雷が鳴る前に

春義久志

雷が鳴る前に

 嵐が来る。そう伝えていたニュースを確認して、彼女は彼にメールを送った。


「今日も手筈通り。鍵は、先に来た方が外して待ってて」


 携帯を閉じると、彼女はクローゼットから制服を取り出した。ブラウスに袖を通し、スカートのホックとファスナーを締め、ブレザーを羽織る。あの日ときっちり同じ格好になっているかどうか姿見で確認をする彼女の頬は、心なしか紅潮しているように見える。邪念を振り払うかのように頭をぶんぶん振り自らの手で両頬をはたき、妹から借りてあったリュックに着替えや雨具を詰める。


 階段を降りる際に母親と遭遇した。黙ってこっそりと出て行くつもりだったが仕方ない。俄にした緊張を表情に出さないようにしながら、学校に忘れ物を取りに行ってくると伝えた。こんな予報の日ぐらい大人しくしていたら、と心配を隠さない母親を宥めすかしながらローファーを履く。数週間突き通し続けた嘘のことを心の中で詫びながら彼女は家を出た。


 勢い良く流れていく雲と、それに遮られて見え隠れする太陽。そんな空模様の下、彼女はがむしゃらに自転車を漕ぎ続けた。吹きつける横風に煽られて何度も転びそうになりながら、その小柄な体躯は一心不乱に学校を目指す。


 ヘトヘトになりながらようやく到着した。彼の姿はおろか、他の生徒の気配もない。一足先に校舎に入り、人目を盗んで守衛室からマスターキーを拝借する。気付く人間がいないことを祈りながら扉を解錠し、屋上に出た。 太陽は厚い雲に覆われてはじめていたが、いまだ雨や雷の気配はない。リュックから雨具取り出しながら、彼女は彼の到着を待つ。


道草を喰っているのだろうか、ひょっとしたら、途中で事故にでも遭ったのかもしれない。不穏な想像が頭をよぎりだした頃、ようやく彼が現れた。彼に向かって屋上から手を振る彼女。それに気づいた彼が近づいてくるのを確認すると、彼女は祈るように曇天を見上げた。


 「遅かったね。大丈夫だった?」


 「支度に手間取ってね」


 私服姿で現れた彼は、背負って来た鞄を下ろし、中から制服を取り出した。あちらこちらに穴が空き、煤けているのはあの日に身に付けていたものである証拠だった。


 「着ないで来たんだ」


 「わざわざ動きづらいような格好でここまで来ることはないからね。キミの方こそ、わざわざ全部着込んで来て、風でいろいろ翻って大変だったんじゃない?」


 彼の指摘に彼女は、道中の苦労を思い出して、顔を真っ赤にする。


 「だって、雷が落ちた時とおんなじ格好で臨もうってことだったし・・・。着いてすぐ雷が落ちて、それで間に合わなかったら意味ないじゃないか!」


 「生真面目だね」


 苦笑を浮かべながら、彼は着てきたジャージのファスナーに手を伸ばした。


「ストップ」


 噛み付かんばかりの勢いを見せる彼女に対し、彼は怪訝な表情を浮かべる。


 「何してるの」


 「制服に着替えるから、上を脱ごうとしただけだよ」


 「更衣室行って来なって!」


「恥ずかしいの?」


「女の子がそんなはしたないことしないの!」


「減るもんでもないし」


「そういう問題じゃない!」


やっと紅みが引いてきたばかりの彼女の頬が再び染まる。


 「自分たち以外、とっくに誰もいない学校の、しかも階段の踊場だよ?下着まで脱ごうってわけじゃないし、キミに脱げって言ってるわけでもない。人の目を気にする必要なんてないんじゃないの?」


「それでもさ」


 口ごもり、少し俯いてから彼を見上げる彼女。


「僕は、そんな風に君に、服をぽんぽん脱いで平気なかおをしていて欲しくないんだ」


 やっとのこと、そう口にした彼女を見下ろす彼。その目は細く鋭く、何かを睨みつけているようにも見える。彼女の怪訝そうな表情に気づいた彼は鼻を鳴らし、取りなおすように軽口を言う。


 「いや、随分と上目遣いが板についてきたな、って。精神もだいぶ身体の方に引っ張られてきちゃったんじゃないのかな?」


 彼の口撃に思わず悶絶を始める彼女。膝をつき打ちひしがれているその間に、彼は階段を下り、更衣室と守衛室のある一階へと向かった。


 「雷、鳴らないね」


「これだと雨ですらどうなるか」


「注意報出てたのに」


「あくまで注意報だよ」


 屋上の手前、その踊場。嵌め殺さた扉の窓で外の様子を伺いながら、彼と彼女は膝を抱えて座っている。厚くどす黒い雲は屋上の上空を完全に覆ったものの、稲妻も雨粒すらも落ちてこない。期待と不安とが入り混じった表情を浮かべる彼女。一方で彼は、天気とはまた違ったことを考えているようだった。


