もうすぐ死ぬひと
■1■
「つぅっ、」
パチッ、と青白い火花のようなものが散った。教室の入り口、クラスメイトとすれ違った時に、カーディガンに指先が触れたのだ。
「ん? どうしたの?」
「なんでもない、静電気」
「あ、大丈夫? ごめんね」
平然とついた嘘を疑いもせず、クラスメイトは謝って廊下を小走りに去っていく。私はその背中を見送って、ため息をついた。
彼女は、いい人だ。
私に声をかけてくるのがその証拠だ。同じ状況で私に謝る人間なんて、学校中捜しても彼女くらいのものだろう。
私は孤立している。していなければいけない。
私は孤独に感情を持たない。私は他人に感情を抱かない。そうでなければいけない。
凍らせる。心を凍らせる。揺らがないように、万が一でも温もりを覚えないように。
私は、他人と関わってはいけないのだから。
「……」
教室の中央の席に座って、文庫本を開く。今日もおそらく誰とも会話をしない。クラスの皆も、私がそういうものだと思って慣れている。
本当に、彼女くらいだ、私に声をかけるのは。
「……」
知らず、またため息をついた。
明日だろうか。明後日だろうか。できれば、苦しまない方法ならばいい。
……早く学校が終わればいい。早く一日が終わればいい。そうしてできれば、私はなるべく早く死ぬことができればいい。
自ら命を絶つ度胸もない私の、それは精一杯の祈りだった。
*
家に帰ると、大きな白い尻尾が視界に飛び込んできた。制服のまま抱きついて、ただいま、と声をかける。
マシロは子供の頃からの友達で、家族だ。子犬だったマシロは私と一緒に成長してきた。マシロといる時だけは、凍りついた心が溶けていくのを感じる。
「今日は、クラスメイトだったよ」
昨日はいなかった。明日はどうだろう。出会うのは平均一週間に一人いるかいないか程度。それでも、一月あくことはまずない。
私はマシロの毛を撫でる。マシロははしゃぐように、私の頬をなめた。なぐさめてくれているのだと、都合の良い解釈だと知っていながら、私はそう思うことにした。
……翌日。クラスメイトが一人、駅で通り魔に刺され、その日のうちに亡くなった。
そうして、教室で私に声をかける人間は、一人もいなくなった。
■2■
それがいつからはじまったのかは、よくわからない。気づいたのは中学生の頃だったが、それ自体はずっと昔からあったのかもしれない。ただ、私が知らなかっただけで。
私は、「もうすぐ死ぬひと」がわかる。
その人に触れると、冬場の静電気のような、チリッとした痛みと、青白い火花が散る。それは私にしか感じられない痛みで、それを感じてから三日はあけず、その人は死ぬことになる。
気づかないうちは良かった。だが、祖母が死ぬ間際にそれが起こり、それに気づいてしまって、そうなったらもう、駄目だった。
満員電車で、買い物の途中で、赤の他人に、顔見知りに、時には身内に、それが起こる。
耐えられない。もうすぐ死ぬひとを、どうすることもできず見ていることも、それから目を逸らすことも、危機を伝えて気味悪がられ、結局死んでしまうことも。真っ当な心を持っていたら、とても耐えられなかった。
だから、凍らせる。
凍らせる。凍らせる。揺るがないように。震えないように。
誰が死ぬことを知っても、凍った心ならば揺るがない。もうすぐ死ぬひとを見ていても、凍った心ならば震えない。
凍らせる。そのために独りになる。
温もりに触れないように、凍らせた心が溶けないように――そうやって私は、この何年かを生きてきたのだ。
*
「マシロ、おはよう」
白いふさふさの毛を撫でると、マシロは嬉しそうに吠えた。大きい体を抱きしめると、少し苦しそうにうなる。
マシロがいてくれてよかったと思う。心がずっと冷えていては凍死してしまう。マシロの側でだけは温まることができて、だから私は生きていけるのだ。
「それじゃあマシロ、行って来ます」
いつものように声をかけて、私は家を出る。
さあ、凍らせよう。揺るがないように、震えないように。
■3■
「……?」
駅のホームで、ふと、青い火花を見た。珍しい。
ごくまれにだが、他人同士の体が触れ合って火花が散ることがあるのだ。それが見えているのも、それに痛みを感じるのも私だけのようだが。
