時には見られなかった笑顔を浮かべながら目の前にあるダッシュボードの上縁を撫でた。
「エックス・テクノロジーでお手軽便利に速くなった車です。本当に速い車には勝てないでしょう」
普段、改造した軽自動車で峠道を走っている時は妹のほうが若干速く、黒い車に乗った時もそれは同じだった。
今日は兄が運転席につき、妹は助手席で携帯電話と小さな石ころをいじっている。
関東の道路を熟知する双子の乗った黒い車は神奈川南部の複雑に入り組んだ道路を何度か曲がり、海へと近づいていった。
双子は蘭とハラ、そしてオーキッドが逃走する海沿いの道へと近づきつつあった。
蘭がオーキッドに出会い、あちこちを走り回り初めた数日後。
店前の駐車スペースに、一台の黒い国産グラン・ツーリスモが停められていた。
双子の兄、深沢明は黒い車の磨きこまれたボディを眺めながら声を出す。
「本当にコレを使っていいのか?」
双子の妹、深沢和は車と共に渡された改造内容の仕様書と各種の性能を記録した諸元表をチェックしている。
「足もエンジンも別物、パワーはノーマルの二倍強ほどでしょう」
蘭の乗るオーキッドと同一の外見。オーキッドのモデルとなった国産市販車をベースとした改造車。
組織内で小鳥と呼ばれた少年ハラの、守りより積極的な追尾に重点を置く計画を立案したのは、普段は堅実な計画を旨とする副店長の布袋。
高度にチューンされた車と、それを扱える人材をもって追跡し、小鳥の奪還と鳥かごの破壊を行う。
民間エックス互助研究組織ロータスマートには、その能力を有した構成員が居て、作戦を可能とする予算をかろうじて捻り出せた。
計画に必要となる高性能車の入手は当初、自動車雑誌に出ている大手チューニングショップからのリースか購入を考えていた。
高価なチューンドカーの提供を申し出てきたのは自動車の製造やチューニングとは関係無い、以前から組織と提携関係にあった運輸会社。
国家によって秘匿、研究されている超科学技術エックス・テクノロジー。
自動車の生産等の技術的側面には縁が無いが、その運用には深く係わっている運輸会社の幾つかは、国家からエックス・テクノロジーの提供を受けている。
そのうちの一社である大手運輸会社が、元の身内である旧郵政系法人を優先する国のえこひいきと出し渋りに痺れをきらせ、正当な対価を払えばエックステクノロジーを売ってくれる民間エックス互助研究法人への接近を始めた。
その運輸会社は自社の業務にエックス・テクノロジーなるうさんくさい物を導入しようなどとは考えなかったが、車両提供や自社に有利な法整備の圧力活動などを行う国内外の自動車メーカーとの交渉に一枚でも多くの手札が欲しかった。
ここでもエックス・テクノロジーはその本来の能力や機能とは別に詐欺じみた行為のネタとして使われる。
氷室が運輸会社との交渉窓口となる重役にエックス・テクノロジーによって製作された車の存在と、それを扱うエックスの国外移送計画を伝えたところ、向こうから必要物資の提供を申し出てきたので、契約を交わし有難く頂戴することにした。
既に社内に準備されていた車両は、全国翌日配達を銘打つ運輸会社にふさわしく、契約した次の日に運輸会社の傘下にある陸送業者によって届けられた。
提供されたのはその自動車を製造したメーカーのチューニング部門が製作したコンプリートカー。
年々縮小を続けるモーターショーを尻目に、カスタムカーの各種ショーが盛り上がっていることからわかるように、国内の各自動車メーカーにとってチューンドカーは利潤の大きい商品になっている。
メーカーのウェブサイトでは三千万円の札を下げて売られているこのコンプリートチューンドカーを、なぜ運輸会社が法人名義で所有しているのかは車両を提供した重役にもわからないという。
重役の本音としては、社の予算を使って自分の趣味物を買ったらしき役員の誰かのケツを拭くため、購入予算に何がしかの理由をつける必要があった。
この車両提供話は渡りに舟。出来れば責任を全て契約先のロータスマートになすりつけられる形で私的流用の証拠となる車そのものが消滅してくれることも望まれていた。
チューンドカーを貸し出す見返りとしての要求は簡単なもの。
エックス・テクノロジーによって作られた車であるオーキッドの基幹となるバイオコンピューターの基盤の一部。
氷室が運輸会社に先駆けて契約していた海外エックス機関からは、バイオコンピューター適応型エックスであるハラの身柄確保に加え、日本国によるハラの運用計画を頓挫させるためオーキッドの破壊と引渡しを要請されている。
氷室は運輸会社の重役にそのことを適度にボカしつつ伝えたが、その重役はオーキッドを制御するバイオコンピューター基盤の一部さえ取れれば、搭載車両に関してはその契約先に引き渡しても構わないと言った。
つまり壊れた車を他所に渡す前に、パーツを一つ二つこっそり抜き取って寄越せという話。
氷室と共に交渉に立ち会った双子の兄、深沢明は帰り道で「信じられるか? 車はどうでもいいってよ。トラック会社の重役がだぜ?」と吐き捨てた。
目を輝かせながら黒いチューンドカーのあちこちを眺めたり触ったりする明と和を見た氷室は、背後から話しかける。
「もし予想外の事態が発生したら、計画の実行よりも無事に帰ることを優先させてください」
明は怪訝な顔をする
「どういうことだ?」
氷室がこの二人に双子の神秘を感じるのは同じ顔や体型、似た服を選ぶ感覚ではなく、感情を覗かせた時の反応。
黒い車の脇にしゃがみこんで最低地上高をチェックしていた妹の和は、兄の明と同じ目で氷室を見上げ、妹ほど口数が多くない兄の気持ちを代弁する。
「最小の人的損害で依頼が達成できれば組織としては収支プラスでしょう? 少なくとも私たちは我が身の安全を考えて勝てる相手だとは思ってません」
自分の気持ちを正直に言えば、そのまま兄の考えを発した言葉になる。離れることなく生きてきた明と和には当たり前のこと。
それまで二人を見つめていた氷室が不意に目を逸らし、副店長の布袋がレジを守るコンビニを振り返りながら答える。
「わたしはあなたたちエックス・エックスが安心して帰れる家を作りたいんです…あなたたちはわたしの子供だから、それで不足ですか?」
組織構成員の間ではしょっちゅう笑い種になっている、氷室が時々言う恥ずかしい台詞。和もくすくす笑いながら応じる。
「大いに不足です。こんな親ゴメンです」
「あ、やっぱり?」
明は黒いグラン・ツーリスモのドアを開き、ボディ補強用のサイドバーを跨いでシートに尻を落とした。
その車に元々ついていた革のセミバケットシートは体をがっちり固定する競技用フルバケットに取り替えてある。
続いて乗り込んだ和がプッシュスイッチを押し、エンジンを始動させた。
大径なチタニウムのマフラーが発するチューンドカー独特の低く力強い音がコンビニの窓を震わせる。
ホウキとチリトリを持った布袋が店から出てきた。
組織のトップでありながら構成員に対して何かと心配性で、あまり強いことを言わない氷室。対照的に副店長の布袋は皆の仕事に対する姿勢、何より普段の生活態度に口うるさい。
そんな布袋が皆に厳しい姿を装いながら、何かあると別の用事にかこつけて真っ先に様子を見に来ることも二人は知っていた。
実家でうまくいかず家を出た双子の兄、明は布袋と氷室を見て和と全く同じことを考える。
この二人は自分たちにとって何なのか。
「じゃぁ行って来る。オヤジとオフクロ」
和がまた俯いてくすくす笑う。和の言葉は明の口が言ってくれた、だから和は明の代わりに笑う。
「わたしはオフクロなんて年齢じゃありません! まだ二十九歳と……少しです!」
「むむ……実際言われると少しショックだな……やっぱりオヤジよりアニキとでも呼んでもらいたいな」
双子の乗った黒いグラン・ツーリスモは、神奈川西部のコンビニ駐車場から走り出した。
このまま南へ、南へと走れば組織が神奈川の半島部に所有する隠れ家がある。
二人はこれから、隠れ家からの逃走経路と予測される幾つかの道路にすぐ駆けつけ、迎撃できる場所を選び待ち伏せをする。
そこからさらに南へ行けば、海。
もしもこの車が広い海をどこまでも走ることが出来たなら、隣に座る同じ顔を持った相手と共に暮らせる場所にたどり着けるだろうか。
明と和は同時にお互いの顔を見た。何も言うことなく同じタイミングで目の前に広がる道路へと視線を移す。
この道路を走れば、その先にある。
和が明になり、明が和になれる瞬間が。
黒い車に最初に気づいたのは蘭だった。
終わらない蛇行を繰り返す海沿いの国道。
神奈川南部の団地で行われた、オーキッドがご主人様と呼ぶエックスの少年ハラの強奪。
団地への突入とその後の脱出でオーキッドは深い傷を負ったが、ハラが助手席に乗ったことで発動した自己修復によって、オーキッドの損傷は極めて短時間の内に癒えた。
今となっては内外ともに新車同然の姿となったオーキッド。蘭は自己修復と共に得た車体各部の機動力向上を耳と肌で感じ取った。
アクセルをつついただけで前に出る。自分の筋力が倍以上になったかのような錯覚。ブレーキを踏めば車体を安定させたまま確実に速度を殺す。タイヤの路面への食いつきも別物だった。
それまでのオーキッドは外観のモデルになった国産車と同一の性能を有していた。
それは世界的にも屈指の数値だったが、今のオーキッドは公道を走る市販車の枠を超えた能力を有している。
蘭は自動車競技用の車両など乗ったことはなかったが、今のオーキッドがレーシングカーとは異なるものだということは何となくわかった。
速く走るためだけに製作されたレーシングカーでも、生き残る能力を追求した軍用車両でも、快適な高速移動を目的としたグランツーリスモでもない。
車じゃなく宇宙船か未知の生物に乗って走っているみたいだと思った。
それまで自分の足で走るようにオーキッドを操っていた蘭は、自分がパワードスーツでも着せられたような気分になる。
自ら鍛えた筋肉ではない力。一歩一歩確かめながら積み上げたわけではない、一足飛びのズルをした速さ。
初めてオーキッドに乗った時も、自分の足でなくエンジンの力で走るオーキッドの操縦に同じ感覚を味わった。その時と似ていて違う。
国産車で最も速い車にあっさり馴染んだ蘭にも、今のオーキッドが有する底知れぬ性能を使いこなせる気がしない。
以前の蘭ならそんな得体の知れない速さなどゴメンだったし、今もそうだと思っていたが、アクセルを踏むたび感じる加速感につい夢中になってしまう。
悪事や体に悪い嗜好品が持つ抗いがたい魅力。今のオーキッドは蘭にとってドーピングであり、ドラッグだった。
『おい蘭、ご主人様を乗せてるんだ、もっと丁寧に操縦しろ』
「このお坊ちゃんに最大限のサービスをしてるつもりよ、最高のスピードをね」
蘭がいつもと変わらず速く激しい、そして傍迷惑なドライヴィングをする中で、助手席の少年ハラは黙ってシートに落ち着き、助手席正面にあるテーブル状のインターフェース・ゲートに手を置いている。
「それに、お友達がきたみたいだし」
蘭が一瞬目をやったルームミラーには、数台の車を挟んで追尾する黒い車のヘッドライトが写っていた。
オーキッドは即座に周囲の車をサーチする。
お盆時期の昼下がり、幹線道路に比して遠回りになる海沿いの国道を通行する車は少ない。
オーキッドはハラとの接続で処理速度が飛躍的に向上した高度情報介入の能力を駆使する。
周囲を走る車のナンバーを読み取り所有者を検索し、エックスに係わった連中が居ないかどうかサーチした。
既にハラのエックス・アクティヴィティによって自己修復や機動力、情報処理機能など、蘭が一人で乗っていた時には未完成だった主要システムの大半を修復したオーキッド。
今のオーキッドはハラの両手がインターフェースゲートに置かれ、ハラ固有のエックス・アクティヴィティと接続されたことで安定した性能を発揮していた。
オーキッドに搭載されたバイオコンピューターには、主要システム以外にも未完成のデバイスが無数にあり、今もなおハラのみに可能な修復が進んでいるという理由もあったが、それだけではない。
人と人との会話情報を蓄積して生まれた人工知能が基幹となっている高度情報介入ステーション。オーキッドはハラのエックス・アクティヴィティから生まれ、ハラを守るために作られた。オーキッドがご主人様と言って慕うハラは、オーキッドにとって我が子であり親である己の半身。
長く引き離された親や子と触れ合い、安心しない奴は居ない。
そしてオーキッドは認めてなかったが、自身を操っているドライヴァーである蘭は、ハラともう一度会いたいというオーキッドの願いを叶えてくれた。
今のオーキッドは蘭を最も頼れる存在だと認めつつあった。
オーキッドが周囲を走る車のナンバーと陸運局に侵入して得た所有者データがモニターに表示されるのを見た蘭は、オーキッドをからかうように言った。
「こーゆー時は名札よりアシを見るのよ」
複数のランナーが常に駆け引きをする陸上競技で、蘭は周囲のランナーの顔や着ているウェアの色、印刷されている校名をほとんど見ない。
個人固有の足運び。腕の動かし方や呼吸のリズム。走り方でランナーを認識する。
蘭だけではなく陸上部に長く居た奴は、フィールドを見ずとも走ってくる足音で同じ部の誰かを聞き分けられる人間が多い。
オーキッドは周囲を撮影するカメラが記録した映像データをプレビューし、周囲を走る車のナンバーだけでなく車線変更や車間距離等、データの多角的な洗い直しを始める。
蘭が既に警戒していた尾行車の存在、その特定と裏づけをすべくオーキッドは粛々と情報を処理した。
ご主人様である少年ハラを守るため、オーキッドは単体で出来ない事も蘭と一緒なら出来ると信じていた。
うまく他車の陰に入りながら追尾を続ける黒い車。ナンバープレートのデータはエックスとは関係ない運輸会社勤務のサラリーマンの所有する車だということを示していたが、オーキッドは運転席に座るドライバーと助手席の人間の顔を捉え、情報の検索を続行した。
顔面の骨格や耳の形から個人認識したデータは、オーキッド内部にある過去に在籍した国家エックスの名簿に貼付された写真と一致した。
双子のエックス、名前は深沢明と深沢和。
現在は反国家エックス組織ロータスマートに所属するエックス・エックス。
オーキッドはそこで初めて、ハラを捕らえていた組織ロータスマートやさっきハラを奪還した隠れ家からの電話通信に介入しながら、襲撃の報告が一本あったきり追撃や奪還についての情報が全く入ってこない理由に気づく。
オーキッドが国家エックス・テクノロジー機関から盗み取った所属エックスのカルテによると、この二人の所有する放射性同位体遺伝子エックス・アイソトープが放射するのは、鉱石を変質させるエックス・アクティヴィティ。
鉱石が持つ同調、検波機能を活性化させることで、デジタルデータへの介入では盗聴困難なアナログの無線通信を行う。
バイオコンピューターを稼動させるハラの能力ほどレアではなかったが、双子は国家エックス・テクノロジー組織に在籍していた時、軍事や官庁の世界にはまだ多く残るアナログ通信の研究に携わっていた。
この双子は、整流性質のある鉱石を握り、耳に当てるだけであらゆるアナログ電波を受信、検波できる。
中長波との同調を得意とする兄の明と、短波、極超短波に強い妹の和。
二卵性ながらほぼ同じ遺伝子を持つ双子に性差意外で表れた数少ない違いは、放射性同位体遺伝子エックス・アイソトープの性質。
それもまた二人が同じ鉱石の上で手を重ねれば、ほぼ全ての帯域をカバーする受信を可能とする。
この能力はロータスマ-トが商品とする、エックス・テクノロジー情報の盗み取りに大きく貢献した。
オーキッドがデジタル情報への介入と解析を可能とするように、この双子はアナログ情報の流れを我が物にすることが出来る。
二人だけの閉じた世界に生きる双子のエックスは、代償として常人より強く濃い外界との接続を可能としていた。
「来るぜ、蘭」
黒い車は車間距離を詰めてきた。
蘭が自分たちの追尾に気づいたことにほんの少しの動きから気づく。言葉や顔色ではなく走る姿で心を読む。生涯を車で速く走ることに費やしていた双子は、蘭が陸上競技で走る時と同じ知覚を備えていた。
軽く蛇行した海沿いの道路。黒い車は獣が停止した状態から駆け出すように、追尾速度から一気に加速した。
