6
「はい、これが食料です」
そう言って目の前に出されたのは、野菜と、穀物と、豆類と、ボトルに入った水だった。私が顔を上げると、食料を渡してきた少年が済まなそうな顔をする。
「すいません、今野菜や穀物類しかないんです。肉や魚や卵を出せる能力者がいなくなってしまって……」
「いや、それは別に構わないけれど、一体どうやって……」
「そういう事はあんまり聞かない方がいいんじゃないかしら」
少女は食料の入った段ボール箱の前に屈みながらそう言った。聞かない方がいいって……どういう事だ。少年は困ったように笑った後、今度は私を見てほっとしたように笑みを深めた。
「それにしても分さん、良かったです。無事で。祥吾君達は教会ですか?」
「君も、私を知っているのか……」
「やっぱり、記憶がないんですね……覚えていないかもしれませんが、よく五人でここまで生活に必要なものを取りに来ていらっしゃいましたよ。祥吾君と、清華ちゃんと、新太君と天良ちゃんの、五人で」
少年はよどみなくそう言った。その言葉と瞳に嘘はないように感じられた。けれど、そんなはずはないのだ。三年間分もの記憶を失っているなんて。だって、もしそうだとしたら……
「用事は終わったわ。それじゃあ行きましょうか」
「え?」
少女の足下に視線を向けると、いつの間にか食料がなくなっていた。大量の野菜も、穀物も、豆も、水もだ。少女はリュックなど持ってはいないのに、それらの物品はいつの間にか綺麗さっぱり掻き消えていた。
「食料……一体何処にやったんだ……」
「アンタ、一体何見てたワケ? ただぼーっとそこに突っ立ってたの?」
「あなたも、能力者だったんですか?」
「ま、そんなトコ。別に今時珍しくもないでしょう?」
少女はそう言って部屋を出て行こうとした。私は慌てて少女のダッフルコートを掴む。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「何よ、食料さえ貰えたらこんな所に用はないわよ」
「私の都合も聞いてくれよ! この人達は何か知っている。それを聞かないでここから立ち去る事は出来ない」
「あの、何処かに行かれるんですか?」
志乃さんの声に、少女は嫌そうに振り返った。私を問答無用で蹴りつけたのと同じ目付きで志乃さん達を睨みつける。
「そうだと言ったら?」
「申し訳ありませんが、今ここから出て行くのはお止め下さい。分さんと同じように記憶を失くした人達がいるんです。その人達に外に出て行く姿を見られると……」
「ハァ? 知った事じゃないわよそんな事。なんでギャアギャア喚くしか能のない赤の他人ごときのために足止め食わなきゃいけないのよ」
「君、だからどうしてそういう言い方を……」
「何か用事があるのだとは思いますが、せめて今日一日だけでも」
「ふざけるなって言ってるのよ。テメエらの問題ぐらいテメエで解決しなさいよ。私には関係ない……」
その時、少女が何かに跳ね飛ばされたように後ろへとひっくり返った。視線を下げれば鋼鉄の輪のようなものに拘束された少女がじたばたともがいており、一人の男が手を前にかざした状態で口を開く。
「悪いが、おとなしくしてもらう。こちらもバルドルから派遣された者として、コロニー内の秩序と平穏を守らなければならない義務がある」
「……んな事、知った事じゃないって言ってんのよ! 離せどカスが! この(自主規制)がスカした面してナマ抜かしてんじゃあないわよ!」
「分さん、失礼ですが、この方は一体誰なんですか?」
志乃さんがついにこっそり私に聞いてきた。私は曖昧に笑って誤魔化す事しか出来なかった。この少女が一体誰なのか、それは私が一番知りたい事だ。
それにしても……私は床の上でもがいている少女へと視線を向けた。前々から思っていたが言葉遣いが悪過ぎる。言い方が悪くて申し訳ないが女性が……いや、まともな人間が使うような言葉ではない。
