貸し本屋

1.

 冬の空気は、太陽が出ていたとしてもとても冷たい。白い吐息をてのひらにかけて、手袋をしてこなかったことを後悔した。コートにはポケットがついているが、手をつっこむのはあまり好きじゃない。仕方なく、両手をすり合わせながら歩くことにする。

 昨晩降った雪がまだ路面に残っていて、足の下でシャリシャリと音を立てた。車道の方はかつての白さが見る影もない泥の塊になっているが、歩道はまだ雪としての体面を保っている。それでも、無数の足跡と自転車の轍は容赦なく白い平原を傷つけていた。新雪に足跡をつけることを喜ぶような歳でもないが、少し残念な気分になる。ここは国道に通じる道なので、通行量が多いのだ。

 等間隔で並ぶ街路樹の葉に守られて、雪の絨緞にぽっかりと穴があいているところがある。そこに、泥交じりの小さな雪だるまが置かれていた。早起きした子供が作ったのだろう。微笑ましい気分になって、すこし歩調をゆるめる。

 この通りには一通りのものが揃っている。コンビニ、スーパー、ホームセンター、カーショップ、携帯電話の総合ショップに、理髪店や少し歩けば内科医まで。電気屋と本屋、それに駅が遠いのだけが難点だが、住みやすい土地なのだ。

「……」

 歩行者用の信号が赤くなるのを見て、足を止める。別にここを渡るつもりはなかったのだが、赤い信号を見たら止まりたくなった。ルートを変更しよう。

 道行きに意味はない。目的も特にない。これは、ただの散歩なのだ。

 仕事が行き詰まっていることを相談したら、知り合いが薦めてくれたのである。彼は歩くことが趣味だと言わんばかりの散歩好きで、上野から池袋まで歩いたりするらしい。さすがにそこまでするつもりはないが、往復十分程度、近所の公園を一回りするくらいなら、確かに気分転換になりそうではある。

 実践してみると、これがなかなか気持ちがいい。普段無目的に歩くことなんてないから、今まで見えていなかった物が目に入ってくるのだ。

 例えば交差する電線が意外と綺麗に見えることとか。

 例えば通り過ぎるアパートの外壁に、かわいいタイルが張られていることとか。

 例えば電信柱の片隅に、小さく相合傘が描かれていることとか。

 そういう小さな発見の積み重ねが、心の端に溜まっているものを解消してくれるような気がした。

 信号が青になる。足を踏み出して、泥まみれの白線を横断した。

 公園に向かうには少し遠回りになるが、別にもう公園まで行かなくてもいい気がしていた。気分転換には充分だ。

 帰りは行きと違うルートを通ろうと、足の向きを変える。周辺の地図を思い浮かべながら、のんびりと雪の上を歩き――

「……ん?」

 そこで、足が止まった。

 モデルハウスと携帯ショップに隠れて、細い道が伸びている。頭の中に展開した地図には、こんな道は存在しない。どこにつながっているのだろう。

 その時、コートのポケットがブルブルと震えた。慌てて手をつっこんで、バイブモードになっている携帯電話を取り出した。通話ではなく、メールだ。液晶には見慣れた名前が出ている。

「……仕事の話かな」

 親指だけでボタンを操作し、新着メールを呼び出す。寒さで指が震えて、押し間違えそうになる。それだけで、なんだかもやっとしたものが胸のうちから湧いてきた。

 案の定、仕事の話だ。進行状況についての質問だった。回答のメールを送ろうとしたが、やはり震える指が邪魔をする。くそ、苛つく。

 ……もちろん、巧くメールを打てないから苛々しているわけではない。仕事が正直、あまり進んでいないのだ。だからこそ気分転換に散歩なんてしているのである。

 メールを打ち終わると、急に肩が重くなった。

 せっかくリフレッシュしかけていた気分が、また落ち込んできている。立ち止まっていたのはほんの僅かの間なのに、なんだかここまで歩いてきた時間が全て無駄になってしまったような気がした。

「ちぇ……」

 携帯電話をポケットに落として、路地を見る。多分、どこにもつながっていない道なのだろう、人が歩いた形跡はなく、雪は真新しいものだった。

 気分転換には失敗してしまったし、せっかくだから奥を見ていこう。真白い絨緞に一歩目を刻む。少年のような興奮が、かすかに湧き上がってきた。

 しゃくしゃくと音を立てながら、路地の奥へと入っていく。路地はゆるやかに曲がりながら幅を広げていく。入り口こそ狭いが、進めばそれなりの広さを持った路地だった。ひょっとしてどこかに抜けるのかとも思ったが、ある意味では予想通り、あっけなく路地は終点を迎えた。

 だが、終点の景色は予想と大分違っていた。

 白い雪に覆われた、小さな建物が建っている。本当に小さい、建物全部で十畳あるかないかだろう。どうしてこんな路地の奥に建てたのかはわからないが、何かの店らしかった。看板もないが、扉に『OPEN』と小さな板がぶらさがっているのだ。

 不思議な建物だった。日本家屋風の建築だが、窓はひとつもなく、引き戸があるきり。外壁には装飾らしい装飾もない。飾りといえば、瓦の屋根から懐中時計の模型が垂れ下がっているくらいで、そもそも何の店なのかすらわからない。

