第8話 文学少年の震撼
僕はとっぷり暗くなった帰り道を、物語の続きを考えながら歩いた。今日は主人公の一人である少年ヨハンが謎の黒猫に追いかけられるところまで進んだ。あの黒猫の正体はなんなのだろう。彼女はもう決めているのだろうか。あの黒猫は、これからの物語にどのような影響を及ぼすのだろうか。黒猫より、黒い帽子の男とかのほうが動かしやすくはないか…。
かさ。背後から音がして、僕はビクッとする。嫌だな、こんな暗くなってから、この辺りを歩くことなんてなかったから。ただでさえ、物語のことを考えていたのだ、過敏になってしまっているらしい。
きっと、何でもない。そう言い聞かせながら、恐る恐る振り返る。一瞬何も見えなかったが、街灯が何かに反射した。僕は思わず後ずさる。猫だ。
真っ黒な猫が一匹、塀の上に座ってこちらを見ている。瞳孔の開いた夜の瞳が、僕の顔を舐める。
心臓がばくばくと暴れ出した。そんな訳ない。あれは、彼女の創った物語だ。これは、塀の上にいる、ただの猫だ。僕は努めて冷静に、前を向いて歩き出した。歩調が自然と早くなる。
早く、早く帰らなければ。親は心配しているかもしれない。夕食が冷めてしまうかもしれない。
僕の足はどんどん加速していく。振り返らないように。あいつと目があってはいけないと、そんな予感がした。半ば小走りのようにして、道の角を曲がったところで一瞬立ち止まる。
振り返ってみようか。きっと、何もいない。街灯が照らすほの暗い道が伸びているだけで、ここはいつも通りの僕らの世界で、あれはたまたまあそこにいただけの猫。ゆっくりと僕は首を回す。何も、いない。僕はほっと息をついて、顔を前に戻そうとした。その時、僕の耳に届いた声は、収まりかけていた僕の心臓の鼓動を跳ねあがらせた。
にゃあ
僕は反射的に走りだしていた。途中で躓いて転んだり木の枝にぶつかったりしたけど、夢中になって走った。自分の呼吸と振動の鼓動で、他の音が聞こえなくなるくらいに走った。
「おかえり、遅かったのね。やだ、なんでそんな息が上がってるのよ。走ったの?」
「…ただいま。」
「ちょっと、何かあったの?不審者でもいた?」
「違うよ、何もいない。…今日は委員会が長引いたから。夕飯が冷めると思って、急いで帰ってきただけ。」
「そう、すぐご飯にしちゃうからさっさと戻ってきなさいよ」
「…うん。」
僕は二階の自分の部屋で、やっと一息ついた。あの猫、何だったのだろう。古本屋へ寄った帰りはいつもあの道を通るけど、あんな猫見たことなかった。あの辺りの家で飼い始めたのだろうか。
窓を少しだけ開け、ちらりと道路を見下ろす。街灯は健気に辺りを照らしていたが、それでも道路にはところどころに闇が溜まっていた。その深淵からあの瞳孔の開いた夜が僕を見つめているようで、背筋が凍る。
ふと、手に痛みが走ったことに気づく。見ると、掌から手首にかけて細く、しかしざっくりと切れた傷跡があった。
僕はぞっとする。そうか、これが、『嫌な切り方』か。自分の言葉に呪われたようで、僕はその手をじっと見つめる。出血はそれほどしていないが、恐らく小石か木の枝か、そこまで鋭利ではない何かによって切ったのだろう。熱いような痺れるような、傷口から中に何かが入り込んでいるような痛み方だった。
いつまでも窓を開けていたら闇が部屋に忍び込んできて傷を舐めていくような気がして、僕は窓を閉めて鍵をかける。食欲は、あまりない。
僕はこの不思議な夜について、明日会えたら君に話そうと思った。
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