 「大気の不安定さは前に雷が落ちた日と類似してる、天気予報でそう言ってた。今までとは期待値が違う。今度こそ大丈夫、だよね?」


「どうかな」


注意報が出る度に屋上で落雷を期待しては待ちぼうけを喰らう、そんな日々が何週間も続いていた。


 「つべこべ言ったってどうにもならないよ」


突き放すかのように彼はそう口にする。


「駄目なら駄目で、今までと変わらず、次の雷まで日常を過ごすだけだし。それで問題ないよ」


 楽観的にも思える言葉を、とても楽観的には見えない醒めた表情で呟く彼。


「ねえ」


 「何?」


彼女はそんな彼に向かって話しかける。


 「ひょっとして、雷が落ちないで欲しいって思ったりしてないよね?」


冗談っぽく切り出したつもりだった彼女は、彼の据わった視線に思わず居竦まる。


 


「時々考えるんだよね。キミとボク、今のままの方が、この先も上手くやっていけるんじゃないかなってさ」


立ち上がると、膝を抱えたままの彼女の手を掴み、無理やり立ち上がらせる。


「雷に打たれてから今日まで、キミとボクは互いの身体で生活を送ってきた。他人の身体で過ごす経験なんてしたことあるわけないのに、大きなボロを出すことも無く過ごして来れた。友人どころか家族もそのことに気付かない、気付いてすらもらえない。それならさ」


ずっと今のまま過ごしたっていいんじゃないかな?


狼狽えている彼女を壁際に寄せてにじり寄ると、彼は彼女の耳元でそう囁いた。


「たかだか一ヶ月でキミもボクも今の身体と生活にすっかり順応してる。さっきボクを見上げた時の仕草、意識的にやっていなかったでしょ。到底ボクには真似できない。ボクがその身体でいる時よりもずっと、魅力的に見えるはずさ。


「キミは女で、ボクは男でいる方が、向いているのかもしれないよ?少なくともボクは、女でありたいだなんて思ったこと、ただの一度もない。どうせなら上手く生きれる方を選びたいね」


うつむいてしまい表情が伺えない彼女の肩を彼は掴む。びくりと震えた彼女を見下ろしながら、彼は滔々と語り続ける。


 「ボクらは、ボクら以外誰も手にすることの出来ないチャンスを選択できるんだ。分かるだろ?君がただ一言、それでいいって口にしてくれるなら」


 右手の先が彼女の頬を捉えようとしたその時、すりガラスの向こう側で何かがちらついた。微かな振動がすこし遅れて伝わってくる。その音にに反応して動きを止めた彼の手を、彼女はそっと彼の胸元へと押し返す。


 「君の言うとおり、今のままお互いの身体で過ごす方がいいのかもしれない。


 「でも僕には、君の身体のままじゃ出来ない、もう一度どうしてもやりたいことがある。それだけは、どうしても諦めきれない」


一瞬の沈黙ののち、彼はふぅと一つ息を一つだけついた。


「時間切れ、か」


窓の向こうが再び光った。雷鳴に混じって雨音も聞こえ始めた。壁際を離れると、彼は扉に手を掛ける。


「合羽着て待つ?」


「この恰好のままでいいよ。いつ落ちてきてもいいように」


寂しげな表情を見せながら、彼は彼女の提案をやんわりと断る。


踊り場で耳にした第一声を皮切りにして、雷は徐々に屋上へと近づいているようだった。雷が落ちた日の状況をできるだけ再現しようと、彼は入り口から出てきて間もない地点に、彼女はフェンスのそばにそれぞれ立っている。


「寒くない?」


「全然。空気自体はまだ温いもの。だんだんブレザーもブラウスもスカートも張り付いて来てて気持ち悪いけど」


少しばかり強がりながら天を見つめる彼女。徐々に強くなる雨脚のせいで視界は悪く、互いの声も聞き取りづらくなってきていた。


「それならさ、ずぶ濡れついでに、懺悔ごっこに付き合ってくれない?」


彼は彼女にそんな提案をする。


「ネタが古いし、そもそも順序があべこべじゃないの」


「ずぶ濡れついで、身体のあべこべついでだよ。さっきのこと、弁解くらいはさせて。この雨と雷とで、文字通り水に流して、後腐れ無く終わらそうって思ってさ。」


振り向いた彼女の表情に無言の肯定を汲み取った彼は、滝のような轟音の中で静かに語り始めた。




「私は、臆病者です。授業中も休み時間もずっと、窓際で頬杖を付くだけの臆病者。


「楽しそうにしている人たちを眺めて。あの中に混ざりたいって思っているのに、まだ受けてもいない傷が怖くて、自分から壁を作って、皆を遠巻きに眺めることしか出来なかった。


