十.(終)

「…で…だから……」

「でも……だよ? それに…」

 意識が浮上するにつれて、五感もそれに伴い戻って来る。すると、何やら愛らしく、賑やかな声が耳に入って来た。瞼越しに明るさも感じ、ゆっくり目を開くと、見覚えのある木板の天井がまず視界に入って来た。すると、

「あっ! 蓮子ちゃん起きたよ!」

「本当だ! やったあ!」

 赤と青の水玉が印象的な少女たち―白玉と杏仁が蓮子の顔を覗きこんだ。蓮子は二人の登場に思わず目を大きく見開き、そのまま起き上がる。杏仁は「わあ!」と小さく驚きの声を上げた。

「……ここ、神野様の…?」

 蓮子は状況を把握しようと、二人に尋ねた。

「そうだよ! 天之助さんが運んで来たの!」

 白玉が嬉しそうに答えた。

「でもね、このまま蓮子ちゃんが目を覚まさなかったらどうしよう、って…」

 杏仁は言い終わる頃に、目を潤ませていた。

「あたしは絶対目を覚ますと思っていたもん!」

 すると、白玉もつられて泣きそうになり、何故かこの双子はすぐにすすり泣きを始めた。蓮子はそんな二人を微笑ましいと思いつつも、自分の涙腺も緩くなってしまい涙ぐむ。そこへ、襖が開かれた。

「何やら騒がしいと思ったら…良かった、蓮子さん、目を覚まされたのですね」

 鏡花は部屋へ入って来ると、白玉・杏仁とは反対側の蓮子の傍に座った。表情が乏しいのは相変わらずだが、その口調は柔らかく、優しいものである。蓮子は慌てて滲んだ涙を拭った。

「お身体は大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です。…あの、私は一体…倒れてからどうなったんですか?」

 自分が意識を失った後のことを鏡花に尋ねると、鏡花は頷き、説明を始める。

「神野様は、蓮子さんの身体を乗っ取ったお紺を、身体ごと御自身の大太刀で斬ったのです。正確に言えば、肉体と魂を、一時的に切り離したのです」

 鏡花の話はあまりにも突飛過ぎて蓮子にはピンとこなかったが、説明を求めたのは自分なので、そのまま耳を傾け続けた。

「…そして、神野様はその場にいた者たち全員にこう仰いました。『蓮子とお紺は一時的に仮死状態となった。一定の時間を過ぎれば、本当に死に至る。二人の魂の元には刹那を向かわせ、俺は刹那を通して二人の様子を見ることにしている。もし、お紺が自らの行いを改めない、もしくは、蓮子とお紺のどちらかが生きる意思を持たないと分かったとき、俺は蓮子とお紺を斬り捨てる』…と」

 蓮子はその言葉を聞いて、頭の天辺からつま先まで冷たいものが走った。刹那と共にお紺を説得して、生きようとしなければ本物の三途川を渡っていたかもしれないのだ。ただ、そうならないように配慮してくれたのも他ならぬ神野であり、魔王の冷酷な面と寛大な面、どちらも窺い知ることが出来た。

「…その場にいた者たちは皆、蓮子さんとお紺が無事にこちらに戻って来れるよう、祈るしかありませんでした。神野様からお二人が死の淵から生還したという報せを受け、心の底から安堵いたしました。その後は天之助に貴女を運ばせて今に至る、という訳です」

「そうだったんですか…あの、本当にご迷惑をお掛けしてしまって…すみませんでした」

 蓮子が頭を下げ、再び顔を上げると、鏡花は微かにだが、笑みを浮かべた。鏡花の想定外の反応に、蓮子は目を丸くした。

「蓮子さんが気にすることではありませんよ。問題はお紺です。…気まずいのかどうか分かりませんが、一向に姿を見せませんね。気配はするのですが。本当に申し訳ないと思うのならば、姿を見せなさい」

