第7話 文学少年の執筆
「…それでね、ヨハンが歩いていると、大きな黒猫が壁の上にいるのを見つけるの。最初は気にしないんだけど、その猫、ヨハンの後をついてくるのよ。だんだんヨハンも怖くなって。急いで孤児院の、レニーのいる部屋に帰ろうとするの。その途中、石に躓いて転んで、掌を怪我する。あ、この怪我って使えるかな。後々になって特殊能力が使えることに気づくんだけど、きっかけはこの怪我なんだよ、きっと。」
「きっと、ってなんだよ。君はこの話の神様なんだから、君は自由に決めていいんだよ。」
「ふふ、お話の神様って、志賀直哉みたい。でも適当に決めちゃって後でつじつまが合わなくなったら大変だから、とりあえずこの設定は保留で。」
「了解。」
そういって、僕はまた鉛筆を走らせる。
『帰り道、ヨハンのむき出しの腕の皮膚をうすぼんやりとした恐怖が掠めた。何だ?ヨハンは左の掌で右腕をさする。かさっという音がして振り向くと、そこには大きな猫がいた。ヨハンは一瞬ビクッとしたが、すぐに安堵する。なんだ、猫じゃないか。
初めのうちは何とも思わなかったが、だんだんヨハンは気味が悪くなってきた。目を凝らさなければ夜に融けてしまいそうな猫が、自分の後を付いてきているような気がしてならない。振り返る。いない。
いや違う、闇の中に、いる。
ヨハンは足を速めた。猫に気づかれないように、少しずつ加速する。猫の尾行に気づいていることを、猫に気づかれてはならないような気がした。音をたてない足音がヨハンの背中を追い詰める。振り返らないように、角を曲がった瞬間に走り出した。途中、何度も転んだ。掌を切って血が滲む。嫌な切り方をしてしまった。じくじくと脈打つ痛みの不安が、ヨハンの足を一層焦られる。』
「ちょっと、怪我の痛みの印象を強めにしてみた。あとで設定を変えてもきっと違和感ないと思うよ。」
「うん、すごい。はっきりと『後を付いてくる』って言わない分、なんかどきどきする。『嫌な切り方』っていうのも、いいね。どんな切り方かはわからないけど、ちょっと普通じゃない怪我かもって思わせる。」
「君は原作者なのに、なんだか編集さんみたいだね。」
「あ、偉そうだったね、ごめんね。でも本当にすごく素敵な…」
ぱっ、と視界が明るくなった気がした。僕たちははっとして顔を上げる。どうやらいつの間にか日が暮れていて、いま外の看板に灯りが入ったらしい。その反射した光が窓の外から入り込んできて、正面から見た彼女の髪は、耳に掛けたりかき上げたりのしすぎで多少乱れていた。
「ふふ、君、眼鏡がずり落ちてるよ。」
髪を撫でつけながら、君は笑った。
君は考えるとき、髪を触る癖がある。僕はまた一つ、君のことを知っていく。それは嬉しくもあり、怖くもあった。
すっかり遅くなってしまった。こんなに暗くなるまでこの店に居座ったことなどない。大体は本を買い、読み、少し語り合ってどちらともなく解散する。同時に店を出たことなどなかった。一緒に出てしまったら、彼女がどちらの方向に帰るのかが分かってしまう。そんな些細なことを気にしていた僕とは対照的に、彼女は手を振りながら軽やかに去って行った。
僕は彼女と反対方向の道を歩き出す。本当は彼女の歩いて行った方向からでも帰ることはできるのだが、あえて一緒に帰ることもない。
これ以上、僕たちは僕たちの秘密を知りあうべきではない。
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