虚実の蜃気楼 第4話

陰宮は腕を広げると服を着せられていると感じた。微かに糊の香りがするさらりとした肌心地の生地だった。次に顎を挙げると首が締め付けられた。


「苦しくありませんか?」鍋島智子の穏やかな声が間近で感じられた。


「少し」


鍋島智子は首元に指を二本入れて、首回りの余裕を確かめた。最後にネクタイのバランスを整える。最後に黒いシングルのスーツを陰宮に着させた。


「陰宮君、着替えは終わったわ。次は髪の手入れね」手で小さな埃を叩き落とした。「目もまだ治っていないのに卒業研究の発表とは難儀よね。私は心配だわ、本当に大丈夫なの?」


智子は陰宮の手を取り、近くにある椅子に誘導する。陰宮は背もたれの部分を手で感じ取ると慎重に腰を下ろした。智子は霧吹きで癖のある背中まで届いている陰宮の髪をうっすらと湿らす。次に小さな瓶に入った椿油を掌に二滴滴り落とし、手の体温で椿油をゆっくりと暖めながら掌に伸ばすと陰宮の髪の毛に馴染ませた。


「頭の中に何を話すかは叩き込んでおりますから大丈夫です。それに哭天翔に手となり足となり、目となってくれるますから」


「貴方は簡単に言うけど、大切な大仕事でしょう。体をきっちりと治してからでも……先生に急病とか説明して……」智子は陰宮の髪を黄楊の櫛で髪を解かした。


「そういうことも出来ると思いますが」陰宮は眉間に皺を寄せる。「下手に急病とかで欠席すれば余計なお節介が後からねちねちと周りを飛び回るので」


「まあ」智子は呆れた顔をした。「お節介って誰の事かしら?」


「……忘れて下さい」


解かした髪を首元で束ねると、黒い紐で結ぶ。次は正面に立ち前髪の整えて全体のバランスを見た。親指と人差し指で髪の毛を弄っっていると陰宮の視線に気が付いた。見えていないのは医師の診断もあり確かだった。半開きになった眼は正面に位置せず、明らかにあらぬ方向を見ていて、時折正面を見てはまた視線を外す、を繰り返していた。


「貴方にとってあの子はどの様な存在なの?」智子はゆっくりと陰宮の頬を撫でる。温かい手が肌で感じ取った。「貴方の考えるとおりにすればいい、でもね、自分自身で殻を作って籠もってしまえば知らず知らず自分で考えたとおりには動けなくなるわ。自分自身で縛り付ける事になってしまう。そうなってしまえば苦しむのは自分よ」


「私にとって小笠原はただの……」


「私は一言も名前は言っていないわよ」


陰宮は深い溜め息を吐く。これ以上、何か言葉にすれば揚げ足を取られ、冷やかされると悟った。眼が見えない為に智子の表情が全く解らず、頭で想像するもいつも見せる微笑んだ姿が気恥ずかしかった。


「哭天翔」手を一拍打つ。


何時の間にか座っている横から黒い巨体の犬が現れる。


「玄関で下北さんが待っているわ」手を差し出して陰宮をゆっくりと立たせる。「頑張って行ってらっしゃい」


「行ってきます」


陰宮は眼が見えていない事が嘘のようにしっかりとした足つきで進み出す。隣には哭天翔が付き添う。


***


景条大学の本館一階に小笠原渚はいた。目の前には学生に対する掲示板があり学部毎に分かれて様々な伝達事項が張り出されていた。この日、建築学部の場所には一枚の巨大な掲示物が張り出されていた。


「えっと、空間デザインのコース……卒業論文の発表……」小笠原は細かく書かれた内容を指を当てながら探す。「あ、あった。四号館の大講義室ね」


手帳に簡単にメモを書くと本館を出た。本来ならばこの時間帯は講義中のためキャンパス外には学生が少いはずだった、今の時期は卒業研究発表のため通常の講義は休講となっていた。


「あ、渚、何処に行くん?」建築学部の学生が小笠原に気が付き声を掛けてきた。「卒業制作は大講堂やで?」


「ちょっと卒業論文の方を見に行ってくる」


「お、もしかして陰宮先輩の研究か」


「ち、違うよ」顔を赤くしながら首を振る。


「渚、すっごくおもろいわ……あ、はよ、行きや。確か陰宮先輩は始めのほうだったと思うから始まってしまうで」


簡単に別れを告げると小笠原は小走りで目的の大学棟へ向かう。


***


大きな両開きの扉には『卒業論文発表会場 私語厳禁』と書かれた張り紙が貼られていた。ゆっくりと音を立てないようにして扉を開けると、入り口には一人の顔を険しくした男性が立っており、小笠原を睨んだ。思わず頭を下げて静かに扉を閉めた。


大講義室には多くの学生がいた。若いスーツ姿は四回生だった。それ以外にも私服の学生がいた。三回生や二回生が自分達の卒業制作の為に見学していた。


「――では、礼拝堂の歴史から説明させて戴きます」


壇上から聞き慣れた声が聞こえてきた。陰宮は壇上に立って話していた。背後にはスクリーンが出ており天井に設置されているプロジェクターから卒業論文の画像が映し出されていた。


「礼拝堂の最も初期は旧約聖書出エジプト記に細かく書かれております。柱も梁も床もないただ木の壁板で作った質素な小屋、これに色とりどりの歯周を施した白い布、つなぎ合わせた羊の皮、さらに赤く染めた羊毛を乗せ、最後にジュゴンの皮を被せました。これは幕屋と呼ばれる初期礼拝堂です」


「……ちょっといいかい、どうして何重にも皮を被せる必要があるんだね」白い髭を蓄えた年老いた教授が手を挙げて尋ねた。


「この幕屋に書かれた文献が無かったので私の推論になってしまいますが」陰宮はそう前置きを説明すると手を天井に向けて見上げた。「太陽に手を向けると血管や骨が透けて見えます。恐らく、この幕屋に載せた皮も太陽の下では透けて見えたと考えられます。刺繍した模様、赤く染めた羊毛……それが一種の神秘的な絵に見えたのだと思います。簡単に言えば「ステンドグラスの原点」だったと考えています」


陰宮はパソコンを操作している学生に声を掛けると、スクリーンに映し出されていた画像が変わった。暗いドーム状になった写真が映し出されていた。


「初期基督教……ローマ帝国時代には基督教は異端の新興宗教でした。迫害を受けていたので公に礼拝することは出来なかった。そこでキリスト教徒が礼拝堂として使用していたのが地下に掘られた地下墓地……カタコンベです。恐らく墓地で礼拝というと薄気味悪さを感じるでしょう。ですが、当時の信者の方にとってゴルゴダの丘で処刑されたイエスは三日後に復活するという奇跡が起こりました。これにより墓地とは復活する準備を行う死者が眠る地として神聖視されていたのです」


***


「さて三一三年、教会建築で大きく変わる出来事が起きます。それがローマ皇帝コンスタンティヌス一世によるミラノ勅令、即ち宗教の自由であり、基督教が公認されます。さらには三八〇年、ローマ帝国の国教して基督教が認められます。そこで大々的に信仰が認められると教会建築も変貌してきます。当初はイエスが行っていたように一般的な家で宣教が行われ、次第に信者が増えると富裕層が教会を建て信者に提供します。そして徐々に基督教が力を付け始めると大きな建築様式が確立された。それが『バシリカ式・長堂式』と『集中式』です。バシリカ式・長堂式とは長方形の空間が基本で、空から見れば十字架に見えるタイプの教会。これの原点は古代ギリシャの神殿建築です。対して、集中式は円、今私が壇上に立ち、皆さんが扇形に私を見つめられるような空間と思って戴きたい。これの原点は王家の霊廟、石で作られたドームが原点です」


***


「さて、ビザンチン、ロマネスク、ゴシック、バロックと時代が変わることにより技術も発展し様式美が変わってきます。そして基督教にも大きな変化が起こります。聖書の教えを大事とする宗派、つまり新教(プロテスタント)の誕生です。皆様の中でこう思ったことはありませんか。『どうして、偶像崇拝を禁止しているのにステンドグラスや架刑のイエス像があるのだろうか?』偶像崇拝を『イコン』と申します。旧教(カトリック)では偶像崇拝と考えられるものが多くあります。実際に初期旧教時代に肯定派と否定派で論争が起きてます。その結果、聖書による神の言葉で信仰を訴えるよりも、偶像崇拝による目で信仰を得ることを考えて一部の偶像崇拝を認めたのです。これに対して新教は聖書に書かれているとおり全ての偶像崇拝を禁止します。それにより様式美も取り払われて質素な教会となっていきます」


***


「さて、時代と共に装飾美ではなく、機能美を追求してきた新教教会建築に対して、様式美を大事にしてきた旧教も大きな動きが発生します。それが『第二ヴァチカン公会議』です。第二ヴァチカン公会議によって教義が現代化が議論されて、それ以後に建てられる教会について現代な建築へと変貌することになっていきます」


***


「あのう」席に座っていた私服の学生が手を挙げた。壇上付近にいた教授達は一斉に振り向いて学生を見つめる。「先程、教会にはこれと決まった規格がないと言いましたが、具体的にはどういう事でしょうか」


陰宮は腕を組み考えを巡らす。


「そうですね。質問を質問で返して申し訳ありませんが、貴方のイメージする教会を教えて貰えませんか?」


「えっ、えっと……教会の中央が道になって、その両脇に椅子が並べられて……神父の方がいる、そう、結婚式とかでよく見るような」


「皆様もそういったイメージでしょうか?」


殆どの学生が頷く。小笠原自身も頷いた。


「極論を言えば、旧教でも新教でも、中央に道を作らなくてもいんです。両脇に道を作ってもいい。説教台、神父や牧師が立つ場所ですが信者の後ろ側に作っても良いんです」


「じゃあ、本当にどんな風に作っても良いのですか?」


「ええ、正し一つだけ忘れてはならない条件があります。これが教会建築の最も重要な要素であり、教会という存在の意義です」陰宮は深呼吸する。「信者の方の気持ちがとても大切なのです。このような教会がいい、こういった風に作りたい、このような思いを込めてここを築こう。教会とは信仰を得る場所であり、教えを請う場所であり、信仰を形にする場所なのです」


陰宮はそういうと頭を下げた、壇上から去る際、派手に机の角に手の甲をぶつけたのを小笠原は見逃さなかった。一瞬だが、痛みを堪える陰宮の顔が意外で印象に残った。


「先輩、緊張していたんだ」


***


「御主、もう帰るのですか?」屋外にあるベンチに座る陰宮を見上げながら悲しげに呟いた。「折角、御主の通われる大学為るものに来たのにとんぼ返りとは、珀天翔に自慢が出来ませぬ」


胸ポケットにしまい込んだ黒い箱入りの煙草を取り出す。恐らく、何も事情を知らない者が見れば陰宮が目が見えないというのは信じられない程に違和感がなく動作をしていた。


「自慢しなくていいだろ、哭天翔」


「自慢はしなくとも、御主の生活を知るのも式として役目。俱梨伽羅不動明王寺から出ることも数少ないのでこの様な機会、しかと味わいませんと」


「……はあ、一服吸ったら帰るよ」陰宮は赤く腫れた左手を擦りながら呟いた。


陰宮は煙草を咥えながら空を見上げた。あの魔境について考えると奇妙な縁だと思った。卒業建築で基督教教会建築を携わった。その中に当然隠れキリシタンの資料も多数目にしていた。だからこそ、魔鏡についての知識があった。


「キリシタン……魔鏡……」


何かが頭に引っかかる。だが、何が引っかかるのかは解らない。


「御主、どうしましたか?」


「……基督教……」


哭天翔の言葉に何も応えない。ただうわごとのように言葉を吐き出しているだけだった。


***


「先輩、卒業発表お疲れ様でした」突如、小笠原の声がした。


陰宮は白い煙を吐き出しながら、冷静を装う。自分自身の目について悟られないように乗り切ることを考えた。


「いや、ただ調べたことを発表しただけだから疲れてないよ」


「隣、座っても良いですか?」


陰宮は少し席を空けると同時に持っていた携帯灰皿で半分も吸っていない煙草を消そうとした。


「遠慮しないで煙草を吸って下さい」隣に座った小笠原は微笑んだ。「何時も言ってますけど、私煙草は気にしませんから」


「……私はあまり吸わない人の近くで吸いたくないだけだ。君が気にすることでもないだろう、ただ私は吸いたくないから……」


まただ、何かが引っかかる。


「そうですか、堂々と吸ってくれた方が嬉しいけどな」


「副流煙って知っているかい。吸っている人間よりも、まわりにいる人間の方が有害な煙を吸ってしまうんだよ」


「ああ言えば、こう言う。それって屁理屈ですよ、先輩」頬を膨らませた小笠原は陰宮を睨む。


煙草を消した陰宮は暫く黙ったままだった。哭天翔も気配を悟られないようにしたのか近くから影が消えていた。


「先輩は何でも知っていますよね」


「そうかい、私はまだまだ知らないことが多いと思っているが」


「知りすぎです!」力強く陰宮の言葉を否定した。「道琉からこの前の、ほら、私が憑かれた時に悪魔について説明されたと聞きました。それに私が味覚がおかしい時だって平然と原因を当てたりしたでしょう。それは知っているから出来るんです」


……悪魔……


「……卒業発表を聞いてましたが、西洋建築史で習った箇所は理解できたけど宗派とか教義とか私には理解できませんでした」


……教義……


「そりゃあ、先輩がそれを卒業研究の課題だから知っているのかも知れないけど、それを身につけて自分の力にしているのが凄いな、って思いました」


「君だって、デザインの勉強をしているだろう。マッキントッシュやル・コルビジェについて詳しいじゃないか」


「く、詳しいですか。私なんてまだ有名な建築家しか解りませんよ」


「私も聖書なんて基本の事しか解らないよ。ほら有名な『悔い改めよ、天の国は近づいた』……とか……」


……そうだ、明らかにおかしい……


「先輩?」突如、前屈みになりながら中指でこめかみをリズム良くトントンと叩き始めた陰宮を不思議そうに見た。


「……そうだ、存在が矛盾している……」陰宮はそう言うと立ち上がる。「哭天翔、行くぞ」


ただ一人ベンチに残された小笠原は訳が分からなかった。どこからともなく現れた何時か見た黒い大きな犬が申し訳なさそうに振り返りながら見つめているのが見えた。

***


「のう、長谷川、触ってみんか。儂の命令じゃ」


俱梨伽羅不動明王寺の敷地の外れ、半分が崖に埋まっている籠部屋の中に鍋島香雲とは修行僧である長谷川がいた。二人の間には桐の箱に入れ垂れた魔鏡が置かれている。


「い、嫌ですよ。あの陰宮様の視力を奪った鏡ですよ。香雲様が触って下さいよ」


「なんじゃ、儂の身に何かあっても良いというのか。酷い奴じゃのう……。師としてお前さんのような弟子を持って悲しいわい。ああ、涙が出てきたのう」


「もし、もしですよ、触って何かあったら助けてくれます?」


「おう、助けられるんなら助けてやるぞ」


「……と言うことは、陰宮様のように助けられないなら何もしないという事ですか?」


「……さて、このマリア観音の魔鏡、どうすればいいのかのう」太い腕を組んで目を瞑りながら考えた。明らかに長谷川の問いかけを無視した。「このまま寺に置いておくのも保管が問題じゃ。置いたとしても万が一触れて坊の様な事態が起きたら大変じゃ。だからと言って祈祷というのもな、中にいる魂はキリシタンと坊は言うておったが、キリシタンはつまり一神教、言わば自身の信仰する神以外は邪教じゃろうて聞く耳をもたんだろうしな」


「じゃあ、神父さんや牧師さんとかに渡したらどうです。同じ基督教なら」


静かな籠部屋に突如演歌が響き渡る。音の発信源は香雲の着物の中からだった。袖に腕を入れて携帯電話を探して取り出した。


「おう、坊か」電話の相手は陰宮だった。「無事に卒業研究発表というのは終わっ……」


「御前、今そちらに向かっております。帰り次第、水鏡の儀を執り行います」


「な、何じゃ、いきなり藪から棒に」


「おかしいのです。矛盾しているのです」


「だから、唐突に話すな。で、何が矛盾しているんじゃ」


「存在自体がおかしいのです。ですので、水鏡を利用して確認したい。そこで御前にご協力して戴きたい。不動尊身代わり符を作って貰えないでしょうか」


陰宮は香雲に水鏡の儀の説明を行う。


香雲は陰宮の説明を聞きながら、目の前にある魔鏡を静に見つめていた。



***


珀天翔が耳を立て辺りを見回した。黒い装束を纏い、髪は呪符で束ねられ、足には動きやすいように包帯で裾を留めたて草履を履いた陰宮がゆっくりと階段を上がり高座堂へと昇る姿が見えた。


俱梨伽羅不動明王寺の伽藍には大きく五つの建物があった。一つは祈祷や参拝客がお参りする金堂、修行の一つ護摩を行う護摩堂、弟子達に経典や密教の秘術を教える経堂、寝泊まりや食事を行う母屋、そして俱梨伽羅不動明王寺の本尊が彫られた崖の大岩の眼下に建てられた高座堂である。


高座堂は高さ二メートルの石が組まれた上に四本の柱とそれに架かる梁、そして瓦葺きの屋根がある四方五メートルの壁のない空間だった。ここでは主に年に数回の本尊へ捧げる経典を読む勤めや、節分の際に参拝客に豆を撒いたり、奉納の猿楽を舞う場所として使われていた。この高座堂の原点は俱梨伽羅不動明王寺の開祖、鍋島祥雲が日照りで飢饉に見舞われた市井に不動明王に安寧祈願を行ったのが元だった。


陰宮の元に珀天翔は近づき体を寄り添わせると高座堂の中央に陰宮を案内した。陰宮はありがとう、と一声自身の式に声を掛けると石畳の上に直に胡座して座った。


遅れて長谷川と下北が大きな鉄製の持ち手がついた盆を持って高座堂に上がってくる。盆の大きさは直径一メートル、深さは十センチ。内外に植物の装飾が施されており、四方を守護すると言われる玄武、白虎、朱雀、青龍もまた彫られていた。盆は陰宮の目の前に置かれた。


「はあ、帰ってきて早々大がかりな事をしようとわ。難儀じゃのう。茜にも手伝ってもらうが良いな」甚平の上から褞袍を着込んだ香雲が茜と哭天翔をつれて高座堂に顔を出した。手には三枚の札と真鏡が入った桐の箱を持っていた。「それにしても体調が万全になってからでも遅くは無いじゃろうに、何をそんなに急ぐのじゃ」


「御前、我が儘に付き合って貰い申し訳ありません」


「何か理由があるのか?」



「これと言った理由はありません」陰宮は薄く目を開けた状態で感情の籠もっていない声で呟いた。「ただ一刻も早く片を付かしたいだけ、でしょうか」


香雲は白髪交じりの硬い髪の毛を掻き上げながら高座堂にいる全員を見た。


「お父さん、何を始めるつもり?」高座堂の隅で不思議そうに見ていた茜は盆を覗き込むようにして見た。


「水鏡の秘呪、及び巫(ふかんなぎ)の秘呪を行う」両手を懐で印を結んだ陰宮は答えた。


「水鏡は解るけど、巫って?」


「……巫とは古神道において、神を宿らせる者という意味じゃ」香雲は下北を見た。「下北、お前さんは一度坊の術を見ているな」


「はい、確か寺に来てすぐ、そう、呪詛返しをする為に水鏡を行ったのを覚えています」


「あい解った。すまんが籠部屋から湧き水を取ってきてくれ」


下北は足早に階段を下りると籠部屋のある方角へと走っていった。


「では術の説明を行うぞ」長谷川と茜は頷いた。「そなた等に行って欲しいのはこの高座堂の守護じゃ」


「しゅ、守護?」茜は首を傾げる。


「そうじゃ、ほれ、坊、お前から詳しく説明して遣ってくれ」


「――本来為れば水鏡の秘呪は見る事を趣旨とする」陰宮は口元以外は一切動かさない。「だが、今回行うのは少々違う。これは秘呪、詳しいことは言えないが、要は水鏡に映った幻影を己に投影に、さらにあの鏡の魂を体の中に入れる」


***


下北は両手にバケツ一杯に水を入れて持ってきた。吐く息は荒々しく白くなっていた。漏ってきた水は陰宮の指示通りに盆に入れられた。


水を入れ終わると香雲は下北、長谷川、茜、二柱の式神に四方の柱の前にそれぞれ座るように指示し、各人別々の印を結ぶように言った。獣故に印が結べぬ式神が座す柱には愛染明王が描かれた札を貼った。


香雲はゆっくりと盆を挟んで陰宮に対面して座った。そして三枚の札を最初に渡した。


「ほれ、頼まれた不動明王身代わり符じゃ。急ごしらえ故三枚しか出来なんだ」


「三枚もあれば十分です」陰宮は手を差し出して受け取る。「では。始めます」


陰宮は懐から何も書かれていない札を取り出した。


「赫赫陽陽、日は東方に出ず」そう唱えると札を縦半分に折り曲げて口に咥えた。


袖を捲り、掌を盆に入った水面に当てる。次に濡れた手を盆の縁を時計回りに撫でた。すると、水面が小刻みに震えだし、ぼおぅ、と低い音が鳴り響く。次に反時計回りに再び縁を撫でる。またぼおぅ、と音が響く。


盆から手を離し、水面の段々と治まり始めると香雲から渡された三枚の不動明王身代わり符と呼ばれる札を浮かべた。朱墨で描かれた不動明王がゆっくりと盆の底へと沈んでいった。


「坊、二枚の札が破れたら直ちに術を止めさせる。よいな、解ったな」そう確認しながら桐の箱を開け、腕を引っ込めて直に触らぬよう袖で魔鏡を掴んで陰宮に渡す。


陰宮はこくりと頷くと魔鏡を手に取る。そして両手で大事そうに魔鏡を持って胸に持っていく。


「――我が体は器なり。御霊よ、我が器に入れ。急急如律令」札を咥えたまま呪を唱える。


ひゅっ、と咥えた札を吹き飛ばすと陰宮の体はゆっくりと後ろに倒れる。咄嗟に香雲は上体を起こして石畳に頭を打たぬように陰宮の体を抱えなながら寝かした。


茜は術の始まりを静かに見ていた。これからが本番だと唇を噛み締めて印を力強く結ぶ。寒い風が頬に感じられた。


「……雪」


ちらほらと粉雪が舞い落ちるのが目に入った。


***


長く緩やかな坂道を多くの人が行列を為して歩いていた。歩いている人の姿は着物姿に女は髪を結い、男は月代をしていた。皆、一様に顔を暗くして下を俯いている、ある者は体を小刻みに震わせ、またある者はぶつぶつと奇妙な言葉を呟いていた。


陰宮はただ道の脇からその風景をただ黙って見ていた。両手は陰行印と呼ばれる古来より忍者が己の姿を隠すと言われ好んで使用していた印を結んでいた。


行列はとある屋敷へと続いていた。屋敷は塀に囲まれており、色褪せた木の大きな門には長崎奉行所と書かれた看板が出されていた。門の前には若い月代姿の袴を着た同心が木の棒を持って仁王立ちしていた。


「ささ、早う進まぬか!」同心は杖を地面に突き刺すように音を出した。


「将軍家康公の命、背けばどうなるか解っておるな」別の同心は声を荒げる。


同心の言葉に行列の人々はびくんと体を震わせていた。


陰宮はゆっくりと進み門をくぐる。誰も陰宮の存在には気が付かない。逸れもそのはず。陰宮の見ている風景は水鏡が見せる幻だった。


奉行所の敷地内に入っても行列は続いていた。行列の先頭は奉行所の御白洲と呼ばれる公事場まで続いており、何人もの鞭を持った与力が毅然として立っている。厳つい顔をした町奉行もまた人々を睨んでいた。


「おい、そこの女」町奉行は白扇を使って指し示した。「早く踏まぬか」


列の先頭にいた女は青ざめた顔をして「へい」と力なく町奉行に返事をした。そして足下に置かれた黒い鉄を踏もうと足を上げる。黒い鉄には十字架に欠けられた男の絵が彫られていた。それは踏み絵だった、己が信じる神は踏む事が出来ないと考えられて作られたキリシタン狩りの道具。女は踏み絵を踏む事が出来なかった。


「……キリシタンか」


「え。いえ、私はそのようなものは信じては」


「なら早う、踏め」


女は再び足を上げるが、やはり踏み絵の上に足を下ろす事は無かった。押しを下ろした女は破顔して崩れて町奉行に土下座した。


「お許し下さい、何卒お許しを」


「何を許せというのじゃ、将軍家康公の命はキリシタンを狩る事。許したところで家康公の命に従うわけではない」町奉行は自身の膝を白扇で叩く。「女を連れて行け、踏み絵を踏むまで百叩きを行え。それでもキリシタンを止めぬと言うならば他の町民に見せしめとして処刑しろ」


与力は歯切れの良い口調で返事をすると、土下座している娘を無理矢理起こして奉行所奥へと連れて行く。最中、何度も女の「お許し下さい、お許し下さい」という声が無常に響き渡る。


「さあ、止まっておらず早う進め。次の者はさっさと踏み絵を踏め」


町奉行はそう冷たく言い放った。


***


「――もう始まったか。身代わり符が崩れ始めるにはちと早いのう、いや、それほど厄介だということかのう」神妙な面持ちで盆の底に沈んだ札を香雲は見ていた。朱墨で不動明王が描かれた札の一枚の端が水に溶けていくかのように崩れ始めていた。


陰宮は静かに眠っているかのように魔鏡を大事そうに抱えながら横たわっていた。顔には血の気が無く、茜には人だという実感が徐々に消え失せ始め心配した。


「お父さん、本当に大丈夫なの?」


「ああ、今は大丈夫じゃ」無精髭が生えた顎を片手で撫でながら香雲は答えた。


「今はって……」


「魔鏡の呪。と言えばよいのかう、坊へ向けられている厄は全て儂が作った身代わり符が受けている。だから今は大丈夫じゃと、という事じゃ」


「――じゃあ、もしその札が全部受け終わったら……」


「厄は全て陰宮様がお一人全てを受けると言う事です、御嬢様」下北が言葉を濁している香雲に変わって答えた。


茜は目を丸くして陰宮を見る。香雲は静かに下北の言葉に頷いた。


「茜、安心せい。だから、二枚目の札が厄を受け始めた頃合いに無理にでも坊には術を解いて貰う」


「一気に全て札が厄を受けるという事は?」


「零……とは言えんのう」


「そ、そんなの本当に大丈夫って言えないじゃない!」


口を真一文字に結んだ香雲は黙って陰宮を見続けた。それは術を解かせる頃合いを逃さない為だった。父の顔付きから茜は今置かれた状況が紙一重だと察した。


「……万が一、もし万が一があればこそ、我々、そう御嬢様がいるのです」茜の気持を察して語りかけた。「御嬢様、この我々が座っている位置、結んでいる印の意味は解りますか」


「守護の為じゃないの?」


「……確かに守護の意味も御座います。ですが、もう一つの意味が御座います」長谷川は一度香雲を見る。「この我々が座っている状態、これは五壇法の亜種です」


「五壇法?」


「五大明王、即ち香雲様が不動、私が降三世、下北さんが軍荼利、陰宮様の式が愛染、そして御嬢様が大徳威を表しているのです」


「それが……」


「香雲様は……万が一があれば、速やかに調伏の儀を行う所存。つまりは魔鏡の魂を明王の力を持って消すおつもりでもあるのです」


長谷川が説明すると香雲は小声で小さく「遣りたくはないのじゃが」と呟いた。


***


行列の中に小さな男の子がいた。男の小さな手には少しだけ年の離れた姉とおぼしき少女の手がしっかりと握りしめられていた。


「姉様、恐い」男の子が呟く。


「何も恐くはないよ、お前は大丈夫だから」


姉弟のいる行列はゆっくりと進む。行列の先には相も変わらず悲痛な声がした。


「一体何があるの?」少年に体は震えていた。


「将軍様がの命令なんだよ」少女は弟が不安にならないように穏やかに語りかける。「お前は大丈夫、何もないから心配しないで。きっとデウス様が助けて下さるから」


男の子は力なく頷く。


二人はゆっくり人の流れに身を任せて進んでいった。長崎奉行所に入る頃には日が沈みかけていた。御白洲の四方には赤々と燃える松明が用意されて町奉行の顔が夕方であってもはっきりと解る程まで照らしていた。


「さあ、そこの娘。次はお前だ」町奉行は長時間の勤めで疲れが伺えた。


「姉様」少女は弟が握っていた手を優しく振り解くと短く返事をして一歩前を歩いた。


「後ろにいる子供」町奉行に突然呼ばれた弟はびくんと身を縮こまらせる。「もう幾つか絵踏みがある。そちらの絵を踏め」


細い色白の男の子の腕を与力はぐいっと引っ張り絵踏みの前へと連れて行く。少女はちらっと弟を見た。


「おい、子供、これを踏め」与力は地面を鞭ぴしっと叩いた。


弟は言われるまま前へ進んだ。目の前にある踏み絵には穏やかに微笑みながら両手を合わせて願いを込めている女性が描かれていた。聖母マリアの踏み絵だった。


「子供だからと言って上様の命に背くようならば手加減は致さん。さあ、踏め」


男の子はゆっくりと足を上げる。


「さあ、踏め」与力は再び鞭で地面を打つ。


ゆっくりと足を下ろす。


「ほう、良い子だ。さあ、踏め」


あと数センチの所で足が止まった。


「どうした。そのまま足を下ろせ」


男の子はじっと踏み絵の聖母マリアを見つめた。穏やかな笑みがとても印象に残った。


「私はキリシタンで御座います」


隣から凛とした少女の声がした。


「何?」与力はじろりと睨む。


「私はキリシタンで御座います。このようなイエズス様を踏むという無礼を働くつもりは一斉御座いません」


「……ほう、自らキリシタンだと名乗るとは」町奉行は扇の骨を掌に叩く。


「私の父母もキリシタンで御座います。ならば私もキリシタン。何ら変な話では御座いません」少女は背筋を伸ばし、脅える事もなく立っていた。


「父母はどうした?」


「既に神の御国におります」


「……ならば後ろの子供、先程の遣り取りを見るに身内。その子供もキリシタンか」大名は白扇で示す。


「いえ」少女は首を振った。「御奉行様、あの子は踏み絵を踏んでおります。キリシタンでは御座いません」


男の子は呆然と姉と奉行の遣り取りを見ていた。その足は何時の間にか下りており、足の裏からは鉄の冷たい感触が感じられた。


「……この娘を連れて行け」


与力が近づいて無理矢理に娘を連れて行こうとした。しかし、娘は一切抵抗しなかった。ただ言われるままに、連れて行かれるままに自らの足で歩いていた。


ただ男のは見ているしか出来なかった。まだ幼い故に姉の待っている地獄を知るよしがなかった。


梅の花が綻んでいる。麗らかな新春を迎えようとしていた。


***


「何を見ているのです」聞き覚えのある声がした。「罪深い人だ」


「気が付いていたか?」陰宮はゆっくりと印を解いた。もうばれているのであれば身を隠す呪いをしたこところで意味がなかった。


白い女はゆっくりと歩き出す。顔の表情はなく、ただ淡い光に包まれている。


「私はこの時に絵踏みを踏まなかった事により死にました。それは拷問だった。教えを捨てるまで鞭を浴びせられたり、骨を砕かれたり……そして最後は観衆が見ている最中、張り付けにされて生きたまま火炙りにされました。そう言えば、貴方の過去も同じでしたね」


「……貴方はあの娘ですか?」


「ええ、あれは私です」


「一つお聞きしたい。この子供はどうなりました」


「弟は親を失い、姉も失い独り。ですが、心優しい老夫婦が引き取り育てたようです」


白い女は陰宮を見る。


「貴方は何故ここにいるのです」


「さあ、何故でしょう」陰宮は手を首に当てて擦った。「貴方の言葉は少々呪を感じる。何もそこまで私を拒絶しなくてもいいでしょう。私はただ貴方と話がしたいだけですよ」


「話がしたい、一体何の話をしたいというのですか」


「何故貴方はここにいるのです?」


陰宮の質問に白い女は何も答えなかった。


***


「いかん!」香雲は目を鋭くさせて陰宮の元に寄った。「おい、坊、すぐに起きろ」


「どうしたの?」血相を変えた香雲をみた茜は不測の事態に陥った事を悟った。


「坊、術を解け。目を覚ますんじゃ」


修行僧の下北も長谷川も取り乱した香雲を見た事がなかった。それだけ事態が悪い状態に置かれているのだと自ずと感じた。


「……坊、頼む、後生じゃ。術を解け。もう身代わり符はない。全て破られた……全ての厄はお前自身に浴びる事になるぞ」




***



「確か慶長だったかな、旧暦で新春には長崎奉行所では絵踏みを行うのが恒例だった。そして年に数回絵踏みを行いキリシタンを狩った。密かに遣ってきた伴天連達を探しだし処刑した」陰宮は静かに佇みながら語る。


「ええ、それは惨いものでした。イエズス様の教えを捨てるまで拷問が続けられた。鞭打ちの刑、それでも教えを捨てないようなら火炙りで監修の面前で処刑しキリシタンの末路を示しました」白い女は神に祈るように両手を合わせた。「ある伴天連は密かに教えを広められましたが、密告され捕まり穴責めの刑を受けた者がおりました」


「……深い穴に逆さに吊り下げられ、臓器が下がらぬように腹を強く締められ、頭に血が溜まらないようにこめかみに針刺し血を抜く拷問ですね」


「良く御存知ですね」白い女は上を見上げる。「それは生き地獄でした。人の所行とは思えぬ行為。穴には汚物が入れられ人という尊厳を奪われ、罵詈雑言を浴びて心を穢されました。終いには南無阿弥陀仏と唱えて絶命した方もおります」


「貴方はどのようにして亡くなったのですか?」陰宮はその場に座った。


「……何を仰いますか?」


「ですから、貴方はどのようにして亡くなったのですか?」


「おかしな事を聞きますね。私は見せしめとして火炙りで殺されました」白い女は踵を変えした。「貴方は何をしたいおつもりですか? 目を取り戻したいのですか。ならばお返ししましょう。まだ貴方は己自身の罪を悔いていませんが、せめてもの情けです。お返ししますのでここから去りなさい」


陰宮は両手を叩くと周りの景色が一変した。何もない空間。いるのは陰宮と白い女の二人だけだった。


突然、陰宮は口笛を吹いた。穏やかな旋律。


「……何がしたい?」白い女は鋭利な憎悪を込めた口調になった。


陰宮は知らぬ顔をして尚も口笛を吹き続ける。


「何がしたい!」


感情を露わにした白い女の叫びで陰宮は口笛を吹くのを止めた。そして微かだが口元が微笑んだ。


「私はただグロリオサの旋律を吹いていただけです。オラショと同じ旋律だったのではありませんか」


オラショとはキリシタンが唱えていた祈祷文だった。語源は祈りという意味のラテン語である「オラシオ」。現在正しき伝承は残っていない。オラショ自体が口伝であり、さらに口にすればキリシタンと判明する為に口にする事自体が禁じられていた。


現在、微かに残っているオラショには日本語とは考えられない言葉が使用されている。一説では唐語という大陸から遣ってきた言葉で意味が解らないとされていた。だが、別の解釈もまた存在する。それは唐語ではなくラテン語が日本語に訛った言葉。実際、オラショの祈りをする際の抑揚はラテン語の聖歌に似ていた。


「私、いや主を莫迦にしているのか……オラショを平然と唱えるなど」


「それは失礼」陰宮は頭を下げた。「ですが、私も神に仕える身、貴方の信じている神もまた異国の神として仕えている気分なのですが」


「主はただお一人」


「そうですね、日本の神はちょっと違う。一神教とか多神教とか以前に根本的に違う。仏も貴方の信仰する神も人々が救いを求め、そして与える。しかし、日本の神は違う。恐れ敬う……畏怖する存在、恩恵もあれば祟りもある。その二つを崇める、これが日本の神」


「……解らない。貴方は何がしたい」


「これはこれは、ちょっと脱線しました」陰宮は口元を袖で隠して笑う。


「私は主を信じている」


「そうでしょうね。だからこそ、死を覚悟してまで最後までキリシタンであった」


「そうです。そして人とは産まれながらにして罪を背負っている存在、あの罰は主が我々に与えた贖罪の機会なのです。だからこそ、我々は甘んじて受けた。そうすれば罪が許され神の御国に行ける」白い女は穏やかに、両手を合わせて再び合わせた。「私もまたイエズス様や聖母様と元に……」


笑い声が響いた、陰宮の声だった。陰宮は袖で口元を隠しながら押し殺すように笑っていた。


「何がおかしい!」


「もう一度お聞きします。貴方は何故ここにいるのですか?」


「いい加減にしろ……」白い女は膝をつき祈る。「主よ、この罪深い者に罰を与え……」


「神の罰よりも貴方の呪詛のほうが辛い。その言葉、己を偽り、さらに己を苦しませる。自分自身で解っているのではないのですか。貴方は偽りだ」


「違う……違う……罰を、この者に、罰をこの憐れな」


「……はあ、聞く耳持たぬか。ならばその呪詛、返させて貰う」


立ち上がった陰宮は両腕を広げて深い呼吸をする。恐らく全ての身代わり符は破られているのだろうと感づいていた。数百年の偽りが何処かで怨嗟と代わり呪詛と為っていると考えた。数百年の呪詛の前では如何なる法力を持っても紙切れに等しい。


「天切る、地切る、八方切る、天に八違い、地に十の文字、秘音、一も十々、二も十々、三も十々、四も十々、五も十々、六も十々、ふっ切って放つ、さんびらり」


呪詛返しの秘言を唱えると一拍高らかに打つ。同時に白い女に異変が起きた。甲高い叫び声が響く。朧になった輪郭が頭を抱えてうずくまっているように見えた。少女の声が時折男の声に変わる。嗚咽混じりの断末魔だった。