「……ちょっと落ち着けよ。君が焦る気持ちもわかる。でも、一日ぐらいいいじゃないか。食料ももらった事だし、この人達の言う事ももっともだ」
「アンタはアンタの都合を叶えたいだけでしょうが。テメエの都合を他人に押し付けるしか能のない木偶の坊が偉そうな口叩くんじゃないわよ」
「自分の都合を押し付けているのは君もじゃないか」
「ええそうね。でも、だったら余計にお互いさまでしょ? 私が私の都合を押し付けているというのなら、アンタやこいつらだってテメエの都合を私に押し付けているだけじゃない。それをどうして私だけが一方的に聞いてやらなきゃいけないの?」
埒があかない。私は肩を落とした。とりあえず、とコロニー内の能力者達に向き直る。
「私はここに留まるのは構いません。食料の恩返しもしないといけませんし、何か手伝える事があれば言って下さい」
「……、ッの、クソッタレが! 偽善者が! 人に断りもなく何勝手な事を決めてんのよ!」
「落ち着けって。さっきも言ったように君が焦る気持ちもわかる。でも、私達が今出て行かない方がいいのは確かなんだ。聞きたい事もある。少しだけ時間をくれよ」
「時間って、昨日一日いっぱいくれてやったでしょうが! どんだけテメエ勝手な事を抜かしてんのよ木偶の坊が!」
「とりあえず、ここを出ましょう。落ち着いて話を出来る所に」
「ちょっと、私をここに置いていく気? これを解けって言ってんのよこの腐れ」
私は少女を置き去りに扉を閉めた。中でまだ何かを叫んでいるようだったが、精神衛生上の観点から意識に入れない事にした。
「本当に……すいません。彼女は……その、口が悪くて……」
「いえ、無理を言っているのはこちらの方です。彼女……厘さんでしたか。彼女が怒るのももっともです」
「そんな事……ホールの人達の様子を見れば、うかつに動くべきではない事ぐらいわかります。自分の都合しか考えない彼女が悪い……」
『私はあと半年で死ぬっつってんのよ!』
その時、あの黒い少女の声が脳の中に響いた気がした。それが気のせいか、扉の向こうにいる少女が直に発したものかはわからない。
けれど、私はそれを目の前にいる志乃さん達に伝える事は出来なかった。困らせるだけだし、志乃さん達の事情もわかるし、……一日ぐらい大丈夫。そのはずだ。それに、聞きたい事もある。私は志乃さん達に視線を向けた。
「それで、何かお手伝い出来る事は」
「いえ、申し訳ないですが……今能力者達で対応に当たっていまして、一応手は足りています。記憶喪失の分さんに対応に当たってもらうのは余計に混乱を招くかと……」
「あ、そうですね、すいません……あの、聞いてもいいですか?」
「なんでしょう」
「バルドルって、なんですか」
私はとっかかりとしてそれを尋ねた。他にも聞きたい事はあったのだが、それを聞くのが一番手っ取り早いような気がした。
「能力の発現した者を集めて必要な地域に派遣、人々の生活と生命を支援するべく設立された組織です。北欧神話にてラグナロクの後に蘇る光の神、バルドルの名にあやかったと聞きましたが……」
「志乃さん達は、そこから?」
「はい。ここに来てそろそろ一年になります。もう少しで任期が終わるという時にこんな事になってしまって……」
「任期?」
「派遣された能力者は一年毎に交代する事になっているんです。我々は同時期にここに来て、本来なら二日前に交代する事になっていたのですが……」
「すいません、その一年で交代する理由というのは……」
「うっ……」
その時、先程厘を捕らえた男が急に喉を押さえて体を丸めた。明らかに様子がおかしい。能力者の一人が男の背に右手を乗せる。
「おい、どうした」
「きゅ、急に気分が……うっ……がボッ……げえぇ、ゲェェ、げえェェェッ!」
