第七章 ハラ

蘭とオーキッドは動き始めていた。

 オーキッドはご主人様と呼ぶエックスの奪還に向け、自身の能力である高度情報介入を開始する。

 その間、蘭は走ることで時間を過ごしていた。

 蘭が寝ていたりランニングをしている昼間にオーキッドが情報を漁り、蘭の夜の日課であるオーキッドでの走りこみをしながら纏まった情報の報告を受ける。

 当初は一週間かかると思われた情報介入と必要情報の検索は二日目の朝に完了する。

 オーキッドが捜し求めていたご主人様の位置情報はあっさりと見つかった。

 蘭の通う学園と寝起きしている寮がある東京都下からは意外なほど近い、神奈川南部の半島地域にある団地の一室。

 特異な放射性同位体遺伝子を持つ一人のエックスを探し当てるのに、特別な検知装置は何もいらなかった。

 防衛省の内部に存在し、エックスファンタジー同好会の名で偽装されている国家エックス・テクノロジー組織が把握している情報と、蘭とオーキッドがこれから一人のエックスを奪いに行く相手である民間エックステクノロジー互助研究法人ロータスマートの活動記録。

 オーキッドはその中核となっているバイオコンピューターの情報介入機能を用い、ネットで繋がった記憶媒体内にある情報に侵入する。

 遠隔操作で勝手に電源を入れたPCに入り込み、設定をいじくりパスワードロックを通り抜け共有ファイルを味方につけ、中身をそっくり盗み取る。

 高度情報介入ステーション。

 このオーキッド本来の能力は国家がさほど食指を伸ばさなかったことからもわかるように、国や企業が本気で隠した高度の機密情報には歯が立たない。

 オーキッドの本領は国家による秘匿から漏れた情報や暗号化が甘かったファイル等の膨大な非重要データを集積し、有用な情報を選別する情報のゴミをかき集めるスカベンジャー機能。

 秘匿上好ましくないため表向きは禁止されているが、やらなきゃ仕事が進まないため現場では盛んに行われているメールでの業務連絡もオーキッドの能力で盗み見ることが出来る。

 幸い国家エックステクノロジー統制組織であるエックスファンタジー同好会も反国家エックス集団のロータスマートも、加入しているプロバイダーは情報管理の甘さで定評のある所だった。

 今も昔も世界各国の諜報機関には軍事衛星の技術者や敵地に忍び込むスパイとは毛色の異なるスクラップ屋、公示資料解析者と言われる資料室の主が居る。

 公開された新聞記事やニュースの断片を糊とハサミでスクラップブックに纏め、体系的な情報を地道に組み立てていく情報構築の専門家。

 オーキッドと似た仕事をする彼らはオーキッド同様に軽視されつつも、膨大な情報の山を粛々と賽の河原に積んでいる。

 オーキッド自身の言葉によると高度情報介入の能力はまだ未完成で、オーキッドがご主人さまと呼ぶエックスの能力によってしか完成しない。

 そのオーキッドを動かす当人であるご主人さまを探し出すために必要な最低限の情報介入機能はオーキッドに残されていた。

 何かの意思を持つような偶然は、こうなることを期待した必然。

 ただ一人のエックスにしか稼動させられないという設計仕様のオーキッド。

 もしかしたら再び動かすことの出来るエックスがもう一人くらい現われるかもしれないという希望的観測。

 現実との折り合いをつけることがうまくいかなかった技術者が抱いた夢物語も、それが部分的にでも事実になれば物事は予想もつかぬ方向へと進展し始める。

 事態の暴走は蘭とオーキッドが出会い、一輪の花が咲いた瞬間から始まっていた。

 

 蘭がいつも通り夜通しオーキッドで走り回る中、情報の海を一日中這い回っていたオーキッド。

 夜明けの時間が過ぎ、蘭が学園寮までの帰路につく途上で情報介入の結果ご主人様の所在地が判明したことを伝える。

「そう。じゃあさっさと迎えに行くわよ」

 蘭は走るのは道路が空いていて人目も避けられる夜の時間で、昼には寮に帰り充分な休息を取るという建前を何とか守っていた。

 決め事を破り昼間にも走り回る方便が出来たことで少し上機嫌になる。

『おいラン現地の地理をよく確認しろ。あとご主人様を捕らえている組織の情報もおさらいしたほうがいいだろ』

「そういうことはね、実際に走って頭に叩き込むのよ」

 蘭が居た陸上部は競技に出る前に会場となるグラウンドの状態や同じグループで走る他校選手のデータについても調べていたが、蘭はそれらの情報を頭に入れるのは現地に着いてからと決めていた。

 知らない場所や人間を頭の中でイメージすれば、どんな詳細な情報も必ずズレが出る。

 人間の記憶というのは独善的なもので、実際に競技場や選手の顔を見て事前の空想と違うものがあったとしても、脳内で空想寄りに歪めてしまう。

『おまえ寝てねぇだろ』

「眠いしお腹も減ったけど、それより走りたい」

 夕べの夜から何も口にしていない蘭はオーキッドの助手席にひっかけてるランニングポ-チのボトルホルダーからペットボトルを掴み、水を一口飲んだ。

 蘭は基本的に試合の前日には充分な休息を取る。

 しかしそれに反し明け方まで友達と騒いでいても翌日の試合でいいテンションが維持できたことも何度かあった。

 走るために必要なのが正しいことの積み重ねなら、それを崩すことで別の正しい方法が見えてくることもある。

 蘭がこれから行うのは、オーキッドがご主人様と呼ぶ人間を悪の組織と称する連中から盗み取り全力で逃げるという、これまで食い逃げや万引きの経験が無い蘭には経験のない走り。