 鏡花は姿が見えないお紺にそう要求した。しかし、お紺は頑なに姿を見せることはなかった。鏡花はため息をつくと、白玉・杏仁の方へ視線をやる。

「ほらあなたたち、お客様に何か飲むものを。私は神野様をお呼びいたします」

「はーい」

 鏡花の指示に白玉と杏仁は元気よく答えた。三人がその場から立ち上がろうとしたとき、襖の奥が開く。

「おお! お蓮、目を覚ましたか!」

「神野様!?」

 まさか神野自らここに赴くとは思っていなかった鏡花は、驚きの声を上げた。同様に、蓮子も驚く。神野はずかずかと蓮子の傍へ来たので、鏡花は慌てて場を譲った。

「申し訳ございません、蓮子さんが目を覚ましたことをすぐに報告せず…」

 鏡花が頭を下げると、それを見た白玉・杏仁も真似をして頭を下げる。

「いや、気配で分かったから気にするな。ところで、俺を蓮子とお紺だけにしてくれないか? ついでと言ってはなんだが、お徳さんを手伝ってやってほしい。

「承知いたしました」

「分かりましたー!」

 鏡花の後に白玉と杏仁がまた頑張って真似をして答える。無駄の無い優雅な動きで鏡花は立ち上がると、白玉と杏仁を連れ立って部屋をあとにした。

「あ、あの…本当にすみませんでした、色々と…」

 改めて神野と対面すると、まず口から出たのはぎこちない謝罪の言葉であった。

「ああ、本当になあ。お紺が悪いのは当然だが、お紺にされるがままになっていたお前にも非があるんだぞ、お蓮」

「はい…」

 正論をぶつけられて、蓮子はぐうの音も出ない。しかし、神野の表情は笑顔のままであった。

「まあ、これに懲りたら今後はちゃんとお紺と話し合うことだ。次はないからな」

「は、はい…」

 さらりと恐ろしいことを言ってのける神野に、蓮子は再度ゾッとした。だが、裏を返せばお紺に振り回されないように警告をしてくれているのである。神野の言葉を肝に銘じることにした。

「それでもう一匹、俺に謝罪が必要な妖怪がいる筈なんだがなあ? もしかして、今の姿を晒すのが嫌なのか? 強制的に引きずり出しても良いんだが」

 神野がからかいと少しの脅しを入れて、姿を現さないお紺に呼びかける。すると、蓮子の背後から音もなくゆっくりと、お紺が少しずつ身体を出してきた。その姿を目にした蓮子は驚きのあまり、声も上げられなかった。一方で神野は、声を殺して腹を抱えて笑っている。――元々小さかったお紺だが、その大きさが更に半分になり、蓮子の手の平に乗せられるほどである。そしてその表情は、明らかに沈んでいた。

「お前たちが魂の奥底で話し合いをしている間、お紺の魂の一部を封印した。これでもう簡単に悪さは出来んだろう。それにしても、それでその姿とは…くっ、ははは!」

 とうとう神野は大口を開けて笑い出した。蓮子はどう反応して良いか分からない。神野は暫し笑った後に、笑顔を控えめにして顔を引き締めた。

「お紺、まずは俺と蓮子に言うべきことがあるだろう」

「……この度は、本当に申し訳ございませんでした。度々の無礼をお許し下さい」

 お紺は神野に向かって深々と頭を垂れた。すると神野は、

「…よし、今回ばかりは許そう。脅しは何度もしたしな」

 と言ってあっさりと手打ちにした。お紺はおずおずと頭を上げると、

「あの、どうしてあたいを許してくれるんですか…?」

 と神野に尋ねた。

「あの空間に居たときも言ったが、お前の妖力が増強した原因は、このあやかしの里に漂い、集まっている妖気だ。だから管理者である俺にも鯨飲の一端はあると思ってな。それに、己が見聞役として指名した奴が、外で好き勝手されては里の妖怪たちに示しがつかん。そしてもう一つ…俺はやはり人間に甘くなったようだ。でもまあ、それも俺の気まぐれだ。本当に、次はないぞ」

「は…はいっ!」

 お紺だけでなく蓮子も、神野の言葉に畏れを抱きながら答えた。表情も声もいつもと変わらず飄々としているが、やはり根本は魔王である。

「…さて、本人の口から謝罪の言葉を受け取ったところで、俺は一足先に宴会場で一杯やっているとしよう。お徳さんたちに馳走を用意させている。今晩は宴だ。勿論すぐには帰さんぞ? 何せ、主賓はお主らだからな」

 神野はそう言って豪快に笑いながら部屋を出て行った。神野には本当に感謝しかない、と蓮子は噛み締めるようにそう思った。



 部屋には蓮子とお紺の、一人と一匹だけになる。室内はしん、となり、いざ一対一になると蓮子はお紺にどう言葉を掛けて良いものか考えあぐねた。すると、お紺は布団の上に軽やかに乗って来ると、蓮子と目を合わせる。蓮子がきょとんとしていると、お紺はより小さくなった頭をぺこり、と下げた。

「蓮子…その、本当に、本当にごめん…。ごめんなさい」

 お紺の声は少し震えていた。いつも勝ち気で、どこか自信満々のお紺を見て来た蓮子にとっては衝撃的な言動であった。お紺は話を続ける。

「最初に出会ったときも、さっきの死の淵にいたときも、あたいは蓮子に二度も助けられちゃったね。…本当にありがとう。あたいのしたことを許して貰おうとは思っていないけど、こんなあたいにこれからも付き合って欲しい…です」

 蓮子はどう返そうかと思いながら聞いていたが、とても慣れているとは思えない自分に対する敬語を聞いた途端、思いがけず噴き出してしまった。お紺は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、蓮子を見つめる。蓮子ははっとして、咳払いをした。

「ご、ごめん、笑うつもりはなかったんだけど…。お紺の畏まった姿が珍しくてつい…」

 今までのお紺ならば、目を吊り上げて『何を笑ってるんだい!』と怒鳴りつけていただろう。しかし、お紺はしゅんとしたまま何も言い返さない。まるで〝自分は笑われて当然である〟と受けているような態度であった。

「…確かに、お紺のしたことは私も怒っている。けど、もう終わったことでしょ? それに、神野様の言う通り、お紺とちゃんと話をしなかった私も悪いよ。…だから、お互い様。また、一緒に生きていこう。さっきも言ったけど、今度は、お紺のやりたいことも探しながらね」

「…ありがとう、蓮子!」

 お紺はつぶらな瞳を潤ませると、蓮子の胸元に飛び込んだ。蓮子が抱き取めるその身体は、まるで綿のように軽い。そして、心地の良い温もりを感じる。お紺も自分も〝生きている〟のだと肌で感じた。

 そのとき、蓮子の腹がぐう、と控えめに、且つ間抜けに鳴った。お徳さんが作っている料理の美味しそうな香りが、この部屋にも入って来ているせいだろう。響いたその音で、蓮子とお紺は互いに顔を見合わせて噴き出してしまった。

「ごめんごめん、笑うつもりはなかったんだけどねえ」

 お紺は先程の、蓮子の言葉をそっくりそのまま返した。蓮子はそれに苦笑する。

「いいよ、私も自分で自分がおかしかったから。安心したらお腹減っちゃった」

「実はあたいも…美味しそうな匂いがするし。…神野様が宴にご招待して下さってるから、あたいたちもそこに行く?」

 お紺の提案を拒否する要素が全くないので、蓮子はすぐに頷いた。布団から出て立ち上がると、心ばかり布団を整えて部屋を出た。

 屋敷の広い廊下はしんとして冷えている。久し振りに来た神野の屋敷は、出禁になる前よりも広大に感じられた。廊下は更に強く美味しそうな匂いが漂っている。お紺は蓮子の肩の上に乗り、蓮子は宴会場に向かって歩き出した。

「あんた、宴会場は分かるのかい?」

「…多分」

「よし、あたいが案内するよ」

 その後はお紺の指示に従って、迷宮のような屋敷を進んで行く。

「…お紺はさ、これからやりたいこととかあるの?」

 何とはなしに、蓮子は肩の上の相棒に訊いてみた。

「んー…とにかく今は、お徳さんの美味しい料理をお腹いっぱい食べたい! 久し振りだから楽しみだよ」

「それってすぐに出来ることじゃん」

 蓮子は笑った。お紺も笑う。

「ああそうさ。今、この一瞬を精一杯生きる。それが何もないあたいの、今やりたいことさ」

 お紺の声は満ち足りているもののように聞こえた。

「…そうだね。私も今を、一生懸命に生きるよ。そして私も、お徳さんの料理を今はお腹いっぱい食べたい! あと、私たちを助けてくれた皆にも、お礼を言わなくちゃ」

 蓮子の言葉に、お紺は何度も頷いた。

 宴会場に向かう蓮子の足取りは軽やかである。これからの宴のこと、そしてこの先の、あやかしの里と人間界に起こる出来事に思いを馳せ、心を踊らせた。

 ――蓮子とお紺の、一人と一匹による里の見聞役はこれからも長く務めることになるのだが、それはまた、未来の話のことである。



                                 ―了―

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あやかし異境と非凡な日常 鐘方天音 @keronvillage

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