 それでも、OPENというからには開いているのだろう。少し躊躇したが、結局入ってみることにした。好奇心には勝てない。

 開店を知らせる板きれは、引き戸の脇に釘を穿ってつるされている。裏を確認すると『CLOSED』と書かれていた。ということは、ここはやはりお店なのだ。オペンさんのお宅というわけではない。

 戸を引く。カラカラカラ、とどこか懐かしい響きを立てて、すりガラスの戸がサッシを滑る。サッシを埋めていた雪が押し出されて、端に溜まるのが見えた。

 戸を開いてはみたが、入る勇気が持てない。僕は視線だけを先に店の中に入れた。

 まず、目に入ったのは本だった。

 天井まである本棚が縦に三列並んでいる。それだけでは収まらず、床の上にも本が散乱していた。古書の専門店を彷彿とさせる光景だ。紙とインクの交じり合う独特の臭いが店中にただよって、鼻腔と好奇心を刺激する。

 本屋、だろうか。

「寒いよ、閉めてくれ」

 奥から声がした。店の主人だろう。あわてて中に入って、後ろ手に戸を閉める。遅ればせながら、

「こ、こんにちは」

 と声をかけた。

「珍しいね、客か……」

 本棚の向こう側に目を向けると、パイプ椅子に老人が座っていた。禿頭の、背の低い老人だ。どうやら本を読んでいるらしい。机はあるが、レジなんかはない。建物の大きさから考えて、事務所みたいなものもなさそうだった。

 本当に、本しかない店なのだ。

「あのぅ、ここは、本屋なんです、よね」

「ひょっとして、自力で見つけたのかね?」

 老人はそう言うと、はじめて頭をあげた。しわだらけの顔に、老眼鏡をかけている。老眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれ、驚いたような顔をしていた。こんなに奥まった場所にある本屋、なかなか見つけて来る人も少ないのだろう。

「ええ、まあ。散歩の途中で偶然」

「ここは、貸し本屋だよ」

「貸し……え?」

「貸し本屋。レンタル・ブック・ショップ」

 横文字が出るとは意外な。いや、そういえば店頭の板切れも英語で書かれていたか。

「本を、貸してくれるんですか? ええと、レンタルビデオみたいに?」

「そう」

 頷いて、老人はまた読書に戻る。貸し本屋……そんな商売存在するのかと思ったが、よくよく考えてみれば漫画喫茶などと似たようなものだ。ただ、どう考えても著作権に反していると思うのだが。

 本棚に目を向ける。大小さまざまな本が並んでいるが、どれも見た覚えのない本ばかりだった。作者の方は心当たりのある名前もあったが、やはり知らない名前が大半だ。

「借りるのに、カードとか作るんですか?」

「いいや。七日で三百円。延滞料金は一日四百円」

 高い。馬鹿みたいな値段設定だ。古本屋で買った方が全然いいじゃないか。

「おたく、物書きさんだろう」

「え……どうしてわかったんですか」

「なんとなくね。この店を自分で見つける人は、大抵そうなんだ」

「……」

 そう、その通り。僕は小説家だ。

 別に大先生というわけじゃない。デビューしたてで、まだ二冊しか本を出していない。新人賞を受賞したデビュー作は上々の評判だったけれど、駆け出しのひよっこだ。とはいえ、文で飯を食っていることに違いはない。大した洞察力だ。僕は老人をしげしげと見つめた。

 老人は、ため息をついてからつぶやいた。

「そういう人は、ここには来ない方がいいよ」

「……? どうしてですか」

 古本屋もそうだが、こういう店があると、作者の僕にはお金が入ってこない。そのことを言っているのだろうか。僕だって古本屋は使う。あまり気にしてはいないのだけど。

「どうして、というかね……今、書けないんだろう」

「……」

「行き詰まっている人ばかりなんだよ、こんな路地の奥に来るのは」

 正直、驚いた。老人の言うとおりだったからだ。

 確かに、僕のデビュー作はそれなりの評判を得ている。ただ、『どこかで見た』という評価を受けているのも事実である。

 独創性というものが、僕の小説には欠けているのだ。どこかで見たキャラクターが、どこかで見た舞台で、どこかで見た物語を繰り広げる……デビュー作は設定の着想で評価を受けたが、二作目はその欠点を痛烈に批判もされていた。結果、三作目にして行き詰まり、筆が進まなくなっている。

 だから、こうして気分転換をしているのだ。

「気分転換に本を読むのなら、こんなところで借りることはない」

「はあ」

 それはそうだ。文庫一冊に七日で三百円も出すくらいなら、定価で買った方が手元に置けるだけいい。しかし、自分の商売だろうに、そんなこと言っていいのだろうか。まあ、僕が気にすることではないのだろうけど。