 とても正しいことだなんて言えない走りをするには、正しくない方法がちょうどいい。

 蘭は無意識に自身の精神的なコンディションをこれからやることに適した状態にしていた。

 準備と計画立案を重ね、充分な休息を取り充実した朝に何かを盗みに行きたい気分になれるとは限らない。

 寮の近くでオーキッドをUターンさせた蘭は、まるで近所までジョギングに行くかのようにご主人様が捕らえられている魔の城へと向かった。

 「神奈川のここらへん……クシャミしてる間に着いちゃうわね」

 蘭が暮らす東京都下から神奈川県の南部。オーキッドに出会って以来本州の端から端まで走り回っている蘭にとってはほんのご近所に等しい場所。

 蘭はアクビをしている間に目的地近くまで到着した。

 

 相模湾に突き出した小さな半島の首根っこに当たる位置から少し南。

 海や景勝地からは離れているが、都心や横浜の中心地への通勤範囲にあったため、一九七〇年代に低い丘陵を削り均し宅地化された一帯。

 その中核となる公団集合住宅が蘭とオーキッドの目的地だった。

 オーキッドの高度情報介入、解析機能で見つかったご主人様の居場所。

 ここに一人のエックスが囚われていることは既に国家エックス機関の中では公然の秘密だった。

 大々的な奪還作戦を実行しなくとも、数人の警官が踏み込めば取り戻せそうな場所。国家はそれだけのことに必要な予算や手間を惜しんだ。

 国には国でオーキッドの開発を計画倒産的に破綻させた今になって、その当事者が戻ってきても困るという事情がある。

 そのオーキッドが感情と意思を持ち、願望を叶える力を手に入れたのは双方にとって計算外の出来事。

 彼らがモタモタとそれらに対応するより早く、蘭はここまで走ってきた。

 現地に着いた蘭は団地群から道路ひとつ隔てたショッピングセンター三階の立体駐車場にオーキッドを停めた。

 一度バックで停めてから少し左に寄っているとオーキッドに指摘され、後ろを見ながら入れ直す。

『おめぇもしかして、バックで入れるのは苦手か?』

「ちょっと考え事してただけよ。こんなの簡単に入れられるわ」

 故郷の青森で自動車教習所に通った時、蘭は学科、実技ともに概ね多くも少なくも無い時間で見きわめを受けたが、唯一車庫入れだけは規定時間を少しオーバーした。

 教習所での蘭は白線の真ん中にゆっくり綺麗に停めることより、多少斜めでも速く停めることにこだわり過ぎた。

 立体駐車場の一番端、店内入り口からは遠いので空きスペースが目立つ。

 一番外側からひとつ奥に入った駐車スペースで蘭はオーキッドに聞いた。

「で、どの部屋だって?」

 蘭が車を停めたショッピングセンターの真向かいに全二十棟の団地が聳え立っている。

『1728号室だ、ちょうど目の前にある十七号棟、二階の真ん中辺り、趣味悪いアロハシャツを干してる部屋だ』

「一人っきりじゃないんでしょうね」

『今んとこ室内に番人は二人居る。それから玄関と共同入り口には侵入者を探知、監視する装置がいくつかある』

「なるほどね」

 蘭は団地群を見渡す位置に停めたオーキッドの中で、バックルに触れると自動的に外れシートバックに収納されるシートベルトを外してシートを少し後ろに倒し、ひとつ付け加えた。

「あと、わたしああいう柄のシャツは嫌いじゃないわ」

 オーキッドのダッシュボード中央にあるモニターの中で白と橙色のヒトガタが動いている。

 人体から体温によって発散される赤外線を建物の壁越しに検知し、デジタル解析する指向性のパッシヴ・サーモグラフィーカメラ。

 この装備もまた本来の機能を限定されながら蘭のエックス・アクティヴィティによって作動していた。

 オーキッドがご主人様と呼ぶバイオコンピューター適性型エックス・アイソトープ保有者との接続が成されれば相手の呼吸や拍動、男女の別まで認識できる性能を得られるという。

 対象となる部屋にトカゲのように体温の無い人間でも居ない限り、2LDKのリビング兼用ダイニングは現在無人。

 その隣の和室に三人の人間。二人を倒し一人をかっぱらう。

 それがこの三つのヒトガタの誰なのかはわからなかった。

 

 南中の陽に照らされ、団地のベランダに干された洗濯物がはためいている。

 ショッピングセンターの立体駐車場から細い道路を渡った先にある団地の敷地には鉄骨造りでトタン屋根の自転車置き場があり、その向こうには団地棟。

 築年数の経った海砂コンクリート特有のヒビ割れ。低コストの壁面塗装にありがちな紫外線による経年劣化の黄ばみ。

 人の営みが過剰に詰め込まれた安物の箱は、安物売りのショッピングセンターを天守閣に頂いた城下町のように平穏な昼下がりの時間を刻んでいた。

 一時間で二百円、千円以上の買い物で二時間無料のケチ臭い有料駐車場の中。蘭は駐車スペースに停めたオーキッドのエンジンをかけたまま、黙って団地を眺めていた。

 アイドリングストップをしない派手な色の車とその中に居る車の値段に見合わぬ少女を見て舌打ちをした老婆が、お一人様一点限りの卵が二パック入ったビニール袋を抱えながら通り過ぎる。

 若い店員が居るレジを選んで並び、ゴネて買った卵と、特売が品切れだったので通常品を強引に特売値にさせたキャベツを前後バンパーが傷だらけの軽自動車に積んだ老婆は軽自動車のエンジンをかけて走り去る。

 先刻のサーモグラフィー画像確認以来一言も喋らず、動く様子の無い蘭。

 監視データを表示させていたモニターは画面がチカチカしてうるさいという蘭の声に従い、今は一輪の花を映している。

 痺れを切らせたオーキッドが蘭に問いかけた。

『で、どうするよ?』

 蘭はご主人様が囚えられている団地の一室より、その周囲の道路と構造物を眺めながら口を開く。

「まず第一案としては玄関のチャイムを鳴らして貰いに行く、もうひとつは」

 蘭は自分の手を水平に動かし、もう片方の掌に衝突させるジェスチャーをしてみせた。

「どーん!」

『バカ! オレのボンネットの下にはお高価い機械が収まってるんだ、いくら自己修復機能があるっつっても中身まで壊れっちまったらやべーよ』

「そんときゃ自分の足で走って逃げるわよ」

 蘭は鉄パイプにモルタルを塗った立体駐車場のフェンス越しに広がる団地と、その周囲に位置する様々な物の位置関係を目視だけで測りながら、根気強く待っていた。

 オーキッドが備えている高度情報介入機能を使えば、この団地を管理する住宅公社と施工業者が持ってる図面や、建材を製造しているメーカーが保有する素材強度試験の結果などのデータを盗み取り、蘭が望む情報を提供することも可能だったが、蘭が想定している最も実現性の高い案を知ればオーキッドは情報提供を拒むだろう。

 前方に向けられていた蘭の視線は時々薄暗い駐車場と店内入り口を映すルームミラーへと移動する。

 蘭の停めているスペースの正面に当たる、一番外側のフェンス寄りに位置する駐車スペースには、水色のミニバンが停められていた。

 背後から近づいてきた足音に蘭の眼球のみが反応する。

 真後ろの方向にある店内入り口から出てきた主婦が、中身の詰まったエコバックを下げて歩いてくるのがミラー越しに見える。

 主婦は蘭の乗るオーキッドの横を通り過ぎると向かいのミニバンに乗り込み、エンジンをかけて走り去った。

 目の前のスペースが開いたことで、フェンス越しに立体駐車場の外がよく見えた。

 ちょうど蘭がオーキッドの鼻先を向けている方向にあるのは、ご主人様が監禁されているという団地の一室。

 狭い通りを隔ててすぐ向こうが団地の敷地で、居住棟の手前には住人用の屋根つき自転車置き場がある。

「じゃ、行こうか」

 前置きはその一言だけ。

 蘭は少し傾けていたシートを起こした。

 シートバックに露出した先端に触れるだけで自動的に伸びてくる四点式シートベルトを装着し、ベルトを引っ張って締め具合を確認する。

 シフトレバーに手を伸ばした蘭は階段状のシフトゲートに沿ってレバーをドライブの位置に滑らせ、両手でステアリングを握るとアクセルを踏みしめた。

 停止状態からの急加速。

 コンクリート舗装の上で四つのタイヤが鳴り、車の疎らな平日昼間の立体駐車場内にスキール音を響かせる。

 立体駐車場の二階、その向こうにはオーキッドが思い焦がれるご主人様が居る団地。目の前には助走のための空間。

 駐車場にオーキッドを停めて以来ずっと無表情だった蘭は急発進と同時に小さく黒目がちな目を見開き、口が耳まで割けそうな笑みを浮かべている。

 鉄パイプのフェンスに向かって加速させられたオーキッドは今さらながら蘭の目論見に気づいた。

 さっきの突飛な案が冗談でも何でもなかったことも知らされた。

『や……やめろやめろやめろ! 飛ぶな! ホントに壊れっちまうぜ! やめてぇ!』

 モニターに表示されたこの車の感情に同調する花は赤紫の花弁を真っ青に染め、花房を震わせている。

 蘭は笑みを浮かべながら立体駐車場の中、車二台分プラス通路を合わせて十m少々の走行距離を駆け抜けた。

 オーキッドが鼻先で激突したフェンスが吹っ飛び、車体の下周りをひどくぶつけながらコンクリートの土台を乗り越えるイヤな感触が伝わってくる。

 オーキッドは立体駐車場の三階から飛び出した。

 溶接が折れてバラバラの鉄パイプとなった立体駐車場のフェンスが駐車場前の路上に落ち、耳障りな高音と共に跳ねる。

 オーキッドが真下の道路に歩行者が居ないことを確かめる中、蘭の視線はこれからオーキッドが描く緩い放物線とその行き先だけを見ていた。

 蘭は陸上部時代、一度だけ走り高跳びの補欠選手として出たことがある。

 直前に付け焼刃の練習をしただけの蘭の競技成績は下位グループに留まったが、待ち時間に他選手とのお喋りの中で聞いた様々なテクニックは参考になった。

 飛び越えるバーの高さをミリメートル刻みで競い合うハイジャンプの選手は皆、飛ぶ時にバーを見ない。

 人間の体は視線を向けた方角へと進んでいく。飛ぶ途中にバーが目に入ると、ほぼ間違いなくそのバーを引っ掛けるという。

 ジャンパー達はただ空の高みを見ながら地を蹴って飛び、バーはいつの間にかその下を通り抜ける。

 視線だけではなくその思考の中までもを澄んだ空で満たし、飛翔する己を阻むバーを意識から消すハイジャンプは純粋に面白いと思ったが、結局蘭の本領である中距離走の刺激には及ばなかった。

