第3話
静かな、歴戦の車内戦士たちの沈黙を破る、ざわめき。
「どうした、車掌」
そんなはっきりとした呟きさえも聞こえた。
何を言っているんだ、そう考えたのは僕も同じだ。
――次の瞬間、急に車内が明滅する光に埋め尽くされる。
赤、黄色、青。車両と歩行者の進行を指示する信号機の色のような。そして、それとは違ってさらに濃淡と色調のグラデーションの違いに訴える色とりどりの光の渦。
それが、すべての乗車戦士の鞄や衣服のポケットを透過して、車両内のすべてを埋め尽くしていた。
「なんだ……これは」
ざわめきが深刻化する車内に、途方に暮れたような声が響いた。
僕は他人の体やバッグによってほとんど目視できない自分の体を見た。僕の体の一部、戦闘服の胸の内ポケットの中が激しく振動し、そこから衣服さえも透過して発光するオレンジ色の光――
確か、ここには駅の改札を通過するときに使用した、電子乗車カードと鼻をかんだティッシュしか入っていない。
光の発生源は間違いなく、乗車カード。
『えぇー、お客様がお持ちの電子乗車カードは、すべてのお客様の乗車履歴を記録しておりますぅ。乗車カードは昨年末より搭載致しましたぁ、小型AIによってぇ、お客様すべての目的地を自律的に計算しておりますぅー。只今、SL発光によって発色しております各色はぁ、お客様それぞれの目的地までの距離に対応しておりますぅー。……青系統はぁ、相対的に遠い目的地ぃ。黄系統はぁ、中間目的地ぃ。赤系統はぁ、終点により近い目的地となっておりますっ』
淡々とした車掌の言葉とそれに唖然とする乗車戦士たち。
そして、続いて恐るべき事実が発表される――
『各色に従ってぇ、乗車位置をぉ、変更してくださいぃー。一定時間以上、相応の乗車位置への移行が観測されない場合ぃ、乗車カードは自壊致しますのでぇ、ご了承くださいぃー。……お客様の乗車位置の観測と計算はぁ、お客様の電子乗車カードに搭載されたAIがぁ、クラウド型システムをぉ……』
「はぁ?」
「ばかげてる」
そんな乗車戦士たちの失笑とも、憤りともとれる声がそこここで上がった。
僕もまた同じ思いだった。今時の第三セクターはどのような社員教育を施しているのだろうか?
そのとき。大きな破裂音と僕の体の表面を撫でる振動が車内に走った――
「……うわっ!」
「きゃああああああ!」
「そんなばかなっ!」
口々に聞こえるそんな言葉。それとともに車内環境に揺らぎが走る。駅に到着していないのに、ふたたび流動する車内。
しかし、それは決して無秩序なものではなく、一定方向へと流れを持ったものだった。
開ける視界。見れば、僕がいるドア口の吊り革とは反対側のドア口に大きな空間が出来ていた。
ある一点、車内のドア口付近、手すりと手すりの間のセーフゾーンに身を預けていた男性が、胸のあたり、不可解にも黄土色の欠片をYシャツの裂け目から溢しながら「……あ」と呟いて、車内の床へと倒れ込んだ。
『……えぇー。正しく電子乗車カードを改札機へとタッチされていなかったお客様がおられたようですぅー。電子乗車カードの超振動による自壊はぁ、お客様の身体の一部をドーナツへと変換いたしますっ。方向・範囲・威力ともに計算されたものではありますがぁ、このように思わぬ事故がぁ……』
「いぃっやあああああ!!」
「移動しろ……移動するんだっ!!」
「ドーナツだと?! ふざけるなっ!」
車掌の言葉が終わる前に誰もが口々に叫んでいた。
そしてふたたび混乱する車内。原始以下の闘争と狂乱に呑み込まれていく車内。
座席に座っていたいくらかの既得権益者が立ち上がり、吊り革に身を委ねていた者がそれを手放して座席へと人の海を掻き分け、うつらうつら舟を漕いでいた者ですら血相を変えて隣人の髪の毛を毟っている。
「俺はここだっ! 俺のは青く発光してるっ!」
「ばかやろう、俺のほうが真っ青じゃねえか! どけっ!」
「通せよっ! 俺は赤羽で降りるんだっ!」
「うるさいっ! 座席で寝てたくせに、何言ってやがる! ドーナツになっちまえっ!」
「――なんで、ドーナツなんだっ!!」
――そうだ。なぜ、ドーナツなんだ? どうやって人間の体をドーナツに変えるというんだ?
これが、正解だとでも言うのか? ドーナツ化現象と吊り革に関するこの難問への正答だとでも言うのか?
これが、無秩序と混乱に陥る車内こそが、僕の望んだものだとでもいうのかっ!!
『…………テッテテレテッ、テッテテレテ、テッテッテッテッテッテッテッ……』
――なぜか、車両内のスピーカーから聞き覚えのある音楽が流れてきた。
なんだ? これは、この気の抜けるような音楽は?
『――マイムマイムマイムマイム、ミィマイム、ベッサンソン! マイムマイムマイムマイム、ミィマイム、ベッサンソン!』
――マイムマイム……それが狭い車内の中に大音量で響き渡る。
それをBGMに、僕たちは車内を駆け回った。
必死に、まるで踊るように。
――誰かが車内のどこかで「ベッサンソンっ……」と小さな声を漏らした。
それを聞いた別の誰かがまた「……マイムマイムマイムマイム、」そう呟く。
駆け回るうちにぶつかり合っていたはずの肩や腕は、音楽に合わせて組み合わされ、脚は懐かしいステップを思い出す。
どうしたというのだろう?
この状況はいったいなんなんだ?
そう考えるのも億劫になるほどの乗車戦士たちの水が流れるような見事な動き。
……いや。戦士たちではない。ここには、もう、戦士はひとりもいない。
遥かなる時を越えて、水を得た歓喜を歌ったという、その狂熱にうかされるように、いつしか乗車戦士だったはずの僕たちもまた、踊り狂う。
そうだ――少年時代に踊ったマイムマイムもまた、手をつなぎ合って
「マイムマイムマイムマイム――」
その唱和が車内放送の音楽と重なり、流動する僕たちの体はやがて弧を描き、円をなす――
いつのまにか、僕の両の手は両隣の名も知らぬ誰かの汗ばんだ手とつなぎ合わされ、僕の体を運ぶ脚は勝手に円を描くステップを踏み、そして、ときにメビウスの輪のように八の字すらも描き出し、握りあった手を離して、また別の誰かの掌の中へと着地する――
『――マイムマイムマイムマイム、ミィマイム、ベッサンソン!』
「へぃっ!!」
BGMに合わせて僕らは手を離して、両手を打ち鳴らした。
それがもっとも自然で、素晴らしいことだとでも主張するように。
もう、ドーナツになるだとか、乗車カードに搭載されたAIなどというものや、それらに規定される位置取りもどうでも良かった――
『――マイムマイムマイムマイム、ミィマイム、ベッサンソン!』
「へいっ!!」
座席から網棚へと登り上がる者。手すりに掴まり、ポールダンスのような動きを見せる者。
さらにはふたつの吊り革に手を掛けて跳びあがり、体操種目のつり輪のようにピンッと脚を伸ばして姿勢を維持する者。
座席上に立ち上がり、『サタデーナイトフィーバー』のジョン・トラボルタさながらに踊り狂う者まで――
――誰も彼もが、喜びのうちに何かを表現しようとしていた――
渦巻く色とりどりの光は、まるでシグナルのように。
高速で動き回る僕たちの体から発せされるそれらの光は、次第に融け合い、眩いばかりの白い光へと変わり。
やがて、僕たちのステップは人間の身体機能の極限を越え――
『なんちて』
車内スピーカーから、かつての教授の声。
――ぷしゅっー。
『赤羽ぇー。赤羽ぇー。お並びのお客様は乗車口付近を広く空け……』
暴力的ともいえそうな背中への軽い衝撃。
僕は周囲を確認しながら、背中を圧されるままに、開いたドアとは反対側のドア口付近から車外へと排出された。
いつもどおりの車内。そして、いつも通り、ホーム上を埋め尽くすカラス色の戦闘服。
「……夢、か」
呟きながら、車外のドア口の片側へと身を寄せる。
当然だ。あんなことが現実に起きるわけがない。
戦闘態勢へと移行しながら、僕は体を最前列へと滑り込ませる。
滑り込ませながら、胸の内ポケットのあたりをそれとなく確認した。
小型の人工知能も、発行機能も持っていないだろう電子乗車カード。
それは静かに、粛々とポケットの中に納まっている。
原始的で、ある種暴力的とも言えそうな肉体と肉体が織りなす流れへと、僕は身を委ねた。
そのとき、
『ドーナツぅー……』
という車内放送が聞こえた気がした。
その声に、車内に留まっていた乗車戦士の多くが顔を驚愕の色に染めたのを僕は見た。
『……失礼致しましたぁ……ドア、閉まりまーすっ』
その言葉とともに、ステンレス製の怪物が口を閉じる。
ドア口のセーフゾーンの男性をちらりと窺う。
彼はなぜか、自分の胸元へと視線を落とし、さすっていた。
まるで、ドーナツの欠片でも探しているように。
――白昼夢? いや、違う――
そんな確信を抱きながら、僕は考える。
明日からはちゃんと乗車マナーを守ろう。
僕はそう、ドーナツ状の白い吊り革に誓ったのだった。
あの吊り革の穴の向こう側に、僕はドーナツ色の夢を見た 安藤 兎六羽 @ando
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