V6ツインターボエンジンに市販車ではありえないブーストをかけた黒い車が背後に迫る。蘭は目を見開いた。
「……速い……」
自動車がタイヤで走るのではない。航空機が地表近くを飛行しているような動き。蘭が今まで追い抜いてきた世間一般の車とは別物。
「性能はタメ……いやそれ以上かもね。わたしあっちに乗り換えたくなったわ」
隠れて尾行するのをやめらたしき黒い車は、オーキッドのすぐ後ろまでつけていた。
双子の妹、和は助手席に座り、目前の車のナンバープレートや車種、車体色を携帯電話で照会した。追撃対象の確認をすれ携帯電話は用無し。和は二人の大嫌いなデジタルデータの塊をコンソールボックスに投げ込んだ。
ロータスマート店長に氷室はオーキッドに盗聴、介入されぬ通信を行うため一種の違法ラジオ局を作り、深沢兄妹に指示を伝えていた。
デジタル解析で有用な情報を取捨選択する、オーキッドの機能では取りこぼされるラジオ放送によって、オーキッドの出現と予想される逃走経路を伝えた。
市販のラジオではノイズのひとつとしてしか捉えられない微弱な電波を、鉱石によって電波を拾う双子のエックスは受信した。
今回の仕事では情報伝達に使われる短波の検出を得意とする妹の和が助手席に座り、その役を負っていた。
「兄さん、どうするんですか」
双子の兄、明はオーキッドと同じパドル式セミオートマチックの黒いグラン・ツーリスモを操縦しながら答えた
「やられて一番イヤなこと」
兄にとって妹の声はどんなにうるさい車に乗っていても聞こえる。妹にとって兄の気持ちは言葉で聞かずとも運転する仕草でわかる。オーキッドが蘭とのインターフェースのため備えていた機能を、二人は既に持っていた。
「何もかもぶっ壊して進む車なら、その方向を変えてやればいい」
海沿いの道。兄はガードレールの外に目をやった。
「海に落すんですか」
「あの壊れない車はそんな簡単にはいかないよ、でも速さではこっちのほうが上だ、だから」
明はアクセルを踏み、オーキッドとの距離をさらに詰める。
「一緒に落ちるんだ」
「兄さん」
明はステアリングを握っていた手を離し、何気なくシフトレバーに手を置いた。和は電波を聞くことの出来る方鉛鉱の石を持っていた手で、兄の手にそっと触れる。それで充分。
この車に乗った時に一瞬思った。兄とずっと一緒に暮らせる場所に行けるかもしれないという予感。
鉱石が無くとも錆び釘や鉛筆の芯を通して二人を苛む電波から開放される場所。
二人だけの世界は意外と近くにあるのかもしれない。
自車と周囲の車との位置関係。そして海沿いの道という地理条件を勘案したオーキッドは蘭に警告を発する。
『このままケツにつかれたらやべーぞ』
蘭は頷き、一瞬バックミラーを見るとアクセルを踏みこんだ。
断崖と岩壁の切通しが続く海沿いの道。ロードサイドにはオーキッドを破壊するための道具があちこちにある。
高架状になった場所で落とされたら。岩に叩きつけられたら。海に飛び込まされたら。ハラとの接続時間がまだ短く、先ほどの修復で大容量のエックス・アクティヴィティを使ったばかりのオーキッドは、車体を自己修復させるより早く修復を制御する主要システムを破損するだろう。
車体が受けた衝撃に相応したショックを食らう乗り手もまた無事ではいられない。蘭も自らに迫る危機を認識しながら、鋭く指示を下す。
「オーキッド、パワーを前の仕様に戻して」
陸上部時代の蘭は、薬物によるドーピングについても噂話程度に知っていたが、自分で手を出す気にはならなかった。
外的な要素で筋力を増したところで自分自身で鍛え、把握している以上の筋力を得れば走れるものも走れなくなる。
走行中の転倒や足の故障、突然の事態への対処が出来ない状態では走れないし、走る途中絶えず回転している頭脳までもが使い物にならなくなる。
蘭はハラのエックス・アクティヴィティによって大幅にパワーアップしたオーキッドを、自分には過ぎた性能だなんて思ってなかったが、今この場で走り、生き延びるため必要なのは、未知のパワーより今までの走りこみで熟知した動力性能。
オモチャで遊ぶ時間は終わり。ここからは信頼できる走りのみが生き延びる力となる、ドーピングを使うにはまだ早い。
ついさっきまでパワーアップしたオーキッドの性能にはしゃいでいた蘭の身勝手な要求。続けて蘭はオーキッドに命令する。
「自己修復、カット」
オーキッドが背後に迫る黒い車に対する自らの優位性だと思っていた自己修復能力の強制停止。
『絶対ぶつけない、ぶつけられない自信ありか?」
「まぁね」
オーキッドの動力性能がハラとの接続前の、蘭が馴染んでいた仕様へと戻る。
幾輪もの赤紫の花が表示されていたディスプレイにオーキッドの図面が表示され、赤く点滅して自己修復機能のシャットダウンを示す。
背後を取られた状況。
もし黒い車から蘭が思っている通りの攻撃が来るなら、ここから先は一度でも相手にチャンスを与える位置関係を取れば海に叩き落される。
パワーもハンドリング性能もダウンしたオーキッドのアクセルを踏み足し、蘭は今までと変わらぬ速度を維持した。
オーキッドのコーナリング中、すぐ後ろにつけていた黒い車が更に前に出た。コーナーの頂点に達する直前、四輪が軽く滑り始める瞬間、黒い車はオーキッドのバンパーに追突する。
蘭の乗るオーキッドがバランスを崩し、大きく左右に振られた。
蘭がステアリングとアクセルの微妙な操作で辛うじて車体を立て直したところでもう一撃。コーナーの外側に膨らむオーキッド、ガードレールに鼻先を擦る。バンパーの左前が削り取られ、傷は修復されることなく残った。
まともにぶつかったら何の役にもたたなそうな低いガードレールの向こうは、断崖と海。
『ランやべーよ! 自己修復を起動させるぞ!』
「こっから落ちれば修復しようが一緒でしょ、死ぬし」
蘭はフロントバンパーをガードレールに何度か当てながら、道路からの転落ギリギリで何とかオーキッドの車体を立て直した。
アクセルを緩めれば追いつかれ押し出される。飛ばせばコーナリング等の不安定な瞬間に当てられる。黒い車はオーキッドとその中身を破壊する最適の位置に居た。
生涯を車で速く走ることに費やした双子は、車というものの動力特性とその脆弱点を熟知している。
エックス・テクノロジーの無い市販車に対するオーキッドの優位性は、位置的な優位と車を知り尽くしたテクニックの前にあっさり消し飛んだ。
夕方の六時を過ぎてもまだ残る、夏の低い落日が時折車内を照らす。蘭は横の助手席で両手をインターフェースゲートに置き続けるハラを見た。
恐怖を覚えているようには見えない、自分の身に危険が迫っている状況を認識している様子は無い。蘭は周囲とバックミラーを油断なく見ながら、鋭い目つきに反し愉快そうな声を出す。
「ねぇお坊ちゃん、遊園地って好き?」
ハラは首を横に振る。
「行ったこと、ないです」
「じゃあ今すぐ連れてってあげるわ」
蘭はそれまでカーブの曲率とコーナリングラインに合わせていたステアリングを鋭く切った。
カーブ出口の短いストレートで、まるでコーナリング中にドライバーが失神か操作ミスしたかのように旋回を続けるオーキッド。
オーキッドは道を外れ、防波堤を兼ねた分厚いコンクリートの壁に激突した。
オーキッドのフロント部分が潰れ、蘭の胸に激しい衝撃が来る。
夜中の岸壁でフロントをぶつけられ国道でミラーを削られ、団地ではリア回りをスクラップにされた。
オーキッドは蘭のひどい扱いに慣れつつあるのが不本意だった。
蘭は衝突の衝撃を受け、団地への突入で吐いた血の汚れがついたランニングシャツに、新しい血を吐く。血の唾を吐きながらアクセルを蹴りつけた。
壁に突っ込んだオーキッドは跳ね返り、一度弾き出された道に叩きつけられた。背後の黒い車以外周囲の車が途切れた中、フロント周りの潰れたオーキッドは道路でバウンドしながら一回転し、再びそれまでの進行方向に鼻先を向ける。蘭の瞳に、暗い穴ぐらが映った。
海沿いの道を塞ぐ岩山に穿たれたトンネル。
オーキッドはフロントを潰し、車体をフラつかせながらトンネルへと飛び込んでいった。
オーキッドの激突を後ろから見ていた黒い車の双子は、咄嗟にアクセルを緩めて距離を取る。
「自分からぶつかりましたね」
「つまり、何かを仕掛けて来る」
目前のオーキッドが事故のダメージを窺わせながらトンネルに突っ込んでいく姿を見て、双子は同じ考えに至った。
あの赤い車は左右を壁に囲まれ、互いに身動きの取れないトンネルのどこかで殺しに来る。
明が本能的に察知した蘭が行動を起こすタイミングは、トンネルを出た瞬間。
「出口で鳥かごを落とす」
トンネルを出てすぐに、道の外は数mの段差がある砂浜となる。
オーキッドをこの黒い車もろとも砂浜に叩き落す。可能か否かはトンネル内での双方の位置関係で決まる。
明の操縦する黒い車はオーキッドの斜め後ろをキープしつつ、トンネルへと滑り込んでいった。
関東の幹線道路ではあまり見かけなくなったレンガ積みのアーチ状トンネル。照明だけは他のトンネルと同じで、内部はオレンジ色に照らされていた。
背後から追われ、傷つき性能で劣るオーキッドを操縦しながら両眸を橙色に輝かせる蘭はオーキッドにひとつ指示をした。
明と和の黒い車がトンネル内に入った次の瞬間、蘭はレンガ壁にオーキッドを再び激突させた。
さっきの衝突で既にフロントバンパーは潰れ、フロントタイヤから先が大きく欠損している。衝突の衝撃でオーキッドの車体が掬われるように持ち上がり、垂直というより少し湾曲したトンネル内壁にタイヤがかかる。蘭は壁に向かって突っ込んでいくオーキッドのアクセルを踏み続けた。
回転のパワーを有したままトンネルの壁に当たったタイヤは、そのままオーキッドの車体を上へと蹴り上げる。オーキッドはトンネルの壁を登り始めた。
アーチ状トンネルの内壁を駆け上がり、トンネル内の灯りや構造物のいくつかを壊しながら逆さまで天井を走り抜ける。
目前の視界が一回転する中、蘭はステアリングを掌にかかる圧力だけで微調整をしながらアクセルに足を踏ん張り、姿勢を維持する。回転するオーキッドの下を黒い車が追い抜いていった。
助手性に座るハラの感受性に乏しかった瞳に今までとは違う色の光が点る。
今までの生涯で受けた刺激をすべて集めても足りぬ奇想天外なドライブ、ハラの心は恐怖とは違う感情が芽生えはじめる。
自分を守ってくれる力。
生き延びようとする意思。
回転する視界の中で、ハラはオーキッドが発揮する力と、隣でオーキッドを操る蘭の意思を感じていた。
スリックタイヤと呼ばれるフォーミュラカーの溝の無いタイヤは、硬質の合成ゴムに溝を切った公道走行車用のタイヤと異なり、爪で引っかけば剥けるほど柔らかいタイヤを、アスファルトに溶かし込むようにしてグリップを得る。
オーキッドが自己修復機能の応用で得たのは、スリックタイヤの特性を更に向上させ、路面に粘着するようなグリップを可能とする能力。
峠の走り屋が未だにグリップとドリフトの速さを競っていることからわかるように、ただの競争じゃない公道での緊急走行ではグリップ力をとてつもなく上げるより、限界を設定し滑らせたほうが実用性に優れている。
オーキッドは通常、公道チューニングカーのタイヤとしては最も高性能で、主に金回りのいい走り屋が履いているSタイヤに準じたグリップ力を得ていたが、緊急時には乗り手の望み次第でグリップを大幅に上げられる。
オーキッドは車の性能を超えることができる。
蘭が熟知したノーマル性能に戻したのは、この手札を使う瞬間のため。背後に迫る黒い車を制するのに必要なのは、車であって車でない動き。それに気づいたのは、車の速さより自分の足で走る速さに長く馴染んだ蘭。
車のストリートレースにも陸上競技の競り合いにも、獣の追撃にも無い方法。蘭の速さを求める気持ちには車や足などの枠は無い、ただ速く、強く走り生き延びる。
オーキッドが実行したのは自己修復カットの継続とタイヤのグリップ性能のドーピング、そしてパワー。そのために蘭が単純に伝えた指示内容はひとつ。
「ここをこうやって走る」
ディスプレイに映るトンネルの内周を指で辿っただけの要求に従い、オーキッドは自らの能力を開放した。
蘭とオーキッドだけでは無理だった。今はオーキッドが自らの全てを挺しても守るべきご主人様のハラが居る。
サーカスかジェットコースターのようにトンネル内周を回ったオーキッドは一回転して路面に着地した。さっきまで背後に迫っていた黒い車は前方に見える。
ほぼ落下に近い着地の衝撃で下から背中にパンチを受けた蘭は今日だけで何度目か、口から鮮血を滴らせる。オーキッドは自身の扱いに対しての感想を述べた。
『ひでぇことしやがるな!』
「ゴメンね~ちょっと前を潰す必要があったの」
最初の衝突でオーキッドのフロント部分はほぼ潰れ、自己修復の無いままトンネルの天井を走り、落っこちた車体は駆動部分のあちこちに損傷を受けていた。
『まさかクルマでバレルロールやる奴が居るとは思わなかったぜ、居るなんて信じたくもねぇ』
「自己修復、全開……何そのバレルロールって?」
オーキッドのモニターに車体図が映る。ついさっき団地の一室に突っ込んだ時よりも重いダメージを受けていた。
車体前部と底面についた無数の損傷と、駆動機構の破損を示す警告の文字で画面は真っ赤になっていた。着地の衝撃で四輪のうち三つが回転を止めたオーキッドは、部品をまきちらしながら左後輪だけで進む。
黒い車に乗った双子は目の前で起きた事態に対処しようとした。
自分たちの乗る黒いグラン・ツーリスモと同一の車種に見える赤い車。所属する組織ロータスマートが鳥かごと呼び、その奪還に組織の進退を賭けているエックス・テクノロジー工業製品。目の前を走る鳥かごは自分たちの乗る高度なチューンドカーより遅く、乗り手もまた未熟に見えた。
鳥かごが意図的に見える動きで壁に激突した、事前説明で聞いていた自己修復が作動する様子は無い。鳥かごが何かの罠を仕掛けようと動いた途端、目の前に現われた狭いトンネル。
双子の兄、明は咄嗟の判断で、共に動きの制限を受けるトンネルの中でこちらに有利な位置を占め、トンネルを出た瞬間に仕掛けてくるであろう向こうの攻撃を予測した。
それまで明の目から見ればさほど速くはなかった鳥カゴは突如、車であることが信じられない動きを見せてトンネルの壁にぶつかり、壁を登った。
先手を打ち、巻き添えで海に落ちる積もりで斜め後方をキープしていた双子の頭上を越え、後方に回りこまれた。今になってやっと身動きの取れない状況にあるのは自分たちだということに気づいた。
カーブを描いたトンネルの中。再び背後に回るべくブレーキを踏めばコントロールを失う、そんな時に相手に一撃を食らえば逃げ場の無いトンネルで壁に激突する。
蘭は湾曲したトンネルの出口が見えてくる中、左後ろのタイヤしか回らないオーキッドの右フロントをガードレールに擦りつけながら直進していた。
「まずエンジンを修復、それからタイヤ、早く四つとも回さないと削られて無くなるわよ」
『ヤだよこんな姿じゃご主人様に恥ずかしい! 外装を修復するぞ!』
タイヤより前の部分が無くなり、外見では最も損傷のひどいオーキッドのフロント部分が再構築される。
『どうでぇランよ、あっという間に元通りのピッカピカだぜ』
次の瞬間、蘭は修復されたばかりのフロントバンパーをトンネルのレンガ壁に叩きつけて潰した。
駆動バランスが狂い左へと流れるオーキッドを左前のバンパーをぶつけることで強引に姿勢修正し前へと進める蘭。視線の先にあるのは、さっきまでオーキッドの背後からバンパーをぶつけてきた黒い車。
予想外の方法で背後に回られた黒い車に乗る双子は、続いて来るであろう蘭の行動を警戒し、スピードを上げて距離を開けようとしている。
蘭はオーキッドのアクセルを床まで踏み、エンジンの一部を壊しタイヤが三つ回らないオーキッドで黒い車を追った。オーキッドは外装の修復をあきらめ、まず走行装置の修復を開始した。
まず、エンジンと補機類が回復する。 動力機能の基幹となるパワートレーンが蘇り、やっとまっすぐ走るようになる。
最後に蘭が潰したフロント部分を修復させる。十秒に満たぬ間に自己修復は完了した。
『直ったぞラン!これ以上俺をひでぇ目に遭わせたらお前はクビだ』