 立体駐車場の三階からジャンプしたオーキッドは団地棟には届かず、手前の自転車置き場の屋根に半ば叩きつけられる勢いで着地した。

 蘭は空中で一度抜いたアクセルを再び床まで踏みながら、ステアリングをほぼ一回転まで切った。

 パドルシフトは一速のまま。四つのタイヤが発した低いギアの高いトルクは自転車置き場のトタン屋根が持つ摩擦係数を上回る。

 オーキッドの四輪は波板の屋根の上で空転し始めた。

 傾斜し波打った狭い屋根の上で滑り、激しく振動しながら、赤紫の車体が急角度の方向転換をする。

 スピンターンの負担に負けたトタンが歪み、引きちぎられて飛び散り、鉄骨の基礎柱が歪み、自転車置き場全体が大きく揺れる。

 蘭の視線はフロントガラス越しに広がる自転車置き場の屋根には向いていなかった。着地した瞬間からずっとルームミラーを見ている。

 ミラーの中で右から左へと流れていくのは、蘭が飛び込むべき先。

 オーキッドの車体が団地と並行になった時、蘭はスピンコントロールのため全開にしていたアクセルを戻し、一拍置いてシフトレバーをリバースギアにぶちこんだ。

 団地の自転車置き場とその下に並ぶ自転車や原付を破壊しながら団地とオーキッドの位置関係が並行から垂直に近くなる頃、戦闘機の照準機を覗くようにルームミラーの端に標的を捉えた蘭は、ゼロコンマ数秒の間緩めていたアクセルを再び深く踏み込んだ。

 スリップしていた四輪がアクセルオフとシフトチェンジによるトルク減少でグリップを取り戻しトタンの地面を噛む。

 一速での空転状態から力任せにバックギアに噛み込まされたミッションがいまにも分解しそうな悲鳴を上げる

 一度抜けたトラクションがしっかりと四輪にかかり、自転車置き場の屋根にあるオーキッドの車体をある一方向へと直進させた。

 後ろ向きで急加速したオーキッドは団地に向かって突っ込んでいく。


 その団地の住人でこれほどの音と振動を経験したのは戦争による空爆を知る高齢者だけだった。

 オーキッドの後部は団地のフェンスと支柱を叩き折り、ベランダの物干し竿や植木鉢を吹ッ飛ばし、窓とアルミの窓枠を周囲の壁ごと破砕しながら室内に突入する。

 干してあったアロハシャツがハンガーごと空を舞い、破壊された自転車置き場に向けて飛んでいった。

 団地のリビング兼用ダイニングに、突然赤い車が後ろ向きで飛び込んできた。

「っつ~~!」

 蘭は自転車置き場への着地で腰椎とお尻に、バックでの室内突入で背中に強い衝撃を受ける。

 着地のショックで前に放り出され、両肩に食い込んだシートベルトに鎖骨をヘシ折られそうになる。前と後ろから続けざまにバットでひっぱたかれたような状態。

 蘭は団地内への着地と同時に血を吐いた。シートの上で首を垂れた蘭の血で鮮やかな赤のランニングシャツが鈍い赤に汚れる。

「ラン大丈夫か! おい! まだ死んでねぇだろうな?」

 立体駐車場から自転車置き場へのジャンプ。トタン屋根でのスピンターン。そして後ろ向きでの突入。

 オーキッドはフロントより分厚いリアバンパーを中心に後部トランクをひしゃげさせ、アンダーフロアと足回りをひどく打った。

 サスペンションアームの損傷で後ろのタイヤは左右ともに不自然な方向に歪み、後輪軸のデフと一体になったミッションからは破損した部品が回転させられる金属音が聞こえている。

 それでも車体前部に集中していた人工知能と会話能力を始めとする各種の電子装置は無事らしい。

 オーキッドの車両構成など知らなかった蘭が、何となく前より後ろのバンパーのほうが分厚そうに見えたから思いついた後ろ向きの突入。

 ディスプレイに映った車両の自己診断装置結果を表す画像は後部を中心にトラブル発生を示す赤い文字で埋め尽くされている。

 少なくとも見てくれに限ってはひどい状態なのは蘭も同じだった。

 両肩を固定するシートベルトのおかげでかろうじて上体は起きているが、手足と首は美大生がデッサンに使う球体関節人形のように力なく垂れている。

 オーキッドが蘭の名前を呼ぶ中、垂れていた蘭の頭が糸で引っ張られたように唐突に持ち上がった。

「どう……よ……バックで入れるのなんて簡単じゃない……」

 言い終わるともう一度血を吐いた。

 オーキッドは自身の機能のひとつである搭乗者の健康状態をモニタリングする装置が未完成なのを一瞬恨んだが、少なくとも今の蘭の状態は見た目と行動だけでわかる。

 体のあちこちを打ち、体内のどこかに損傷を負ったらしき蘭。

 見開かれた瞳は恐ろしいまでに輝き、首に続いて動き出した両手からは何一つ損なわれぬ意思が感じられた。

『バカ野郎バカ野郎バカ野郎! ケツ回りグッシャグシャじゃねぇか! 普通のクルマなら全損だぞ!』

 蘭はシートベルトを外し、ドアノブに手をかけた。

 まだ衝突と打撲による外傷ショックは残っていて、手も足も頭も全ての動作が、思うよう動かない部位を勢いに任せて叩きつけるような動き。ぎこちない手足に反して素早く動く視線。真っ先に探すのは保護対象である「ご主人様」ではなく、それを守る二人の男。

 蘭はドアノブを引き、腕と肩を叩きつけてドアを開けようとした。リア回りを潰し、車体全体が歪んだオーキッドのドアは開かない。

 ドア内部で何かの電子装置が繰り返し動く音が聞こえる。オーキッドが何とか自動的にドアを開けようとしているのがわかる。

 蘭は体を丸め、再び襲ってきた痛みに軽くうめき声を上げながら、両足でドアを思いっきり蹴った。

 バゴン!という音と共にいくつかの部品とガラスの破片が飛び散り、ドアが開く。ディスプレイに映る自己診断映像、右ドアの位置に赤い文字が増えた。

 開いたドアから這うように車外に出た蘭の視界に広がったのは、破壊され尽したリビング。

 オーキッドのフェンダーに寄りかかった蘭は室内を素早く見回す。

 居間と畳敷きの隣室とを隔てる三枚の襖のうち二枚が外れ、その先には一人の男がいた。

 突入の時に吹っ飛んだ家具の下敷きになって朦朧としている、坊ちゃん刈りで黒縁眼鏡をかけた小柄な男。

 もう一人はリビングと玄関を繋ぐ狭い廊下に繋がるドアから出てきた。金色に脱色した長い髪、薄青色のツナギ姿。深夜スーパーやパチンコ屋にに改造車で乗りつけるような風貌の男。

 居間と玄関を繋ぐ短い廊下の途中にあるトイレに居たおかげで難を逃れた金髪の男が用心深くリビングに入ってくる。

 

 団地の一室に居たのは民間エックス互助組織ロータスマートの構成員。

 組織内では昼勤遅番と言われる二人組。

 名前の通り昼十二時から夕方六時までコンビニバイトとしてレジに立つ二人。

 今日はコンビニ勤務を店長と副店長の二人と交代し、コンビニとは別の仕事をすることとなった。

 彼ら二人も店長の氷室や副店長の布袋と同じく幼い頃に放射性同位体遺伝子エックス・アイソトープを発見されて以来、国家エックスとしての十代を過ごした。

 ほぼ同時にスカウトされた二人は近似した属性のエックス・アクティヴィティを持ち、エックス専門の教育設備でも同じクラスだった。

 外見通り優等生と問題児だったが一緒に居ることの多かった二人は、国から命令されたある仕事の遂行中に揃って仕事を放り出し、施設を逃げ出した。

 その後すぐに二人は国からはエックス・テロリストと言われる民間エックス組織ロータスマートに加入する。

 彼らが国家機関に仕えるエックスとして遂行していた任務は、エックス・テクノロジー研究施設の壁にペンキを塗る仕事。

 施設保持の予算が下りず、業者に頼む金さえケチって生徒にやらせる組織に嫌気がさした二人。

 同じ汗を流すなら稼ぎのピンハネをされない仕事のほうがマシと思い、国家組織を抜けて店員すべてエックスのコンビニで働くことを決めた。

 現在彼らが請けているのは、民間エックス互助組織が所有する隠れ家に常駐し保護対象者を警備する仕事。

 コンビニバイトと同じくらいの時給が出るが、苦手な客あしらいが無いぶんラクな仕事をしていた二人はコンビニにはそうそう無い来客の訪問を受けることとなった。

 

 団地全体を揺るがす轟音と衝撃に少なからず動転した彼ら。

 部屋に飛び込んできたのが事前に布袋から説明を受けていた高度情報介入ステーションであることを把握するのに時間がかかった。

 二人には足でドアを叩き開けて出てきた十八歳の少女がエックスであるということは信じられなかった

 車内からのたくるように出てきた蘭。瞳孔の開ききった両目、口から垂れた血がランニングシャツの前面を染めている。

 不自然な方向に曲がった首の上に乗っかった頭は斜めに傾ぎ、両手は垂れ下がっていた。

 狂人か化け物か。あるいは死者か。

 最初に冷静さを取り戻したのは小柄な坊ちゃん刈りの男だった。

 彼は外の自転車置き場で発生した物音を聞いて和室の入り口に立ったところ、オーキッド突入の勢いで部屋の壁際から飛んできたタンス叩きつけられた。

 タンスの重みと打撲のショックで体の自由が利かない坊ちゃん刈りの男は、リビング奥のドアから顔を出した金髪の男に向かって、見た目に似合わぬ野太く鋭い声を上げる。

「唐揚げカゴ!」

 突入時にトイレ掃除をしていたため負傷を免れたが、精神的な動揺から動けずにいた金髪の男は坊ちゃん刈りの男の声に我に返る。

 組織がこの部屋に拘束し、現在自分たちが看守しているエックスを取り返しに来る可能性が高いと言われていた自動車型高度情報介入ステーションと、それを略取し行動を共にしているエックス。

