虚実の蜃気楼 第5話

その店は内装に凝っていた。天井から吊り下がった蛍光灯の傘は竹で編まれたもので、格子の隙間から光が漏れていた。屋内でありながら通路には日本庭園をモチーフにした白砂に模造の植物が植えられていた。


「まだかな、まだかな」


海野は鼻歌交じりにテーブルに肘をつきながら目の前の料理を玩具屋で玩具を見つめる子供のように目を輝かせながら眺めていた。赤々と燃えるガスコンロの上には光沢のある丸く薄い石が置かれ、その上には丁度良い脂がのった豚肉が乗っていた。程よい厚さの油を弾かせながらじゅうじゅうと音と煙を立てながら焼けていた。特別に調達し焼き肉用に加工した火山岩で焼く焼き肉がその店の売りだった。


「もう、道琉、行儀が悪いよ」小笠原は正座しながら頃合いを見て牛肉を裏返す。


「いいじゃんかよ」頬を膨らまし、口を尖らす。


テーブルの上には細長い長方形の皿が並べられていた。三つに仕切られた皿には柚子胡椒、天然塩、かぼす醤油が入っていた。


小笠原と海尾は和風焼き肉店に居た。平日の夜、給料日の初めての給料日というわけではなかったので店内では宴会とは行われておらず、人の会話声と、店員の接客、肉が焼ける音が主に聞こえる音だった。


本来ならば海野が恋人である勅使河原宗一郎が二人で来店する予定だったが、勅使河原が仕事で突然急用が入り計画は破綻となった。だが、事前に予約してあったのでキャンセル料が取られるくらいならと友人である小笠原を誘った。


「――あれ、意外とあっさりしてる。かぼすの御陰かな?」口元を手で隠しながら小笠原は呟いた。


韓国焼き肉ならば肉を撒く為の野菜であるサムギョプが出されるところだが、この店は違った。白い白磁の器には山盛りの葱と茗荷のみじん切りされたもの、また別の器には千切りにされた大根や人参、そして水菜が載っていた。肉で野菜を撒いて食べるというのがこの店のスタイルだった。


「だよね」ジョッキに入った生ビールを半分一気に飲む。「それにさ、野菜もたくさんだから胃に凭れないよね。ジューシーなお肉とシャキっとした野菜がたまんないね」


二人は話に花を咲かせながら箸を進めた。海野は終始ビールを飲んでいたが顔色は殆ど変わらなかった。一方、小笠原は店オリジナルのかぼすの酎ハイである「かぼちゅう」を飲んでおり、うっすらと頬が赤く染まっていた。


「そうだ、そうだ、忘れるところだった」海野ははっと目を見開くとキャンバス地の鞄からビニルの袋を取り出した。それを小笠原に渡す。


「何?」渡された袋の中身を取り出すと黒い表紙のアルバムだった。


アルバムを開くとフィルムで保護された写真が納めらられていた。艶やかな振り袖姿の小笠原が取られた写真だった。


「あ、成人式の」


「うん」海野はビールを一口飲む。


「綺麗に撮れてる……構図もしっかりしているし、プロみたい」頁を捲りながら嬉々と話した。


「そりゃ、プロを目指してますからな」プロみたいと言われて嬉しいのか、それとも酒の影響なのかうっすらと頬が赤くなった。「焼き増ししたい写真があったら言ってくれよな。すぐに、とは言えないけど時間を見つけて遣って上げるからな」


「……そういえば、道琉って何時もフィルムだよね。デジカメでは写真撮らないの?」


「あんまりデジカメでは撮らないな。というか、デジカメ自体持っていないしな。あ、携帯くらいか」


「デジカメの方が楽でしょ?」


「そりゃあ、楽だよ。パソコンに繋いでちょっとソフトで補正して印刷だからな」手に持っていたジョッキを置くと真剣な眼差しになった。「あたしの師匠、というか教授ね。写真を学ぶ段階ならばデジカメは使うなって何時も言うんだよね」


「どうして?」


「プロとして写真を撮るならばデジカメでもフィルムでも構わない。それは取る人間の自由だし、使うからにはプロとしての意識がある。だが、学ぶ段階ならば手間が掛かる方で学べ。デジカメは取ったその場でどんな写真になるか解る、もし駄目ならもう一回取り直せる。だが、フィルムはその場では解らない。失敗したのか、成功したのかも解らない。だからこそ、一枚一枚で勝負して腕を磨けってね」


海野は某県市立の芸術大学写真映像学科の生徒だった。この学科を選んだのは一人の写真家が教鞭を振るっていたからだ。そしてその教鞭を振るっている教授こそ、海野の師であり、人生を選ぶ切っ掛けとなった人物だった。


「師匠ね、いろいろな国に行っては写真を撮っているんだよね。そんで撮るのが決まって人の生活」


「人の生活?」


「そっ」海野は残っている肉をまた焼き始めた。「洗濯している風景や子育てしている風景、もう本当に普通の日常だよ」


「……今まで聞いた事がないけど、どうして道琉はその人に憧れたの?」


「師匠はね、日常にこそ人間の美があるっていつも言っているんだ。だからこそ、対象を一回しか撮らない。二回も撮ってしまったらそれは日常ではなくなるから」海野は箸を置いて物思いに耽る。「初めて見た時さ、ただの写真にしか感じられなかったんだよね。だけど、足が立ち止まったんだ。何ていえばいいのかな、写真が映像のように生き生きと見えたんだ。そしたら私もこんな写真を撮りたいなって」


小笠原はかぼちゅうを口にする。ふと海野がじっと自分を見つめている事に気が付いた。その眼差しは先程とは違って真剣な眼差しだった。赤い髪、黒く塗られたアイシャドーの見慣れた友人の顔が恐いと感じるくらい真剣な目立った。


「渚……あんまり言いたくないけどどうするんだ?」


「どうするって?」


「陰宮の事だよ。彼奴、もうすぐで卒業だろ」普段はチビと呼ぶ海野が珍しく名前で呼んだ。


「そうだけど」


「今までみたいにいかなくなるぜ。しっかりと向き合って思っている事を伝えた方がいいと思うけど」


「そんな事……」言葉が濁った。


「陰宮も渚の事を存外には思っていないと思う。だけど彼奴は絶対に自分からは言わない」肉が焼けた事を確認すると勢いよく頬張り、ゆっくりと噛み締める。「人の人生って一回だけだぜ。写真のようには取り直せない。せかす訳じゃないけど、ずっと今のような状態が続く訳じゃない。渚、何時か後悔するぞ?」


自分よりも小さい背中であるが大きな存在だった陰宮。当たり前の様にいた存在がいなくなるという考えは小笠原はつゆとも考えていなかった。海野の言葉を聞くまで今まで通りの間柄が続くと思っていた、いや信じようとしていたのかもしれない。


***


海野と別れたのは二十一時を過ぎていた。アルコールを多く飲んでいた海野であったが、顔色一つ変えずに乗ってきた折り畳み自転車に跨がると颯爽と岐路に向かった。ふらつく事のない海野の背中を見送った小笠原は白い息を吐く。


外の空気は凛と冷えていた。アルコールで赤く染まった頬は火照っており、より一層と空気が冷たく感じられた。巻いていたマフラーに首を埋めさせると、変える為にバス停へと向かう。バス停に着くと間もなくバスが遣ってきた。


