旅立ちの白い鳥
中瀬一菜
旅たちの白い鳥
遠い昔から決まっていたことだった。
誰に決められたのか思い出せないけれど、私は物心ついた時からずっと、十八になった年の満月の日、それも雲ひとつない晴天の夜にこの家を出るのだと決心していた。片田舎にある住み慣れた我が家を出て、私は独り立ちを果たすのだ。
ついに今日、待ちに待った満月。空には雲ひとつない。風は穏やかで、しっとりとした風が吹く、絶好の旅立ちの日がやってきた。この日を待ち侘びて伸ばし続けた髪は腰にまで届いてしまった。私は手櫛で整え、お気に入りの白いリボンで結わえた。
私は父から受け継いだ皮のトランクに、次々と荷物を放り込んだ。一人で遠くへ行くのは初めてなのに、妙に手際がいい。長い間この日を想像していたからに違いない。
きっと辛い旅になる。できるだけ荷物は減らしたほうが良い。お気に入りのワンピースは置いていかなければならないだろう、まだ数回しか袖を通していないけど仕方がない。ああそうだ、薬の本は持っておこう。きっと道中役に立つはずだ。
トランクはあっという間に一杯になった。これからの私は、トランク一つ分で生きていく。案外、生きるのに場所はとらないものだ。
「忘れ物は、ないかしら?」
それは、旅の荷物ではなく、この家を出る私がやり残したことである。
ランプを片手にテーブルの上を見た。家族に宛てた手紙はちゃんと封をしてあるし、母から借りたままになっていた大判のストールもその横に畳んで置いてある。その他は変わりないいつものテーブルだ。小さな植木鉢で蕾をつけたバラもいつも通りだ。
「いけない、エミリーのお水のことなにも書いてないわ」
エミリーというのは、この花の名前である。私は手近な本のページを割いて、その余白に「水やりをお願いします」と走り書いた。
「明日からお世話人が代わるけど、きっと花を咲かせるのよ」私はエミリーの蕾をそっと撫でた。
私は部屋を見渡した。もう大丈夫。忘れ物はなにもない。
私はランプの明かりを吹き消した。それからトランクを持つと、部屋を出た。家族はまだ寝ているので、出来るだけ静かにドアを開け閉めし、階段を降りた。
廊下は満月の光が窓から溢れ、夜中だというのにほんのりと明るかった。玄関にたどり着くと、私はドアノブに手をかけたまま、立ち止まった。
ここを開けて出てしまえば、私は家を失う。それだけじゃない。帰る場所、家族、思い出、すべて此処に詰まっている。私はそれらをも置いていってしまうのだ。ドアノブに乗せた手が震えた。
「×××姉さん? こんな遅くにどうしたの?」
背後から私を呼ぶ声がした。妹だ。
なにも答えない私に、妹は詰め寄った。
「まあ、大きな荷物。いまからお泊りに行くのね」
私は黙ったまま、頷きもしなかった。
「母さまには内緒なんでしょう? 黙っておくから、姉さまは安心して行ってらして。しっかり羽を伸ばさないと」
なにも知らない妹。この私が、伸ばした羽でどこまでも飛んでいき、決して戻ってこないなんて、想像もしていないだろう。
私はドアを開け放った。月明かりが差し込み、わたしの足元には光が差し込んだ。
「いってらっしゃい。道中お気をつけて」
私は振り返らず、手を振って挨拶をすることもなく、ただ静かに光の射す方へ歩き出した。
一歩、また一歩、我が家が遠のく。妹はもうドアを閉めて中に入ってしまっただろうか。
すると、後ろから大きな足音が聞こえてきた。私はぎゅっと服を握りしめ、振り返るのをやめた。
「お気をつけて! どうか、お気をつけて!」
私はたまらず駆け出した。重たいトランクを抱きかかえ、訳も分からずひたすらに走った。
結わえた髪とリボンが大きく左右に揺れているのが分かる。夜風を受けてはばたく翼にしては心許ないが、私の旅立ちには十分だ。
風を読むこともできないし、どちらへ進めばいいかも分からないが、私はただひたすらにこの道をはばたいた。
旅立ちの白い鳥 中瀬一菜 @s2hiina
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