 鳥カゴに唐揚げが乗った唐揚げカゴ。

 組織内でオーキッドとそれに搭乗する蘭を意味する隠語を聞いた金髪の男は、手に持ちっぱなしだったトイレブラシを放り出し、摺り足で居間に入ってくる。

 団地の一室に飛び込んできたオーキッド、中から出てきたのは少女の外見をした未確認のエックス。

 蘭の姿を認めた金髪の男は二mほどの間合いで爪先を鳴らして足を止めた、ボクシングの構えを取りながら腰を落とす。

 やや半身になった彼は作業ツナギの尻を片手で払い、尻ポケットからナイフを取り出した。

 合成樹脂のグリップと片手でブレードを出せるサムホールがついたアウトドア用折りたたみナイフ。

 ボクシングのパンチアクションのまま使えるため、彼が国家エックスだった頃から常に持っている武器。

 彼のエックス・アクティヴィティには誰かと争う能力は無かったが、中学高校とボクシングに打ち込んだ彼は用心棒的な仕事をよく押しつけられていた。

 刀身の背に開けられた穴に親指をかけ、手首を振った勢いを借りてパチンと刃を開く。

 目の前でナイフを構える外貌、服装ともに険悪な金髪の男を前に、蘭の開いていた瞳孔は窄まり、陸上部だった頃の怜悧な表情に戻った。

 車内から出た時の緩慢な動きは一転して、素早い動作になる。地を這う蛇が獲物を見つけ、一瞬で鎌首をもたげる攻撃姿勢になった時の動き。

 蘭はその場にしゃがみこむように腰を落として上半身を伏せ、前に伸ばした両手を床につけた。

 蘭は陸上部時代に競技中の転倒を何度か経験していた。

 他のランナーは転んで擦りむいた膝や肘から血を飛び散らせながら追いかけてくる蘭のことを化け物か何かのように思ったという。

 幼い頃から走って転び、子供らしく泣き出すことはあったが、泣いて、泣き止み、そしてまた笑い出すまでを走りながら済ませていた。

 蘭は血で赤く汚れた歯を軽く噛み締め、舌で歯の裏を軽くなぞった。味蕾が感じ取った生臭い味に軽く笑みを浮かべる。

 床に手をつけ、こちらを睨む蘭を見た金髪の男はナイフを低く構え直した。蘭の脚を中心とした体全体の筋肉が一瞬震えた直後、激しく収縮する。

「……レスリング? 相撲? いやもっと低い……」

 格闘技の類いを本格的に修得した経験の無い蘭が取った姿勢は、陸上部時代に数え切れないほど繰り返したアクション。

 団地の一室に匿われた人間を攫うため、それを守るごつい外見の男を相手に使うことになるとは思わなかった。

 蘭は武道家の素振りに負けないほど繰り返した動作で床を蹴り、目の前の男に向かって突っ込んでいく。

 金髪の男の姿勢は少し揺らぐ。今までスパーリングで立ち会ったどの相手よりも速い。

 ボクシングの攻撃範囲よりずっと低い位置に飛び込んできた蘭。

 金髪の男は腹に強烈な頭突きを食らいながら、蘭の奇妙な構えが短距離走のクラウチング・スタートであったことに気づく。

 普通の状態ならこんな奇策に遅れを取るような男ではなかったが、家に飛び込んできた車から出てきた人間と戦うなんて状況への心の備えはできていなかった。

 彼はこの団地に詰めて中に居る人間を監視警護する仕事は引き受けたが、そのために誰かを傷つけたくはなかった。

 家具に押しつぶされた仲間とここからでは姿が見えない警護対象の安否を気にしたことが、相棒である車がブッ潰れたことを気にも留めぬ蘭に対する致命的な判断の遅れを産んだ。

 短距離走者が発する体重の数倍に相当する前進エネルギーを受けた金髪の男はナイフを放り出し、リビングの床に吹っ飛ぶ。

 クラウチング・スタートからのダッシュで男に体当たり。

 蘭はこんなことをするのはいつか彼氏なんてのが出来て最初のデートの時だと思っていたが、それより少し早く機会が訪れたらしい。

 喧嘩慣れした奴とそうでない奴との違いは最初の一撃ではなく、それを食らった後に立ち上がる気力。

 床に後頭部をぶつけながらもダメージを最小に留めた金髪の男はナイフに手を伸ばしながら、視線を正面に向けた。

 彼が見たのは女子としては信じられないほどの力を振り絞り、リビングにあった木の長椅子を両手で持ち上げる蘭。

 木製のフレームにクッションを張った通販物の長椅子が団地の天井に当たり、安物の石膏ボードが割れる。

 痩せ衰えた薬物中毒者が時に警官数人でも抑えきれない力で暴れるように、筋肉のリミッターを失った人間は時々こういうことをする。

 蘭は素手の喧嘩なんて小学生の時以来経験が無いが、体力、気力を限界までふりしぼった後で動かない体を前へと動かす世界で生きてきた。

 蘭はそのまま自分の身長より幅の広い長椅子を棍棒のように男に叩きつけた。

 長椅子の木枠はへし折れてバラバラになり、蘭の手には椅子の肘置きだったL字状の木が残る。

 そのまま蘭は箪笥の下から抜けそうとしているもう一人の男に向かって木片を投げつけた。

 ブーメランのような木片で頭部に一撃を食った坊ちゃん刈りの男は、即頭部から血を流しながら白目を剥いて倒れる。

 二人の男を沈黙させた蘭は今になって突入時に食らった衝撃を思い出したらしく、再び血の咳をしながら膝をつく。

『蘭おめぇ大丈夫か?』

「……大丈夫……じゃ、ないわよ。骨と筋肉は平気っぽいけど、なんか体の中がどっかぶっ壊れたわ」

 蘭はオーキッドの割れた窓に手を突っ込み、助手席にブラ下げたランニングポーチからペットボトルを取り出す。

 ボトルの蓋を苦労して開けると、中の水を一口含んで口をゆすぎ、血の混じった水を吐き捨てる。

 口中の血の味を洗い流した蘭は再びペットボトルに口をつけ、中の水を普段より多目にゴクゴクと飲んだ。

「よし、直った」

 蘭は突入の衝撃で負った体内の損傷を、まるで転んですりむいた傷を水道水で流すように直した。

 本当に平常時の身体状態を取り戻したのか、蘭は水のペットボトルをオーキッドの割れて大部分が無くなった窓から放り込み、ランニングポーチにシュートインさせる。

 水を飲んだ途端、重傷者と死者の間のようだった蘭の目に生気が戻った。

 リビングと二枚の襖で仕切られた和室。蘭は二枚が吹っ飛び、一枚だけ残った襖に手をかける。

 突入のショックで歪んだ桟に噛みこんで動かない襖を力任せに引き剥がして投げ捨てた。

 オーキッドが背後から叫ぶ。

「急げ蘭! ここいらの電話回線に介入したけどな、少なくとも十五人が通報してるぞ?早けりゃあと三分でポリが……」

 オーキッドは蘭が剥ぎ取った襖の向こうに見えたものに絶句した。

 一人の人間。

 十歳を越えるか越えないかの体格を持つ男性。

 髪と肌の色素は薄い。

 畳の上に横座りしている姿には団地に車が飛び込んでくる物凄い破壊音にも、その直後に繰り広げれられた格闘にも動揺している様子が見られない。

 人形。そういう表現が似合う少年。

 エックス・テクノロジーによる高度な情報介入を可能とするバイオコンピューター、その完全なる稼動を可能とする数少ないエックス。

 オーキッドがご主人様と呼ぶ人間がそこに居た。

『ご主人様……』

 蘭への警告も忘れ、オーキッドは声を絞り出す。

 もし蘭の助力によってご主人様と再会できる日が訪れたなら、話したいことは山ほどあった。

『どれだけお会いたかったか……しばらく見ない間にご立派になられて……わたくしがおわかりですか?』

 バイオコンピューターによる電子回路は、人間の脳と何らかわらぬ感情の波に襲われ、それ以上の言葉を紡ぎだすことが出来ない。

 オーキッドの絶句を余所に土足で和室に侵入した蘭は、畳に横座りしたままの少年の腕を掴み、引っ張る。

 泥棒がちょっと高価な宝石や貴金属を車に積み込むような、その品物の価値に似合わぬ無造作な扱い。

 やってることは事実それに近く、さっさと盗品を積み込んで一刻も早く逃げなくてはいけない状況は変わらない。

 そのまま蘭は少年を半ばブラ下げるようにしてリビングに入ってくる。

 乱暴に引っ張られながら少年は苦痛を訴えることなく、視線は自分を引きずる蘭ではなくオーキッドの方に向いている。

 少年は、オーキッドを間近で見た時にはじめて口を開いた。

 少年のために作られた機械。

 少年をご主人様と呼ぶ者。

 彼にとって特別の意味を持つ一台の車がそこにあった。

「……オー……キッ……ド……」

 蘭に腕を取られオーキッドの前まで連れて行かれた少年は満身創痍となった赤紫のボディにそっと手を伸ばす。

「完成……したの?」

『ご主人様に乗っていただければ、完成です』

 オーキッドに触れるか触れないかの場所で立ち尽くす少年の腕を掴んだまま、蘭が少年とオーキッドの間に割り込んだ

「こんにちはお坊ちゃん。もし退屈ならお姉さんとドライブにでも行かない?」

 