バスに乗り込むと前方の窓際に座る。少し暗く落ち込んでいる小笠原の姿が窓硝子に鏡のように映っていた。


「……道琉に言われなくても解ってるよ」小笠原は自分自身に語りかける。


初めて陰宮に出逢った時を思い出す。今にしてみればそれは偶然ではなく必然だったのかも知れない。そして色々な事があった。


「……先輩がそんな気持があるわけ無いよ」


――もしあったら。


「卒業したって今までとあまり変わらない」


――本当にそうなの。


「このままでいい」


――そう、このままの関係で。


「思っている事を伝えるって……」


――伝えて……。


自問自答が暫し続いた。何時の間にかアナウンスで自分が下りるべきバス停の名前が放送される。慌てて停車ボタンに手を伸ばした。


バスが静かな住宅街に停車する。小笠原は一歩一歩バスのステップを降りた。バスがゆっくりと発車すると静寂が襲う。


ふとコートのポケットに手を入れると冷たい感触を感じた。ポケットには携帯電話が入っており、取り出して液晶画面を見る。相当酔っていたのか、自分自身でもどうしてそのような事をしたのか解らなかった。携帯電話の電話帳機能を開いて通話ボタンを押す。ゆっくりと耳元に電話を当てる。微かだが手が震えていた。


「陰宮」二コールで電話が繋がると聞き慣れた声した。


「あ、先輩、今大丈夫ですか?」


「君か。大丈夫だが」電話からは雷鳴のような轟音が聞こえる。「ちょっと、待ってくれ。雷が酷くて上手く聞き取れない。今近くの建物に入るから待ってくれないか。こっちは嵐なんだ」


「えっ、嵐ですか」小笠原は空を見る。空には綺麗な上弦の月が雲に邪魔されることなく輝いていた。


「今、長崎なんだよ」


「長崎?」


「ああ」雷鳴が聞こえなくなった。「今、建物の中に入った。ああ、すっかり濡れてしまった……で、何の用だい?」


「どうして長崎に?」


「まあ、なんていうかな、卒業旅行みたいなものだ。それより、何か用かい?」


「あのですね……」何を話すか戸惑った。


「歯切れが悪いな。何か言い辛い事なのか、ならメールでしても」


「いえ、あの、ですね……そうだ、来週空いてませんか?」咄嗟に言葉が出た。


「来週……ちょっと待ってくれ」電話機の向こうから何かを探す音が聞こえた。「……ああ、来週は予定が空いているが?」


「あの……よかったらですが、食事に行きませんか」言った後に後悔した。突然食事に誘ったりして変に思われないだろうか、もし断られたらどうしようか、と不安が襲う。


「食事? そんな事で電話してきたのか」溜め息が聞こえた。


「あ、ごめんさい……」


「いや、謝る必要はない」陰宮は優しく語りかけた。「むしろ謝るのは私の方だ。そんな事と言ってすまない。君の誕生日だったな。去年はいろいろ迷惑をかけたから何か奢るよ」


「い、いいですよ、そんなの悪いです」


「遠慮しなくて良い……おっと、雨が酷くなってきた。すまないが失礼する。本降りになる前にホテルに行かないと」


小笠原は「気を付けて、旅行楽しんで下さいね」と話すと電話が切れた。電話からは単調の音がプープーと聞こえた。


電話を切った時、小笠原は陰宮の言葉を思い出した。


「私の誕生日、覚えていてくれたんだ」


一度だけ陰宮に話した自分の誕生日、もう忘れていると思っていた。それが嬉しくて小笠原は小さくガッツポーズをした。


***


空が鮮やかだった。手を伸ばせば届くほど澄み渡り、昨日の嵐が嘘のようだった。


陰宮は手に桐の箱を持ってホテルを出た。エントランスを抜け、数珠繋ぎになっているタクシー乗り場に足を向ける。先頭にいたタクシーに近づいた。


「切支丹郷土資料館までお願いできますか?」


黒いスーツにロングコート、一見サラリーマンの風の服装の陰宮だったが、背中まで伸びた長い黒髪は後ろで束ねられ、手には布製の白い手袋を塡めていた。何処か異国の紳士を彷彿させる奇妙な出で立ちの客を見ても運転手は眉一つ動かさなかった。ただ一言「ええ、大丈夫です」と答えた。


ホテルから二十分ほどで目的地に着いた。料金を払い、領収書を切手貰い、タクシーを降りた。切支丹郷土資料館はコンクリートの打ち放しの建物で規模は決して大きくはない。数台しか止まっていないガラリと空いた駐車所を横目にしながら入り口に向かう。入り口の柱には石に彫られた看板が付けられており、開館時間等の案内も出ていた。


自動ドアが開くと温かい空気が頬に感じた。受付には暇そうに座っていた女性の係員がおり、入ってきた客である陰宮に気が付いた。


「いらっしゃいませ、入館料は……」席に立ち上がり硝子越しに声を掛けてきた。


陰宮は言われたとおりに入館料を支払う。入館券の半券と館内の三つ折りにされたパンフレットを渡された。


「沢田館長はいらっしゃいますか」役目を終えて再び座ろうとした係員に尋ねた。


「沢田ですか?」突然館長の名前を出した童顔の顔付きときっちりとした服装で年齢が今ひとつ解らない陰宮を不審そうに見た。「どういったご用件で?」


陰宮は穏やかに微笑みながら胸ポケットから一枚の名刺を取り出した。名刺には「嘉納泰晴」という名前と星の家紋、清明桔梗印が記されていた。


「沢田館長には話が通っていると思います。こちらの名刺をお見せ頂ければ解ると思います」客との遣り取りをする為の硝子窓の開口部に名刺を入れた。


係員はやはり不審そうに名刺を受け取るといそいそと奥へと消えていった。


「――君の故郷だろう。何年ぶりに帰ってきたのだろうか」そう呟くと桐の箱を優しく撫でると館内へと向かった。


館内には切支丹関連以外にも様々なものが展示されていた。縄文時代の遺跡から出土した土器や丸太船、石を加工した釣り針や鏃(やじり)。そして館内の奥に行くと硝子ケースで厳重に保管されて展示されている一体の仏像があった。


正確には仏像とは言い難い。微笑んだ姿は仏の表情とはまた別であり、慈悲や救世といった違っていた。女性の面影が感じられ、両手を合わせて何かに祈っているようにも見える陶器で出来た仏像、説明が書かれた案内板には『マリア観音』と書かれていた。


他にも実際に使用され表面が摩耗したイエズス・キリストが描かれた絵踏み。そして当時の風俗を描かれた浮世絵も展示されており、新年の行われた絵踏みをしている民衆の絵も展示されていた。


「……こちらにいらっしゃいましたか」優しい声が陰宮の背後からした。「お待たせ致しました。私が館長をしております沢田です」



***


六畳ほどの応接室に案内されると布製のソファに沢田と対面して座った。滅多に使われないのだろう、陰宮は座ると埃の香りがした。暫くして先程とは別の係員がお茶とカステラを乗せた皿を運び、二人に挟まれたテーブルに置く。


