真夏の電車の夢
笹山
真夏の電車の夢
将来の夢は――――だった。
子どものころ、「将来の夢」という題材で作文を書けと言われた時は、俺は眼を輝かせながら何枚もの原稿用紙に夢を書き連ねた。将来の自分を想像しては顔をほころばせて、無邪気にくすくす笑っていた。
将来なんて、自然とやってくるものだと思っていた。好きな仕事をして、初恋の人と結婚して、俺の家族のような幸せな家庭を築いて。そうして夢も希望も叶えながら、立派な大人になっていくものなんだって、ずっと、思っていた。
※
舗装もされていない、砂利だらけの夏の坂道を自転車で下る。汗で張り付くシャツの感触と、快い風に後押しされて、ぐんぐん下る。隣にはふざけ合う仲間たちがいて、嬌声が真っ青な空に響いている。
「宿題終わったー?」
そう聞く親友に僕は答える。
「もうとっくにやったよ!」
「ほんと!じゃあ見せろよ!」
「いいけど、ジュースおごりな!」
親友が僕の肩を小突く。二人で大声をあげて笑うと、すぐに他の仲間たちも僕らの笑いの輪に入る。
前方は真っすぐな道、そして海。なにも不安などない。なにもこわくない。最高に楽しいことが今も、これからも待っている。僕は勢いこんでペダルを踏み込む。
※
はっとしてあたりを見回す。薄暗い電車の車内には、人もまばらだ。向かいの女性が俺をちらりと見て、手元の文庫本に目を落とした。俺は居住まいを正して車内の電光表示を確認する。まだ乗り過ごしていない。冷房の利いた車内でも、寝起きの汗で背中にシャツが張り付いて、気持ち悪い。
なにか夢を見ていた気がする。
掴みどころのないような夢。ぼんやり靄がかかったように思い出せない夢。
でもきっと何か大切なものだった気がする。
疲れているのだろうか。最近こんなことが多い。いつの間にか寝てしまっていて、薄ぼんやりとした夢を見る。起きた後にはすっかり夢の内容を思い出せなくなっているけれど。
俺は停車した駅で降りると、途中でコンビニに寄って夕食を買い、アパートに帰って、スーツを脱ぐ。入社当時に買って三年。ところどころ取れないシワが出てきた安スーツをハンガーにかけて、テレビを点ける。バラエティ番組を見ながら、コンビニ弁当をつつく。
半裸の芸人が体を張った芸をして、俺は笑う。
ふと、テレビの黒い外枠に映る自分の顔を見て、乾いた笑いは出なくなってしまった。いまだ口だけ笑っている自分の顔をじっとりと見て、はて、これは誰だろう、と思う。酷くやつれて、濃い隈が目の下の影を濃くしている。目だけがギラギラして見つめ返している。ああ、俺だ。これが今の俺だ。だから、なんだ?
俺は夕食もそこそこに、ベッドに倒れ込む。
また夢を見るだろうか。もし見られたなら、今度こそ覚えていたい。
※
昼休みだ。
友達と机をくっつけて給食を早々に食べると、僕らは片手にサッカーボールやバットを持って校庭に飛び出す。秋の高い空が僕らを迎える。
「今日はどれにする?」
クラスが変わった友達が僕を見つけて駆けてくる。こいつとはなんどもクラスが変わったけど、休み時間や下校の時はよく一緒に遊ぶ。
「ドッチボールがいいな」
「よっしゃ!じゃあドッチボールやる人この指とーまれ!」
友達の呼びかけにたくさんの仲間が集まる。
僕はボールを取るよりも躱す方が得意だ。僕はこぼれ球や仲間に当たった球を取り、不意打ちをかけて相手にボールをぶつける。
「顔はセーフだろ!」鼻頭に当たったボールを取りながら僕は抗議する。
「悪い悪い!」にやにやしながら笑う相手チームの男子に僕はわざと顔を狙ってボールを投げる。
「今のわざとだろ!」すんでのところで躱した男子が叫ぶ。
「悪い悪い!」
これで貸し借りは無くなった。今度は真剣勝負だ。
散々動き回って、息も切れてくるころに、チャイムが鳴った。
※
ジリリリリリと起床時間を示す時計に手のひらを打ちつけながら頭を起こす。
今日は朝から会議がある。早く支度を済ませて出よう。
昨日コンビニで買っておいたおにぎりを朝食に食べながら、ぼんやりとした頭で考える。
夢を見ていたようだがやっぱりよく思い出せない。だけど、なんだか、鼻頭に衝撃を感じたような気がする。そう思って鼻をさするが、特に何事もない。そういえば目覚まし時計のアラームの前にも、なにかが鳴り響いた気もする。懐かしい感じのあの響きは、いったい何だったろう。
ともかくも、顔を洗おう。座椅子から立ち上がって洗面台に向かおうとする途中で、何かを蹴飛ばした。いつそこに置いたのかも忘れたビールの缶だ。舌打ちして、缶を放ったまま顔を洗う。
電車に乗り込むと、スーツ姿の、まるで俺の顔を映したみたいに、一様に疲れた顔たちが出迎える。手元の携帯電話に目を落として、しきりに手を動かしている人。片手に吊革、片手に本を開いて背筋をこわばらせている人。何をするでもなくぼうっと、反対の窓を見つめる人。俺もその中に混じって、本を開くが、どうにも読み進めるのが億劫ですぐ閉じてしまう。何をしているんだろう、この人たちは。俺は。
午前中の会議を終えて、外回りに出て、コンビニの駐車場で油を売る。数日前に開けたコーヒーを傾けると、煙草の吸殻が一緒になって流れ込んできて、むせかえる。悪態をつきながらティッシュに吐き出した。
疲れているんだ、休憩しよう、と自分に言い聞かせて目を閉じる。
※
なんとなく恥ずかしいから、親の目を盗んで、廊下の電話の前に立つ。少し震える指先で確かめながらゆっくりと、あの子の家の電話番号を押してから、もしかしたら親が出るかもしれない、そうしたらどうしよう、と不安に思う。
「はい、もしもし」
良かった、あの子だ!
「あ、えっと、もしもし」声が上ずってしまった。
「あれ、どうしたの?」
「そ、その、明日って暇?」
「うん、暇だけど?」
「えっと、あの、良かったら、映画一緒に見に行かない?あ、その、観たいって言ってたの、僕も観たかったし」落ち着け、僕!
「え、うん、いいよ」
「ほんと!ありがとう!じゃあお昼に迎えに行くね!」
僕はそこまで言い切って思わず受話器を置いた。指先がとても冷たくて、でも体の奥が熱い。妙に体が震えてしまって、腕を抱きながらしゃがみ込む。
やった!やった!
明日は何着ていこう。なんて挨拶をしよう。もしかしたらのことも考えて色々台詞用意しとかなかきゃ。っていうかさっきの電話変じゃなかったかな。明日になって断られたりしないよね?
僕は階段を駆け上がって子ども部屋に入ると、ベッドに倒れ込んでシーツに包まる。今日はもう寝られないかも!
※
けたたましい音に起こされる。
それが携帯電話の着信だと気づいて、思わずドキリとした。
そうだ、さっきの夢。懐かしいあの子の声を聞いた気がする。あの冬の日、俺はあの子に電話で映画に誘って、それで――
それで、どうしたのだったろう。
翌日俺はあの子と映画に行って、どんなことを話したのだろう。思い出せない。つい先ほど思い出したはずのあの子の声も、ぼやけてしまって、再生ができない。あの子の顔も、苗字も、かき乱した水面のように揺らいでしまって、もどかしい。
気づけば電話は切れていた。発信は上司からだったが、かけ直す気になれなかった。
何をする気にもなれず、ただ街中を車で走り回った。夕方になって会社に戻ると上司に電話の件を注意されたが、頭の中を素通りしていった。
残業を終えて帰途につく。
電車に揺られながらぼんやりと昔のことを思い出そうとした。
小学校のころ一緒に遊んだ仲間の名前、先生の名前。中学の運動会でどの競技に出たのだったか。高校の文化祭で俺のクラスはなにをしたのだったか。初恋の人はあの子だったか。
昔の俺はどんな夢を持っていたのだろうか。
※
「オレ電車乗るの初めて!」
ボックス席の向かい側に座った友達が、そわそわと窓の外を見やりながら言う。
「僕も」
そう、僕も。今日は初めて電車に乗るんだ。
まだ小さい子供たちだけで電車に乗せるのを渋っていたお父さんを、街まで行くだけだからと説得して、ようやく小学校を卒業した春休みの今日、何人かの仲間と一緒に、初めて電車に乗った。
ガシャガシャと乗降口が閉じて、電車がゆっくりと滑り出した。
「うわ!動いた!すっげー!」
「そりゃ動くよ」
「ちょっと窓開けようぜ!」
仲間たちと一緒に窓に貼りついて、なににでもなく手を振る。
電車は速度を上げて、窓から吹き込む風が強くなる。電車の揺れにドキドキする。
まるで旅行にでも行くようで。このまま、どこまでも行けそうで。
「中学校行っても、また遊ぼうぜ」
窓の外の流れる景色にしばらく騒いだ後で、僕の隣に座る友達が言う。
「当たり前じゃん」
ここにいる仲間たちの半分とは、中学校が分かれてしまう。
けれど、それこそ電車を遣えばすぐに会いに行ける距離なんだ。
「そういえば」と向かいの友達が言う。
「お前が好きな子も違う中学校なんだろ」
「……」
僕の顔は途端に曇る。
「告っちゃえよ!」
「え、そんな、無理だよ」
「いくじなしー」
「うっさい!」
鼻の奥がツンとして、少し泣きそうになった僕は、窓に顔を向けてごまかした。
あの子にだって電車に乗って会いに行けばいいんだ、と自分を励ます。
頬を膨らませながら、僕は電車の揺れに不思議な気持ちよさを感じて、目を閉じた。
※
思い出した。
将来の夢は電車の運転士だった。
まだ鮮やかに残る夢の残像と、今の俺がいる電車が重なる。そこにはないボックス席に、窓の景色にはしゃぐ子供たちの姿が見える。一番端の、窓に顔を背けている子どもが俺だろうか。確かめる間もなく残像は薄れていく。
そして、子どもたちが消えていくさなか、窓に映った幼い俺の顔と、今の俺の顔が重なった。たしかに、視線がぶつかった。
次の瞬間には、残像は跡形もなく消えてしまっていた。
だけどあの、俺の顔。希望と夢をエネルギーにして生きていたような俺の顔。
あれが俺だったなんて。
頬に涙が伝うのに気づいた。
何やってるんだろ、俺。
あんなに心を躍らせた夢があったのに。
給料だとか、勤務地だとか、その時の俺にできる範囲で勝手に選択肢を絞って、夢を思い出したころには、好きでもない仕事に就いてしまっていた。
いつの間にこんなことになってしまっていたのだろう。高校?大学?就職活動?
以前は確かに前に進もうとしていたはずなのに、今はその場で足踏みを続けて妥協している。
あの子とは、中学校に上がってから数回会っただけで、もう連絡先も知らない。
自転車で競争したり、電車で騒いだ仲間たちとも長いこと会っていない。
夢を夢のままにして、あの電車に置いてきてしまった。
だけど、とてもじゃないが取り戻せる気がしない。今の生活を失うのが怖い。
怖いんだ。
「あの、これ、どうぞ」
女性の声だった。
涙でぼやけた目で、声のする方を見る。
誰かよくわからないが、ハンカチを差し出してくれている。
黙ってハンカチを受け取って、目に押し当てると、また涙があふれてくる。
その間、ハンカチを差し出してくれた女性はずっと俺の前に立っているようで、その気配を感じながらも、涙はとめどなく流れ続けている。懐かしい。そう、懐かしい匂いがする。
「君は――」
潤む目で女性を見ると、消え失せていたはずの影や形が彼女と重なった。
「久しぶりだね。もしかしてと思ったら、急に泣き出すんだもの、私のこと、分かる?こんなこと、昔にもあったような気がするね」
彼女は困ったような、しかし可笑しそうな顔で僕を見ていた。
隣に腰掛けた彼女の肩に、僕はみっともなく頭を垂れて嗚咽した。それから、何から何まで、あの頃の無邪気な子供に戻ったような自分が思わず笑えてきた。なんだか妙に嬉しくて、そわそわする。不安ばかりだ。こわいものばかりだ。でも最高に楽しいことを、今から追いかける。
真夏の電車の夢 笹山 @mihono
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます