第9話 文学少年の平穏
「…あのね」
「なに?」
君の顔を見ながら、僕は昨日のことを何と話したらいいものかと考えあぐねていた。
「昨日の帰り道、何か変なことが起こらなかった?」
「変なことって?」
「その、例えば昨日の物語みたいに、黒猫に追いかけられるとか。」
「あはは、何それ。やだなあ、君もしかして、私が物語の続きをちゃんと書けるか心配してる?大丈夫だよ、猫に追いかけられた後のことも考えているよ?」
「いや、そうじゃないよ。そんなんじゃないんだけど。」
「あれ、手、どうしたの?」
広範囲を包帯で覆っている僕の手を見て、君は聞いた。
「…いや、なんでもないよ。ちょっと切っただけ。」
「そう、大丈夫?だめだよ作家は、手を大事にしないと。」
君はそう言って、包帯を巻いた僕の手に少し触れた。クラスの連中はやれリストカットだの自殺未遂だのと騒ぎ立てたこの傷も、君の手に触れてもらうことができたのだから本望だ。
君と話していると、何だか昨日のことが嘘みたいだと思えてきた。あの猫はただの猫だし、この傷はただの僕のうっかりだし、すべては平和だ。
「それでね、二人は孤児院を抜け出して、旅に出るの。途中でまたあの猫が追いかけてきて、二人は必死で走って逃げる。でもうっかりヨハンが道路に飛び出して、車に轢かれそうになる。レニーが慌ててヨハンを制して間一髪なんだけど、その車の中に乗っていた、あ、タクシーって設定にしようかな、そのタクシーのお客さんが、窓から二人のことをこっそり見ているの」
「そのお客は、二人の敵になったりするの?」
「ふふふ、まだ秘密。君にも教えないから、『まだわからないんだ』って思って書いてよ」
『新月の夜、辺りは一層暗い。闇にまぎれて、二人は遂に孤児院を抜け出した。足跡を消して、足音を消して、二人は走る。かさっ、聞き覚えのある嫌な音がして、ヨハンはレニーの袖を掴んだ
「…ねえ、レニー、この音」
最後まで言い切る前に、ヨハンの耳に最も恐れていた音が届く。
にゃあ
ヨハンは駆け出した。
「おい、ヨハン!どこへ行くんだ」
どこでもいい。早くここから離れなければ。あの猫に追いつかれる前に。レニーの言葉に何も返さず、ヨハンは走り続ける。
ヨハンは大通りに出た。こんな時間に大通りに来たことなんてなかったから、ヨハンは知らなかった。孤児院の前のトリネス通りと違って、大通りは例え深夜でも車がたくさん通っていることを。
きき―――っ
突然のブレーキ音に、ヨハンは腰を抜かしそうになった。間一髪のところで、レニーがヨハンの腕を掴む。
「ヨハン!!」
ヨハンは呆然として、黒くて大きな貸車を見上げた。
「馬鹿野郎、危ないだろうが!どこのガキどもだ!」
運転手が窓を開けて怒鳴る。
「すみません!その、急なお遣いで。こんな夜に外を歩いたことがないから、ちょっと慣れてなくて」
レニーが慌てて頭を下げる。
「気をつけろ!お客さん、すいませんねえ」
運転手は、レニーとヨハンが何者かなんてどうでもいいようだった。お客にへこへこと詫びると、足早に走り去っていった。
「こんな時間の貸車に乗れるなんて、きっとお金持ちなんだな」
レニーは走り去る車を見つめてぽつりと言った。ヨハンは呆然と、歩道の隅にへたり込む。
顔を、見ていた。あの客は窓の中から、ヨハンの顔をじっと見ていた。不用意に道路に飛び出した悪童をとがめるような目ではなく、顔を覚えるようにじっと。猫の声は、もう聞こえなくなっていた。』
文学少年の秘密 神奈沢 薫 @kaworu
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