ビシャリと、砂で汚れた床の上に黒い液体が撒き散らされた。男は黒い吐物を吐きながら床の上に膝を付き、腹を押さえながらさらに黒い物体を吐き出していく。
「うっ……がァ、ぎゃああァアアアアッ!」
「こ、これは一体……」
「う……うわあぁッ!」
「きゃあああああっ!」
「皆さん、落ち着いて! 落ち着いてッ!」
ホールの方から怒声と悲鳴が響いてきた。志乃さん達が駆け出し、私も後についていく。大勢の人が詰め込まれていたそこで、数人の人間が蹲りながら黒い液体を吐き出しているのが見てとれた。
「な、なんだあれは……」
「藤治さん……さゆりさん……!?」
「あれは……まさか、疚……」
私の呟きを証明するように、黒い液体を吐き出す人間の体が徐々に黒に染まっていった。まるで生きながら焼け焦げた炭に変わり果てでもするように。そして、人影達はどしゃりと崩れ、ホーム内にたくさんの人間の悲鳴が響き渡った。黒に染まった影達から逃れるように隅に寄っていた人々が、ここから逃げ出そうとするかのように入口へと殺到する。
「ま、待って下さい皆さん!」
「落ち着いて、落ち着いて止まって下さい!」
「一体、一体何が起こっているんだ!」
「きゃああああああっ!」
今度は外から悲鳴が聞こえ、私は声を振り返った。すっかり薄汚れたガラス戸の外に、刃物を持っている男が女の首をかっ切っているのが見て取れた。スローモーションのように見えたそれは、大勢の人間を引きつれてドームの中に入って来ようと足を踏み出す。
「薬人だ! 狩っちまえ!」
「きゃああああああ!」
「逃げろ! 奥に逃げ……がゥッ」
「助けて! 助けて、助けてぇぇエッ!」
私は、状況が判断出来なかった。一体何が起きたのか全く理解出来なかった。突然人間が真っ黒になって、それを見た人達がパニックを起こして、殺到した人々が外に出たと同時に刃物を持った人間達が現れて……私は、雪崩込んでくる殺人者達とパニックを起こす群衆にそのまま押されて流された。押された衝撃に床に倒れ顔を上げると、乱入者達が刃物を携え逃げ惑う人達に振るい下ろし突き立てている。
「やめて……助けてェッ!」
「やめてくれ……うわああああ!」
「殺せ殺せ殺せ殺せ」
「何が……何が……一体何が起きているんだ!」
私は、悲鳴を上げるべきではなかった。雪崩込んできた男の一人がぎょろりと私に視線を向けた。私は咄嗟に口を押さえたが、もう遅い。男は一歩一歩私の方へと近付いてくる。
逃げなければ。
逃げないと殺される。
早く立て。
歩け。
走れ。
今すぐここから逃げるんだ。
足が動かない。
男から目を逸らせない。
男が刃物を振り上げる。
誰か助けて。
助けて。
だれかぼくをたすけて
たすけ
「そいつから……離れろこのクソ野郎がッ!」
黒い塊が、刃物を振り上げる男の横に突撃した。黒い塊はそのまま男にのしかかり、何かを男の目へと躊躇いなく振り下ろす。黒い塊は、厘は、目から血を吹き出す男から顔を上げると私の方を睨み付けた。
「何ボケっと地べたに尻付けてんのよ! 死にたいの!?」
「り、厘! どうして……」
「どうしてって、あのクソ野郎の拘束が解けたからここまで走って来たんじゃないの! 早く立て。もうここには用もないでしょ?」
「ま、待ってくれ! 志乃さん達が……」
厘は、私から顔を背けた。両手を胸の前で合わせ、いつの間にか包丁を両手に二本握っていた。そして駆け出し、いつの間にか私達に迫っていた男二人の頭上へと跳躍する。
「なっ!?」
厘はそのまま包丁の刃を下に向けると、驚いて天井に視線を向けた男二人の脳天へと突き刺しながら落ちてきた。倒れる男達から視線を逸らし再び私に顔を向ける。
「状況わかっているんでしょう? ここでちんたらしている暇はもうないのよ。早く立て。ここで死にたいならそう言って」
「……」
「黙ってないでなんとか言えって言ってんのよ。さすがにアンタを仕舞って持っていく事は出来ないの。早く立て。ここで死にたいならそうと言え」
