第八章 松井と恒松

 氷室はコンビニのレジに立ちながら、開け放ったドア向こうのバックヤードに居る金髪の男に話しかけた。

「ハラくんに必要なものは滞りなく補給されていますか?」

 人工受精によって作り出された、バイオコンピューター稼動能力を有するエックスの少年ハラ。

 ハラが生まれてからずっと収容されている施設から、近隣にあるエックス・テクノロジー技術開発の研究所まで移動する隙を狙い、連れ去ったロータスマート。

 店長の氷室は略取したハラを、組織が神奈川県に所有する団地の一室に軟禁した。

 元々は副店長の布袋が家族と住んでいた場所で、布袋がロータスマート二階に居を移し不要になった団地。

 普通のアパートより賃料の安い公団住宅を解約するのも惜しいという氷室の判断で家賃を払い続けていた隠れ家が役に立つことになった。

 遅番昼勤が終わり、これからもうひとつの仕事場である団地に向かう金髪の男、恒松。

 彼は同じく遅番昼勤の坊ちゃん刈りの男、松井が書いた書類を受け取りながら答える。

「何もねぇよ」

 恒松はハラの行動を記録した日報を手に持っていたファイルに綴じている。店長の氷室から目をそらし、日付以外昨日と何も変わらぬ書類を見ていた。

「あの何も欲しがらねぇガキは俺たちが何を買ってやっても笑わねぇし喋らねぇ。俺は悪い遊びのひとつも教えてやりてぇな」

 月曜日から土曜まで、昼の十二時から午後六時まで。コンビニでレジを打っている二人の若者。

 松井と恒松はロータスマートがエックスの少年ハラを拉致して以来、コンビニでの勤務が明けた夜間に隠れ家に常駐し、ハラを警護する仕事を最も多く請けている。

 この二人が有していた放射性同位体遺伝子エックス・アイソトープが放射するアクティヴィティは、治癒効果を有している。

 魔法漫画に出てくるような傷があっという間に治る能力。切られたら痛いという人間にとって大切な部分で甘ったれた人間の空想に相応しい能力と似ていて違う。

 医学の世界では先天的な欠損と言われる神経細胞に存在する不可逆性の形成不全を外科処置無しに生成する技術。

 ニューロンの形成を可能とする松井と、シナプスの構築が出来る恒松。

 細胞を採取して電子顕微鏡で見ないと確認されない能力。類似の効果をもたらす投薬や外科手術といった、表の技術に隠れた日陰者の能力。

 国家エックス・テクノロジー組織で実験マウスや培養細胞を相手に終わらない実験をさせられ、収益に繋がりにくい研究に相応の予算不足で実験が行われない時には便利屋のように使いまわされる日々に飽き飽きした二人は、やがて国家組織から出奔した。

 民間エックス・テクノロジー組織に入り、専ら他のエックスに関する情報の収集と売りこみを担当していた二人は、もう自らのエックス・アクティヴィティを使うことはないと思っていた。

 組織が略取した人工受精エックスの少年ハラに出会うまで。

 うさんくさい医療技術や健康法と同列に扱われていた自分たちの能力は、この笑わず喋らない少年のような感情を失った脳細胞のためにあると信じこんだ。

 最初は科学や医療の世界では落ちこぼれか詐欺師扱いをされたエックス・テクノロジーで見返してやりたいという欲目だった。

 それはやがて、エックスとして十代の時間を過ごし色々な物を失った時間を、この少年と一緒に取り戻そうといういう気持ちに変わっていた。

「あれくらいのトシのガキに必要なのはお菓子やオモチャじゃねぇ。同い年の友達と遊んで喋って、悪いコトする時間だ」

 バックヤードの狭い机でさっきまで日報を書いていた坊ちゃん刈りの男。松井はボールペンをペン立てに放り込みながら恒松の言葉を引き継ぐ。

「警備の関係上、他の子供と遊ばせるのは無理でしょう。でも僕らがそれに替われば不完全ながらハラくんの情緒育成には役立つ」

 物静かな話し方に隠された感情は苛立ちを表に出している恒松よりも強く、ペンを投げる仕草が示している。

 客足の途切れた昼下がりのコンビニ。

 氷室はレジ前のお菓子を整理しながら呟いた。

「わたしたちはあの少年を悪者から助け出す正義の味方ではありません。親元から奪い他所に売り飛ばす犯罪者です」

 夏休みが始まる頃、小銭を握り締めてコンビニにやってくる子供たちのためレジに並べた駄菓子。

 氷室は子供がお菓子を買いに来た時に、車に気をつけるように暗くなる前に帰るようにと出来るだけ声をかけるようにしていた。

「今のわたしたちに必要なのはハラくんを手元に置き奪われぬようにすること。それにここがあの少年にとって居心地のいい場所になったら、一番つらい思いをするのはあの子です」

 ロータスマートが実行する表向きの仕事は少年ハラが希望する海外組織への移籍を交渉する代理業務。そこにハラの意志は無い。

 高額な報酬と引き換えに少年の身柄引渡しを求める欧州のエックス組織からは、バイオコンピューターの稼動を可能とするエックスの少年は高度な実験と研究に従事するとだけ伝えられている。

 氷室にはハラが欧州のどこかでコンピューター部品のひとつに等しい扱いを受けることはわかっていた。

 自国で養成したエックスならともかく、他国の反国家組織から金で買ったエックスの扱いなど推して知るべしだろう。

「ここでは何も与えないのがのが正しいこと。ですか」

 本当に怒りを覚えているのは松井。そんな時いつも替わりに怒ってくれるのは恒松。

 恒松はファイルをコンビニ関連の書類を仕舞う棚の隣にある色違いのスチール棚に放り入れた。

「子供がその正しいことに傷ついてる時、大人は何のために居るんだよ!」

 恒松と松井は定時の仕事である少年の監視に行く前、団地向かいのショッピングセンターで買い物をした。

 ハラに必要な食事は一日三回ケータリング会社が宅配する。恒松が松井に金を借りて買ったのは両手に抱えきれないほどのお菓子。

 与えられた食事を黙って食べるだけだった少年の前に恒松が並べた色とりどりのお菓子。

 ハラはしばらくそれが何なのかわからない表情をしていたが、そっとホットケーキのパックに手を伸ばす。

 松井は国家エックス・テクノロジー組織の記録にあった、この少年が他者の感情を知覚する能力を失ったというのは大嘘なんじゃないのかと思った。

 恒松が初めて自分の職分範囲を一歩踏み越えた行動に、ごく微かながら今までにない反応をしている。

 それとも、もしかして今まで人の役に立つところを一度も自分の目で見たことの無い自分たちのエックス・アクティヴィティが何かを変えたのか、と夢を見ようとする自分を抑え込んだ。

「おいガキ。おまえホットケーキが好きか?」

 ハラはいつも組織の構成員に話しかけられた時そうであるように、視線を落としたまま何も答えない。黙ってホットケーキのパックを摘む。

 恒松はハラの手からホットケーキを奪い取った。ハラは何の反応もしない。

「冷えたホットケーキは食えたもんじゃねぇ。レンジで温めてきてやるから待ってろ」

 マーガリンとシロップの染みたホットケーキを残さず食べた少年は、いつも通り美味そうでも不味そうでもない顔をしていた。

 その日以来、松井と恒松はエックス警備の日は必ずホットケーキを買い、食後にはレンジで温めたホットケーキを与えた。

 与えられる三度三度の食事を機械的に口に運んでいたハラ。

 恒松は夜の食器を片付けに行く時にハラが自分を見ていることに気づいた。

 少年は恒松が一日一袋だけ、夕食後の歯磨き前に与えると決めている暖かいホットケーキを渡すまで、ずっと見続ける。

 欲求も情緒も無い少年が初めて見せた何かを求める瞳。それが恒松には辛かった。

 松井と恒松はそれまでにも増して、ハラを匿った隠れ家の警備を引き受けるようになった。

 二人のエックス・アイソトープが放射する神経細胞の形成不全を少しずつ蘇らせるアクティヴィティ。

 それに少しでも長い時間触れさせるのが、この少年を海外に売り飛ばす男達に出来るせめてもの贖罪だった。

 二人が警備を行う前。ハラのために買うようになったホットケーキ。

 ハラの組織への引渡しが迫る中、松井と恒松はあと何回このホットケーキを買ってやれるかと考えた。


 数日後。氷室はエックスの少年ハラを名前ではなく組織内の暗唱で呼ぶようになった。

 対等の人間ではなく、非常に貴重で丁寧な扱いが求められる物として扱わないといけないという彼なりの線引き。

 彼は自分が国家エックスをやめた後、民間エックス互助法人なんてものを始めた理由を少し考えた。

 エックスを人間としての尊厳を与えず使い捨てる国のやりかたに嫌気が差したからだった気がする。


 破壊された箱。

 倒れ動かない松井と常松。

 あの日引き離されたオーキッド。

 ハラの目の前には、ハラの周りにある物全てを壊した、蘭というひと。

 ハラはいいひとでもわるいひとでもない、速いひとだというお姉さんを見上げた。

「じゃあ、行こうか?」

 蘭が掴んでいたハラの腕を離すと、ハラは目の前にあるオーキッドの開けっ放しになった右側ドアに歩み寄った。オーキッドが蘭と話す時とは大違いの丁寧な声を出す。

『すみませんご主人様。こちらは一時雇いの運転手に任せてご主人様はどうか左のお席へ』

 オーキッドは助手席側の左ドアを開けた。

 右側ほど損傷がひどくなかった上に、蘭が二人の男を相手に立ち回ってる間にできるだけ自己修復したおかげで左ドアを中心としたボディフレームは何とかドアが開く程度まで修整されていた。

 オーキッドはご主人様を迎え入れるその瞬間のため、自らの自己修復能力を尽くして閉ざされたドアを開けた。

 左ドアは軽い軋み音をたてながらも自動的に開く。

 オーキッドは蘭の出入りする右側のドアをを修復、自動開閉しようとは思わなかった。現在オーキッドの操縦席に座る者は開かないドアは力ずくでこじ開ける女。

 蘭が自転車置き場の屋根からジャンプしてバックで団地の窓から突っ込み、オーキッドをスクラップ寸前にしたことで痛いほど知らされた。

「そういうこと、お坊ちゃんはこちらにどうぞ」

 蘭は言葉に反し荒っぽくハラの腕を引っ張り、オーキッドの前を回って助手席側まで歩く。

『蘭てめぇ! ご主人様の扱いはもっと優しくしろ!』

 蘭はそのままハラのズボンの腰を掴み、ハラを助手席に放り込む。

 オーキッドは気づかなかったが、ガラスや家具の破片が散乱するリビングを裸足で歩いたハラは蘭に半ば宙吊りにされていたおかげで足裏や体に怪我をすることなくオーキッドの内部に収容された。

 ご主人様たるハラを無傷のまま保護する。

 蘭はそれ以外の物全てを壊しながらも当初の予定を達成した。

 蘭が乗り降りする時にはまずありえない、自動的なドア開閉で左ドアが閉められるのを確認した蘭はオーキッドの右側に回り、操縦席に乗リ込もうとする。

 蘭のためにドア開閉のサービスなどするわけないオーキッドの右ドアに手をかけ、車体の変形で開閉困難になったドアを力任せに開けようとする。

 蘭の背後で金髪の男、恒松が起き上がった。

 侵入者の蘭より先に家具の下敷きになった松井に視線を送り、安否を気遣う。

 倒壊した箪笥と蘭の投げた木片の一撃で続けざまの負傷をした松井は、朦朧とした意識の中で蘭のほうを指さした。

 ナイフを拾い立ち上がった恒松。

 背を向け歪んだドアを軋み音と共に引き開ける蘭に向かってナイフを振りかざすが、オーキッドが蘭に警告を発する直前に手を止める。

「……おい……」

 振り返った蘭。

 咄嗟に身構えるが、男はナイフを振り上げたまま動かない。

「そのガキは……コンビニのホットケーキが大好きだ……週に二度、必ず買ってやれ……」

 恒松は手からナイフを落とし、大の字になってその場に倒れた。

 蘭は昏倒する恒松をしばらく眺めていたが、台所に放り出された食べかけのホットケーキのパックを見ながら呟いた。

「……パンケーキくらい自分で作らせるわよ……」

 蘭はオ-キッドに乗り込む前に床にしゃがみこみ、何かを拾い上げた。

 金髪の男が持っていたナイフ。

 蘭の目の前には自らの手で傷つけた二人の男が居る。

 オーキッドは彼らを国家に反する悪の組織の構成員と言い、ご主人様を国家施設から攫った誘拐犯でもあると教えてくれたが、実際のところオーキッドの話に何度も出ている国家エックス・テクノロジー機関を蘭は一度も見たことがない。

 自らの目で見えるものだけで判断するなら、蘭は間違いなく人家に侵入し破壊を尽くし、家人を襲って子供を攫った犯罪者。

 オーキッドを速く走らせるという目的ありきでハラを奪取した蘭にとって、その過程にあるのが善行だろうと悪行だろうと関心はなかった。

 ただ、この破壊と暴虐、そして誘拐を国家とかいう姿の見えないものに正義呼ばわりされるのだけは気に入らなかった。

その先には正義の泥棒や正義の殺人がある。

 自分が間違っても正義の行使者などと言われないように先手を打っておくことにする。

 蘭は拾ったナイフのロックボタンを押して飛び出ていた刃を納め、ショートパンツのポケットに突っ込む。

 柄が合成樹脂で出来たアウトドア用ナイフは見た目の割りに軽く、ポケットの中でもそれほど嵩張らないのが気に入った。

『なぜ武器を没収した? 彼らはもう脅威じゃない』

「ドロボウならドロボウらしいことのひとつもしとくほうがいいでしょ?」

 ナイフをパクった蘭は奇妙な満足を窺わせる表情をしながら操縦席に乗り込んだ。

 蘭が乗る時にはドア開閉のサービスなど一度もしてくれなかったオーキッドがなぜか黙ってドアを閉めてくれた。

 国道を野放図に走り回った時じゃなく、平穏な団地の自転車置き場と居住棟をぶっ壊した時でもなく、ハラを車に乗せて逃亡しようとしている今ですらない。

 一本のナイフを盗むことで法と国に守られる立場を自ら捨てた蘭に対して、オーキッドは何か思うところがあったのかもしれない。

 蘭は首を回して助手席に乗る少年を見た。

 助手席にはランニング中の蘭がウエストに巻き、オーキッドの操縦中には助手席の背もたれにひっかけてるランニングポーチがある。

 背に当たって邪魔なランニングポーチを自分でどけることすらしない。

 蘭は自発的な判断力を失った少年を少しの間見ていたが、特になんの感慨も抱かず少年の背からランニングポーチを掴み取り、運転席ドアの肘置きの隙間に突っ込む。

 背中の邪魔な物がなくなった少年は、おそるおそるオーキッドのセミバケットシートに背をつける。

 蘭が初めて乗った時と同じように、オーキッドが自動的に最適の乗車ポジションに導くべく助手席の位置を移動させた。

 蘭の時はすぐに自分で判断した位置に調整させ直した。

 操縦席と助手席にシートベルトが自動的に伸びてくる、カチリと音を発ててバックルに刺さり、二人の体を締め付ける。

 ハラが助手席、蘭が操縦席に収まるのを待っていたかのようにオーキッドはひとつ咳払いをし、蘭との会話では聞くことのなかった丁寧な口調で話し始める。

『ご主人様がここに座る日を待っていました』

 オーキッドの助手席前にあるグローブボックスの蓋が開いた。

 蘭がオーキッドによって偽造された車検証を取り出した時には気づかなかったが、グローブボックスの蓋裏には緑色っぽい半透明のプレートが嵌っていた。

 プレート全体が淡い光を浴びる。

『ではご主人様、お手をこちらに』

 ハラは導かれるように目の前の半透明盤に両手を乗せる。

 オーキッドは淡い光に包まれた。

 放射能研究の世界に幾つかある光の亜種と言われるエックス・アクティヴィティ独特の発光と共に、高機動情報介入ステーションとバイオコンピューター適性型放射性遺伝子保有者が接続された。

 オーキッドの車体は歪み、へこみ、リアトランク辺りがほぼ潰れている。

 変形したマフラーからは不均一な音が出て、トランスミッションからは金属同士がぶつかりあうイヤな音がしている。 

 蘭が乗っている時に有していた自己修復の機能でも手がつけられない状態。

 満身創痍のオーキッドは光に包まれると同時に変化をもたらした。

 あの時、蘭が初めてオーキッドに乗った時と同じ光。

 あの光よりも強く熱く、そして痺れる。

 花が咲いた。

 オーキッドが蘭のエックス・アクティヴィティと接続した時、ディスプレイの中に表示された赤紫の花。

 蘭と出会って以来咲き続けている一輪の花が一度萎み、咲く。もう一輪の花が咲く。さらにもう一輪。

 やがて何十輪もの花が画面を埋め尽くすほどに咲き誇った。

 黒いディスプレイが赤紫の花で満たされる中、オーキッドの能力のひとつである自己修復が作動し始める。

 オーキッドは蘭のエックス・アクティヴィティでも復旧速度は遅いながらも自己修復は可能だったが、目の前で起きているのは今まで蘭が見た自己修復とは別物。

 蘭が乗っていた時はモチがゆっくり膨れる様に似た感じで修復されていたボディは損傷した部分がそっくり無くなり、瞬時に新しい部位が現われて元の姿を取り戻す。

 外部からの攻撃を受けた時に衝撃をボディで受け止めた後に一瞬で修復し、耐衝撃性と衝撃吸収性を両立させつつ内部の乗員を守る自己修復システム。

 オーキッドの車体各部は設計者の意図した通りほんの数秒で損傷を修復させ、同時に欠損した部位をオーキッド内部にある遺伝子情報とも言える設計図に従って再構成し始める。

「……すげぇ……」

 蘭はあっという間に直っていく車体より、自分が乗っていた時と別物の排気音に耳を奪われた。

 微かなギア鳴りが聞こえる車体後部のトランスミッションさえも加工精度や表面処理品質が大幅に上がった作動音になった気がする。

 元よりオーキッドはハラのエックス・アクティヴィティによって稼動するバイオコンピュータと有機素材による自己修復車体の技術実証機。

 後から実験実証計画に相乗りしてきたエックス・アクティヴィティ変換型動力装置はそれほど高い性能を期待されていなかった。

 ガソリンエンジンをプロパンガスや木炭で動くべく改造するように通常のエンジンにエックス・アクティヴィティを燃焼媒体へと変換するマテリアルを接続し、内燃機関を作動させる。

 その機構にハラを超える適応を示すエックス・アイソトープを有した蘭が乗ったことで、オーキッドは不完全なメインコンピュータと自己修復装置を搭載しながら動力装置は制御無きままエネルギー過剰という状態になっていた。

 歪な構造はハラによって高度な制御とエンジン能力に深く関連した自己修復能力を取り戻すことで、設計段階で想定された性能とは別次元の調和を取りつつあった。

 蘭が乗り、動き出したオーキッドは、ハラと触れることで完成した。


 突然向かいの立体駐車場から飛んできた車に突っ込まれた団地の階下に人が集まりつつある。何人かは携帯を耳に当て慌しくまくしたてていた。

 厄介な警察の到着時間が近づき、身辺に危機が迫る中、シャツを血に染め、まだ背の痛む蘭の瞳は高揚に輝く。

「さっそく試してみなくちゃね」

 アクセルを吹かした。

 高く澄んだ排気音が部屋中の空気を振動させ、破壊され尽くした団地リビングの窓ガラスや食器棚が震える。

 蘭は自分がブチ開けた、かつて窓だった大穴を見た後、部屋の周囲の壁を素早く見渡した。

 蘭の頭がこの場から速やかに効率的に、出来るならさっきほど痛い思いをせずに脱出する方法を探るべく回転する。

 団地とその外にある建築物の物理的な高さと位置関係を測る蘭の判断はひとつの方向性を得たことで瞬時に答えを出す。

 生まれ変わったこの車の速さを試したい。

 蘭がステアリングを握りアクセルに足を触れさせた瞬間。瞳に映る風景が一変した。

 フロントガラス一面に映し出される各種データ。

 航空機やここ十年ほどの高級車に採用されているフロントガラス投影型のヘッドアップ・ディスプレイを基本に、更に立体的な表示と感覚的な操作を可能とした表示装置。

 蘭の眼球の動きをトレースし、それに同調しているフロントガラスの映像。

 蘭が団地の壁の一点を見つめると、突入前に撮影した画像とリアルタイムで測定した音波、赤外線、電磁波のデータから構築した「壁の向こう側の風景」を映し出す。

『へへっ、どうでぇ蘭、これがご主人様のお力による俺の本来の機能よ。便利だろ?」

 蘭は自分が超人的な視力を得たかのような風景に手を横に振って応える。

「ジャマよジャマよ! 消しなさい! オーキッド!」

 普段見えないものまで見えれば普段ではない判断が求められる。ここから生きて脱するには邪魔なもの。

『チッ、戦闘機のパイロット連中と同じコト言いやがる。じゃあ速度と最低限の数値だけ出しとくぜ』

 フロントグラス全体に広がっていたディスプレイ画像は下端に収束し、幾つかのデジタルデータを表示させる。

「それでいいわ」

 ひとつ頷いた蘭は一瞬、助手席に視線を送り、ハラに手を伸ばす。

 ハラのシートベルトを引っ張り、両肩をしっかり固定されているのを確かめるともう一度頷く。

 目の前の半透明盤に両手を置き、全身がむず痒くなるような奇妙な感覚を味わっていたハラはエックス・アクティヴィティの淡い光を放つ透明板から片手を離し、蘭の胸のあたりを通るシートベルトを掴んで引っ張った。

 頭をぎこちなく上下させる。

 それまで険しい表情をしていた蘭は、黙って真似っ子をする少年の仕草を見て僅かに頬を緩める。

 バックで室内に突っ込んだため、鼻先を窓の大穴に向けたオーキッド。

 蘭は前置き無しでいきなりオーキッドのシフトセレクターレバーをバックの位置に滑らせ、アクセルを踏みつける。

 後ろ向きで急加速したオーキッドは一秒に満たぬ間に後ろの壁に激突した。

 室内の薄い壁を壊しながら廊下をバックしたオーキッドはリアバンパーで玄関に突っ込む。

 突入の時に続いて住人を震撼させる音と振動に団地が揺れた。分厚いコンクリートの壁にヒビが入りスチールのドアが歪む。

「って~~……」

 蘭はもう一度血を吐いた。

 リアバンパーを分厚い外壁にぶつけた蘭は、団地への突入で負った時とさほど変わらない衝撃を食らう。

 団地の狭い室内で瓦礫が散乱する床をバックで急発進し、激突。

 今までとは段違いのゼロ発進加速やタイヤのグリップ。体を走る痺れと共に瞬時に元通りになる自己修復能力を全身で感じる。

「いい痛みよ!」

 蘭が体中で感じるのは苦痛ではない。

 自らにスピードを与えるオーキッドが持つ無限の力と、それを約束する心地よい感覚。

 少年はオーキッドに乗せられた途端リアの激突を味わい、固く目を閉じ足を体に引き寄せながらも両手は正面のプレートを離さない。

 オーキッドが得た自己修復による耐衝撃性と、それに不可避の室内衝撃はオーキッドの操縦者として設定されたハラの体格や身体構造に合わせ、ハラの体に受ける衝撃が最小になるよう設計されている。

 それに加えハラは肉体的な苦痛に対する感覚や反応が乏しかった。

『ランおめぇ何するつもりだ? やめろ! ご主人様も乗ってるんだぞ』

 蘭はオーキッドの複雑な特性など考えず、ただ横に座っている少年がとりあえず死ぬことは無さそうだということだけを確かめる。

 シフトレバーをバックからニュートラルを経てドライブの位置に滑らながら、隣に座るハラに話しかけた。

「お坊ちゃん、自由になる方法を教えてあげる」

 目の前には蘭が開けた大きな穴と、たった今強引なバックで作り上げた助走のための空間。

 蘭は迷うことなくアクセルを踏みつける。

「走れば、いいのよ」

 オーキッドは家具の破片を跳ね飛ばしながら団地の室内を走り、ベランダから飛び出した。

 団地の二階から飛翔したオーキッド。

 突入時にジャンプ台として使った、二階の床とほぼ同じ高さの屋根を持つ自転車置き場に着地する。

 ついさっき散々壊した自転車置き場の屋根をもう一度大きく凹ませながら一度跳ね、オーキッドはそのまま屋根の上を端まで走った。

「お坊ちゃん、死にたくなけりゃ足踏ん張っときなさい」

 感情希薄だったハラの瞳に微かな畏怖と感嘆が浮かぶ中、言葉を発しない少年の替わりにオーキッドの声が響く。

『ランやめろぉ! オレ死にたくねぇ!』

 いいひとでもわるいひとでもないと言う女のひと。ハラはその言葉が真実であることを知った。

 彼がこれまで知っている善悪の基準を超越した人間の存在。

 局所的な損傷だった自転車置き場を破壊し尽くし、団地住人の平穏な暮らしを存分にブッ壊した蘭はオーキッドを更にジャンプさせた。

 走るオーキッドの路面である自転車置き場のトタン屋根の強度とオーキッドの動力性能から予測される動線がメインディスプレイに表示される。

 着地までに少なくとも二箇所。車体を激突させるポイントがあるというデータにオーキッドは悲鳴を上げた。

 通り向かいの立体駐車場から飛び込んだ時より斜めの角度をつけて飛び出したオーキッド。予測した通り立体駐車場の壁にぶつかり、フロントバンパーの一部を潰した。

 コンクリート壁との接触により空中での方向転換と瞬時の自己修復を行ったオーキッド。今度は団地とショッピングセンターの間を走る道路の街路樹に激突する。

 そのままオーキッドは団地敷地とショッピングセンターの間を走る狭い道路に落っこちた。

 さっきは背中から来た衝撃がお尻から来る。

 蘭の狙い通り壁で一度バウンドした後に、街路樹をへし折りながら落ちたおかげで痛みは団地突入時よりだいぶマシだった。

 どうやらこの少年との接続で変わったオーキッドも、激突と同時に乗員を襲う内部衝撃は変わらないらしい。

 蘭は一瞬、隣のハラを見た。ジャンプと同時に閉じた目は開かれている。壁に囲まれて生きてきたハラは、無限に広がる外の世界を見ていた。

 オーキッドを団地の外周道路に着地させた蘭は、落下で傷ついた足回りの損傷を自己修復で瞬時に直したオーキッドを急発進させ、逃走を始めた。


 オーキッドが走り去った後の団地の一室で、昏倒していた恒松と松井は意識を取り戻した。

 普段から挨拶を欠かさないようにしている隣部屋の住人がドアを叩く音が聞こえてくる。お隣の主婦は枠が歪んで開かない玄関の鉄ドアをガンガン叩き、開けようとしていた。

 隣はごく普通の五人家族で、普段から母が三人の子供を怒鳴る声がしょっちゅう聞こえていた。

 ふくよかな体で開かぬ鉄ドアに体当たりして力任せにこじあけ、部屋に駆け込んできた主婦。

「あんたたち大丈夫かい? 今救急車呼んだからしっかりしな!」

 二人は何となくこんな母が居る子供は幸せだな、と思った。

 部屋の瓦礫を蹴散らしながら助けに来たオバサンに助け起こされながら、二人はあの少年が最も必要だったものに今さら気づく。

 少年を助けたのは組織仕事の片手間に少年の感情を取り戻そうとした二人ではなく、傷つき血を流し、すべてを壊しながらやってきた一人の女の子。

 結局のところ、自分たちがやっていたことは自己満足のための保護者ごっこだったんだろう。

 ついでやごっこ遊びで子を守る親は居ない。

 オバサンがパトカーより早く駆けつけた救急隊員をけしかける。担架に乗せられた恒松と松井は一台の救急車に運び入れられた。

 幼い頃に母親から引き離された恒松は同じく親を知らない松井に話しかける。

「なぁ……」

救急隊員に頭部の外傷以外は重傷ではないと判断された松井はストレッチャー横の椅子に座らされている。

「やっぱりホットケーキは自分で焼いたほうがうまいよな」

「あぁ、そうだな」

 松井は血の滲んだタオルを側頭部に当てながら短く頷く。

「ホットケーキの焼き方、教えてやればよかったかな」

 常松は腹に食らった蘭の頭突きのダメージが重かったらしく、ストレッチャーの上で苦しげに体を丸めた。 

「俺達にはそんなことは許されない」

「そうだな」

 民間エックス互助組織ロータスマート構成員の二人は、自らの組織が想定した未来とは別の行く末へと進む少年がせめて美味いホットケーキが食える生活が出来るようになることを祈った。


 店長の氷室は事務所と在庫倉庫を兼ねたバックヤードで電話を受けていた。

 店長と副店長である二人は夜勤に続き、昼頃に短い仮眠を取っただけで遅番昼勤のシフトをこなしている。

 連続勤務に疲れた氷室は眼窩を指で押さえる。

 国家エックスだった頃はこんな時、疲労が去る錠剤を貰ったような気がする。

 今回ばかりはあの後でひどい副作用のある錠剤が欲しいと思ったが、レジでは同じく昼勤をこなす副店長の布袋が疲労という言葉すら知らない様子で仕事に励んでいる。

 駄菓子を買いに来た夏休みの子供達を相手にレジを打っていた布袋は、氷室の電話が終わったことに気づき振り向く。

「まったくあの子たちは……まだ二十代の女の子に向かってオバサンだなんて……あ、店長」

 氷室は電話で受けた報告を一言に纏めて告げた。

「小鳥は鳥かごに戻ったよ」

 布袋は子供たちから受け取った駄菓子の代金をレジの小銭入れにしまいながら、氷室が真っ先に確認したであろうことを聞く。

「松井くんと恒ちゃんは?」 

「さっき病院に搬送されて二人とも命に別状ないそうだ」

 氷室が何よりも優先して確認した二人の安否。日ごろから近隣住人との良好な関係を築いていたことが幸いした。

「二名での護衛というのは失敗だったのかもしれません。まさか唐揚げがこんなに早く動くなんて」

 布袋は鳥かごと呼ばれるオーキッドを略取した蘭の暗唱を呼んだ。

「揚げたての唐揚げは意外とおっかないんだよ」

 氷室は昨日の勤務中に唐揚げ保温機で負った火傷を指でこすりながら答える。

 三十代も終盤にさしかかり、若い頃より傷の直りは遅くなった。

 目まぐるしく忙しい日々の中で自分の年齢を意識したことはあまりなかったが、きっともう自ら戦い、組織の構成員である若者を外敵から守ることは出来ないんだろう。

 親はいつまでも子を守れない。

 前に出て動くのは若い力、それを認めることが年を取るということ。氷室は布袋の顔をそっと見た。

 いつも自分の年齢を気にしていて、組織の若い子にからかわれるとすぐ怒る布袋は、彼が組織にスカウトした十代の頃から変わらないように見える。

「パッシブよりアクティブに戦力を割く作戦がうまくいけばいいんですが」

 団地を警備していたのは二人。

 コンビニの通常シフトに出来るだけ穴を開けない範囲でロータスマートが捻出できるのは、通常時なら二人が精一杯。

 氷室は団地での警備以外の人員として、無理をしてもう二人の組織メンバーを配していた。

 ロータスマートは元よりエックス・テクノロジーに関する情報の提供と交換による収益活動を主とした組織で、通常は最低限の情報収集と事務所内でのデスクワークで多くの仕事が片付く。

 外回りに向かぬ組織構成ゆえ人数を割けない中で何とか捻出した四人。これだけの人間を動かすために氷室と布袋は夜勤からぶっ続けの勤務についている。

「うん、後は早番夜勤の二人に任せよう」

 夏の陽はまだ照っているが、店内の時計はもうすぐ昼勤明けの六時。布袋と氷室は出動した二人に替わり、あと六時間ほどコンビニでの仕事を続ける必要があった。

 ロータスマート内で唐揚げと呼ばれる、既に組織メンバー二人に怪我を負わせた未知のエックス。小鳥を手中に収め本来の性能を取り戻した鳥かご。氷室はレジに立ち、夕方の帰宅客が来はじめたコンビニでの勤務に精を出す。

「いらっしゃいませ、ただ今唐揚げが揚げたてになっております」

 危険なエックスと正面から向かい合う力は無いけど、その役を負う彼らを後ろで守るぐらいのことは出来る。

 布袋が立案し氷室が配置した、受動ではなく能動的な警備を担当する二人が動き始めていた。

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