 どちらにしろ、帰れと言われたも同然の状況だ。老人が主人の小さな店、客を選ぶということだろうか。しかしこの位置この値段では、客の方に選んでもらえないだろうに。

 僕はなんとはなしに、本棚から一冊、本を抜き出した。話のタネに一冊だけ借りてみるのもいいかもしれない。老人の言いように少し腹が立ったのもある。

 見たことのない本だった。作者も知らない名前だ。

 パラパラと中身をめくってみる。柔らかく軽い語り口の小説で、読みやすい。推理小説のようだ。今詰まっている小説もミステリだから、少し興味が湧いた。

「これ、借ります」

「……そうかい」

「ええと、どうすればいいんですか? 身分証とか……」

「いや、いらない。料金は返却の時でいいよ」

 それでは、持ち逃げされてしまうような気がするが、いいのだろうか。いや、僕はちゃんと返しに来るつもりだけど。

「いいんですか?」

「構わないよ。借りたものは返す、当然のことだろう。客との信頼関係で成り立っているんだよ。それに、君はきっとまた借りに来る」

「はあ」

 よくわからない。こんな店二度使う気は全くないが。

 老人は本のタイトルだけメモを取って、僕の名前も確認せずにまた読書に戻ってしまった。身分証どころか、電話番号すら控えない。こっちが不安になるくらい無防備だ。

 首をかしげながらも、僕は店を出た。


2.

 太陽が中天を越えて、一日で一番暖かい時間帯になった。にも関わらず、相変わらず街は冷気で覆われている。かじかむ手でポケットを探り、小さな鍵を取り出す。取り落としそうになって、あわてて手を握り締めた。

 鍵を差し込んで回すと、指先に僅かな手応えが返って来る。鍵を抜くのももどかしく、僕は扉を開いた。

 僕の家はワンルームの安アパートだ。八畳1K、ユニットバスつき。玄関を入ってすぐのところにコンロとシンクがある。いつものように靴を脱ぐ前に腕を伸ばして、コンロのスイッチを回した。カチカチカチ、と点火の音がする。そのまま数秒待って、反応の遅いコンロはやっと火を灯した。

 あらかじめヤカンには水を入れてあるので、後は待つだけだ。お湯が沸く間に靴とコートを脱いで、灯油ストーブに火を入れた。借りてきた本はとりあえず、ロフトの上に置いておく。スペースをできるだけ有効に使うためのロフトベッドは、ついこないだ奮発して購入したものだ。

「ふう……」

 やっと人心地がついた。ロフトの下、PCラックの前に座って、モニタの電源を入れる。パソコン自体はつけっぱなしにしているので、画面はすぐにデスクトップを映した。

 そこには、書きかけの文書ファイルが表示されている。題名、主題、方向性などがメモ書きされたものだ。だが、肝心の内容については、まだ一文字も書かれていない。せめて再来週までには、それなりの形にしろと言われているのだが。

 キーボードに両手を添えて、人差し指でJキーを軽く叩く。数回それを繰り返してから、僕はため息をついた。

 全く文章が浮かばない。いや、本当は浮かんではいる。キャラクターも、ストーリーも、ギミックやトリックも、いくつも浮かんでは来る。だが、それにはまるで新しさがない。突き抜けた個性というのはなくても、新しさを感じる何かは組み込めるはずだ。それはキャラクターの組み合わせかもしれないし、ストーリーの動かし方かもしれない。ギミックの使い方かもしれない。

 だが、そんなものは何ひとつ浮かんでこない。出てくるのは『どこかで見た』ものばかりだ。

「……」

 ふと気がつくと、画面にJがいくつも並んでいた。入力されないよう軽く叩いていたのだが、知らぬ間に力が入ってしまったらしい。肩に力が入っていたらロクなものは書けない。僕は立ち上がって、コーヒーカップを手に取った。インスタントコーヒーと砂糖を入れて、しゅんしゅんと音を立て始めたヤカンを手に取る。少し火にかけすぎたらしく、傾けたヤカンの口から、勢いよく熱湯が噴き出した。

 湯の勢いをヤカンを傾けることで調整し、適量がカップにおさまったところでヤカンはストーブの上に置く。冷凍室のない冷蔵庫から牛乳を取り出してカップにそそいで、スプーンでくるくるとかき混ぜた。

 黒と白の渦が混ざり合い、琥珀の水面を作り上げる。こんなふうに、アイディアがまとまってくれればいいのだけど。

 カップをもってPCの前に戻ろうかと思ったが、思い直してロフトにあがる。せっかく借りてきた本だ、気分転換に使わせてもらおう。

 コーヒーを手元に、寝転がって本を取る。ロフトの上は本が散乱している。位置は頻繁に変わるが、枕元のハードカバーだけは不動だ。なぜなら、ここにコーヒーカップを置くからである。

「どれ」

 手に取った文庫本を、改めて見てみる。貸し本屋では、表紙や装丁はあまり見ていない。適当にとって適当に開いたためだ。

 ――見たことのないタイトル、見たことのない作者、本の装丁も見たことのないものだ。文庫本なら、背表紙を見れば大抵は出版社がわかるものなのだけど。

「ライトノベルか……」

 表紙には、かわいい女の子の絵が書いてある。ブームに乗っかって新設された文庫なのかもしれない。その表紙をめくると、カラーの口絵に大きくアルファベットのJが羅列されていた。なかなかのインパクトだ。さっきの失敗を思い出して、少しおかしくなった。この作者も同じことをして、着想を得たのかもしれない。

 口絵はパラパラと飛ばして、本文の一ページ目を開く。一行目には「この物語に名探偵は出てこない」と物凄い文句が書いてある。

 コーヒを口許に運んで、僕は文字を追う。最初のうちは文字の流れが頭の端の方で処理されている感じだったのが、のめりこむにつれて「文字を追う」と「読む」とがイコールになる。そのうち読んでいる、ということすら忘れて、世界が頭の中で展開されていく。

「……」

 最初の三十ページを読み終える頃には、既にこの本に夢中になっていた。奇抜ながら無理を感じさせない設定、個性的だが親近感を覚えるキャラクター、緩急を極めた展開の妙……どれをとっても素晴らしい。

 極めつけは終盤のスピード感だった。策略に策略を重ね、二転三転と結末が転がって、これまで張りに張った伏線を回収していく。だが、決して詰め込みはしない。最後には強烈なオチを用意して、読者を一刀両断だ。そうして怒涛の終盤戦を超えると、これまでの物語を綺麗にまとめ、しかも深みと広がりを持たせるエピローグが待っている。あの終盤を乗り越えた余韻すらもエッセンスにして、物語は文句のつけようもないエンディングを迎えた。

「……」

 エンドマークを開いたまま、僕はしばらく硬直していた。震える手で本を閉じて、大きく深いため息をつく。指が無意識にコーヒーを探して、半分以上残った中身がすっかり冷えていることに気が付いた。途中からコーヒーのことを忘れていたらしい。

「嘘だろ、なんだこの本」

 冷たいコーヒーを流し込んで、やっとのことでそれだけ言う。信じられない、こんな話が無名だっていうのか。それとも、僕が知らなかっただけなのか? もう一度確認するが、タイトルも作者も、本当に全く覚えがない。間違いなく名作中の名作だというのに。

 思いついて、出版社の方も確認してみることにする。見たことのない装丁なのだから、レーベルについてももっと早く調べるべきだった。出版社がわかったら、担当に聞いてみよう。

 文庫名や出版社は、奥付、裏表紙、背表紙を見ればわかる。本を閉じていた僕は、すぐに背表紙を見た。タイトルと作者名、それに、小さく文庫名が入っている。その名前を見て、

「……!」

 あやうく、おかしな声を出すところだった。覚えがない、なんて馬鹿なことを。このレーベルの名前を知らなかったら、僕は本当にどうかしている。

 なんのことはない。僕が本を出しているのと同じ文庫だったのだ。

「ちょ、ちょっと待てよ……!」

 同じ文庫にあって、この本を知らないなんてありえるだろうか。しかも装丁がかなり違う。名前が同じだけで違う文庫なんじゃないのか?

「あ、そうか、装丁は変更された可能性もある……」

 この文庫は僕が知るだけで二回装丁を変更しているが、そのどれもに当てはまらない。僕がこの文庫を知るより前の、古い本なのだろうか。裏表紙からパラパラとページをめくる。奥付を見て、初版の発行日を確認するのだ。

「……あえ!?」

 そうして、今度こそ、僕は腹の底からおかしな声を出すことになった。

 奥付にははっきりと、初版の年月日が記されていた。


 ――2017年 4月5日 初版発行


 僕はあわてて部屋を見回した。ロフトの上から見える場所にカレンダーはない。そんなことをする必要はないんだ、と頭ではわかっていても、確認せずにはいられなかった。ロフトを降りる間も惜しく、枕元の携帯電話を開いて一操作でスケジュール表を呼び出す。液晶に映る年号は平成十九年――二〇〇七年、二月。

「な、なんだ、これ」

 ぐらり、と頭が揺れる。見覚えがないタイトル。知らない作者。記憶にない装丁。当然だ。僕がこの本を知っているはずがない。知ることのできるはずがない。

 この本は、十年未来の本なのだから。


3.

 雪の名残すら見えなくなった道を、白い息を吐きながら渡る。抜かりなく、今日は手袋をはめてきた。雪は解けたもののあいにくの曇り空で、どんよりした空を見ているとそれだけで足が重くなる。ついこないだの散歩と違って、今日の散歩はあまりリフレッシュできていない。

 エンジンの駆動音を立てて、トラックが脇を通り抜けていった。黒い排気ガスが吐き出されて、せっかくの清涼な空気を汚していく。重い足が更に重くなった気がした。

「……」

 横断歩道の白線を渡って、モデルハウスと携帯ショップの間の路地に踏み入る。日陰になっているからだろう、ここには雪が、完全に氷の塊となって残っていた。その氷の塊をぐしゃ、と踏み潰して、僕は路地の奥に向かう。進むごとに足は重くなり、手の中の文庫本も重量を増していく。いっそ足を反転させて帰ってしまおうかとも思ったが、さすがにそれはためらわれた。

 路地は進むにつれて広がっていく。広がるにつれて、僕の足取りはどんどん遅くなった。とはいえ、そもそもが短い路地のこと、いつまでも先延ばしにできるはずもない。

 ほどなく、僕はその店にたどり着いた。

 窓のない、日本家屋風の建物。今日も『OPEN』と書かれた板切れがぶらさがっている。瓦屋根からつるされている懐中時計を見て、僕は眉をひそめた。模型かと思っていたのだが、本物らしい。きちんと針が動いていた。