「貴方は幻だ。貴方は貴方ではない。本当の姿を見せない」


蜃気楼は幻。かつては中国では蜃と呼ばれる龍が見せる幻、日本では巨大な蛤の妖怪が吐き出す気が形作った幻と言われた。


実際には光の屈折現象によって遠くの建物が間近に見える自然現象。見える建物は幻でも本当の現実は幻の奥に存在した。


陰宮はゆっくりとうずくまった白い女に近寄る。悲痛の声に憂いの表情を見つめた。


「苦しんだろう。悩んだろう」優しく語りかけると左手に白い女の腹に当てた。「――ひふみよいむなや こともちろらね しきるゆゐつ わぬそをたはくめか うおゑにさりへて のますあせえほれけ――ほら、呪詛は祓ったよ。もう責めるは止めなさい。お姉さんは望んでいないよ」


「――姉様――」


白い女は何時の間にか消えていた。かわりに小さな幼い男の子が横たわっていた。虚が真実へと変わった。


***


香雲はしきりに陰宮の頬を叩いていた。白い肌は赤く染まるも一向に起きる気配がしなかった。口をきっと結ぶと座り直した。


「お、お父さん?」茜は立ち上がろうとした。


「座っておれ!」


覇気の込められた大声に茜はひるむと思わずその場に再び座った。


香雲の切れ長の鋭い目はただ陰宮を見つめており、口元は下がりまるで不動明王の憤怒の顔を思わせた。


「――のうまく さうまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん――」不動明王の慈救咒を唱え始める。


静かな倶利伽羅不動明王寺に響き渡る低い重低音の香雲の読経は空気を振動させた。間近にいる修行僧の二人と茜は威圧感に屈しようとしていた。同時にそれほど危ない状況なのかと肝に銘じて印を結ぶ。


「どうする、哭天翔」


「御前を止めるか、珀天翔。御主はあの鏡に眠る魂を消す事は望んでいない」


「しかしだ、今、御主がどの様な状況なのかは我等も解らん」


「うむ、身代わり符が破られた今、もし状況が悪化しているなら危険だが、もし好転しているならば御前の行っているのは御主の意に反すどころか、御主の意を無駄にする」


珀天翔は眉間に皺を寄せて歯牙を剥き出しにして身を構えていた。哭天翔もまた身を低くして構え、現在の状況を出来る限り見極めようとしていた。


「――のうまく さうまんだ ばざらだん せんだまかろしゃだ そわたや うんたらた

かんまん――」香雲は独鈷印と呼ばれる印を結んだ。


独鈷印とは不動明王が持つ武具であり法具の形を表す印だった。持ち手の両手に刃がある法具の独鈷。


明王は仏の化身だった。その姿は憤怒の形相が多く、身に纏った衣も破れており四肢が露出しており、手には武具を持っている。これは仏の教えに帰依しない存在を睨み付け、手でねじり伏せて力尽くで帰依させる意味があった。


不動明王はそのような明王の頂点であり、真言宗で最上位の仏『大日如来』の化身だった。


「――のうまく さらば たたぎゃていびゃく さらば ぼっけいびゃく さらばた せんだ まかろしゃだ」真言が変わった。不動明王の火界咒と呼ばれるもので、憤怒の大火炎によって魔軍や厄災を焼き尽くし三千世界の全ては燃え果て、残るのは如来や菩薩などの仏だけになるという陀羅尼(仏教においての呪文のようなもの)だった。


哭天翔は生唾を飲む。火界咒を唱えるという事は鏡の中の魂を燃やし尽くすというのも同意。このままでは完全に陰宮の意志が無駄になると焦った。


「どうすればいいのだ……御主はあの鏡の中に憐れな魂がいると言っていた。神を信じながらも、神を怨んでいる魂……御主、どうすればいい。御前を止めるべきなのか」


唸るようにしてただ黙ってみているしかない珀天翔の視界に白い紙切れがひらりひらりと風に乗って舞っているのが見えた。それは陰宮が口に咥え術を行うと同時に吐き出した札だった。札は高座堂の周囲を飛んでいた。


「――けん ぎゃきぎゃき さらば びきんなん うんたらた かん……」


火界咒の最後の言葉、かんまん、という陀羅尼の締めを唱えようとし力強く大きな口を開けた香雲に予想だにしていない事が起きた。ただ風に乗ってひらりひらりと飛んでいた札が突如意志を持ったかのように飛んできて口の中に入り込んだ。


「ぐはっ!」と豪快に咽せる。あまりにも突然の事で茜たちも呆然と一部始終を見ていた。


香雲は前に背を丸めるかのようにして倒れ込み、両手をついて咽せた。その豪快な咽せる音が異様に響いた。


「だ、大丈夫、お父さん?」また怒られるかと心配してかその場から動かずに尋ねた。


咽せる音が徐々に小さくなっていき、肩が上下するのも治まっていく。呼吸が治まってくると指を口の中に入れて涎が付いた札を取り出す。涎が糸を引いた。


「…………」香雲は札を見ると無言で握りしめた。先程より一層憤怒の顔になっていた。


「お、お父さん?」


香雲は返事をせずにじろりと睨むと反射的に茜はびくんと震えた。


「…………」香雲は睨んだまま口元に手を当てる。手で何かを表現しようとした。口に手を当てる、口から飛び出すように手を何度か広げる、最後に手を横に振る。


「もしかして……声が出ない?」


香雲は二度大きく頷く。そして陰宮を力強く指差した。それはまるで「此奴が犯人だ」と言わんばかりだった。


***


「違和感を感じていた。どうしてそこまで信仰しているキリシタンがこのような鏡を依り代にして宿っているのか。神の言葉を代弁し、私に悔い改めよと言った」陰宮は泣きじゃくる男の子の髪を撫でる。「貴方は何度も神の御国と言ったが、どうしてそこには行かずにこの鏡に宿っているのか私は疑問に思った。だからこそ、その原因を水鏡で見た」


「……姉様……」男の子は目を瞑り何度も同じ言葉を呟いた。


「だから私は貴方に『何故ここにいるのか?』と尋ねた。そして、貴方があの少女ではないと理解したからこそ『貴方はどうして亡くなったのか?』と聞いた」


「……僕達が何をしたって言うの……ただイエズス様やマリア様を信じていただけなのに殺されなくちゃならないの……どうして姉様が死ななくちゃならないの」


陰宮は黙って頭をなで続けた。男の子はまだ十歳そこらの風貌だった。水鏡で見た幻影よりも数年しか経っていないと察した。


「……僕は父君や母君からイエズス様やマリア様について教わった。絶対に粗末な事はしてはいけないよ、イエズス様は私達の罪を被って罰を受けた方、その方を裏切れれば絶対に罪は許されない、神様の国には行けないって言われた」