考えたことがある。この現象はなんなのか。
静電気というものは、帯電した状態から火花放電が起こることを言う。この時溜まった電気は全て放出されてしまうわけだけど、私が見て感じる現象は、少し違う。
溜まっているものは、言うまでもないだろう、「死」だ。だがこれは、静電気と違って外に出て行ったりはしない。「死」は「生」と触れ合うと反発し、弾けるのだ。
それを感じる私はイレギュラーだが、死と生の反発自体は、おそらくは日常茶飯事なのだろう。この世界には、青い火花があふれている。
「ふう……」
そうして私は、もうすぐ死ぬ誰かと共に、電車に乗り込み――
チリッ、
「っ……」
火花が散る。
あわてて顔をあげる。先ほど火花を散らしていたのとは別のサラリーマンだった。同じに二人というのは、本当に珍しい……
「え……?」
チリッ、とまた例の感覚。あわてて手を引いて、引いた先にいた女性に触れる。
チリッ、とそこでも例の感覚。驚いてその人の方を向くと、怪訝そうな顔をされた。
「……」
手を引っ込めて、電車の中を見渡す。その時、車両がカーブを曲がり、がたん、と大きく揺れた。何人かの服が、腕が、体が、私に触れて、
「いぁっ……!」
全身を、ビリッとした感覚が突き抜けた。
なにこれ。なにこれ。違う、知っている。これは例の感覚。もうすぐ死ぬひとを知らせる、青白い火花のサイン。
だけど、だけどこれは。
「ちょっと、どうかしたの?」
先ほど手を触れた女性が、声をかけてきた。伸ばされた手を反射的に避けて、後ろの学生に体があたる。そこでまた、火花が散った。
「だ、大丈夫です」
大丈夫なんかじゃない。死ぬ、もうすぐ死ぬ。この車両に、ひょっとしたらこの電車に乗っているのは全員、もうすぐ死ぬひと達なんじゃないのか。
「事故……」
思わず、口をついて出た。脱線事故。横転事故。衝突事故。どんなものかはわからないが、何かとんでもない災害がこの電車を襲うことだけは予測がついた。
なおも声をかける親切な女性を振り切って、私は電車を降りた。目的地にはふた駅足りない、あまりよく知らないホームを駆け抜けて駅を飛び出し、そのまま人気のない路地に入り込む。
「……はぁっ……はぁっ……」
なんてことだ。こんなのははじめてだった。私は息を荒げて頭を抱えた。どうしよう。どうしよう。電車を止めようか。どうやって? 乗客を外に出そうか。どうやって? 中にいるだろうクラスメイトに連絡をとろうか。どうやって? 私は携帯電話の番号すらろくに知らないというのに。
そうして彼らに声をかけて、いったいどれほどの人間が私に従ってくれるというのだろう。
「……はぁ……」
息が落ち着く。心も落ち着いてくる。
凍らせる。凍らせる。もうすぐ死ぬひとが何人いようと、私には関係ないんだから。
だけど、今日はもう電車に乗る気にはなれなかった。ひょっとしたら、いまにも事故が起こって、電車は止まってしまうかもしれない。
私はとぼとぼと歩き出した。自分の家まではひと駅、歩いて戻るのは、そう苦じゃない。
「……」
体が震えていることに気がついて、かぶりを振る。凍らせなくては。
揺るがないように、震えないように、もっともっと凍らせなくては。
何があっても、泣いてしまったりしないように。
*
時間を確認すると、両親はふたりとも仕事に行ったあとだった。安心して、私は家に入る。学校には病欠の電話をいれて、親には途中で具合が悪くなったとか、適当な嘘をつけばいい。
鞄を置いて、庭に出る。マシロが気づいて尻尾を振った。
「マシロ、おいで」
言うと、マシロが飛びかからんばかりの勢いで走ってくる。私は両手を広げたが、本当に飛びかかられたら、私なんて吹っ飛んでしまうだろう。マシロはとても大きいのだ。その光景を想像して、ちょっと笑った。
凍った心が溶けていく。凍った恐怖が溶けていく。そう、本当は、怖くて怖くてたまらなかった。
一刻も早く、マシロの体を抱きしめたかったのだ。
わぅん、という鳴き声を響かせて、マシロが腕の中に飛び込んで、
――バチッ、
青白い、火花が散った。
「……え?」
大きく、体を離す。マシロが不思議そうな顔をして、すり寄ってくる。震える手に毛先が触れて、また火花が散った。
――火花が散った。
