萌芽
0.
重たい皮の表紙を開いて、手を滑る質の良い紙をめくり、見開き一面に飾られたその写真を見つめる。
幼い頃、フレーム一杯に広がるこの花の名を、父に尋ねた。それはこの国を象徴するような、世界で最も美しい花だと、彼は誇らしげに語った。
春に咲き、春に散る、儚く美しい花。
今はもう、ごく僅かの期間、南の小さな島でしか見られないのだという。
「よし、そのうち見に行くか」
「みなみのしま?」
「そうだ。南の島まで見に行こう」
「おお、いこういこう!」
そう、無邪気に手を叩いて喜んだ。
思えば父はあの時、自分に迫っているものを悟っていたのだろう。
父が発症したのはそれから二ヶ月後。私が小学校に入って間もない四月――未だ東京が雪に覆われた、寒い、冬の最中のことだった。
1.
昨晩は、雪が降っていたらしい。
視界を白く覆うほどの豪雪はさすがに珍しい。今はもう六月だというのに、いよいよ暦が信用ならなくなってきた。
学校指定のコートに地味な色のマフラーを巻いて、私は新雪を踏みしめて家を出た。吹雪はもう止んでいるが、道を隠すほどに積もった雪が陽の光を反射してきらめいている。
白い絨毯を楽しめたのは最初の数歩だけで、大きな通りに出てしまうと無惨なまでに引きちぎられた積雪の名残が泥にまみれて散らばっていた。歩道はまだ雪としての体裁を保っているが、幾重にもつけられた自転車の轍が痛々しい。
「ハル、おはよう」
「……おはよう」
声に振り向く。吐息が白い煙となって、風に色をつけて流れていった。
私と同じ学校指定のコートを着た、背の高い男の子がそこにいた。校則違反の明るい髪がよく似合っている。同学年、同学級、加えて言うなら幼馴染の、アキだ。
「随分積もったな」
「この時期にしては、何年かぶりの大雪だって」
「だろうな。今年は夏が遅いよなぁ」
「そうだね……」
雪を踏みしめて、アキが私に並ぶ。今年の夏は例年より半月ほど遅い。
昔は、冬と夏の間にもうひとつずつ季節があったらしい。四季という言葉はその名残なのだと、歴史の教師が言っていたことを思い出す。
「このまま、冬だけになったりしてな」
「あんまり、笑えないね」
足の下で固まりかけた雪が砕けていく。吐息をつくと、口元から白い風が泳いで、冷たい空気に消えていった。
「今日は、親父さんのところ行くの?」
「うん。木曜日だからね」
「俺も行くよ。新刊、読みたがってただろ」
「私が持って行ってもいいよ」
「いいよ、付き合わせろ」
直接言葉にするのがためらわれて、私はとりあえず、口元に笑みを浮かべてみせた。それで満足したのか、アキは嬉しそうに笑う。
空を見上げる。いつでも、太陽が眩しいことだけは変わらない。それは、もう訪れない季節も同じだったのだろうか。
今となってはもう、わからない。
2.
高校の教室は、いつもうすら寒い空気に包まれている。
教師も、生徒も、こんなことをしても意味がないと知りながら、いつも通りに授業を進める。白いチョークが黒板に公式を書き出して、それをノートに書き写しながら、たまに雑談なんかを交えて、それを注意される。そんな光景を演じている。
……それとも、こんなことを考えている私だけが、異常なのだろうか。
「ハル、行こうか」
放課後になると同時に、アキが声をかけてきた。今日は木曜日。木曜日は、お見舞いの日だ。
頷いて、席を立つ。一度家に帰って、着替えや荷物を取ってこなければならない。病院に行くのはそれからだ。
校内を並んで歩くと、幾人かが声をかけてきた。さようなら、また明日、あたり障りのない挨拶を交換して、昇降口まで辿り着く。――ふと、アキが足を止めた。
「あー、悪い、ちょっと門のところで待っててくれ」
「なに?」
「いや、ちょっと」
小走りに駆けていく後ろ姿を視線だけで追いかける。下級生らしい女の子が、昇降口のところで立っていた。アキと二言三言やりとりをして、私の方に視線を向ける。
この距離ではよく聞こえない。私は靴を履き替えて、昇降口を抜けることにした。
「――萌芽病の人なんて、ほかにいくらでも――」
ちくり、と飛び込んできた言葉が、どこか柔らかい部分に刺さった気がした。
「お前、もう少し考えて喋れよ……!」
「だ、だって、」
足を止めてしまった、仕方がない。私は二人の方を向いて、なるべく優しい声で言った。
「いいよ、アキ。今日は私ひとりで行くから。友達は、大事にしなさいよ」
「いやおい、」
「本はまた、今度で大丈夫だから。それじゃ、さよなら」
それだけ言って、残雪を踏みながら外へ出る。追ってくる気配はない。
校門を出て、家路につく。さっきの言葉が刺さったのだろうか、胸のあたりが痛んだが、気のせいだと思うことにした。
3.
病室につくと、父は眠っていた。最近は起きている時間が短い気がする。
花瓶の水を取り替えて、持ってきた服と洗濯物を交換する。部屋から持ち出した本を何冊かベッド脇に置いて、私は見舞い客用のパイプ椅子に腰かけた。
「……」
寝息は穏やかなものだ。父の病――萌芽病は、これといった苦痛を患者に与えない。全くない、というわけではないのだが、ごく僅かなものだ。
みな、穏やかに病にかかり、穏やかに衰え、穏やかに死んでいく。
持ってきた本から一冊を選んで、ページをめくる。父の本は大抵読んでしまっている。これも、記憶にある本だった。
そこには、暖かく、穏やかな、はじまりの季節が描かれている。私の知らない、今の世界からはなくなってしまった時間だ。
一体どうしてこんなことになったのか、正確には誰も知らないらしい。原因もわからなければ対処のしようもないまま、現状ばかりが悪化していく。夏と冬の間がどんどん短くなって、とうとう季節はふたつだけになってしまった。
なんとなく、みんなわかっているのだと思う。ただ、怖いから口にしないのだ。
本当は、もう――
「……ハル、か」
――父が、うっすらと目を開けて、私の名前を呼んだ。
「起こしちゃった?」
「いや……寝すぎてたんだ、ちょうど良かった」
「そう。本、持ってきたよ」
「お、悪いな……アキヒコくんはどうした」
「置いてきた」
「そうか」
笑って、父はゆっくりと上半身を起こした。手伝おうかと思ったが、怒られるだけなのでやめておく。
「どれ、今日は何を持ってきた」
「こないだの続き。これであってるよね」
「ん……ああ、そうだ、あってる」
ごつごつした手が本の一冊を手にとる。その手の甲に、小さな芽が見えた。
「大きくなってる?」
「ああ……これか。自分ではよくわからないな。先生に聞いてみたらどうだ」
「そうだね」
さほど興味があるわけではないが、私はそう答えておいた。
手の甲だけではない。父の体にはいくつも、同じような芽が生えている。植物の芽、そのまま意味だ。薄い緑の萌芽が、皮膚を突き破って顔を出しているのだ。
萌芽病。これもやはり、原因も、対処法も不明のまま、ただ現状だけが悪くなっていく。いまや世界中に蔓延しているらしい。
ゆるやかに、ただゆるやかに、ひとを殺す病。
母さんも、この病気で死んだのだ。
「ハル、アキヒコくんと仲良くしろよ」
「してるよ」
「早く孫の顔を見せてくれ」
「色々、気が早いよ」
私が笑うと、父も笑う。……この先にあるものに気づかないふりをして、平穏を演じるそら寒さが、ここにもある。
「ハル」
「なに?」
「この病気が治ったら、見に行こうな」
「……」
何を、とは聞かなかった。どうして今、そんなことを言うのかも、聞かなかった。
「そうだね」
ただ、そう答えることにした。
父の容態が急変したのは、その日の夜だった。
4.
翌日の学校は、いつもより色が薄く見えた。
「ハル、親父さん……どうなんだ?」
三時間遅刻してきた私に駆け寄って、アキが声をかけてくる。沈痛そうな面持ちだ。今の私には、その気持ちにきちんと応えるだけの余裕がない。
「どうって、言われても……私にはわからない」
「そうか……今日、俺も病院行くよ」
「……」
来てくれても、どうにもならないだろう。面会謝絶で家族以外は病室にも入れないのだ。
萌芽病はひとが死ぬ病だが、そのプロセスは全くわかっていない。芽に栄養を吸われて死ぬのだ、と無責任な流言が飛び交っていたこともあったが(そしてそれはいやに真実味のある噂だったが)最終的には有名な医学者に否定された。
何もわからないのだ。
午後の授業はほとんど頭に入らなかった。ただ、何もかもが膜一枚隔てた向こう側の出来事のような、薄くかげった景色の中で、あのそら寒い空気だけが妙にはっきりと感じられた。
放課後になって、アキが苦しそうな顔で近寄ってくる。何か言おうとして、どうしたらいいのかわからないように口をつぐんだ。
「行くか?」
「うん、でも、面会謝絶なんだ」
朝は言えなかったことを、ここで私はようやく口にした。
面会謝絶。
曖昧な感覚にすぎなかったそれは、言葉にするととたんに明瞭な形を持って、心臓の下側あたりにずしりとした重みを伝えてきた。内臓が全て転げ落ちてしまいそうな、今まで感じたことのない重量。
「意識もないし、アキは、来なくてもいいよ」
「でも、医者に説明とか、受けるだろ」
「ああ、まあ……」
今朝散々説明は受けたのだけど、多分また長い話をすることになるのだろう。
「俺も行くよ」
そうまで言われて断るほどの何かは持っていない。いないのだが、私は簡単に頷くことができないでいた。なんとなく、理由はわかっている。
父の病状について詳しい話を聞かされる。それは多分、絶望的か、それに限りなく近い何かだろう。その時にアキが傍にいたら、私は倒れてしまいそうな気がしていたのだ。
折れてしまう。そうして折れた私を、アキが支えきれるとは思えない。
「大丈夫、だよ」
だから、私はそう言った。
「今はまだばたばたしてるし、後で付き合ってもらうこともあると思うけど、今日は、大丈夫」
「ハル」
「大丈夫だってば」
笑おうとして、失敗した。
「ハル……!」
失敗した、と自覚した時には、もうアキの体が目の前にあった。
背中に回された腕から、密着した胸板から、アキの体温が伝わってくる。手が震えていた。制服に皺が寄らないだろうかと、どうでもいいことが頭の端を流れていく。
「……やめよう」
「ハル、」
「やめよう、アキ」
腕をねじって隙間を作ると、アキの体を押しのける。ふらり、とよろめいて、アキは簡単に離れた。
「こういうの、やめようよ」
「……」
呆然と私を見るアキの顔を、一瞬だけ視界の端に流して、私は鞄を手に取った。
「先に帰るね」
いつも通りに喋ったつもりだったが、自分にすら聞こえないようなかすれた声しか出なかった。自分の体でさえ思い通りにならない。
「ハル!」
「……」
振り向かないまま教室を出る。アキは追って来なかった。
上履きが廊下に擦れて立てる音が、いやに耳に障った。
5.
医者の話は短かった。
萌芽病は不知の病だ。説明できることなんてほとんどないのだろう。
病床の父は、実のところ以前までと何かが変わったようには見えない。体の各所から生える芽が少し大きくなっている……あるいは、開きかけているだろうか。それも、気のせいだと言われればそう思える程度の違いだ。
ただ、眼を覚まさなくなっただけ。生命維持に関わらない程度に、身体機能も落ちているらしい。
朝はまだ点滴のチューブが腕から伸びていただけだが、今はもう、もっと物々しい機械に囲まれていた。違うといえば、そのあたりが一番違う。
「……」
ベッド脇に座って、父の顔を眺める。穏やかな寝顔だ。死病にかかっているなんて、とても思えない。
萌芽病は完治例がない。私の知る限り、状況が好転したという話すら聞かない。良くて現状維持なのだ。感染経路すら定かではない、不明なことが多すぎる病。
誰も口にはしないけれど。
本当は、みんなわかっているのだ。
「今日は、帰るね。また明日」
返事がないことを知っていながら、私はそうつぶやいた。
無言の病室を後にする。廊下は、いやに静まり返っていた。午後八時……面会時間ももう終わりだ。外はすっかり真っ暗で、おまけに曇っているらしく、月も星もなかった。
白い壁を眺めながら廊下を歩き、階段を下りてロビーを抜ける。空気が冷たい。今年は、いつになったら夏が来るのだろう。
……もう失われてしまった季節は、いつか訪れるのだろうか。
病院を出る。外はとても寒かった。身を震わせながら、暗い道を一人で辿る。街灯の明かりを追いながら、雪を踏みしめていくと、
「ハル」
ひとつ先の明かりの中に、見知った顔がいた。
「……どうしたの?」
アキはなんと言えばいいのかわからないような顔をして、ふらふらと近づいてきた。さすがに逃げる気はない。街灯の作り出す丸い舞台に、二人で立つ。
「俺は、お前の力になりたいんだ」
唐突に、アキはそんなことを言った。
「力に?」
「そう……これから先、ハルを支えていきたいと思って――」
――ああ。
そうか。アキは、そんなことを考えているのか。まだ、見ないふりをしているのか。
本当はみんなわかっている。わかっていながら、見てみぬふりをしている。
……だけどもう、私は限界らしかった。
「アキ、見える?」
「え……?」
地味な色のマフラーをほどく。コートの前をはだける。不思議そうな顔をするアキに、なるべく優しく微笑みかけて、私はブレザーとブラウスのボタンを外した。アキがあわてて顔を逸らす。
「ハル? な、なにしてるんだよ」
「よく、見て」
「……?」
アキはゆっくりと、視線をこちらに向けた。
そうしてすぐに、動きを止めた。
「……」
「……ハ、ル」
アキの視線を追って、私も自分の胸に視線を落とした。
そこには、小さな小さな、薄い緑色の芽が、顔を覗かせている。
無言が、空気の重量を増やしていく。何か聞かれるかと思ったが、アキは何も言わなかった。ただ、私の胸から私の顔に、泣きそうな眼を向けただけだった。
「ハル」
「うん」
ふらふらと、覚束ない足取りでアキが歩いてくる。震える両手が、まるでもたれかかるように、力なく、私を抱きしめた。
「ハル」
「うん」
背中に回った腕に力がこもる。少し痛い。けれど、今度は引き離したりしなかった。
「ごめんね」
ただ、そうつぶやいた。
6.
家に辿り着いた時には、もう十時近かった。
誰もいない家は明かりが消えていて、まるで死んでいるみたいだった。壁際のスイッチを入れると蛍光灯が瞬いて部屋を照らす。明るくなった部屋は、なぜか棺桶のように見えた。
「お邪魔します」
と、律儀に声をかけて、アキが玄関をくぐった。
「お茶でもいれるよ」
「ああ……」
今にも死にそうな顔で、アキはふらふらと部屋にあがる。お湯を沸かしている間にちらりと視線を向けると、頭を抱えていた。
何を言えばいいのかわからない。お茶をいれて持っていくと、アキが顔をあげた。
「医者には、言ったのか?」
「言ってない」
「どうして」
「多分、意味がないから」
「……」
私には、あまりこの芽をどうこうしようという気持ちがない。そう、どうせこの先がないのだから、頑張らなくてもいいと思っているのかもしれない。
「どうして、こんなことになるんだ」
「それがわからないから、みんな困ってるんじゃないかな」
「……」
アキは、私を支えられない。私が折れれば、私が倒れれば、アキは一緒に倒れてしまうだろう。私はずっとそう思っていたし、多分それは正しい。今のアキを見ていると本当にそう思う。
無言の時間がお茶を冷ましていく。二人とも手をつけないお茶が、とても飲めない温度になってしまった頃、
「ハル、花のこと、覚えてるか」
唐突に、アキが言った。
「花?」
「今じゃもう咲かないっていう花。昔、話してくれただろ」
「ああ……」
掘り返せばすぐに出てくる、それは父との記憶だった。確か、図鑑か何かに載っていたものだろうか。見開き一面に飾られた薄桃の花。南の島でしか咲かなくなってしまったという、儚く美しい花。
「見に行こう」
「何言い出すの、いきなり」
アキは何も答えない。ただ、無言のまま私の目をまっすぐに見てきた。
いつか見に行こうと、父と約束した花。結局、南の島には一度も行っていない。発症してからの父は病院通いをしながら仕事も続けなければいけなかったし、母が死んだのもちょうどその頃だったからだ。
その花を今、ここで見に行こうと言うのは、わかりやすくアキらしい。
けれど、私は首を振った。
「行かないよ」
「どうして……」
「理由はいろいろあるけど、多分、アキもわかってるんじゃないの?」
アキは何も答えない。沈黙がそのまま肯定のようなものだった。
それになにより、私は知っている。
「あの花はね、もう咲いてないんだよ」
私は、知っているのだ。
「え……?」
「南で咲いてたのはずっと昔の話。私が中学にあがる前から、もうどこにも咲いてない」
冬と夏がどんどん長くなり、四季という言葉が意味を失い……あの美しい花は、誰かの記憶と写真の中にしか残らない、幻になってしまった。
それを知ったのは中学生の時だ。今まで、アキにも父にも、話していない。
言えなかったのだ。
言えば、曖昧な感覚が明瞭な重さを持つと思った。立つことが難しくなると思った。発症したことを知った時よりも、私にとっては衝撃が大きかったかもしれない。
「ああ、意外と平気だな……」
実際に口にすると、思いのほかなんてことのない自分がいた。
「ハル……」
アキが泣きそうな顔をしている。慰めてあげたい気持ちもあったが、何を言えばいいのかわからない。きっと、何を言っても無駄だろうという気がする。
本当は、みんなわかっている。見てみぬふりにも限度があるのだ。
「もう、だめなんだろうね」
何もかも、全部が。
「……」
気がつくと、アキがぼろぼろ泣いていた。立場が逆だと言いたかったが、これで正しいのかもしれない。
今更、湯のみをとって中身を喉に流し込む。冷え切ったお茶は、胃の奥から体全部を凍らせようとしているみたいだった。
7.
そうして、幾日かが経った。
夏はまだ訪れず、窓の外では冷気が風を研ぎ澄ましている。今日は曇りなのでなおさらだ。父の状況は悪くなるばかりで、今では顔にも芽が生えていた。少し痛々しい。
私は特に変わらない。胸に見える芽はそのままで、教室は今日もそら寒い空気に包まれていて、世界の色は時間が経つにつれて薄くなっていく。
あれ以来、アキは病院にも来ていないし、学校にも来なくなってしまった。私も、どうにかしようとも思えなかった。私が折れたらアキは支えてくれない。思ったとおりだ。
「ねえ父さん」
眠ったままの父に語りかける。実のところ、いつ心肺機能が停止してもおかしくないような状況らしい。意識なんてあるわけがないが、語りかけてくれと医者に言われている。
「もう、本当にだめなんだね」
これなら何も言わない方がいいような気がする。けれど、私ももう、虚勢を張る体力もなくなっていたのだ。
夏は来ない。なくなってしまった季節なんて、もっと来ない。あの美しい花だって二度と咲かない。体から芽が生える奇病は未だに原因不明の経過不明で、曖昧な絶望感ばかりが大きくなって、みんなそれに気づかないふりをして、色の薄い世界で生きている。
ゆるやかに、死にかけているのだ。
「……」
父に寄り添って目を閉じる。予感があった。きっと今日、彼は死ぬ。
でも、もういい。それでもいい。どうせもう、なにもかも、だめなんだから。もう終わってしまうのだから――
「ハル!」
なんだろう。アキの声が聞こえた気がする。
身を起こして振り返る。気のせいではない。面会謝絶の扉を開いて、アキがそこに立っていた。息を切らして、私の顔をまっすぐに見ている。
「アキ……」
私服の上に学校指定のコードを着ているアキは、大股に歩み寄って来た。そうして、面会謝絶、と言おうとした私の鼻先に、細い枝をつきつけた。
薄桃のつぼみがついた枝だった。震える手からそれを受け取って、まじまじと眺める。何がなんだかわからない。この枝はなんなんだろう。
「アキ?」
「だめじゃ、ない!」
病院の中だっていうのに、アキは大声で叫んだ。
「アキ、声が……」
「だめじゃない! なんにも、だめじゃないんだよ!」
「アキ……?」
叫びながら、アキはまた、ぼろぼろ涙をこぼしていた。全身が震えている。立っていられなくなったのか、膝をついて、それでも私の顔をまっすぐに見たまま、
「だめじゃない」
と、同じ言葉を、今度は弱々しく繰り返した。
「アキ、どうしたの」
聞くと、アキは勢い良く首を振った。まなじりから雫が飛んで、冬の空気にキラキラと光った。
「だめだなんて言うなよ、終わったみたいに言うなよ。ちゃんと、これから先はちゃんとある」
震える指で、アキは細い枝を示した。
「花だって、ちゃんと咲く――」
「花……」
つぼみに目を落とした瞬間、機械からエラー音が鳴った。
視線を向ける。さっきまではそれなりに安定してた数字が、のきなみゼロを示している。ショックよりも、焦りよりも、ああ、やっぱり、という気持ちが大きかった。
「父さ……」
その瞬間、父の目が開いたような気がしたのは、錯覚だったのだろうか。
頬のあたりに見える芽が、ふわり、と開いた。
「え……」
父の体が持ち上がる。布団が滑り落ちる。あちこちに覗く芽が、まるでビデオの早回しを見ているように一斉に開き、葉を伸ばしていく。
「なにこれ……」
知らない。こんなものは知らない。萌芽病は不知の病。だが、最期はただ衰弱して死ぬだけのはずだ。
緑の群れが父の体を呑み込みながら成長していく。葉が、茎が、伸びて、開き、太く、強く、これから先を暗示するように、強靭な幹となって、狭い病室を埋め尽くしていく。まるで包み込むように広がる枝の先に、薄桃のつぼみが出来上がる。私は、思わず手の中の枝を見た。
「ハル……」
驚いたような顔をしているアキが、私の手を掴む。震えている。違う、震えているのは私の方だ。
もうだめのはずだ。ここから先はないはずだ。時間が経つほど世界の色は薄くなっていくはずだ。なのに、
鮮やか過ぎるほど鮮やかな桃色の花弁が、一斉に開いた。
私もアキも、何も言うことができなかった。いつか写真で見た薄桃の奇跡が、病室に溢れている。過去にしかないはずの幻が、眼前を埋め尽くしている。
そして、この手の中で息づいている。
「ハル……」
答えられない。今何かを言葉にしても、きっと泣き声にしかならない。
これが何を表すのか、私にはわからない。どんな意味があるのか、わからない。
背後が騒がしい。医者や看護婦が騒いでいるのだ。断片的に聞こえる単語は、全て萌芽病がらみのように思えた。
……全員か。
全員、こうなっているのか。
「だめじゃない」
「……」
「ハル、ちゃんと、ここから先だって、ちゃんとあるんだ。すごく、辛くても、すごく、大変かもしれなくても、それを、簡単に放り捨てないでくれ」
窓の外から、光が差し込んできていた。眩しい。それに、すごく、暖かい。
見ないふりをしてきた。見えないふりをしてきた。もうだめだと諦観して、終わりだと決めつけた。そうだ、私も、本当はわかっていたのかもしれない。
それでも私たちは、生きていかなくてはならないのだ。
「ア、キ……」
名前を呼んだつもりだったけれど、やはり、泣き声にしかならなかった。
遅すぎる春が、冬の冷気を暖めてやってきた。広がる花弁と外の明かりを見て、私はどうしてか、そんなことを考えていた。
了
どうしようもない人たち フカミオトハ @fukami0108
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