沢田は陰宮よりも二回り年上だった。茶のスーツを着ており、染められた髪が異様に黒かった。


「突然、お時間を戴きまして申し訳ない」陰宮は最初に頭を下げた。


「いやいや、お構いなく」首元に手を当てながら苦笑いをしながら言った。「と言いたいところだけど、本当は私も色々な事で吃驚してね。先週突然国会議員の安永代議士から直々に名指しで電話が来る、内容が陰陽師の嘉納という方の代理が来るから応対するように、そしてしかも曰く付きの魔鏡の話……まさか、君、といっては失礼か、貴方のようなお若い方が来るとは予想もしていなかった。てっきり陰陽師と言うから仙人のような方が来るのかと想像してしまったよ」


陰宮もまた苦笑いをした。


魔鏡の一件が終わり、陰宮は今後の処置を考えていた。俱梨伽羅不動明王寺に保管という手もあるが、万が一流出するような事件が起きる可能性もある。そうすれば美術品として価値を見いだされ様々な所に流される。出来れば静かに眠らせたいと考えた。また故郷の地に眠らせたいとも考えた。故郷である長崎であれば同胞もまた眠っている。出来ればそういった同胞と同じ場所にと考えた。


そこで天社土御門神社本庁の陰陽師である嘉納泰晴に連絡を取った。嘉納は陰宮の師である辰巳芳明の友人である。また政界には嘉納の占術を頼っている方々も一部存在しており、太いパイプが持っていた、それに陰宮は頼った。その結果、国会議員まで動かしたと知り陰宮もまた困惑した。


「――それが、例の魔鏡ですか」一通りの挨拶と世間話をすると沢田はテーブルに置かれた桐箱の話をした。


「ええ、そうです」陰宮は手袋を填めた手で蓋を開けた。


蓋を開けると一枚の紙が入っていた。乳香の香りが染みついた札で、陰宮が自作した魔鏡に眠る魂に捧げた物だった。札を退かすと真綿がぎっしりと敷き詰められており退かすと件の魔鏡が出てきた。


沢田は懐から手袋を取り出すと手に塡めて魔鏡を取り出した。


「これに切支丹の子の魂が」沢田は優しく魔鏡の表面を撫でる。


「素人で大変申し訳ありませんでしたが、金属の表面は磨きました」


沢田は鏡面を様々な角度から見る。外光が当たると壁には聖母マリアが浮かび上がった。「いや、綺麗に磨かれている。見事な物だ……うむ、確かに受け取りました。これは展示することなく厳重に他の切支丹の資料と共に保管致します」


「宜しくお願いします」陰宮は頭を下げた。


「……一つお尋ねしたいのですが、貴方は陰陽師なのですか?」魔鏡を桐の箱に片付けながら尋ねてきた。


「確かに陰陽道を受け継いでおりますが、私は陰陽師と言うよりも声聞師、寺に住み吉凶を占ったり、猿楽を奉納する身です」


「確か……陰陽道は中国の陰陽五行説が元でしたか」


「そうですね。ですが、神道や同時期に伝来した仏教によって日本独自のものに為ってしまいましたが」


「……独自の物?」そう語ると神妙な顔になった。「――似ていますね」


「何がですか?」


「……私は切支丹なんですよ」沢田はそう語ると湯飲み茶碗に手を伸ばして口に含んだ。「代々切支丹の家系なんです」


「そうでしたか」


「不思議な因果で今ではこの資料館の館長を務めておりますがね、亡くなった祖母からは色々と切支丹の話を聞いたものです。東洋の神秘というのを御存知ですか?」


「大浦天主堂の神父に日本人女性が自分達がキリスト教徒と伝えた事ですね」


沢田は感嘆しながら大きく頷いた。「お若い方なのによく御存知で。明治になり基督教の解禁令が出されて数年後に起きた出来事。当時は長期間の熾烈な迫害によって基督信者はいないと考えられており、それが生き残っていたというのは重大な出来事で当時の強皇ピウス九世によって東洋の神秘だと語りました」



沢田は立ち上げると壁に掛けられていた資料館のポスターに触れる。ポスターにはマリア観音が描かれたいた。


「だが、それは同時に我々切支丹の新たな苦悩の始まりと為ったのです。宣教師は国外追放されて、宣教の為に密入国したとしても密告されて処罰された。そんな長い間切支丹は隠れて信仰し続けた。結果、独自の解釈をして教えを受け継がせた。また隠れる為に様々な物に潜ませた。このマリア観音もその一つ」


「……神道や仏教に潜ませた。だが基督教は一神教」


「その結果、神道や仏教ともかけ離れた、基督教とも違う存在になってしまった。其れを知り、多くの方が転んだ」


転ぶとは切支丹が他の宗教に改宗する事である。


「だが、命を掛けてまで受け継いできた切支丹です。ここで転んでは護ってきた事は何になるのでしょう。亡くなった先祖が信じてきた事は何になるのでしょう。そうして切支丹である続ける事を選んだ方が大勢居ました」


陰宮は黙って聞いていた。


「今では切支丹という存在が歴史の教科書のみに生きる存在に思われています。昨年も修学旅行で訪れた学生達が授業の延長上でしか見ていない。それは我々、切支丹にとっては悲しい。そして何時か守り続けてきた信仰が消えるのではないのかと思うと恐ろしい」


***


陰宮は切支丹郷土資料館を後にした。だらりと長崎の坂道を下りていく。道の脇には土産屋が多数有り、色鮮やかなガラス細工やカステラなどが売っていた。


眼下には広い長崎の地が広がっている。


「絵踏みして 生き残りたる 女かな」


陰宮は高浜虚子の一句を口にした。高浜虚子が生きた時代には当然絵踏みという文化は消えていた。ただ浮世絵等で残っている過去の文化。


新たに産まれる文化がある。その文化で裏側では消えゆく文化もまたある。


陰宮もまた消えゆく文化を背負っていた。神殺しを行った一族の教えを受け継いだ、もし後継者がいなければ陰宮の代で消えゆく。



***


景条大学の敷地の片隅に忘れられたように一軒の平屋建てのログハウスが建てられていた。元々は数十年前に建築学部の学生が実習の教材として建てたログハウスで暫くの間は大学の書類などを保管する倉庫として使われていた。だが、今は改装されてラジオ放送規格研究会、通称ラジ研の活動拠点と為っていた。


内部は遮音性の優れた壁を隔てて二つの空間に分かれていた。一つには丸いテーブルやパソコンや編集機材が置かれた机、これまでに学生ラジオ番組『あっと・ほおむ』で使用したフォーマット、台本、構成が纏められたファイルが入っているスチール製の書類棚があった。こちらは企画室と呼ばれている。


もう一方の空間とは扉で繋がっている。長机が二つL字状に置かれており、窓側に面している置かれている机の上にはマイクスタンドが二台が置かれており、室内に向かって面して置かれている机にはラジオ放送には欠かせないマイク等の音源を混ぜるミキシングコンソール、通称卓(たく)と呼ばれる機材と音楽を流す為のプレイヤーが接続されていた。

こちらはラジオブースと呼ばれる。


今は二つの空間を繋ぐ扉は閉められていた。この扉は通常は開けられている。閉められている状態はラジオブースを使用中の為、私語や開閉厳禁を意味していた。


山岸徹は卓の前に座りヘッドフォンを耳に当てながらマイクとBGMの音量のバランスを確認していた。目の前では小笠原がラジオの原稿を手にしながら軽快な口調で喋っていた。


