第5話『絢探し』

 4月18日、木曜日。

 放課後、私は茶道部の活動をサボって、陸上部が活動している陸上トラックが見えるベンチに座っている。そこは木陰になっていて、時々吹く風がとても爽やかで心地よい。また、その風に乗って、ベンチの横に咲いているたんぽぽの甘い香りが微かに感じられる。

 私がここにいる理由は唯一つ。陸上部の活動が終わって、部活帰りの原田さんにクッキーを渡すためだ。

 クッキーを多く作りすぎて杏ちゃんと美咲ちゃんに渡したら、とても喜んでくれた。原田さんも2人みたいに喜んでくれるといいな。

 その原田さんはトラックの端で何やらスタンバイをしているみたい。短距離走と中距離走が専門みたいだから、これから走るのかな。それにしても、ジャージ姿の原田さんはかっこいいな。ずっと見ていたい。

 原田さんの走る姿を見たいのか、多くの生徒が集まり始めた。まだ原田さんがスタートしていないのに黄色い声が上がるというのは、彼女の人気の象徴だろう。


「お願いします」


 小さかったけど、そう言う原田さんの声が確かに聞こえた。

 その直後に笛の音が鳴り響く。そして飛び交う女子達の声援。

 左側にあるスタートラインから勢いよく走ってくる原田さんは、ポニーテールを揺らしながら一瞬にして私の前を通り過ぎてゆく。その瞬間の原田さんの横顔はやっぱりかっこよかった。彼女から溢れる汗がとても煌びやかに見えた。

 ゴールまで辿り着いたのか、原田さんは徐々に減速し……やがて立ち止まった。

 そして、驚くべきはここから。

 立ち止まった原田さんの元へ、白い汗拭きタオルを持った数人のジャージ姿の生徒が一斉に駆け寄ったのだ。きっと、みんな原田さんに好意を持っているんだと思うけど、私だったら絶対にできない。恥ずかしい。


「お疲れ様でした!」

「今日の走りもとても格好良かったです!」

「そうかな。今日は結構調子が良かったよ」


 数人が一斉に行ったら普通は困るところなのに、原田さんは爽やかな笑みを絶やさずに対応していた。


「原田さん、今のタイム……12秒ピッタリ。かなり調子がいいわね」


 そのタイムにトラックの方からどよめきが起こる。何メートルかは知らないけど、12秒ってそんなに速いのかな。でも、調子がいいって言われているから速いのか。

 そういえば、よく考えたら……クッキーを渡すにしても、相手は人気のある原田さんだから結構な数の生徒の前で渡すことになるのかぁ。そう思うと今から緊張してくる。緊張した所為で手が震えて、それでクッキーが落ちて……落ちたことに慌てちゃって思わず踏んじゃいそう。

 でも、原田さんは電車通学らしいから、帰るときは1人のときもあるそうだ。

 私は徒歩通学だから、鏡原駅の改札を通る前に渡さなければいけない。電車の中では1人かもしれないけれど、駅までは誰かと一緒にいる確率は高そうだなぁ。


「高校でも懲りないわね……あの女」


 ベンチからちょっと離れた所にいた女子生徒がそんなことを呟いた。その生徒と友人らしき2人は原田さんのことを鋭い目つきで見ている。


「悪魔はいくら喰っても足りないんじゃない?」

「餌食になっちゃう子、可哀想……」


 あの様子からして、悪魔、って……原田さんのこと?

 理由が何なのかは分からない。でも、あの3人の女子が原田さんに対して何か悪意を抱いているのは間違いなさそう。

 それでも、常に注目を浴びている原田さんに限って、何か後ろめたいことがあるとは私には思えない。

 それに、私は……何度でも思い出してしまう。


『困っているようだけど、君って、何組の生徒なの?』


 あの日、原田さんが初めて話しかけてくれたときの優しい笑顔。それは何の屈託もない純粋なものだった。私はその笑顔を信じたい。


「……あ、あれ?」


 考え事をしている間に、原田さんはグラウンドから姿を消してしまった。気づけば他の陸上部の生徒もいなくなっていた。


「終わっちゃったんだ、部活……」


 ど、どうしよう。あの女子3人が変なことを言ったせいで、クッキーを渡す心の準備が全然できなかったよ。

 とにかく、原田さんを探さないと。彼女を見つけなければ元も子もないんだ。

 部活が終わったということで、私は陸上部の部室の前まで行ってみる。


「どうかした? もしかして入部希望かな?」


 ジャージ姿の黒髪の女子に声を掛けられた。確か、さっき……原田さんのタイムを言っていた人だ。入部希望のことを訊くってことはおそらく上級生だろう。


「ち、違います! ええと……クラスメイトの原田さんに用があって。部活が終わったようなので、部室にいるんじゃないかと思って……」

「ああ、原田さんなら更衣室の方に直接行ったと思うよ。……なになに? 今から告白でもしに行くの?」

「え、ええと……そ、そこまでできれば何よりだと思ってます……」


 私が後輩だと分かったためか、黒髪の先輩は面白そうにからかってくる。私もそれに上手く乗せられているのが頬の熱で分かる。

 というか、今思ったけれど……先輩に原田さんのことが好きだって言っちゃったのはまずいかも。原田さんに知られちゃうかもしれない……ううっ。


「ふふっ、可愛いわね。早く行った方がいいわよ。今日はもう終わったからね」

「わ、分かりました! ありがとうございます!」


 黒髪の先輩に一礼して、私は更衣室へと向かう。

 しかし、更衣室の前には全然人がいなかった。まさか、更衣室の中に入って原田さんの着替えている姿を見ているの?

 更衣室に入るのはちょっと気まずいけど、いるかどうかは確認しておきたいし……実は既に帰ったのにここでずっと待ってることになったら、それこそ一番悲しい結末だ。


「よ、よし……」


 ここは勇気を振り絞って、更衣室の中に入ろう。

 私は静かに更衣室の中に入る。

 中にはジャージから制服に着替えている生徒が何人かいたけど、原田さんはどこにもいなかった。もう、帰っちゃったのかな。


「あの、すみません。原田さんってもう帰っちゃいましたか?」


 さっき、陸上トラックの中にいた茶髪のショートヘアの人に訊いてみる。


「いや、まだ来てないけど。部室じゃないのかな?」

「さっき、部室にも行ったんですけど……黒い髪の先輩が更衣室のある校舎に直行したのを見たって言っていたんです」

「そっか。どこかで水でも飲んでいるかもしれないから、近くを探してみるのもありかもね。まあ、ここで待っててもいいけれど」

「大丈夫です! 私、探してみます!」


 更衣室の中でクッキーを渡すなんて気まずくて仕方ないもん。それ以前に食べ物を渡す場所じゃないっていうか。誰かに見られても、廊下の方がよっぽどマシだよ。

 茶髪の人に一礼して、更衣室を出た。

 原田さんは水を飲んでいるかもしれないんだよね。部活終わりだし、きっと水分補給をしているんだ。


「給水器だよね、普通に考えれば」


 天羽女子には色々な所に冷たい水が飲める給水器がある。更衣室から一番近いのは確かパブリックスペースだったはず。

 私は自分の記憶を信じてパブリックスペースに行く。

 しかし、放課後なのか生徒は誰一人としていなかった。もちろん、端に2台ある給水器にも誰もいない。


「更衣室の前で待つ方が無難なのかな……」


 さっきからずっと走って疲れてきたためか、そんな風に思えてきた。体もちょっと熱くなってきたし、せっかくだから冷たい水でも飲もう。

 給水器で冷たい水をゴクゴク飲む。体を動かした後だからとても美味しく思える。


「こんなところでどうしたの? 坂井さん」


 その声に驚いて、思わず口に含んだ水をぶっ、と全部吹き出してしまった。そのせいで咳き込んでしまう。

 ブレザーの袖で口元を拭いて、声の主の方に振り返る。

 そこには私の探していた人……原田さんが立っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る