「――――――――――――――!」
多分何かを叫んだけれど、それがなんなのか、私にすらわからなかった。
■4■
心が揺らいでいる。体が震えている。
凍らせないと。凍らせないと。もうすぐ死ぬひとが何人いようと、それが誰だろうと、大丈夫なように。
凍らせないといけないのに。
「……う、うぅ……ううう」
寒い。すごく寒い。震えが止まらない。寒いよ。
誰かにあたためて欲しかった。声を聞いて欲しかった。なぐさめて欲しかった。
でも、誰にそれを頼めばいいんだろう。家族はいまここにいない。友達は最初からいない。マシロは――
「う、うう……」
寒い。
空を見上げると青かった。ここはどこだろう……無我夢中で駆け出して、変なところに出てしまったらしい。少し移動すれば舗装もされていない剥き出しの地面が見えるような、寂しいところだった。
「……」
なんとはなしに地面に触れたくて、私は歩き出す。冷たい、物言わぬ地面だろうと、コンクリートよりは幾分あたたかいだろう。
そうして私の足が土を踏んだ。
火花が散った。
「……は……?」
あわてて足を退けて、手を触れる。鋭い痛みに思わず手を引いて、まじまじとその手を見る。
なんだ、これ。
「地面が……え? これって」
そうか、土も生きている。植物も生きている。死と生の反発が起こっても不思議じゃない。だけど、この土がもうすぐ死ぬっていうのは、どういうことだ?
「……え?」
それは、それはどういうことだ。電車の人間がまとめて、それは本当に事故なんだろうか。思い出せ。今日はどこで生き物に触れた?
駅で触れた、あれが最初だ。今日は出がけにマシロに触らなかった。帰り道でも生き物には触れていない。もしかして、まさか――
「核、とか……?」
ぞっとしない発想だった。最近の世界情勢とかを思い浮かべようとして、自分が何も知らないことに気がつく。ふらふらと立ち上がって、道端の雑草に、塀を越えて茂る枝に、道を横切る野良猫に、手を伸ばした。
火花が散った。
「あ、は、はは……」
この街がもうすぐ死ぬと、青白い火花が語っていた。
*
ひどい話だ。
どうして私なんだろう。どうして私だけそんなことを知らなくてはならないんだろう。他の人と同じように、いつもどおりに一日を迎えさせてくれたって良かったはずだ。何も知らずに一日を過ごして、何も知らずに死なせてくれたって良かったはずだ。
「はは……」
やはり私は、もっと早くに死ぬべきだったのだ。
心を凍らせるなんて言って、人生の何もかもから逃げているような私は、もっと早くに死ぬべきだったのだ。生きていたってしょうがない。半分死んでいるようなものじゃないか。
とぼとぼと道を歩きながら、私は青い空を見上げた。
いつだろう。いますぐだろうか。明日だろうか。明後日だろうか。ミサイルかもしれない。大地震かもしれない。できれば苦しまずに死にたい。何もわからないうちに、あっさりと殺して欲しい。どうしてだろう。こんなに死にたがっているのに、どうして私はいままで生きていたんだろう。何が楽しくて、何を望みに、生きていたんだろう。
本当に、もっと早く死ねばよかった。
ふらふらとさ迷うように歩く。どこに向かっているわけでもない。ここがどこなのかもよくわからなかった。ふらふらと、頼りない足取りで、
「あ、」
クラクションが聞こえた。
もう避けようもない位置に、車が見えた。
これはあたるな、と思った。
その瞬間、私はやっと理解した。
核なんて落ちない。地震も起こらない。電車だって事故ったりしない。
なんだ、なんてことはないんだ。そう、あの青白い火花は「死」と「生」の反発。私はたまたま、その反発を感じ取れるというだけなんだから。
「死」と「生」の反発が、あの青白い火花の正体。いままでは他人に「死」が溜まっていたから、私はそれを他人の死だと思っていたのだけど、今回は違ったというだけ。今回に限っては、世界のあらゆる「生」と、私の「死」が、ぶつかって弾けていたというだけだ。
本当に、なんてことはない。
ただ、私がもうすぐ死んでしまうっていう、それだけの話だったのだ。
ずっと望んでいた時がやっと来たっていう、それだけの――
横合いからもの凄い衝撃が来た。
体が吹き飛ぶのを自覚した。ブレーキングの物凄い音が響いた。地面に叩きつけられる痛みが、全身を駆け巡った。視界がビカビカと光った。
でも、そんなことはどうでもいいくらい、私の心は揺れ震えていた。
「マシロ!」
全力で私を突き飛ばしたマシロが、道端に横たわっていた。白い体が赤くなっている。荒い息が、白い吐息となって冬の空気に浮かんでいる。
「マシロ!」
駆け寄って抱き起こす。ひゅーひゅーと息を漏らして、マシロが唸った。
「なに、なにこれ、どうして、どうして……」
死ぬのは私のはずだ。私が死ねばよかったんだ。どうしてマシロが、こんなことになってるんだ。
「お、おい、大丈夫か!」
運転手が、私の肩に手をかけた。その手を振り払って、マシロに呼びかける。返事がない。病院、動物病院に、連絡。
携帯電話のメモリーから行きつけの病院を探して、すぐに連絡した。開院前だったけど、私用車を飛ばしてくれるらしい。
「お、おい、大丈夫なのか」
「うるさい!」
マシロの血で私まで赤く染まっていたけど、構うものか。私はそこで、マシロを抱きしめて車を待った。
「お、おい」
運転手がまだ何か言っている。マシロの血を、私の血だと思っているのだろう。私は手を振り払って、
「……」
火花が、散らないことに気がついた。
マシロを見る。はぁはぁと荒い息をしている。
助かったのだ。
マシロのおかげで、助かったのだ。私はマシロに救われた。救われることができた。
「あ、ああ……」
ああ、そうだ。あたりまえじゃないか。救うことができるんだ。救うことができたんだ。あの時すれ違った誰かも、腕が触れた誰かも、教室でただ一人声をかけてくれた誰かも、いままで何人も、何人も、何人も!
私は、私だけが、救うことができたんじゃないか……!
「う、うう、うあああ……っ!」
マシロのあたたかい体を抱いて、私は泣いた。それは、誰のための涙だったのだろう。
もう死んでしまった誰かのためか、もうすぐ死ぬ誰かのためか。あるいは――
「ごめんなさい……」
呟いて、応える声はなかった。
■5■
心を、凍らせる。
それは時間を凍らせるということだ。凍った時間は、それでも進んでいく。何も生まないまま、無意味に、無価値な過去を積み重ねていく。
なんて馬鹿なことをしていたんだろう。
何が楽しくて、何を望みに生きているのかなんて決まっていた。最初から私にはマシロしかいなかった。そのあたかかみしかなかったのだから。
自分から凍りついて、周囲を遠ざけたくせに、いつかそのあたたかみを与えてもらえると、それを望んで生きていたのだ。
何人も何人も見殺しにして来たくせに。
それが間違った望みだとは思わない。間違っていたのは生き方だ。耐えられないから逃げ出して、誰かに救い上げてもらえることを期待した、それが間違っていた。
火花が散る。
それは死の警告だけど、同時に生の証明でもあるんだから。
私はもっと早くそれに気づくべきだった。これは、いま私が生きているという証拠。まだそのひとが生きているという証拠なのだから。
「ねえ、今日ヒマ?」
「ううん、今日はちょっと、明日ならあいてるから」
「そっか、じゃあ明日にしようかなぁ」
クラスメイトと会話をかわしながら、私は帰る支度を進める。今日は用事がある。マシロが退院するのだ。
「それじゃ、また明日」
「またねー」
手を振って、教室を出る。
マシロは一命を取り留めた。真っ当に歩くことはできないそうだが、それでも、生きていてくれたのだ。マシロには、どんなに感謝してもしきれない。
だからこそ、マシロが救ってくれたこの命は、大切に使わなければいけない。
「あ、ねえ、ちょっと待って」
「はい?」
すれ違ったときに腕が触れた後輩を呼び止める。不思議そうな顔をして振り返った彼女に、笑いかけた。
マシロを迎えに行くのは、少し遅くなってしまいそうだ。だけどまあ、許してくれるだろう。
心の中でマシロに謝って、私は青い火花を散らす、彼女の手をとった。
「ちょっと、話がしたいんだけど――」
私は生きていく。
もうすぐ死ぬ誰かのために、いま生きている誰かのために。
いつか死ぬ、私自身のために。
「もうすぐ死ぬひと」・おわり
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