「ではここで一曲。***さんの曲で『*****』です」


山岸は小笠原が話すのを終えるとマイクの音量を切るのと同時に、プレイヤーを再生再生して音量を上げた。


曲の終わりまで五分弱あった。小笠原はヘッドフォンを外すと机に置いてあった水を飲んだ。


「ねえ、小笠原先輩、聞いて良いっすか?」


「何?」


「この後、何かあるんですか?」


山岸の言葉に大きく体を前屈みにした小笠原は口に含んでいた水で咽せた。慌ててポケットに入れていたタオル生地のハンカチーフを取り出して口元を拭く。


「い、いきなり何」頬を赤く染めて狼狽する。先程まで原稿を噛まずに読んでいた人とは同一人物とは思えないほど言葉があやふやだった。


「大丈夫ですか?」山岸はデジタル表示されている曲が終わるまでの残り時間を確認した。「いや、何時もよりも服装が決まっているし、髪型も決めているなと思いまして……もしかして会長とデートっすか?」


「ち、ち 」大きく手を振って否定しようとするも言葉にならない。


「はい、曲終了まであと三十秒」山岸はにやにやと慌てふためく小笠原を他所に平然と伝える。


小笠芦は背筋を正して机座り直す。方を大きく上下に動かして深呼吸をした。


「会長とデートねえ」山岸は卓を操作しながら思わず呟いた。


曲が終わるのが近づき、山岸は卓を操作しながら小笠原に声を出すタイミングを手で合図する為に顔を上げた。凝視ではなく睨んでいる小笠原と目があった瞬間、思わず生唾を飲み、自分の言葉に後悔した。


ラジオ放送が終わると小笠原は企画室にいたメンバーに簡単な挨拶をしてから出て行った。その姿をただ唖然と見ていたメンバー一同はラジオブースからいそいそと出てきた山岸に尋ねた。


「小笠原さん、何急いでいるの?」ふっくらとした体格の現ラジ研の会長を務めている経営学部の高倉がテーブルに座りながらスナック菓子を食べていた。「何時もならフォーマットとかを片付けてから一番最後に帰るのにさ、今日は珍しくすぐに帰るなんて何かあるのかな」


「ああ……その事ですか」山岸は手に持っていた小笠原が読んでいた台本等の用紙を片手に片付ける為に書類棚を開ける。「直接聞いたわけではないすけど、どうやら会長とデートみたいすっよ。そんな事を口にしたらもの凄く睨まれました」


「えっ、あの二人ってくっついたの?」


「さあ、そうなんじゃないんすかね?」


「それなら、やっとくっついたのかって感じだよな」高倉と向かい合って足を組みながらスナック菓子を摘んでいる野々村が溜め息混じりに呟く。「ああ、完璧に望みが消えたな」


「野々村先輩って確か小笠原先輩に何回か告白してるんすよね。何回したんです」


「それ、振られた人間に面と向かって聞くか、普通?」金色に染めた髪の毛を掻き上げながら眉間に皺を寄せる。「五回だよ」


「五回は多いですね」


「まあ、冗談ぽく言ったやつも含めてだけどな。でもきついぜ、冗談を真剣な顔で何度も断られるのは」


「でも、今彼女いるでしょう。この前、ライブハウスでディスクジョッキーしていたら告られたって喜んで惚気たじゃないっすか」


「まあ、そうだけどさ」テーブルに肘を乗せて悪態を吐く。「今度あったら二人を茶化して……」


男三人で和気藹々と話していると企画室の片隅に置かれた机に座っていた大島紗耶香が読んでいた分厚い専門書を勢いよく閉じた。大島は四回生であるが現在もラジ研の副会長をしており、来年もこの景条大学の院に進学する事が決まっていた。彼女は研究会の一員だったが、経理だけを担当しており実質はラジ研を担任している教授のゼミに所属しているので、教授研究会の活動報告を行うだけの存在であった。いつも空調設備が整っておりや静かな場所にあるサークル小屋に入り浸り黙って定位置の机で勉学に励んでいた。


「……人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られてしまえ、というけど、今の世の中馬なんてそうそういない」網が短くボーイッシュな外見の大島はハスキーヴォイスで囁いた。「君達は何に蹴られたい。蹴られたくないなら静かにしてくれないかな……」


男三人は小さく頭を下げて「すいません」と謝った、


***


景条大学の裏門を出る横断歩道を渡ると学生達がよく足を運ぶコンビニエンスストアがあった。駐車場には一台の赤いローバーのミニがエンジンを掛けた状態で止まっていた、小笠原は赤信号が青になるのと同時に勢いよく車へと向かって走った。


冷たい冬で小笠原の吐く息は白くなり、高揚の為に頬が薄く赤く染まる。


運転手側のドアへと近づくと窓硝子と二回、コンコンと叩いた。車内では小難しい顔をしながら本を読んでいた陰宮がずり下がった眼鏡を上げることなく上目遣いで小笠原を見ると、体を伸ばして助手席のドアのロックを上げた。


「お待たせしました」小笠原は回り込んで助手席に乗り込んだ。


「別に待っていないけど」陰宮はそう言うと腰を上げて座り直した。


車内は暖かく、厚手のコートを着ていた小笠原はじわりと汗が滲み出た。陰宮の車は普通乗用車という分類だったが、一般に出回っている軽自動車よりも狭く小さい。小柄な陰宮には丁度良い広さでも、背の高い小笠原には異様な天井の圧迫感があった。窮屈そうにコートを車内で脱ぐと膝の上に置いた。


「で、何処に行くんだい?」陰宮はシートベルトを締める。


「それなんですけど」小笠原もシートベルトを締めると、手にしていたショルダーバッグから一冊の雑誌を取り出した。雑誌には幾つもの色とりどりの付箋が付けられていた。「まだ、決められなくて。先輩は何処がいいですか?」


陰宮は雑誌を受け取ると頁を捲る。最近出来た話題のダイニングキッチン居酒屋やリーズナブルなフランチレストランなどが自慢のメニューを大きく掲載されていた。確かに美味しそうだ、興味がそそるなと感じながら小笠原が付箋を付けた店を確認する。せめて彼女の候補から選ぼうと考えた。


「……この店はお勧めだよ」頁を開いたまま小笠原に渡す。「どうする?」


頁には『天ぷら屋 逢瀬』と書かれたいた。場所も決して遠くはない、俱梨伽羅不動明王寺のある旭山の近くにある住所だった。


「先輩は行った事があるんですか?」陰宮は素っ気なく返事をした。「なら折角だし、別の店の方が」


「折角の誕生日祝いだろ。折角別の店に行ってがっかりしたら嫌だろ。この店の主人はちょっと癖があるけど味は確かだよ。私が保証する、それに結構面白い」


何が面白いのかは解らないが、小笠原は陰宮に「じゃあ、ここにします」と答える。陰宮は車を発進させる前に携帯電話を取りだして店に電話した。


「そう言えば、最近行っていなかったな」電話を切りながらうっすらと微笑む。


いつも自分より大人のように感じていた陰宮が見せた子供っぽい表情。その姿を見て小笠原もどんな店なのか楽しみになった。


***


駐車場に車を止めて向かう。藍色に染められた年季の入った暖簾には店の名前が書かれており、店内からの明かりが零れていた。陰宮が暖簾を押し分けて扉を開けると小笠原に手で先に入るようにエスコートする。