顔を血で汚した蘭は悪鬼のように笑い、前方を走る黒い車に目を向けた。パドルでオーキッドをシフトダウンさせ、前方の黒い車に向けてアクセルを踏み込む。
「コーナリング中にバンパー押して事故らせるなんて、わたしはそういうの絶対許せない」
オーキッドはそれまでの追撃速度から急加速する。曲がりくねった橙色の洞の中、トンネル出口直前の緩いカーブに達した黒い車は、背後から物凄い衝撃に襲われた。
オーキッドの追突。
自己修復で前部の破損を回復させたオーキッドはまたしてもバンパーとフロントグリルを潰す。
黒い車は後ろのバンパーを大きく凹ませながら前方に吹っ飛んだ。さっきの黒い車による追突がノックなら、ショットガンでドアを吹っ飛ばすくらいの衝撃。
オーバースピードでコーナーに突っ込んだオーキッドは追突によって減速し、四輪を鳴らしながらコーナリングした。損傷したフロントを即座に修復し、追突の衝撃で一度路面から浮き上がった黒い車が再びグリップを取り戻した瞬間、更に一撃を食らわす。
ぶつかりながらトンネルを脱した二台。オレンジの灯りに包まれていた赤と黒の車はトンネル照明によく似た橙色の落日に照らされる。
バンパーの右寄りにぶつけられた二度目の衝撃に黒い車は左に吹っ飛び、道路端のガードレールに車体を擦りつけた。
ガードレールと路肩のコンクリートの摩擦でスピードを殺した黒い車。背後からの衝突を繰り返していたオーキッドと一瞬、横並びになった。明と和、いつも二人でひとつのものを見る視線と蘭の視線が交錯する。
車と共に育った双子は車を操縦する腕ならば誰にも負けないと思っていた。車での追いかけっこなら、たとえ相手の車がエックス・テクノロジーによって得た無限の力を有する車であろうと、操る人間の技量差の前にはいかほどのものでもない。速さ、ただそれだけの機能をひたすらに追い詰めた車と自分たちなら、魔法の車をも超えられると。
明と和は見た。短い黒髪の女の子。口とこめかみから血を流し、黒い車ではなくその中に居る自分たちを直視する瞳。
生涯を車に費やした双子が見たのは二人が、車とスピードに魅入られた者が皆知っているモノ。
二人の前にスピードの魔物が居た。
三度目。
ガードレールに車体をこすり付けている黒い車。真横を通過したオーキッドが車体を振り、リアバンパーで強烈な体当たりを食らわした。
車体をほぼ真横にするほどにタイヤを滑らせたオーキッドの一撃。黒い車はガードレールの上に掬い上げられるように道路から弾き出され、そのまま路外の海岸へと落ちていく。
操縦していた双子の兄、明はシートベルトを外して和に覆いかぶさった。落ちていく車の中、バケットシートに座った和は明の腕の中で叫ぶ。
「アキラ!」
妹の和は初めて兄を名前で呼んだ。
何かの間違いで別々の体に生まれてきた二人。ただの石ころに戻るならその間違いを戻したい。ずっと抱いていた兄への気持ちを伝えることができれば、あとは二つの不完全な体は一つのちっぽけな石に還るだけのこと。
明と和はひとつになりながら、砂浜へと落ちていった。
追撃してきた黒い車を海に叩き落した蘭は。血を滴らせながら笑っていた。製造されて以来最も過酷な走行をさせられたオーキッドは呆れたような感嘆したような声を出す。
『ありゃ全損だぜ、よくやったラン、方法は最低だけどな』
オーキッドは今になって、この旧い構造のトンネルが地元ではミステリースポットと呼ばれてることに気づく。
『まさかお化けトンネルでカタをつけるなんてな』
夕暮れの海岸沿いを走りながら、蘭は背後のトンネルと砂浜に落ちた黒い車を一瞬振り返りながら言う。
「ヘンな話もあるもんね、悪霊がいいひとの味方するなんて」
『おまえのお仲間だ』
あの黒い車の追撃から逃れるには、黒い車を破壊するしかなかった。
切通しの岩山や断崖等、あの車を追い落としてぶっ壊すために必要なものは海沿いの道路の周辺にいくつかあった。
蘭はトンネル手前にあった数十mの断崖や岩壁が続く道ではなく、トンネルを抜けた先の砂浜で黒い車を海岸に叩き落した。
砂浜がクッションを兼ねた凶器になり、乗員へのダメージを最小限に抑えつつ車は破壊される。
オーキッドには蘭がそれを意図的に行ったのかわからなかった、きっと偶然だろう。
蘭に他者や他の車に優しい部分があるなんて、少なくともオーキッドは今までの自身への扱いを思い返すに到底信じられなかった。
『ひとつ教えてくれ、どうやってこの方法を思いついた?』
「来る時にもここ通ったでしょ? そんときこうやって走れば面白いなぁって」
オーキッドはひとつ学んだ。一番恐ろしいのは幽霊や魔法ではなく人間だと。
蘭とハラの乗るオーキッドは砂浜に波が寄せる音が響く海沿いの道を静かに走っていた。
修復が完了しスムーズなエンジン音をたてるオーキッド。さっきの追撃戦での興奮の反動か、蘭の運転もいつもより穏やか。
団地から連れ出されて以来続けざまの刺激を受けていたハラがやっと口を開く。
「ぼく……ぼくは……これからどうなるんですか?」
「ずっと止まっていたお坊ちゃん。これから走るのよ、望む場所まで、誰よりも速くね」
ハラは頭を上下させた
海沿いの道路から数m下の砂浜に叩きつけられ、スクラップと化したチューンドカー。
中に乗っている双子は二人とも意識を保っていた。
「兄さん……大丈夫?」
「うん」
双子には意味のないやりとり。自分が無事なら相手も無傷に決まってる。妹の和は思考も行動も同じ兄のただひとつ自分にはわからなかったことを聞く。
「なぜ負けたんですか?」
「オレは和ほど運転うまくないから……あの鳥カゴの子は和の次くらいに速かった」
ついさっき双子の兄を名前で呼んだ和はこれまで通り兄さんと呼んでいる。
たった一度伝えた気持ちを明が覚えてくれていればそれでいいと思っていた。
「兄さんはあの時速度を上げて逃げることも出来たし、逆に鳥カゴを海に落とすこともできた」
咄嗟にエンジンスイッチを切ったので車両は炎上を免れた。砂浜に落ちたおかげでタンクからガソリンが漏れている様子は無い。
明は落下時にシートベルトを外したため着地で腰と背中を打ち、まだ自力で起き上がり車から出るのは無理そうだった。和もまた兄より先に逃げることなんて考えていなかったし、もう少しここで兄と一緒に居たい気分だった。
「勝って小鳥の奪還に成功したら俺と和は誘拐犯だ。俺たちには似合いだけどこの車が可哀想だよ」
「車に悪いことをさせてはいけない。兄さんはいつも言ってましたね」
結局、妹に理解できなかった兄の行動は、妹がこの車のステアリングを握れば同じことを考えるであろう内容だった。
「この車、速かったな。でも借り物より俺らの車のほうがいい」
黒いチューンドカーは道路からガードレールを乗り越え、半回転して天井から砂浜に落ちた。ひっくり返った車体は一度跳ねて元に戻る。
元は乗員保護のためだったが、現在のチューンドカーでは車室より車体の強度を確保するための装備になっている鉄パイプのロールケージ。コーナリング性能を上げるための低重心と固いサスペンション。車の速さを追求するために乗員の安全性や車体寿命を削り取る装備は結果として双子を守ってくれた。
「あの車もそろそろ車体とエンジンが限界です。次はこれと同じ奴を買いませんか?」
「それもいいな」
和は同じデニムジャケットの胸元に下げている兄の鉱石にそっと触れた。明もまた妹の胸元に下がる鉱石を指先でつつく。兄の明は石越しに和の胸に触れ、自分の胸にある石に手を置く時より柔らかい感触に気づいた。
石を通して無数の電波が双子の脳内に流れ込んでくる。双子は互いの石に触れながら、普段は嫌いだった音の奔流に耳を澄ませた。
意識して検波すれば声や音楽になる電波は、二人で受信範囲を広げて聞くと、二人の乗る車の外から聞こえる波の音に似ている。
電波がこんなに綺麗な音だということに気づかせてくれたのは、明にとって唯一の女。和のただ一人の男。
二人だけの世界を望む双子に与えられた、外の世界と繋がる能力の証。
とりあえず二人がもうしばらくの間、ひとつになれない不完全な別々の体で居続けるためには、この能力ともう少し付き合うことになるらしい。
妹は床に転がった携帯電話を拾い上げた。
「とりあえず知らせないといけません」
「店長と副店長だな……俺の家族は和だけだから」
壊れた車の中、夏の遅い落陽を眺め、波の音を聞きながら双子は身を寄せ合っていた。
店長の氷室は電話を切る前にもう一度念を押した。
「車体の引き上げなんてどうでもいいですから早く病院に行ってください。本当に二人とも無事だったんですね?」
レジ前に立つ布袋は氷室が電話を切ったタイミングを見計らい、氷室が居るバックヤードに背を向けながら聞く。
「失敗、ですか?」
「うんまぁ。でもいい知らせもあるよ」
布袋が振り向くと、氷室は電話の受話器を持ったままその場に座り込んでいた。
「二人とも負傷したけど命には別状ないそうだ。良かった。本当に良かったよ」
これからのこと。隠れ家の全壊とレンタルしたチューンドカーの損失。数え切れないほどの問題は発生した。それでも二人は生きている。
怪我はしたけど共に働き、組織を興し、これからの未来がある二人は無事、自分たちの家に帰ってくる。彼にとってこれ以上の幸運はなかった。
氷室は国家エックス・テクノロジー組織に籍を置いていた時、その日の朝まで楽しく話していた仲間が元気に出動し、もう二度と話せない姿となって帰ってくる経験を何度かしていた。
彼が海外のエックス組織と、エックス少年ハラの略取と技術実証機の破壊という契約を交わしてからずっと、最悪の結果として想像していたのは組織構成員を失うこと。
それが現実になったことを知らされ、冷たくなった彼らと対面する瞬間を悪夢として見ていた氷室は、この仕事のあちこちで口を開けて待っている死の招きを回避できたことに感謝した。
バックヤードの床にしゃがむ氷室を見た布袋は、手に持っていた酒類の仕入れ伝票を仕舞い、鍵のかかった引き出しから別の書類を出す。
「色々大変ですが、なんとか次の作戦を立案しましょう」
氷室は捨てられたエックスの帰るべき場所を作りたいと望んだ。布袋はその気持ちに惹かれて集まったエックスの最初の一人。
「その前に彼らの見舞いだよ。身体の怪我よりまず精神的なダメージを和らげるのがぼくの努めだ」
「失敗続きですね」
「いや、実はすごくいいことが一つあったんだよ」
氷室は床に座ったまま布袋を見て笑う。
金も実績も無い組織に人を集めたのはこの笑顔なんだろうなと布袋は思った。
「あの双子がね、初めて僕のことを名前で呼んでくれたんだ」
蘭の乗るオーキッドは黒いチューンドカーを完全に破壊した。
閉じた二人の世界にもほんの少しのひび割れを残したらしい。
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