 白い箱。

 あらゆる物が整然と配置された部屋の中に、ひとつの製品があった。

 国内各所のエックス・テクノロジー部署が一元化を目標に改編され、その約束が中途半端に果たされるより少し前。 

 大田区の港湾部にある重工企業の下請け工場を間借りした施設。

 灰色の工場内にある一室には一人の少年が居た。

 エックス・テクノロジーにおける各種実験の結果として生み出された人工受精の子供。

 白い肌と褐色の髪、北欧の白人を思わせる青い瞳もまた色素形成力の低さを顕している。

 白い防音ボードの壁と天井、白く固い床は床暖房で物理的な温度をあげてもなお冷たい。

 動物園にある希少動物の飼育舎を思わせる部屋。子供の暮らす部屋にありがちな乱雑さや汚れは見当たらない。

 壁面の天井近くで部屋を囲うように配されたLEDの間接照明によって白く照らされた空間。蛍光灯より無機的な白い光に包まれた部屋には窓が無かった。

 片面の壁には分厚いガラスの鏡が嵌っていいて、鏡に映るのは白い部屋とその中の白い少年。

 少年は鏡の向こうに常に人が居ることを知っていた。

 防音の壁とハーフミラーでも隠し切れぬ、肌に刺さるような視線。一人きりの部屋で常に感じる視線は鏡だけではない。

 天井にいくつか取り付けられた半球状のカメラ。動物園の動物に対して向けられるような好奇心や愛玩の視線とは異なる、もっと冷たく粘っこい視線。

 壁には大画面の液晶テレビが嵌っていた。 

 操作するボタンの何もないテレビは時々勝手に点いては色々な映像を映す。

 少年は自分がテレビの画面を見る反応を外に居る人間によって詳細に記録されていることを知っていた。

 ベッドとユニットバス。食事を差し入れられる窓。生きていくのに最低限の設備しかない部屋。

 壁際に小さな棚があった。

 上段には何冊かの本、下段にはキャスターで引き出せる木の箱。

 箱の中には様々な物が入っていた。

 積み木、パズル、健康器具、電子機器、あるいは武器、子供の玩具から生活道具まで様々。

 少年はある日、箱の中から一台のミニカーを取り出した。

 掌に乗るくらいの大きさの、赤いグラン・ツーリスモタイプの国産車。

 少年は他の遊具や器具にはあまり興味を示さず、一台のミニカーを眺めていた。

 人が入ることが珍しい少年の部屋に一人の男がやってきた。

 白衣やスーツを着た人間に質問をされることは時々あった、それらの人々とは少々異なる、作業ジャンパー姿の男。

「それが好きなのか?」

 少年は応えない。

 ただ寝そべって床に置いたミニカーを見つめている。

 父母の記憶も概念もなく、部屋から出られない少年。

 子供にとって親とは自分を保護してくれる力。

 少年はミニカーのボンネットを開け、そのミニカーが本当の車なら乗り手に力を与えてくれるエンジンを指で触った。

 フロントウインドに目を近づけ、乗り手を守る車室と、ミニカーに相応の簡略化された造形の操縦装置を見た。

 ミニカーを床に置き、四つのタイヤで地に立つ様を見た。

 感受性や想像力を養う機会に恵まれなかった少年にとって小さなミニカーは、少年に芽生え始めた小さな想像の翼を広げるものだった。

 自分を守り、力を与え、そして望むところに連れてってくれる。

 「それをあげよう。君のために作ってあげよう」

 少年はミニカーを眺めたまま、何の反応も示さなかった。

 このひとはいいひとだろうか。わるいひとだろうか。

 他人と触れ合う機会に乏しい少年が抱き始めた感情。 

 普通の人間が多様に持つ他者に対する分類を、少年は二つだけ手に入れた。

 自分に安息を与える味方と、苦痛を与える敵。

 いいひとはTVモニターの中に出てきて、自分の字の読み書きや生活の方法を教えてくれるひと。

 わるいひとは少年の部屋に無遠慮に入ってきては質問を浴びせ、反応が無いと机や腕を叩いて返答を強いたり、体に何かの機械を繋いで実験をするひと。

 少年は自分に最低限の知識を与えるためにモニターで流された教育テレビの中で喋り、動くCGで作られたアニメーションキャラをいいひとと認識した。

 それ以外は、全てわるいひと。

 少年の部屋に来た作業着の男は、今まで少年が知る、自分に知育玩具を渡し反応を記録する研究所職員達と同列のわるいひと。

 少年に何かを提供しようとしている男。少年が朧ながら望んだものを与えてくれる男。

 なにかをうばうわるいひと。 

 なにかをくれるわるいひと。

 その男が自分を見る目つき。

 少年はその男が自分を特異なエックス・アクティヴィティの発生装置として見る視線に気づいていた。

 このひとはわるいひと、何かをくれる代償に自分から何か目に見えないものを抜き取ろうとするわるいひと。

 ある日少年は外出を許された。

 何人もの白衣の男に囲まれて部屋を出され、窓の無いワゴン車に乗せられた少年が連れて行かれたのは閉鎖された自動車工場の片隅。

 その車は塗装を施されていない素肌のままで、エンジンも内装もついていなかった。

 自動車解体業者からはドンガラといわれる骨組みだけの姿。

 あのミニカーにもう数え切れぬほど指で触れ、ボディラインを熟知していた少年はすぐにわかった。あのミニカーが大きくなった姿。

「これが君のものになる」

 わるいひとのひとりである作業着の男に告げられた少年。

 心に高揚や歓喜は訪れなかった。ただ、ミニカーや想像の中の車ではない、一台の車の存在を認識した。

 それから少年には数週間に一度の外出が許されるようになり、その度に完成へと近づいていく車を見せられた。

 既に塗装を終え、ほぼ完成した車の内装。何かの箱を据え付ける作業を見る少年。彼をここに連れ出した作業着の男は言った。

「名前は、オーキッド」

 車内ダッシュボードに嵌めこまれた箱の片面は黒い板になっていて、作業員がスイッチ類の無い板を押すと赤い花が表示された。

「オー……キッ……ド」

 他人に促され、あるいは尋問で強制的に回答を求められないと喋らない少年が、作業着の男に対して自発的に話した言葉。

 白衣の群れに囲まれながら白い部屋に帰り、白い灯りが消えることの無い眠りの時間が訪れた後、少年は小さく口にした。

「……オーキッド……」

 少年にとって命を持たず物言わぬ一台の車は、自分を傷つけたり奪ったりしない存在。

 いいひと。

 人工的に作られモニターの中で動く概念だけの存在じゃない。

 眠っている時に夢に見る、自分を包む暖かい何かじゃない。

 少年にとって初めての、自らの手で触れ、感じられるいいひとは一台の車。

 オーキッドという名の車の完成が近づく頃、少年は何度目かの外出中、暗闇に包まれた。

 突然被せられた体全体を覆う袋で視界が遮られる中、何かが殴打される音と一緒に歩いていた男達が発する呻き声が聞こえる。

 それから袋詰めの少年は車に引き入れられた。少年は団地の一室に連れて行かれ、袋を解かれる。

 乱暴な扱いを詫びながらも自分が何者かは名乗らない中年の男。

 再びくどい言い訳を述べながらこの団地でしばらく外出を制限した暮らしをしてもらうことを告げる。

 少年が研究施設から工場への移動中に拉致され、監禁されのは民間エックス互助組織ロータスマートが所有する団地の一室。

 ロータスマート監視下での団地の一室で始まった生活は、それまでの白い部屋よりは幾分人間らしいものだった。

 部屋には常に組織の人間が居て、少年を監視していた。

 組織の長である氷室もその構成員も、少年に何か欲しいものはないかと頻繁に聞き、何も求めない少年を観察した客観的判断で必要とされた物は買い与えられた。

 組織構成員の隠れ家を兼ねた団地の一室は少年が物心つく前から過ごした白い部屋より生活感のある場所だったが、少年が触れていたミニカーも、月に一度だけ会えるオーキッドも無かった。

 子供にとって親とは、自分を絶対的に守ってくれる温かさ。親というものを知識としては知っていたがその存在を知らない少年。

 彼は完成しつつある一台の車に肉親に似た感情を抱き始めていた。

 少年が唯一いいひとと認めた一台の車。

 あの白い部屋よりは人の暖みがあって何でも与えられる部屋で、少年はただ一つの温もりを奪われた。

 少年は再び、喋らない子供になった。ある日、あのオーキッドが団地の窓から飛び込んでくるまでは。

 少年にとってただ一人のいいひとが、少年に苦痛を強いる箱を壊しにやってきた。

 その中から出てきたのは、女のひと。

 少年は女のひとを見上げ、口を開く。

「……おねえさんは……いいひと? わるいひと?」

 女のひとは少し考え、ホイールの歪んだオーキッドのリアタイヤを爪先で蹴りながら答えた。

「ん~と……速いひと……かなぁ?」

 オーキッドのボディを平手で叩く女のひとを見上げた少年。感受性に乏しい瞳は剥製の義眼を思わせる。

 少年は何も答えぬまま、オーキッドに触れようとしていた手をおずおずと前に出した。

 女のひとは少年が何も言わず伸ばした手をしっかりと握る。少年も女のひとの手をそっと握り返した。手の大きさがほとんど変わらないことに気づく。

「お坊っちゃん、名前は?」

「……ハラ……」

「わたしは蘭、よろしくね」

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