「いらっしゃい」襟付きの調理服と和帽子を被っていた男性が作業を止めて付近で手を拭くと顔を上げた。「おお、珍しく来たと思ったら生臭坊主とじゃなくべっぴんさんとか、声聞師(しゃもじ)さんよ」


天ぷら屋逢瀬の店内は決して広くはなく細長い空間だった、壁側には三つの四人掛けのテーブルが設けられており、カウンターには八人分の席が設けられていた。カウンターの目の前で調理されており、声を掛けてきた恰幅の良い中年の店の主と、作業を止めることなく黙々とカウンター席に既に座っているサラリーマンの二人に腕を振るっている若い従業員、そして桜色の淡い着物に割烹着姿が似合う女将がいた。客は今のところ陰宮達を含めて四人だけだった。


主は何処に座っても構わないと言うので、陰宮は小笠原に相談する。目の前で調理するところを見たいというのでカウンターに横並びに座る事にした。カウンターには元から半円形のお盆が置かれており、笹舟をあしらった箸置きには漆塗りの黒い箸がの乗せられていた。女将が後ろから挨拶しながらおしぼりと温かい香り立つ緑茶の湯飲みをそれぞれに置いた。


「そうそう、しゃもじと呼ぶのは止めて下さいよ」手を蕗ながらカウンタに手を突いて身を乗り出している主に言った。「御前に生臭坊主と言っていたって伝えますよ」


「何、構わないさ。祈祷や御祓いが終わったら精進落としだって言いながら魚とか肉とかを食いに良く来ただろう。だが、精進落としは坊さんのやる事じゃないだろうが」そう言うと流しに向かい笊に乗せて水気を切っていた野菜を持ってきた。「そしてだ、『しょうもんし』は辰巳さんだろ、『しゃもじ』は陰宮君、こりゃあ、譲れない」


「……先輩、しゃもじって何ですか」溜め息を付いている陰宮に尋ねると深い溜め息をもう一度した。


「どちらも同じ漢字を書く。声を聞く師、寺院に住み込みなどをしながら仏の教えを教わり、神楽や占術、祈祷を行う人の事さ」


「辰巳さんて先輩の先生ですよね。でも何で先輩は『しょうもんし』ではなく『しゃもじ』なんです?」


陰宮は答えない。代わりに主が笑いながら「それはだな。陰宮君が小さい時だ、辰巳さんの貰った扇を神楽の練習中に骨を誤って折ったんだ」答えながら霧のまな板を洗った。「辰巳さんは気にするな、と笑ったが、肝心の本人はそりゃあ壊したショックが大きい。また別の扇を貰ったがおってはいけない。ならば練習の時だけ別の物をと……」


「別の物?」


「そう、別の物。扇と言っても神楽用の骨のしっかりとした物。閉じると結構太い。だからか、調理用の木べらを持ち出して練習していたんだよ」まな板を洗い終えるとまたカウンターに手を突いて身を乗り出した。「それを生臭坊主の香雲さんが見ていたらしく、どうせ持つなら杓文字だったら面白かった。声聞師(しゃもじ)が杓文字を持っている舞っていた、と言いふらしてね。それ以後、『しょうもんし』は辰巳さん、『しゃもじ』は陰宮君というわけだ」


「……不本意ですがね」陰宮は湯飲みに手を伸ばして啜る。


「さて、お喋りもここまでとするか」主は笊に乗せた野菜を二人に見せた。


笊の上には灰汁抜きを終えた筍、スーパーで売っている物とはまるで違う太く見事なアスパラガス、独特の香りを広がらせている春菊、そして人参や蓮根、椎茸などの茸類が乗っていた。


「こちらが本日前菜で使用するお野菜です」先程とは口調が変わる。穏やかだった目尻は引き締まり一流の料理人の顔付きだった。「お嫌いな品は御座いませんか?」


二人に質問をして、嫌いな物がないと確認し終えると包丁がまな板を叩く軽快な音が店内に響いた。筍は薄くなく、そして厚くなく、天ぷらにした際に食感が楽しめる絶妙の大きさに切り分ける。さっと衣を纏った筍が黄金色の油に静かに沈んでいく。気泡と音を立ててゆっくり浮かび上がると主は菜箸で取り上げ、油を切ると白い脂取り紙が乗った長皿に盛りつけて二人の前に差し出し、次にそれぞれの盆に塩が入った小皿を出す。


「早堀りの筍の天ぷらで御座います。食感と香りをお塩でお楽しみ下さい」主は料理の説明をすると次の調理へと進む。


小笠原はてっきり一度に揚げられた天ぷらが出てくるものと思っていたが、一品一品、しかも説明付きで出された。天ぷらからは白い湯気が立ち上げてまさしく正真正銘の揚げたて。両手を合わせてから箸を手にした。


「……お、美味しい」口に手を当てて目を丸くした。始め、さくっと心地良い衣の音が出る。次は筍独特の食感を感じると口の中には香ばしい香りが広がる。


「だろ」小笠原が感想を言ってから陰宮も箸を手に取る。「他の店だったらそんな驚いた顔、見られなかったかも知れないな」


***


二十時、まだ街は営み電気の灯火が赤く輝いて、行き交う人も多い。陰宮と小笠原を乗せた車は静かに住宅地の細い道を走り、四階建てのマンションの前にして車はハザードランプを点灯させて停車した。そのマンションは小笠原の自宅だった。


小笠原は車から降りるとドアを開けたまま腰を屈めて陰宮を見た。


「今日は有り難う御座いました」


「礼を言われるほどでもないだろ」陰宮は煙草を咥えたが火を付けようとはしなかった。


「先輩、気を付けて帰って下さいね。送ってくれて有り難う御座いました」


頭を下げてドアを閉めようとすると陰宮が「忘れていた」と呟いた。再びドアを開けて車内を除くとシートベルトを一旦外し身をよじって後部座席を探っている姿が見えた。


「あった」陰宮は辛そうに声を出す。


元の状態に戻ると小笠原に掌に乗る程の大きさの小さな紙袋を差し出した。貰った瞬間に袋の中身からカチリと硬い音がした。


「もしかして……プレゼントですか?」両手で優しく袋を包む。「――嬉しいな」


「プレゼントと言いたいが、返すだけだ」


「えっ」気の抜けた反応だった。「返すだけって?」


「見れば解る」


首を傾げながら言われるままに袋を開けた。暗い夜もあって袋を開けただけ中身が解らない。中身を落とさないように左手を広げ袋を傾けて中身を出す。じゃらりと音した。


「あ、あの時の腕数珠ですか」以前、お守り代わりに陰宮から貰うも糸が切れて飛散した腕鈴を思い出した。「……でも前貰った物と違いますよ。長さも違うし、前に貰って物よりも二倍の長さはありますよ」


「それもそうだろ、あの時は君の誕生日は知らなかったからな四柱推命等で判断が出来なかった。それに制作期間が短かったからその場しのぎで作ったような物だったか」そう語ると申し訳なさそうな顔をした。「だが、昨年の一件で君も未だ少し霊障が残っている様に思える。以前のをただ直しただけでは意味がない。その為に一から石を選び、配列を考えて厄除けの咒いを施した。それで時間が掛かってしまった」


「あ、あの時の事は気にしていません」陰宮は苦笑いして返事をする。まだ自分のせいだと考えていた。


小笠原は腕に腕数珠を通すと陰宮が「二連にして塡めなさい」と言った。改めて塡め直すと強い締め付け感もなく、そういって余るほど余裕がないわけでもない。丁度良い塩梅だった。


「丁度良い長さだったか」陰宮は安心した顔付きになった。


「……有り難う御座います」


二人は改めて挨拶をすると陰宮は煙草に火を付けてから車を出した。小笠原は通りを抜けるまで車を見送るとマンションへと向かった。


「……宝石みたい」


マンションのエントランス、蛍光灯の下で改めて腕数珠を見ると淡い紫色に輝いた。自分の誕生石であるアメジストや翡翠、ラピスラズリといった石がバランス良く配置されていた。


「……道琉には悪いけど今のままで十分だよ」


口元を緩ませながら胸元で優しく手で腕数珠を掴む。冷たいはずの石は人肌の温もりを感じるほど温かい輝きに包まれていた。


***


三月中旬、時刻は正午過ぎ。景条大学の講堂の前には早咲きの寒桜が疎らに咲いていた。講堂からはスーツ姿の男性や袴姿の女性の学生達が笑いあったり、中には涙を流しあったりしながら出てくる。今日は大学で卒業式が行われていた。


小笠原は講堂の前にいた。手にはラジ研のメンバー全員がお金を出し合って購入した小さい花束を持っていた。講堂から出てくる卒業生を確認していた。


「先輩、出てこないな」


「そうっすね」隣にいた山岸も卒業生の中から陰宮を探していた。


時間ばかりが過ぎていくが出てきた卒業生の中に陰宮がいなかった。段々と出てくる卒業生の数が少なくなってくる。


「貴方たち、陰宮を探しているの?」


背後から大島の声がした。振り返ると糊の効いたスーツ姿の大島が立っていた。


「大島先輩、卒業おめでとう御座います」小笠原達は卒業を祝福した。


「別に、卒業したからと言っても来年もここにいるんだけどね」


大島には花束がなかった。それは本人が事前に花は要らないと言っていたからだ。


「大島先輩、陰宮先輩を見ませんでした?」


「見てないわ。もしかすると卒業式自体に出ていないかもしれない」大島は周りを見渡す。「あんなうざったい長い髪の男ってここじゃあまりいない部類でしょ。いたなら目立つと思うわ」


「えっ」小笠原の動きが止まった。


大島はそれだけ伝えると帰って行く。何時の間にか講堂から出てくる卒業生はいなくなっていた。


「もしかして風邪でもひいたのかな」山岸は頭を掻き上げながら小笠原同様困った顔をする。「どうします、小笠原先輩?」


「どうしますって言われても……」


小笠原は携帯電話を取りだして陰宮に電話した。電話に陰宮が出る事はなく留守番サービスに切り替わる。


「電話にもでないんすか。とりあえず寺に行ってみますか。俺、丁度今日は車で来てますし、送りますよ」


「あ、うん、そうしようかな。もしいなくても住職さんに渡せば花も無駄にならないし」


小笠原の視界にふと陰宮から貰った腕数珠が目に入った。言いようのない不安が心を浸食する。何が不安なのか自分自身でも解らず、心の中で気のせいだと言い聞かせる。


山岸の提案で俱梨伽羅不動明王寺に向かう事にした。山岸の若葉マークが貼られた車に乗る。向かう間、山岸は他愛もない話をした。小笠原はただ相槌を打つだけだった。


旭山をゆっくり上り俱梨伽羅不動明王寺の山門前にある広場に車を止めた。山岸は「久しぶりに来たな」と懐かしがっていた。


山門は開かれており、二人は並んで伽藍内へと入っていった。人気はなく、静かな伽藍内に響くのは二人の玉砂利を歩く足音だけだった。


「おや、どうしましたか」母屋の前で竹箒で掃き掃除をしていた長谷川が二人に気付くと頭を下げて挨拶をした。


「えっと……」


「長谷川です。して、お二人は本日は何用で?」


「あの、陰宮先輩はいますか?」小笠原は手にしていた花束を見せる。「ラジオ放送規格研究会から卒業のお祝いの花束を渡したかったんですが、先輩、卒業式に来ていなかったみたいで」


小笠原が説明すると長谷川は首を捻った。眉間には皺が寄り戸惑いが見て伺えた。


「聞いていないのですか?」長谷川は申し訳なさそうに言った。


「聞いていないのかって?」山岸もまた首を傾げる。


「あの先輩は……」


「おりません」


「では何時頃帰ってきますか?」


「……せんが」長谷川は小声で言った。二人は聞き返す。「……帰ってきませんと言ったのです」


バサリと音がした。小笠原の手からするりと花束が落ちた。


「陰宮様は遠くに行かれまして、帰ってきません」


小笠原の腕がだらりと垂れ下がるとじゃやりと腕数珠が音を鳴らした。山岸が心配して声を変えるも小笠原は聞こえなかった。ただ聞こえてきたのは心の中に響く「帰ってきません」という長谷川の言葉だけだった。



***


陰宮は東京都にある竹芝桟橋のフェリー乗り場にいた。電光掲示板の案内を見て、自分の懐中時計を取り出し時間を確認する。出港まであと一時間だった。陰宮の座っているベンチの隣には大きな革製のボストンバッグとディバッグが置かれていた。


受付の方から黒いフェルト帽を被りトレンチコートを纏った初老の男性が杖を手にしながら陰宮に地が近づいてきた。背筋は真っ直ぐと伸び、足腰も丈夫そうな中肉で背の高い男だった。陰宮の間近に来るとフェルト帽をつばを持ち上げる。


「星濫君、チケットだ」男性はコートの内ポケットから紙切れを渡す。


「有り難う御座います、嘉納様」受け取るとチケットを確認する。「……下田からも船が出ているのにわざわざ東京から出港と疑問に思っていましたが、こんな客船での渡航、身分不相応です」


チケットの印字面には『大型客船 特等室』と書かれていた。


「しかも夜行船。到着は明日の朝、十三時間の乗船、もし船に酔ったらどうしてくれるんです」陰宮は深い溜め息を吐く。


「私も三日間は滞在するんだよ」嘉納は陰宮の隣に腰を下ろした。「偶にはゆっくりと骨休めがしたいのだよ。先月の件、魔鏡を展示ではなく、館内で保管して貰うという旨、代議士に取り合って貰ったお詫びがお孫さんの姓名判断だ。苦労したんだ。先方の家に一週間缶詰状態、そんな中、響きが悪い、字面が悪いと難題を突きつけられたんだ。私だって羽を伸ばしたい。少しは我が儘に付き合ってくれ」


先日の件が話に出ると陰宮にはぐうの音も返す言葉がなかった。


「……それに君には内密に話がしたい」


「話ですか?」


「ああ、とても重要な事だ」


陰宮は嘉納に少し荷物を見ていて欲しいと言いながら立ち上がると喫煙所へと足を運んだ。喫煙所前に設置されている自動販売機でブラックの温かい缶珈琲を購入する。喫煙所には一人の女性がいた。女性から離れて煙草に火を付けると缶珈琲の蓋を開けた。


ジーンズに入れて置いた携帯を取り出す。早朝から電車に乗っていたので、これまで電源は切っていた。電源を付け普段の画面が現れると二件の着信履歴が表示された。留守番電話にはメッセージが登録されているようだ。


「……小笠原か」陰宮はそう呟くと留守番電話を聞くことなく片付ける。


陰宮は煙草の煙で眼を細めながら遠くをぼんやりと見つめた。今日は自分の卒業式があった。だが、出席はしなかった。


「……最後の卒業式か……」缶珈琲を口に付ける。「やっぱり出れば良かったかな」


飲んだ缶珈琲の味が異様に酸味が強く不味く感じた。


***


「何でお前はそんなややこしい、勘違いするような言い方をするんじゃ」片手で頭を抱えながら呆れ返った香雲は目の前でうっすらと涙を浮かばせながら呆然と座っている小笠原の前に悪態をついていた。「いや、お前は悪くない。一番の元凶は彼奴じゃ、坊じゃ、棒が一番馬鹿者なんじゃ」


香雲の背後では拳骨を頭に喰らった長谷川が痛そうに頭を擦られながら頭を下げていた。


「嬢ちゃん、坊は何も言わんかったのか」着ている甚平の袖に腕を入れた。ひくひくとこめかみに浮き出ている太い血管が動く。


「……はい」小笠原はただ無感情な表情で呟く。


「……師として謝らなければ為らんな。申し訳ない」


「……いえ」


「……嬢ちゃん、大丈夫か?」小笠原の顔を覗き込むように見るが、心此処に非ずだった。


「……はい」壊れた玩具のように同じ言葉を力なく口にする。


「……陰宮は神津島、東京の伊豆諸島の一つの島に行っておる。一ヶ月ほど滞在する予定じゃ。そしたらまた帰ってくる。帰ってくるんじゃよ」子供を宥めるように優しく何度も小笠原に言い聞かせた。


「聞いた事がない島だな、神津島って何処だろう」気まずい空気が漂う俱梨伽羅不動明王寺の母屋の座敷にて一人場違いな態度を取っていた山岸は出された茶菓子を頬張り、お茶をすすりながら呟いた。


「……だから、伊豆諸島というておるじゃろうが。太平洋の上、海の上の島じゃ」


「なんで、そんな島に会長が?」


「……目的地は神津島から近い無人島にある」


「無人島? まさか修行とか?」山岸は頭の中で無人島でサバイバルする陰宮を想像する。体力的に一時間ほどで自然の脅威にさらされて危険じゃないのか、いや、逆に仙人のような人を超越した存在になるのではと考えた。


「恩馳島という島がある。ここでは古来、それは縄文時代から上質の黒曜石が採れるんじゃ。陰宮はそれを取りに行った」


「石を採りに行っただけ?」顔を唖然とした。


「……お前さん、坊が黒い石で何かを切ったりしているところを見た事はないか?」


「そういえば……」と口にして思い出した。初めて見た時は昨年の初夏、そう陰宮のもう一つの顔を知った時だ。異形の存在と対面したあの事件で陰宮は小さな、大きさにして小指、いやそれよりも小さい黒い石で掌を切り血を出した。また今年の正月、御炊き上げ供養する為に運んだ曰く付きの物が入った箱の札を同じ黒い石で切っていた。


「……あの石は坊のもう一人の師の遺品でな、呪力が宿っている刀だ」香雲は茶を啜ると天井を見た。「黒曜石とはガラス質の鋭利な石。昔は包丁や剃刀代わりに使われたほど切れる品。昔は師の遺品である小刀も昔は大きな石だったが、坊はそれを大事に大事に研ぎながら使っていた。だが、研げば磨り減っていく。もう間もなくすれば良くて小さく為るだけじゃが、悪くて手入れをしている最中に割れて粉々と為る。それは大事な形見がなくなるということだ。だから、新しく作る事にすると前々から決めていたんじゃ」


***


神津島へと向かう大型客船の特等室は高級ホテルを彷彿させるほど綺麗な部屋だった。大型の糊の効いたシーツが施されたベッドが二台、決して大きくはないがゆっくりと休めるほどの風呂場、冷暖房も完備された部屋にはソファと木製のテーブルまであった。


陰宮は荷物を部屋の隅に置くとベッドの腰を下ろす。


「早速で悪いが話がしたい」足に杖を鋏ながら手を組んだ嘉納は単調な重々しい口調で話した。「座りなさい」


陰宮は言われるがままに嘉納に対面してソファに座る。


「朱煌(しゅこう)」杖で床を一度叩く。「部屋に誰も近づかぬように咒を施せ」


床から飛び跳ねるようにして燃えるような赤色の艶のある長い毛並みをした狐が現れた。奇妙な二つに分かれた尾を妖艶に揺らめかせながら凛々しく闊歩して特等室の入り口へと向かう。朱煌と呼ばれた狐は嘉納の式神の一柱だった。


「……式に部屋を結界までして話す事ですか」神妙な面持ちをした。


嘉納は持参していたブリーフケースから大小の封筒を一通ずつ取り出して、テーブルの上に置いた。小さな封筒の表書きには天社土御門神社本庁のシンボルでもある五芒星、清明桔梗印が朱で墨で書かれていた。


「まずはこの資料を見て欲しい」嘉納は大型の封筒を陰宮の前に差し出した。


陰宮は受け取ると中身を見た。開けた瞬間に身構えた。ゆっくりと中身を取り出すと写真が貼られた報告書だった。写真には言葉にするのが難しい、この世界中の恐怖を見せてもこのようなおぞましい、絶叫でもなく、苦悶でもなく、絶望でもない、顔をした若い男性の剥き出しに晒されている上半身が映っていた。


「これは……」


「——例の柘植の櫛の件。我等天社土御門神社本庁でも犠牲者が出た。最近になり漸く解ったのだが、一人目は五年前、藤原代表の片腕にして失われた占術を復活させんと尽力を尽くしていた陰陽師の方が居た。彼はある日の晩、奇妙な星を見て、それは何を表すか調べんとして占術の一つである奇門遁甲(きもんとんこう)を行った。その結果、不吉な前兆と判断し藤原代表に報告した」


嘉納は目を瞑りながら懐かしい思い出を語っていたが、突如暗い表情へと変貌する。


「そこで、貴人が現れ真実を語ると言われるほど当たると言われた安倍晴明公が開発発展させた六壬神課(りくじんしんか)を行った。この不吉な前兆は何を表すか……しかし、それを行った番に謎の火災が発生した」


「謎の火災?」


「そのとおりだ。貴重な資料は焼け果て残ったのは亡骸だけだった。当時は六壬神課を行った際に使用した蝋燭や香などによって火災が発生したのではと考えられた」


「……この写真の方が。しかし、三十代の方に見えるのですが、そこまで術を極めた刀のでしたか」と資料を見た。


「……それは先月亡くなった私の兄弟子である氷堂という方の息子で、氷堂秋雅という。所謂探偵を生業にしている」


「……そうでしたか」陰宮は目を伏せた。


「私が殺したようなものだ。今回の怪異、公にすれば混乱が生じる、だからこそ、天社土御門神社本庁でも今現在ごく一部の人間にしか知らされていない。その為に人手不足でな、探偵という自由な身分の為に直々に操作をお願いした。その末路が是だ……」


「現在の犠牲者は?」


「東北を中心に寺社仏閣関係者で解っているだけで三七名、一般人と思われる者が一名、そして今申した二人、計四十名だ」


「……して、今現在の柘植の櫛の行方は?」


嘉納はゆっくりと首を振った。


「藤原代表の今の方針は深く探るなだ。時相応ではないと考えておられる」


「正体の手掛かりはまったく掴めていないのですか?」


「いや…;ある可能性を考えて藤原代表、私、息子が動いている」そう言うと陰宮の持っている資料の写真に指を置いた。丁度、心臓辺りだ。


氷堂秋雅の写真、健康的にに焼けた肌に奇妙な痣があった。あまりにも人口的な図形であり奇妙な違和感を覚える。丸に縦棒、丸に二重丸、山のような模様まであった。


「——氷堂君は陰陽師の由緒ある家系であるが、彼は陰陽師に懐疑的で父からは殆ど術などは教わっていなかった。教わっているとしたら厄除け程度、それぐらいしか力がなかった。だが、そんな彼が式神を使って死後にこの痣を自分自身に付けたと解った」


「……ヲシテ文字に似ている」陰宮は口元を手で隠した。


「息子と同じ事を言うな」


ヲシテ文字とは江戸時代に国学者や古神道家が制作したと言われる神々の時代に使われた記号的な文字の事だ。ヲシテ文字で有名なのは『ホツマツタエ』と呼ばれる一部の学者にとっては偽物の歴史書、またある学者にとっては日本最古の歴史書である記紀の一つ『古事記』の原点になった考える文献である。


「……海から山へ来た客」脳髄の片隅に覚えていた記憶を必死で思い出しながら痣の文字を読み解く。


「これは息子の考えだが」嘉納はもう一つの封筒を陰宮に差し出した。「今回の怪異の被害者に生き残った方が居る。その方は精神疾患を患わせており病院にいるのだが、奇妙な音を発していた。それは規則的であり、決まった音を発していた」


陰宮は封筒を開けると一通の手紙が入っていた。


「そこで被害者の発している音は言葉と考えた。我等の知らない言葉。また今回の氷堂君の体の痣と表している文字の意味でこう考えた」


「……稀人(まれびと)ですか?」陰宮は手紙を開きながら呟いた。


「その通りだ」嘉納は静かに頷く。「海、それはあちら、即ち幽世を表す。山とはこちら、即ち顕世。客とは招かれざる客にして、他の地にて奉られる門客人という神の一字ではないかと考える」


手紙には達筆な字で文章が書かれていた。手紙の差出人は藤原代表、その人だった。内容はご助力をお願いしたい、という内容だった。


「今回の怪異は幽世の神が背後にいる」嘉納は頭を下げた。「何卒、力を貸して欲しい。どうか、この通り」


陰宮の受け継いだ陰陽道巽流、その原点は蛇神を祀った古神道の神官の一族。一族は宮中に召し抱えられると蛇神に抗う為に陰陽道を取り込んだ。その目的は『神を殺す為』。その一族の願いは室町時代、一人の青年である巽小治郎忠次が行い、巽流の完成となった。


「……神殺しを行う気ですか?」


伏せた嘉納の頭が縦に静かに動いた。


***


自宅に帰った小笠原は部屋の明かりを付けた。何時も通りの小綺麗にされた部屋だった。ゆっくりとおぼつかない足取りでベッドに向かうと、ドスンと音を立てるようにしてベッドに倒れ込んだ。


仰向けになって天井を呆然と見つめていた。食欲もなく、動く事さえ面倒臭く感じていた。


携帯が鳴った、取る事も面倒だった。もし陰宮だったとしたら、と考えてたが何を話せばいいのか解らない、もしかすると酷い事を言ってしまうのではないかと自分自身が恐くなり無視した。


枕元に陰宮と取った唯一のツーショット写真が飾られていた。上手く笑う事が出来ずに引きつった笑顔の面白くて笑ってしまうような今までに見た事がない陰宮が底に映っている。


「……先輩にとって私は何なの」


視界が朧気になっていく。いつの間に涙がこぼれ落ちた。


「……どうして何も言わずにいったの」


腕で目を覆い隠す。


「……どうして道琉の言葉を聞けなかったの」


あの時、今のままで良いと思った自分が嫌になった。どうして今のままで良いと考えたのだろうか。こうなると解っていても考えが変わらなかったのか。


じゃらりと腕数珠が擦れた音がした。腕数珠は淡く綺麗に何時もと変わらずに輝いていた。


「……先輩はどんな気持でこれを作ったの」


自分のせいで巻き込んだという罪悪感から作ったのだろうか。


「……どうして嫌いになれないの」


再び目元を隠すと声を漏らしながら泣いた。


「先輩の莫迦」


ようやく近づけたと思った。ようやく隣り合って歩んでいると思った。


でも違った。それは幻。貴方に近づこうとしても、本当の貴方はずっと遠くにいる。


そう私の横にいた貴方は虚の貴方。


私の知らない場所似るのが実(まこと)の貴方。


虚と実の貴方、それは蜃気楼に似ている。


私にとって、貴方は虚実の蜃気楼。


***


「御主、風邪を引きます。部屋に戻りましょう」お供に連れてきた珀天翔が身を案じて現れた。


陰宮はデッキで遠くを見つめながら煙草を吹かしていた。乗組員に見つかれば怒られると解っていたがどうしようもなく吸いたかった。灰を携帯灰皿に入れながら空を見る。夜明けが間近に迫っていた。遠くの空が段々と色づき東雲色に雲が染まっていく。


「綺麗だね」陰宮は気持を込めずに呟いた。「哭天翔と別れ離れにしてしまないね。もしもの事があると大変だから哭天翔を茜に譲ってきたが、こうなると解っていたら連れてくるべきだったかな」


「御主……」


「この現代に神殺しか」身を翻してデッキの手すりに背中を凭れる。


「御主、後悔をしているのですか」


「……いや、後悔はない」言葉とは裏腹に暗い表情だった。「先生と出会い、陰陽道を教えて貰っていくと同時にその背後に蠢く何かを感じていた。恐らく先生も何時かこうなると考えて私に神殺しという祟られた一読の教えを私に伝授したのだろう」


陰宮は静かにロイド眼鏡を外すと左目を押さえた。


「そもそも、この幽世の因果を持って生まれた事自体が宿命という証拠だろうな」


「……まだ神殺しを行うと決まったわけではないでしょう「


「まあな」


「哭天翔もこの場にいても私と同じ考えでしょう」珀天翔は眼を細めて我が子を見つめるように言った、「我等は貴方の式になると決めた時、同時に御主に貰った恩をしっかり返そう。それは何があってもです。御主と共に歩み、pんぎを必ず返す為に護ります」


「律儀だね」


深い溜め息を付きながらある事を考えていた。


「御主! あれで御座いますか」珀天翔は身を乗り出すようにして船の進行方向を見つめた。黒い影が見えた。「あれが神津島、伊豆の神々が集まると言われる島」


陰宮も珀天翔の言葉で振り向いた。


段々と朝焼けの空に黒い大きな存在が段々と近づいているのが感じた。


「……ごめんな、小笠原」陰宮は囁く。


珀天翔は首だけを陰宮に向けた。陰宮はどこか寂しそうな顔をしながら二本目の煙草に火を付けた。




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朧顕世怪奇譚 東雲 裕二 @shinonomeyuji

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