彼女の景色
放課後の美術室は、彩堂文子の専用だった。
私達の学校には美術部がないので(何年も前幽霊騒動があって以来、廃部になってしまったのだ)、彩堂文子は美術担当の教師に特例として鍵を開けてもらっているらしかった。
誰もいないはずの美術室、窓際にイーゼルを立てて、だけどキャンバスは見ていない。
彩堂文子はいつも、窓の外ばかりを眺めていた。
そして私はいつも、そんな彼女を見つめていた。
彩堂文子は多分、最初から私に気づいていたのだと思う。息を潜ませるには美術室は無人すぎた。
教室には生活の匂いがしない。だから、他に誰もいない放課後の美術室では、私の匂いは隠し切れなかったのだろう。
黙っていることに耐えられなくなったのか、それともその日は窓の外の風景が面白くなかったのか、彩堂文子がある日声をかけてきた。目は窓の外を向いたままだったけれど。
「ねえ、どうして見てるの?」
その時にはもう、彩堂文子が気づいているのだろうとは思っていたので、私は特に何も言わず、彼女の前に出て行った。
「何か、面白い?」
「彩堂さんは、窓の外、面白い?」
「面白い……のかな。興味深いって言った方が、正しい気がする」
「なら、私もそれでいい」
彩堂文子はこちらに視線を向けた。私はこの時、はじめて彩堂文子の顔を正面から見た。綺麗だ綺麗だ、とは思っていたけれど、きちんと向き合うと、想像を絶する美しさだった。
この世のものでは、ないみたいだ。
「あなたの言うことは、よくわからないな」
「私にも、よくわからない」
すこしだけ笑って、彩堂文子はまた窓の外を眺める。私は一言断ってから、キャンバスを覗き込んだ。
動物が走っていた。
名前はわからない。多分草食動物だろう。
躍動感のある絵だった。てっきり白紙だと思っていたので、私は少し驚いた。
「ちゃんと、絵描いてたんだ」
「絵を描かないなら、美術室に用はないわ」
「私はどうなるのかな」
「あなたのことは、よくわからないわね」
「窓の外には何が見えるの?」
「グラウンド」
「それだけ?」
「それだけ。野球場とテニスコートは見えないけど」
聞いてみたけど、あまり興味はなかった。彼女の景色を私が見れるとは思わなかったからだ。
「たまに、見に来ていい?」
そう聞くと、彩堂文子はまたくすりと笑って、こちらを向いた。
「本当によくわからないな。何を今更、そんなことを聞くの?」
もっともだと思った。
翌日から彩堂文子の向かいに座って、彼女の様子を眺めた。たまに話をしたりもしたが、おそらく会っている時間のほとんどは無言だったと思う。
そうして見てみると、彩堂文子は確かに絵を描いていた。一瞬手を動かして、窓の外をじっとみる。気がついたようにキャンバスをいじって、また窓の外を見る。絵を描いている時間は、私達が話をした時間より少なかった気がする。その時間を、今までは見逃していたらしい。
そんな短時間なのに、彩堂文子は一日一枚絵を描いた。最後まで鉛筆で描かれたものだったが、それにしても恐ろしい速度だった。
彼女が描くのは、いつも動物だった。逃げる草食動物、追う肉食動物、そういったものを何枚を描きつづけた。
「ねえ、どうして窓の外を見るの? 描いてるものと関係ないじゃない」
「関係ないかしら」
「と、思うけど」
「陸上部が走ってる。見てみたら」
「……」
気は進まないが、私は窓から外を見た。グラウンドの、ほぼ全景が見渡せる。陸上部が短距離を全力で走っていた。
「関係ないかな」
「……」
私は答えなかった。
彼女が見ているものは、やっぱり私には見えなかったのだ。
「わからないな」
「そうかもしれないわね。ねえ、どうして最初から声をかけなかったの?」
「昔、それで失敗したことがあって。それから独りだったから」
「独りは寂しいかしら」
「そりゃ、寂しいよね」
「私はね、もうすぐ死ぬのよ」
なんでもないことのように、彩堂文子はそう言った。
「不治の病なんだって。現代医学って大抵なんでも治せると思ってたけど、そうでもないのね」
「ふうん」
「驚かない?」
「別に。そんなこと、私にもあなたにも関係ないじゃない」
くすくすと、彩堂文子はまた笑った。
「本当にわからない人ね、あなたは」
「そう? いつ死ぬのかとか、気にした方がいいのかな」
「二ヶ月後」
「……」
「二ヶ月後に死ぬわ」
窓の外を見たまま、彼女はそう言った。
二ヵ月後、彩堂文子は本当に死んだ。
自殺だった。
彩堂文子はいなくなってしまった。私はまた独りになってしまう。グラウンドにいるんじゃないかと窓の外を眺めてみるけど、そんなはずはなかった。……最後まで、なにもかもわからない人だ。
誰もいない美術室は、しんとしている。教室には生活の匂いがない。だから生きている人間がいないと、途端に寂しくなってしまうのだ。
彩堂文子が遺した何枚もの絵を見ていく。何頭もの様々な動物が走っていた。その中に一枚だけ、スケッチブックの切れ端が見つかった。
くしゃくしゃになっているそれを広げてみると、人間が描かれていた。
陸上部なのだろう、やはり走っている。実際にこの部員がいるのかどうかは、私にはわからなかった。
「……」
窓の外を見てみる。陸上部が走っていた。
「ああ……」
彩堂文子が見ていたもの。彩堂文子が描いていたもの。そうか、彼女はずっと、“それ”を描きたかったのか。
彼女にも私にも、決定的に欠けているものを。
彼女は最初から死というものに満たされていて、“それ”に憧れていた。
私は最後まで死というものに魅入られていて、“それ”を顧みなかった。
そうか、それが、私と彼女の違いか。
同じように“それ”を放棄したのにも関わらず、私だけが残される、それが理由か――
「……ふふ」
誰もいない放課後の美術室、黄昏の中にキャンバスのないイーゼルを置いて、私はゆっくりと消える。
やっと、彼女の景色を見ることができた気がした。
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