「……?」

 何か違和感のようなものを感じたが、とりあえず保留して店の戸を開ける。店の中の光景が目に入る。並ぶ棚、積みあがる本、あの本も、やはりそうなのだろうか。

 手元の文庫本に目を落とす。それが禍々しいものに思えてしかたがない。この境界線を越えて、果たして僕は無事に帰って来れるのだろうか。

 ……ここまで来て迷ってもしょうがない。僕は店に踏み入った。

「こんにちは」

 後ろ手に戸を閉めて挨拶すると、すぐに返事が返ってきた。「はいよ」という酷くそっけないものだったが、この店なら不思議でもない。

「本、返しに来ました」

「うん、三百円」

「はい」

 百円玉をみっつ、しわがれた手の平に乗せる。本も渡そうとしたが「自分で戻してくれ」といわれた。どこまでも客をぞんざいに扱う店だ。この本がどこにあったのか、正確には覚えていない。一応聞いてみたが、予想通り適当だと言われた。

 なので、一番近い棚の空いているスペースに差し込んだ。

 とりあえず、これで来た目的は達成した。僕はしばし手をぶらりと遊ばせて、店内に目をさ迷わせる。何気ないふりをして本の一冊を手にとり、ぱらぱらとめくった。視線を向けると、店主は黙々と読書を続けている。一気にページを飛ばして、僕は奥付を確認した。

 初版、二〇一二年。第七版、二〇一七年。

「……あの、また、借りていってもいいですか」

「ああ」

 こちらを見ようともせず、老人は応える。僕はその本を戻すと、別の文庫本を手に取った。やはり、即座に奥付を確認する。初版、二〇〇九年。第三十一版、二〇一七年。

 ……信じられない、信じられないが、間違いない。

 ここにある本は全て、未来の本なのだ。

 一冊だけならば誤植だといえるが、手に取る本手に取る本、全てが二〇〇七年以後に発行されたものだった。知らない作者は、現在は無名か、あるいはデビューしていないのだろう。知っている作者の物では、未だ発売されていないはずの「シリーズ最新刊」が置いてあったりもした。

 息を呑みこんで、僕は本棚を物色する。十冊ほど確認して、わかったことがある。ここに置いてある本の条件はふたつ。ひとつは、初版が全て二〇〇七年以降であること。もうひとつは、最新版が二〇一七年であること。言うなれば、この貸し本屋は“二〇一七年の本を貸す店”なのだ。それ以前に刷られた本、それ以後に刷られた本、どちらも置いていないと思われる。

「……」

 僕は、あふれかえる本の群れから一冊のハードカバーを選び出した。つい先ほど返したばかりの本と同じ、ミステリ小説だ。少し文が固いが、丁寧な描写をしている。……僕の文体と近い。

 初版は二〇一七年、作者は聞いたことがない。著作一覧を見れば、これの他には一冊しか書いていない。新人なのだろう。つまり「現在」はまだデビューしていない可能性が高い。

 ずっしりと手応えのある本を抱えて、僕は迷っていた。この本を借りるのは簡単だ。店主に表紙を見せて、借ります、とだけ言えばいい。だが大丈夫なのか? こんな怪しい店で、こんな怪しい本を借りて、本当に大丈夫なのか?

 いや――迷っているのはそんなことじゃない。

 本を小脇に抱えて、ポケットから携帯電話を取り出す。ここ最近の新着メールは全て担当からのものだ。僕は奥歯を噛み締めた。

 できないのだ。

 どんなキャラクターを作っても、どんな展開を考えても、頭の中にあの推理小説がちらつく。あれほど完成度の高い作品を、僕は見たことがない。きっと僕には、生涯あんな小説は書けないだろう。そう思ってしまうと、自分の作る小説がひどくみすぼらしく、つまらないものに見えてくる。

 作業は全く進んでいない。あれから七日も経ったというのに、一文字も進んでいないのだ。イメージすら固まらない。担当が不安に思うのも当然だった。

 僕は駆け出しだ。新人賞を獲ってデビューしたはいいが、二作目はあまり売れていない。このまま新作が書けずに燻っていたら、きっと読者に名前を忘れられてしまう。それ以前に、もう本を出させてもらえないかもしれない。

 そう、ここは分岐点だ。正念場なのだ。

「……」

 唾を飲み込む音がした。ハードカバーがいやに重く感じる。この本は、未だ世の中に出ていない本だ。十年後にはじめて出版される。作者はデビューもしていない。ひょっとしたら、この本については構想すらないかもしれない。

 ここ一回。ここ一回を乗り越えれば、僕は小説家としてやっていける。一回だけ、一回だけなら……!

