目に見えない甘み

 あるところに太秋という名の、目の見えない少年がいた。

 まさしく盲目であるという理由で家族に捨てられた太秋は、拾った村の人間に助けられ、薬屋として成長した。太秋の薬は優秀で、しかも安価だったため、近隣で評判になった。

 薬を学んだのは自分の目を治すためだったが、成長した太秋は光を映さない瞳のことをほとんど気にしなくなっていた。

 世界は美しい。

 それは見えなくとも変わらないのだと、太秋は村の人間から教わっていた。

 あるとき、太秋の噂を聞きつけて、一人の女が訪れた。

「あなたは目が見えないそうですね」

「ええ、そうです」

「世界は暗いでしょう? 真っ暗でしょう? 美しいと称えられる物も、醜いと蔑まれる物も、みな、一様に黒く塗りつぶされた影にすぎないでしょう? だというのに、あなたはなぜそんなに幸せそうなのですか」

「幸せに、光は関係ないからです」

「そんなはずはありません」

「なぜそう言えるのですか」

 一瞬戸惑ってから、女は応えた。

「私も目が見えないのです」


 女の名前は刀根と言った。太秋と同じように生来盲目で、太秋とは違い周囲の誰も支えてくれなかった。

「私は幸せどころか、本当に安らかに暮らせるところすらないのです」

 太秋は言った。

「では私のところで暮らしなさい」

「それでも、幸せになれるとは思えません。ならば、そんなことをして何の意味があるのですか」

「今から柿を植えましょう。柿のヘタは、煎じると薬になるのですよ」

「それで?」

「その柿の実がなるまで共に暮らして、幸せだと思えなければ、そこで終わりすればいい。試して損になるわけでは、ないでしょう」

「……」

 結局、太秋と刀根は共に暮らすことになった。


 刀根が心を開くまで、多くの時間は必要としなかった。それは村の人間のおかげでもあったし、太秋の優しさの成果でもあった。そうして太秋もまた、刀根に惹かれていった。

 一年経って、二人は祝言をあげた。

「太秋さん、祝言もあげましたが、あの柿の実はまだなりません」

 薬用と柿の木から少し離れた場所に植えられた刀根の柿は、まだ枝葉を伸ばすだけで花もつけていなかった。太秋は、手品の種を明かす時のような声音で、楽しそうに言った。

「実は、あなたを騙したのです。柿は実をつけるまで八年ほどかかるのですよ」

 太秋は笑って、刀根は黙った。

「どうしました」

「私は今、幸せかもしれません。いえ、幸せだと思います。きっと、幸せです」

「……」

「けれど、私にはまだわからないのです。この目が見えれば、と未だに考えます。ねえ、太秋さん。この疑念は、ずっとついてくるのでしょうか。これからどんなに幸福を味わっても、私は“もし目が見えたら、もっと幸せなのではないだろうか”と思いつづけるのでしょうか」

「……」

「太秋さん、それは、」

 刀根は一度言葉を切って、

「本当に――幸せだと言えるのでしょうか」


 太秋は答えなかった。答えないまま、六年後に逝った。


 自分自身を実験体に流行り病の特効薬を完成させた太秋の体は、副作用で身動きできぬまでになった。太秋は、病床のまま刀根に言った。

「ありがとう、刀根。君のおかげで、私はとても幸せだった」

「太秋さん……」

「刀根、君は、幸せだったかい?」

「……」

 刀根は首を振った。

「わからない。わかりません。幸せだけれど、けれど、これが本当に幸せなのか、私にはわからないんです。ねえ、太秋さん。答えてください。本当に、私は本当に幸せなんですか?」

「……柿は、なったかい?」

「太秋さん……?」

「君を残していくのは、本当は心残りだけれど……私の答えは、そこにあるよ」

「太秋さん……」

 数日後、太秋は息を引き取った。


 半年間、刀根はそこに残り、薬屋を続けた。後を追うことすら考えたが、太秋の言葉が耳を離れなかったのだ。

“私の答えは、そこにあるよ”

 刀根は柿が実をつけるのを待った。そうして半年後、刀根の柿の木は見事な橙の実に枝を揺らした。

「……」

 柿自体を食べたことは何度でもある。太秋が作った柿を二人で食べもした。刀根には何が違うのかわからなかった。それでも、冷静ではいられなかった。七年と半分、待ちつづけたのだから。

 刀根は激しくなる動悸を押さえつけて、柿を一口齧った。


 それは、柿だった。ただの柿だった。今まで幾度も味わった柿と、全く同じものだった。


「あ……」

 だというのに、刀根の、光を映さない瞳から、涙がポロポロと零れ落ちた。それはただの柿なのに、柿の味しかしないというのに、舌の上に広がっているのは、もっと別のものだった。

 それは、二人で交わした会話であり、ささいなきっかけで起きた喧嘩であり、笑い声であり、涙であり――それは、彼女がここで過ごした七年半の記憶だった。

 七年半、二人の手で育て上げた柿には、二人を見守ってきた柿には、太秋と刀根の時間がぎっしりと詰まっていた。

「ああ……あああ、うぁあ……」

 一口分、端の欠けた柿を抱いて、刀根は泣いた。やっと、太秋の言葉の意味がわかった。この柿の中には太秋がいる。この柿の中には自分がいる。この柿の中には、二人の幸せが、あふれんばかりに満ちている。

 ああ。

 これを幸せといわず、何を幸せと呼ぶのか――

「ごめんなさい、太秋さん、ごめんなさい……」

 今はもう遠い彼の人へ、刀根は謝罪と、

「……ありがとう」

 感謝の言葉を、つぶやいた。



 あるところに目の見えない薬屋がいた。

 一人の旅人が薬屋の噂を聞きつけて訪れ、目の見えないことに苦労があるか、とたずねた。

「それは、ありますよ」

「どうです、目が見えなくて不幸だ、とは思わないんですか?」

「いいえ。幸せに、光は関係ないんですよ」

「それはまた、なぜ?」

 薬屋はにっこりと笑って答えた。


「だって幸せなんて、最初から目に見えないじゃないですか」



「目に見えない甘み」・おわり

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