「そうか」


「だから踏み絵は本当は踏みたくなかった」男の子は大粒の涙を浮かべた。「だからあの時、姉様と一緒に罰を受けるはずだった!」


「でも、違った」


「……姉様は僕が踏めない事を解っていた……」


「だから、踏ませるように謀った。違うかい……」


「解らない。でも奉行所の奥へと連れて行かれる時、僕を見た。そして笑った……穏やかに安心したような笑みだった。もしそうなら姉様は僕の命を助ける為に死んだの?」


「……」陰宮は問いに答えられなかった。


「数日後、姉様は処刑された。僕も人の中に紛れて見た……顔中にかさぶたや痣だらけの姿が辛かった。なのに笑っていた。姉様は最後まで神様を信じていた」


男の子は破顔した。


「姉様はあんなに信じているのにどうして助けてくれないの! 他のみんなだってそうだ。みんな、みんな、そうあれかし、と言って死んでいった。どうして神様は助けてくれないの!」


「神を怨んだのか……でも、君は神を信じているのだろう」


「解らない」男の子は頭を抱えた。


「君はお姉さんの幻影を纏っていたのは信じていたのだと思う」陰宮は優しく頬を撫でた。「お姉さんが最後まで信じた存在だからこそ、己に投影させて神のように振る舞い、自分自身に嘘を吐いてまで信じようとした。違うかい?」


「解らないよ……」


「辛い事を聞くが、君はどうして亡くなったんだい?」


「……姉様が亡くなって二年後に流行病で死んだ」男の子は体を起こした。「どうして、そんな事を聞くんだ?」


「お姉さんのした事が無駄じゃなかったと思いたくてね。所で、どうして魔鏡に宿っていたんだい」陰宮は憂いを拭くんだ声で尋ねた。


「解らない。ただ何時の間にか鏡の持ち主の家にいたんだ。その家には姉様に似た女の子がいた。鏡で照らされたマリア様に毎日オラショを唱えていた。最初は、悲しかった、この女の子も姉様のように死んでしまうのかと思った。でも、女の子はそんな事を気にしないで毎日毎日お祈りしていた……それがあまりにも憐れに感じた。でも、この子も一生懸命に信じる神をもう一度信じてみようと思った」


「その時にお姉様の幻影を投影を?」


男の子とは静かに首を振った。


「……あれは女の子がお婆ちゃんになって病気で倒れた時だった。最後の最後まで一生懸命にお祈りしていた。神はこの人を助けたりはしない、無慈悲だと思った。だから……」


「君が化けたのか」


首を弱々しく縦に振った。「そうしたら、微笑みながら、そうあれかし、と言って息を引き取った」


「……そうか」


「ねえ、貴方は神に仕える者って言ったよね」男の子は不安の表情で尋ねた。「この世界に神様はいるの? いるならどうして信じている僕たちを辛い目に合わせるの?」


「神はいるよ」陰宮は辛い表情をした。かつて幽世の因果の目を持って生まれた為に仏を怨んで潰そうとした過去を思い出した。今現在では目は不動明王の火が宿り自身に罰を与える事もある。「……でも無慈悲なのは私にも解らない。ただ何らかの意味があるのだと思う。人が人であるには自分自身で歩まなければ為らないのかも知れない。そういう運命にしたのかも知れない。もしかすると救おうとして救えなかったのかも知れない。私には答えられない」


「……貴方は神を信じている?」


「ああ、信じている。だけど、私自身も人の事は言えないな。私もまた神を怨んでいるからね」


「どうして?」男の子は泣き止んでいた。代わりに不思議そうな顔をして陰宮を見つめる。


「私には大事な役目がある。なのに神様は厄介な人と出逢わせるんだ。その人は大切にしたい奴でもあるんだが」陰宮は溜め息を付く。「それがもの凄くお節介でね。私に深く関わるんだ。あっちにいけば付いてきて、心配するなと言えば心配して、なのに何処か私自身が甘えてしまいそうなんだ。でも私に関われば何時か必ず傷つける」


「……大変だね」男の子はゆっくりと胸で十字を刻む。「父と子と、聖霊の御名において、貴方が救われる事を、そうあれかし」


陰宮は男の子に有り難うと優しく答えた。


「どうして、また私に会おうとしたの。どちらにせよ、目は返すつもりだったのに」男の子はゆっくりt横たわった。「でも、これからもずっと信じながら怨まなければいけないかと思っていたから、楽になった。有り難う」


「……君のいるべき所に連れて行こうと思ってね。ただ君の呪詛だけを取り除きたかった。このままでは何時か怨霊になってしまうかも知れないからね。それに君が本当に神を信じているのか知りたかった」


「……いるべき場所?」


「ああ、仏の力などで浄霊するよりもそれが一番良いと思う場所がある」


「もう……どうでもいいよ、貴方のしたい事をすればいい」


陰宮はその言葉を聞くと両手を一拍打つ。男の子の最後の言葉が印象に残った。それは聖書の一文に似ていた。


***


横たわっていた陰宮の口元が大きく動いた。上体をゆっくりと起こした。


「御主!」


「陰宮様!」


「陰宮さん!」


一同が安堵の声が出した。一人だけ、声を出していなかった。いや、出せなかった。


胡座をして、肩肘を膝に乗せて掌に顎を置き悪態をついている大男。香雲は眉間に皺を寄せ、目元がぴくぴくと振るわせていた。陰宮が起きて目を合わせると手で喋れない事を表現した。太い二の腕には血管が浮き出るほどに力が込められているのが一目で分かった。


「……火界咒なんて唱えるからです」陰宮は刀印を作って、香雲の周囲の空を切った。


「おお、喋れる」不気味なくらい穏やかな声を作っていた。


「どうせ、私の力量を信じていないだろうと思って式を飛ばしていて正解だった。」


「……坊、無事に終わったのか。目は見えるんじゃな」


「ええ。無事に終わりましたし、目も大丈夫です」


陰宮は何かを思い立って魔鏡を桐の箱に戻すとその場を立った。踵を返して高座堂を下りようとした時だった。


「この莫迦弟子が!」陰宮は耳を劈くような怒号が響いた。同時に脳天に衝撃が伝わる。「無事で良かったものの万が一あったらどうする気じゃ! おまけに、儂の口に札を入れるわ、呪をかけるは、窒息するかと思うたじゃろうが!」


陰宮はその場に頭を抱えるようにして倒れ込んだ。お節介も大変だが、今はそれ以上に厄介な存在がいると涙を浮かばせた。




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