「……」

 心臓が弾けるような音を立てる。その鼓動が脳髄を揺らす。振動が脊椎を伝って、体全部をゆさぶった。呼吸が苦しい。ただ立っているだけなのに、腕も足もとてつもない緊張を伝えてくる。

「ぐ……ぐうっ!」

 手が震えている。目の前がかすんでいる。目に涙が潤んでいることを、僕は自覚した。

「うううっ!」

 バン、と大きな音を立てて、僕はハードカバーを本の山に叩きつけた。引き結んでいた口を大きく開く。呼気の音とは思えないほど大きな風切り音が、喉から迸った。

 大きく、荒い呼吸を繰り返す。目の前がぐらぐらと揺れて、鼓動はいつまでも収まらない。

「おい、本を痛めつけるな」

 そこで、店主の声がした。振り向くと、老眼鏡の向こうから、ふたつの瞳がこちらを見ていた。それは、慈しむような、哀しむような、まるで、何かを憐れむような目だった。

「う、うう……」

 僕はその場から逃げ出した。絶対に振り返らないように、本を見ないように店を飛び出し、戸を閉めることも忘れて走る。視界に懐中時計が映り、目を閉じてそれを遮った。ざきゅざきゅと音を立てながら氷の上を駆け抜け、そうして、

「はあっ、はぁっ……」

 そうして、僕は戻ってきた。

 通りを車が何台も走り、汚い煙を撒き散らしている。吸い込まないように呼吸を整えて、僕は汗を拭った。この汗は、急に走り出したせいで出てきたのだろうか。それとも、もっと違う、もっと別の汗だろうか。

「いや、もう、いい」

 そうだ、もういい。もう終わったことだ。あの店には、二度と行くまい。最初に老人に言われた通りだった。僕のような人間は、あそこで本を借りるべきじゃないんだ。

 家に帰ろう、ゆっくり気持ちを落ち着けて、仕事をしよう。

 大丈夫、僕はできる。できるはずだ。僕は、小説を書くと決めたのだから。



 一週間後、僕はプロットを完成させた。

 僕の全てをつぎ込んだプロットだった。脳裏をよぎるあの小説を振り払い、自分の欠点を見つめ直し、一週間、ほとんど寝ずに完成させた、会心の出来だった。

 没だった。

 出版を見合わせるかもしれない、と言われた。


 次の日、僕は貸し本屋を訪ねた。


4.

 雪解け水が春を呼び、桜が散って深緑を促す。緑の歌声が秋を誘って、積もる紅葉が冬を招き――そうして、季節が巡っていく。幾度も繰り返す季節を、僕は同じ街で迎えていた。もっと大きな街、大きな家に引っ越すことはできるのし、そうした方が何かと便利なのだが、そうしなかった。

「寒いな……」

 つぶやいて、手をさする。春も終わったというのに、おかしな話だ。

 街中にある常緑樹は夏の空気を吸って緑の息吹を吐く。冬とは違う意味で清涼な風の中、僕はまだコートを羽織って、のんびりと歩いていた。このあたりはとても寒い。春が過ぎても、日によっては防寒が必要だった。

 いつもの道程よりも、少し長く歩く。三年ほど前本屋が出来て、この周辺は五分も歩けば大抵のものが揃うようになった。なんだかんだと便利な場所だ。引っ越さない理由のひとつである。

 行き交う車の流れを横目に、大きな駐車場を横切って本屋に入る。さほど大きな本屋ではないが、品揃えの幅が広くて重宝している。

 いらっしゃいませ、と元気のいい声を受けて、店の奥、コミックスコーナーの脇に進む。その途中、雑誌コーナーとコミックスコーナーの間に、特集コーナが設置されているのを見つけて、僕は足を止めた。

 かわいらしいキャラクターが表紙のライトノベルが並んでいる。ファンタジーのシリーズだ。脇には同じ作者の推理小説や、SFも置いてあった。『変幻自在の文体、幅広いジャンルを制するライトノベルの雄』みたいな文句が、手書きPOPの上で踊っている。

 ……僕のことだ。

 いや、僕のことではない、と言うべきなのかもしれない。

 視線を外して、僕はコミックスコーナーへ進んだ。その脇がノベルスのコーナーだ。特集コーナーを作ってあるというのに、そこにも僕のコーナーが設置されていた。

 大人気だ。

「ふう……」

 心臓の下あたりが思い。巨大な鉛がうごめいているようだ。

 あの貸し本屋を見つけてから、十年が経った。

 その間に、僕は多くの本を書いて――いや、多くの本を写して、絶賛された。その中には、最初に借りたあのミステリも含まれている。

 結局、僕は未来を盗んで栄光を得ることを選んだ。それは最初こそ辛かったものの、思いのほか簡単に、僕になじんだ。

 罪悪感がないわけではない。だけど、そんなことはどうでもよくなるくらいに、その場所は居心地が良かったのだ。苦悩も後悔も、瞬く間に腐食した。いまやその残骸が、時折腹の底で身じろぎする程度だ。

 なんのことはない。僕にとって小説とはその程度の存在だったのだろう。

 これ一回きりだったはずの盗作。その目的は文壇に踏みとどまることだったはずだ。だがその結果は予想外のもので、僕にとって、小説を書きつづけることよりも、得られた結果の方が重要になってしまったのだ。

 以来僕は貸し本屋の常連だ。

「はは……」

 自分の最新刊を手にとる。『怒涛の不条理』みたいな文句が帯に載っている。確かこれは、朝起きたら自分が自動販売機になっていた、とかそんな感じの話だったはずだ。不条理すぎて、テーマがよくわからないのだが、専門家がどうこう解説していた。それによると、僕はとても深い意味をこの本にこめているらしい。へえ。

 パラパラと本文をめくる。「本物」とは装丁が違う。当たり前なのかそうでないのか、なんとも言えない。

 この本は、本物も盗作も、二〇一七年が初版だ。ただ、この作者のデビュー作を僕が盗んでしまったので、放っておけば本物は世に出なかったか、しばらく遅れたことだろう。

 ――そう、時間が、貸し本屋に追いついたのだ。

 だから、貸し本屋にある本が現実に置いてある、という状況も目にするようになった。それらの本は装丁も同じだ。そう、最初に僕が書いていた文庫も、装丁が変更された。今ではみな、十年前に見たあの装丁だ。

 ここまでは騙し騙しやってきたが、いい加減限界を感じていた。十年……さすがに、疲れてきたというのもある。

 僕は何も買わずに店を出た。

 夏の空気を感じながら、見慣れた街を歩く。十年で街は変わったが、それは微細な違いだ。何かが大きく変動したということはない。変わったのは僕の周囲で、でもそれも微細な違いだろう。

 僕自身が、何も変わっていないのだから。

 足は、自然と貸し本屋の方に向かっていた。信号を待って、横断歩道を渡る。モデルハウスは残っているが、携帯ショップは移転してしまった。今その敷地はコンビニが使っている。路地に入って、僕は更に進む。

 この道のりも、何度となく通った。最低週に一回、多ければもっと。

「……かわんないな」

 そうして、いつも通りの店へと辿り着く。

 本当に変わらない。十年前とまるで同じだ。

 吊り下がる懐中時計を指で弾く。はじめてここに来た時、この懐中時計に違和感を覚えたが、今ならその理由がわかる。気付いたのはここに通い始めて三年くらい経ってからだろうか。

 この時計は、針が逆に回っているのだ。

 壊れているのか、元からそうなのか。多分後者だろう。どういう意味があるのかわからないが、この貸し本屋のことを考えると、無意味とも思えなかった。

 僕は戸を開けた。

「こんにちは」

「……はいよ」

 店主の無愛想も変わらない。すっかり慣れてしまった。

 僕は店を見渡した。三列縦に並ぶ棚、積みあがる本。紙とインクの臭い。十年間、僕の栄光を作り上げてくれた名も知らぬ著者たち。

 ……礼を言うべきか、謝罪をするべきか。

「何を借りてくんだい?」

 珍しく、店主が声をかけてきた。僕は一瞬戸惑ってから、正直に応えることにした。

「いえ、もう、いいかなと思って」

「うん?」

「今日で、おしまいにします。もう来ませんよ」

「……そうかい」

 店主は老眼鏡の位置を直して立ち上がった。僕は少なからず驚いた。この十年、この人が立ち上がるところなんて一度も見たことがなかったからだ。

「あの……?」

「十年いっぱい、か。だから言っただろう、あんたのような人は……ここに来るべきじゃないんだ」

「……?」

 店主はずっと読んでいた本を閉じて、僕の方に歩いてきた。そのまま戸を開けて、外を眺める。

「夏か」

 そうして、やけにゆっくりと、戸の外に踏み出した。

「あの、どうしたんですか?」

「……」

 店主は答えないまま、吊り下がる懐中時計を開いた。ここからでは、文字盤は見えない。しわがれた手でじっと懐中時計を見ていた店主は、静かに頷いた。

「あんた、本は好きか」

「……」

 何を言っているのだろう、この人は。好きといえば好きだ。だけどもう、そんな一言で言い表せるほど単純なものではなくなってしまった。僕は答えられず、黙って彼を見ているしかない。

