Dea ex machina→Re: take
相良あざみ
Dea ex machina→Re: take
そこに在るのは何かと問われたらば、その女はきっと、無であると答えるだろう。
その女の前では、死すらも無に帰す――そう言うことになっている。
で、あるけれども、そうして問う者すら無いのだから、女はそんな自覚すらなく、ただ歩を進めるのだ。
女は
但し、やはり名乗る者すら無いのだから、女はそうと自らの口から発したことはない。
女は、自らが何かを忘れてしまったことを知っていた。
けれどもそれと同時に、その知すらいつか忘れてしまうことも知っている。
そして、忘れてしまうことを知っていることすら忘れてしまうことを知っていて、もっとその連鎖が続いていたのかも分からないとは思っても、それらの知はきっと、忘れてしまっていた。
恐ろしいと思ったことはない。
もしかすると、恐ろしいと思っていたこともあるのかも分からないけれども、恐ろしいと言う感情を女は忘れてしまっていたから、もう何も思わなかった。
道端に花が咲いている。
女は自らが歩を進めたことで道と言う概念を無くしたそこから、花に手を伸ばした。
けれどもそれは、すぐにさらさらと溶けて無に帰した。
女は、自らの腹に自らの手を当てる。
けれども、女が無に帰すことはなかった。
歩いて歩いて歩いて、否、歩くと言う概念が女に真実存在しているのかは分からないけれども、ともかく、全てを無に帰して、忘れていることを知っていることを忘れた頃、女は、出会った。
「やあ、僕は
「……
「猟人、猟人。ふふ、初めてだよ、僕以外に出会ったのは。農夫と名乗ったのも、初めてだ」
「そう、私も、そうだわ。猟人と名乗ったのは初めて。農夫、農夫、本当に、初めてだわ」
「よろしく、猟人」
「よろしく、農夫」
そうっと女の手を握って優しげに笑った男は恐らく、女の前で無に帰さなかった、初めての存在だった。
男は、農夫は、女に、猟人に共にいて欲しいと願った。
女は、猟人は、男と、農夫と共にいることを選んだ。
農夫の手からは、色々な物が生まれた。
無から有を生み、花が咲き、小鳥が鳴いた。
猟人の手はそれらを無に帰してしまうから触れられはしなかったけれど、農夫は沢山のものを生んで、猟人に見せた。
農夫の表情は次第に豊かになっていく。
猟人は表情の作り方すら忘れて、ただ農夫を見つめる。
それでも農夫は生み出し続けて、猟人の心が豊かであるように願った。
けれども、それに反して、猟人は色々なものを忘れていく。
それでも猟人は自らが猟人であって、男が農夫であることは分かっていた。
けれども、それらはきっと、もうすぐ失われるものであると、猟人も、農夫も知っている。
「猟人、猟人、君が無に帰してしまったら、僕はどうしたら良いのだろう」
「農夫、農夫、私は、その答えを持っていないわ」
「嘗ては持っていたはずだよ」
「では忘れてしまったのね」
「どうして忘れてしまうのだろう」
「そう言うものだからよ」
「そう言うものだと知っているのかい」
「さぁ、私は、その答えを持っていないわ」
農夫は目を伏せた。
猟人の声を聞いたのは、それが最後だった。
それは所謂、弔いであったのかも分からない。
けれども農夫は、弔いの意味をまだ知らなかった。
農夫は、色々なものを生んだ。
猟人が好きだった色で空を染めて、そして、自らの好きな色で空を染めた。
あちこちに花を生んで猟人が歩んだ無に道を作り、あちこちに小鳥を生んで猟人との時を思い返した。
猟人と同じように、歩いて歩いて歩いて、歩き続ける。
農夫は学んだ。
そして知った。
その
農夫は歩き出す。
自分が目を覚ました場所、猟人と出会った場所、猟人が、無に帰した場所。
そこに戻らなくてはいけないと知っていた。
農夫は学んだことを知ったし、知ったことを学んだけれども、それがこの先連鎖していくことをまだ知らなかった。
ともかくも農夫は、自らの前では全てが有と生まれることを知っていた。
花の中で猟人が眠っている。
再びそこへ帰り着いた時、農夫は、初めて猟人を美しいと思った。
変わらないままの猟人。
変わらないままの自分。
幾ら世界が育っていっても、自分達だけは何ひとつ変わらない。
けれども農夫は知った。
猟人と自らが何であるのかを、本当の意味で知った。
「嗚呼、
そう言って、農夫は目を閉じた。
その声を聞いた者はなく、農夫は動かなくなった。
女が目を覚ました時、女は全てを承知していた。
自らが猟人であること。
傍らでずっと目を覚まさないままでいる男が農夫であること。
自らの役割と、農夫の役割。
猟人は手始めに、自分が入れられていた棺に、農夫を収めた。
そして、農夫の手を握り、囁いた。
「嗚呼、
そうして一度目を閉じて立ち上がると、棺の蓋を閉める。
旅立たなくてはならない。
全ての身支度を終えた頃猟人は、もう、傍らの大きな箱が何であるのかを忘れていた。
ただ、開けてはいけないことを知っていたから、その箱の蓋に手を載せて囁いた。
「さぁ、また、やり直しましょう」
そうして立ち上がると、辺りの花を全て無に帰した。
無にしなくては、農夫が有を生み出せないことを知っていたからだ。
「再び会えた時、私はもう殆どのことをわすれてしまって、貴方はまだ殆どのことを知らずにいるのでしょう。けれど
女は歩き出した。
Dea ex machina→Re: take 相良あざみ @AZM-sgr
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