「あの日、目が覚めて、私が君の身体に入ってるって知った時、チャンスだって思ってた。外見ガワさえ変われば、構築済みの人間関係さえあれば、私も人の輪の中に入っていけるんじゃないかって。そうすればいつかいろんなことが変化するんじゃないかって」


 「結局私は変わらず終いだった。姿かたちが変わっても、それまでと何の変化もない日々。なのに君は、私の姿のままでも、なんだかキラキラしていて。そんなふうにいられる君が、羨ましかった。


「踊り場で私を上目遣いで見上げたキミは、とても女の子っぽくて、可愛くて。私と同じ姿をしているはずなのに、どうしてこうも違うんだろうって、なんだかそれが許せなく思えたの。だから、もし雷が鳴り出す前に、私のようで私じゃない君のその唇を奪えたのなら、めちゃくちゃにしてやろうって思った。


「雷が鳴っても鳴らなくても、正直どっちだってよかった。そんなどっちだっていいようなことで、人を傷つけようとする。私はそういう人間なんだって、キミに止められた時、それがやっと分かった」


 御免なさい。


「私にこんなこと言える資格があるか分からないけれど、この数週間のことを、私なんかでいたことを、早く忘れて。雷が落ちて、お互い元の姿の他人同士に戻って、何もかも無かったことに」


傘も差さず雨具も着ないまま彼は立ち尽くす。下げたままの頭と顔から滴り落ちる雫がもしも雨だけではないのだとしたら、彼女は彼にどうしても言わなくてはいけないことがあった。


「それじゃあ、今度は僕の順番だね、懺悔」 僕の方も、君に黙っていたことがあるんだ」立ちすくむ彼に向かって、彼女はそう切り出した。


「盗み見てたんだ。授業中も、休み時間も。窓際で頬杖をついた君の横顔を。雷が落ちてからは互いの席に座っていたから、そんなこと出来なかったけれど」


彼は俯いたまま、彼女を見ようともしない。


「ついさっき言ったよね。元の身体でやりたいことがあるって。どこかやましく思う気持ちがあって、ずっと口に出せなかった。でも、やっぱり今伝えておかなきゃいけないんだ」


雷が鳴る前に。教室を共にするだけの、他人同士に戻ってしまうその前に。


彼女は瞼を閉じ、大きく深呼吸をした。


「もう一度、君が窓際で頬杖を付く姿を眺める。それが、僕が元の身体に戻ってどうしてもやりたいこと


「今の身体のままじゃ、その光景は絶対に見られない。だからって君の姿をした誰かが君の身体を動かして、同じ仕草をしても、きっと何にも思わない」


いつの間にか彼女を見つめ返していた彼にちゃんと届くように、彼女は語り続ける。


「君がどんな気持ちで皆を眺めていたのか、僕は今日はじめて分かった。たしかに君は臆病かもしれない。だけど傷つくのが怖くて、それでも人の輪の中に入って行きたいと願う気持ちが、君をあの表情にさせていたのなら、僕は、そんな臆病な君を愛したい」


 告げずにいることの方が賢い選択だったかもしれない。それでも彼女は彼に、世界の終わりの様な表情を浮かべたままでいてほしくない、それだけだった。


絶え間なく振り続け全身の体温を奪っていた雨がすこしだけ勢いを弱め、今までにないほど頬が熱くなっていた事を彼女が自覚した瞬間、世界は真っ白になった。衝撃と轟音が一緒くたになって二人の全身を貫く。痛みを感じる間もないままに暗転していく景色の中で、雷に打たれる直前に彼が何と口にしていたのか、そのことだけを気にかけながら彼女は意識を失った。


誰かの呼ぶ声で彼は目を覚ました。身体を起こし辺りを見回す。既に雨は止んでいて、遠くの空では太陽が久方ぶりに顔を出そうとしていた。


全身と、その周囲に漂う湯気とも煙とも付かないもやを見て安堵の溜息をついた彼の前に人影が現れた。一足先に彼女は目を覚ましていたらしい。


 ありがとう。いつになく素直そうに彼女は礼を口にした。嬉しかったよ、と。


「でもさ、雨音と雷鳴とで、なんて言ってるのか正直良くわからなかったのも確かなんだよね。


「だから、もう一度話して欲しい、さっきキミが口にしてくれたこと、もう一度だけ」


冷静を装っていても、その頬はまた赤らんでいる。そのことに彼女は気付いているだろうか。


「よく聴いててって言ったのに、ひどいじゃないか」


「でも、減るものじゃない。違うかな?」


 まったくもう。溜息を付きながら、彼は再び腹をくくる。


 「本当に、一度しか言わないからね。今度こそ、ちゃんと聴いていて」


「うん」


ぎこちなさそうに微笑んだ彼女に面と向かう彼。いつの間にか鳴り止んでいた雷が、その日二人の空に響き渡ることは二度となかった。

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