「いや、そんな簡単に、どうこういえるもんじゃないか」

 つぶやいて、手を離す。懐中時計がくるくると回り、文字盤がこちらを向いて止まった。

「あれ……」

 針が動いていない。止まったままだ。多分店主が止めたのだろうけど、何のために。

 店主は老眼鏡の奥から僕をじっと見て、ゆっくりと歩いてきた。眼鏡を引き抜いて、手に抱えていた本と一緒に、僕に差し出す。

「な、なんですか?」

「娯楽といったら、読書くらいしかないからな。目が見えなくなると辛いんだよ。親切だ、ありがたく受け取れ」

「はあ?」

 本と眼鏡がずいずいと迫ってくる。押し付けられる形で、仕方なく僕はそれを受け止めた。

「な、なんなんですか」

「なんなんだろうな……あんたも頑張ってくれ。まあ、本を読む以外にすることがあるわけじゃないがね」

「……」

 意味がわからない。何が言いたいんだ、この人は。僕が呆然としていると、何かとても哀れな存在を見るような目をして、老人は背を向けた。そのまま、歩いていってしまう。

 僕を置き去りにして。

「ちょっと、待ってください――」

 踏み出す。本と眼鏡を抱えて、僕は戸をくぐった。いや、くぐろうとした。

「え」

 足が止まる。つま先が、何かにあたってそこから先に進めない。たたらを踏んで、僕は二歩さがった。

「え?」

 ばん、と何もない空間に手をつく。そこに壁があるかのような手応えが返って来る。手の中から本が落ちて、ばさりと音を立てた。

 出られない。

「な、なんだこれ? ちょっと! 待ってください!」

 老人は背を向けたまま、ぴたり、と足を止めた。ゆっくりと振り返って、

「借りたものは、返す。当然のことだろう」

 そう、いつか聞いた言葉を口にした。

「な、なんのことですか。僕はちゃんと、毎回返しにきたじゃないですか!」

「あんたが借りたのは、本じゃない」

「……」

 本じゃない。

 僕がここから持ち出したものは、本ではない。

「あんたがここから借りたのは“未来”だ。誰かが手にするはずだった未来を、あんたはここから借りていった」

「ちょ、ちょっと、待って……」

 何を言ってる。何を言ってるんだ、この人は。

「だから、返済しなきゃならない」

 何を、言ってるんだ。

 そんなもの、どうやって返すというんだ。

「だって、ここの本は、でも、そんな……」

「二〇一七年か……やれやれ、懐かしいね」

 かぶりを振って、老人は歩いていく。何度も声をかけたが、一度も振り返ることなく、年老いた背は初夏の景色に消えていった。

 後には、僕だけが残された。

 目の前の空間をいくら叩いても、外には出られない。視界の中では懐中時計が揺れながら、針を逆に回している。

「……」

 誰かが得るはずだった未来。誰かが得るはずだった栄光。僕が借りたもの。

 ……そうだ。僕は知っていたはずだった。作品というものが、なんなのか。それは形を得た魂だ。

 僕にとって本とは、誇りであり、命であり、僕そのものだった。

 ここから、硬貨三枚で僕が得たもの。

 それは、誰かの誇りであり、命であり、魂だったのだ。そんなものをどうやって返すというのか。それこそまさに、取り返しがつかない。

「ああ……」

 へたりこむ。視界が歪む。肩が急に重くなって、吐き気がこみ上げてくる。

 そんなものを返そうと思ったら。この命をそのまま差し出してもまだ足りないのではないか。

 歪む視界の中ではゆれる懐中時計が、逆さまに針を巡らせている。

 時以外のものを、刻むように。


5.

 そうして、どれだけの季節が過ぎただろう――

 何十という春を見て、何十という夏を過ぎ、何十という秋を超え、そして、何十回目かの冬が来た。

 外は雪が積もっている。店の客は十年に一度くればいいくらいで、大抵が誰かからここを紹介された人間たちだった。不思議そうな顔で店内を見渡す彼らは、値段を聞くと皆帰ってしまう。無理もない話だ。

 だから売上は零に等しいが、生活に困ることはなかった。

 食事も、睡眠も、ほとんど必要ないのだ。生理現象すらない。この店の中だけ時の流れが停止しているといわんばかりだった。だが、それだというのに歳は取った。体は衰え、しわだらけになり、髪は白く染まって抜け落ちた。

 これが、報いなのだろうか。

 こうして死ぬまで、僕はここで老眼鏡をかけて、本を読みつづけるのだろうか。

「……」

 今では、その運命を恨もうとも思わない。小説に命をかけると決めて、だというのにその小説を誰かから盗んだ時、僕の人生はもう、終わっていたのだろうから。

 いつものようにページを繰り、また静かに一日が過ぎる、そう思っていたのだが、その日は少し違った。カラカラカラ、と音を立てて、戸が開いたのだ。僕は顔もあげず、本だけを見ていた。客ならばすぐに入ってきて、適当に本を選んで差し出してくる。

 だが、しばらく待っても誰も入ってこない。冷風だけが訪れて、店を冷やしていく。

「寒いよ、閉めてくれ」

 仕方なく、僕は言った。

 戸を閉める音が響いて、それから「こ、こんにちは」と恐縮するような声がした。

「珍しいね、客か……」

 何年ぶりだろうか。前に来たのは、多分十何年か前の夏だったような気がするが、記憶が曖昧で思い出せない。

「あのぅ、ここは、本屋なんです、よね」

 記憶の散策にふけっていたところを、戸惑うような声音に邪魔された。本屋、というのとは少し違う。こいつは、この店のことを知らないのだろうか。

「ひょっとして、自力で見つけたのかね?」

 僕は顔をあげた。

 そうして、はじめて理解した。

 僕がここから得たもの。誰かの誇りであり、命であり、魂そのものである、本の形をした未来。それを、どうすれば返せるのか。

 この命をそのまま差し出しても足りない。ここで何十回季節を見送っても、きっと足りない。足りない、それなら。

 足せば、いいのだ。

「ええ、まあ。散歩の途中で、偶然」

 目の前の、懐かしい青年がそう言った。今でもはっきりと思い出せる。あの冬の空気、雪の感触。三作目がどうしても巧くいかずに、行き詰まっていた感覚。


 あの頃の僕が、そこにいた。


 僕はなんと言っていいのかわからず、ただ驚いていた。ここは未来を貸す本屋。なら、こんなことがあっても不思議ではないのかもしれない。

 僕は喉を鳴らし、絞り出すような声で言った。どうか、目の前の彼がここから何も借りないように。かつて僕が犯したような過ちを、繰り返さないようにと、きっと叶わない祈りを込めて。

「ここは、貸し本屋だよ」


 ……ここからは見えないけれど、あの懐中時計は今も、逆さまに回っているのだろうか。


「貸し本屋」・おわり

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