「こっの……クソアマがっ!」
「人が話している最中に……口を挟むなクソッタレがァッ!」
厘は今度は途中が折れた道路標識を取り出すと、襲い掛かってきた男の首を斜め下へと打ち落とした。何が起きているのかわからない。どうすればいいのかわからない。悲鳴が聞こえる。怒声が聞こえる。人が倒れている。人が死んでいる。殺されている。少女は、面倒そうに首を傾げると、近付いてきて私の右の腕を取った。顔を上げると黒いだけの瞳が私を覗き込んでいる。
「立てって言ってんでしょ」
「……」
「なんだ……なんだ、この女は!」
「うっるさいわね……人殺しなら他所でやれ! 私を巻き込むんじゃないわよ!」
厘は今度は後ろから振られた刀の攻撃を回避するとそのまま男の腹に蹴りを入れた。そして再び私に視線を下ろし、私の腕を上へと上げる。
「行くわよ」
「……」
私は、何も言えなかった。何も見えなかった。私に見えているのはぼやけた風景と、私の事を怖い表情で睨んでいる黒い少女だけだった。厘はそのまま私の腕を引っ張り、背後の喧噪など耳にも入らないように入口へと歩いていく。途中で人の悲鳴と、何か重い物が倒れるような音が連続したが、私はただ歩いていく事しか出来なかった。気が付いたら私は誰もいない草むらに座っており、それを黒い少女が黒い瞳で覗き込んでいるのが見えた。
「ちょっと、いつまでぼけっとしているつもり」
「……」
「とりあえず連中が追ってこない所まで来たけれど、ここも安全とは言えないわ。とっとと移動しましょ。さあ早く立って」
「志乃さん達は……どうしたんだ……」
私は、そう言った。立ち上がった少女が怖い表情で私を睨んだ。しゃがみ込み、私の襟を掴み、ギラギラした黒い瞳で私の事を覗き込む。
「アンタ、今なんて言った?」
「志乃さん達は……どうしたんだ」
「私が知るワケないじゃないの」
「置いてきたのか」
「だったら何よ」
「殺されるかもしれないじゃないか……」
「それが一体なんだってのよ」
少女は、吐き捨てた。苛立だしげに。どうでもいいと言わんばかりに。
「なんだって……なんだ」
「そっちこそ一体どういうつもりよ」
「助けに行かなきゃ」
「何を馬鹿な事を言ってんのよ」
「君こそ何を言っているんだ」
「使えないクズが今更何抜かしてんだって言ってんのよ」
「人が……殺されようとしているんだ、助けるのは当たり前だろう!」
私の左横を、重い拳が殴り抜けた。少女は私の襟を掴んだまま正面へと引き戻し、そのギラついた黒を押し付けるように私の事を睨み続ける。
「アンタ自分が何か出来ると思ってんの? 地面にケツ付けてガタガタ震える事しか出来ないような役立たずが。早く立て。とっととここから離れるって言ってんのよ」
「君一人で行けばいいじゃないか……私はここに残る……志乃さん達を助けないと……」
「アンタに一体何が出来るのかって聞いてんのよ!」
「何も出来なくても、なんとかしようとするのが人間じゃないか!」
私は地面に引き倒された。黒い塊が馬乗りになり、私の頬を殴ってきた。顔を上げようとすればまた殴られる。あまりの衝撃で息が出来ない。
「今更何抜かしてんだこのドクズが! 人が助けてやったのに何ザケた事を抜かしてんのよ! テメエの身の程も弁えられないの? 大人しく私に従えこのクズが!」
重い塊が、何度も何度も私の顔に降ってきた。脳が揺れる。目の奥がガクガクする。顔を上に向けた時、真っ赤に汚れた人の拳が降ってくるのが最後に見えた。
「寝てろ」
グシャッ
疚市 雪虫 @yukimusi0127
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。疚市の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます