第2話



――動き出す戦士たち。

 予想通り、眼前の男の速度は規律的なほかの戦士たちとは比べものにはならない。

 おそらくは時速にして四キロを下らない。最初からクライマックス。トップスピードに近い。


 僕も躊躇なくその背中を追う――

 僕の目に映る時速四キロの高速の世界。隣の戦士がちらりと僕を睨みつけていた。


 承知している。これはマナー違反はずべき行為。

 僕たち戦闘者に許された最低限のプライドを踏みにじる行為だ。


 僕は今朝に限っては、それさえ一度捨て、また拾うことにしよう。


――このホームにおいては、数というものこそが力である。

 具体的には後続者の数こそが正当性となる。

 加えて、僕の後ろに並んだ乗車ラインぎりぎりの戦士たちも、自分が足切り線上にいることを理解しているはず。


 だからこそ、この企ては成功する。

 一度、列に並んでしまえば、すぐ前に並んだ者の背中しかほぼ見えない。それはいくらか経験を積んだ戦士ならば誰もが承知している。

 僕の後続者たちは、確実に騙されたフリ・・をするだろう。


――え? 前の人に付いて行っただけだよ? ――


 などという、とぼけ顔さえ浮かべて付いてくるはずだ。

 僕の予測はこれまた的中した。後続者の足音が僕に続いている。これならば、僕は紛れ込むことができる。


 ただ単に、僕の目の前の男が扇動した暴挙。

 おそらく彼は、車内においていくらかの迫害にさらされるだろう。もしかしたら『お客様同士のトラブルアクシデント』にさえ見舞われるかもしれない。


 だが、僕はこれで僕自身の安全を確保したに等しい。

 僕はみなと同じように、彼に続いただけなのだから。



――僕と後続者のための黒いヤギスケープゴートは、僕の思惑を知ってか知らずか猛進していた。

 肩で人波を掻き分け、ときにぶつかってよろめき、それでも前に進んでいく。

 僕を初めとした彼の後続者たちは、彼の背中を押す。彼の企みの成功が僕らの成功にほかならない。


 彼を先頭とした僕らの戦闘は佳境を迎える。完全にすべてのかつて乗車戦士だった者たち――今は企業戦士に転職した者たちが吐き出されたのだ。


 整然と列を形作っていた戦士たちもいよいよ僕らの思惑を察していた。彼らは、もちろん、彼らの待ち時間を否定する扇動者の暴挙を許しはしない。

 白い目で見るという高度な飛道具によって牽制し、それでも止まることを知らない扇動獣の進撃に、やがて実力行使に訴える。

 僕もまた隣から肘やバッグで攻撃を受ける。

 まるで「なにやってくれてんだっ!」そう言わんばかりの攻撃。


 通勤鞄という最上の盾でそれらを受け流し、僕は胸と腹で扇動者を圧し込んだ。

 僕の後ろの戦士もまた僕の背中を物理的に圧す。おそらくは彼もまた、後ろからの圧力プレッシャーを受けているのだ。



「ドアが閉まりまーす。次の電車をお待ちくださーい」


 物言わぬ駅と電車。それらの代弁者である駅員の最終宣告がホーム上に轟いた。

 扇動者の勢いはほぼ停止していた。僕も、電車とホームに間にあるわずか数センチ足らずの深淵をすでに乗り越え、戦場に突入していた。

 だが、後続者の勢いはとどまることを知らない。車体の壁という制限領域すら突き破らんばかりのエネルギー。

 元から車内を埋め、一時の安寧にかこつけていた戦士たちを巻き込んで、車内が波打ち、大きく流動する。


 まるで、全体論ホーリズムにかつて与えられた相対論の衝撃のように、車内という有限環境を満たす熱情。

 人間の体という物理的な抵抗要素に挑戦しながら、僕は素早く目を動かした。

 足場などというものに、あるいは隣人の体などというものに望みバランスを託す者を待つ運命は、転倒と『お客様トラブルアクシデント』だ。


 手を伸ばさねば、手に入るわけがない。安全とはそういうものであり、『吊り革』とはそういうものなのだ。


 うねる坩堝るつぼの中、僕の視線の先、ひとつの吊り革の権利が今、手放された。ぽっかり空いた所有権の空白。

 大きな嵐には、鳥たちも小さな宿り木を離れなければならない。

 方々から伸ばされ、不規則で力強い原初の混沌のような渦に、引っ込められる腕。


 甘い。まだ、この車内は未だ混迷エントロピーの渦中にある。

 タイミングを見誤れば、僕も彼らの二の前だ。

 開いているドアと、車両を先頭から最後尾まで縦に裂く線。その線対称に位置するドアに押し付けられる戦士たちの肉体の声なき悲鳴が聞こえるようだ。彼らは動けない。

 動けない彼らの意図が伝染するように、車内を巡る人間によって形成された流体は、その動きを鈍らせる。エネルギーには限りがある。


 今だ。

 僕は、それに手を伸ばした――


 白く滑らかな弧を描くそれに掛かった指。僕は込み上げる笑いを噛み殺す。勝った。

 まだ残響のように響く、流動する肉体たちという構成物による波の流れ。その流れにできる限り逆らわないように、吊り革の真下へと自分の体を引き寄せる。

 新たに投入された異物――戦士たちを呑み込んで、なおも安定化を図ろうとし始める車内の持つネゲントロピー機能。それが正常に作動し始めていた。


 一度、安定してしまえばポジショニングを変更することは至難。

 僕の権益つりかわは油断さえしなければ、次の駅までは守られるだろう――


 何度か、閉扉を試みた末に、怪物がようやくその口を完全に閉じる。

 車内を襲う弛緩した空気。戦闘は今、ひとつの段階を乗り越えた。

 少しでも続く安定。それこそが大半の人類と、いくらかの先導者たちに創り出されたシステムが望むものなのだ。


 加えてこの通勤快速という怪物は、なかなか停止しない。特に、この武蔵浦和から赤羽までノンストップだ。

 僕は、この車内において絶対とは言えないまでも少数派に属する勝ち組となった。


――怪物が呻り声を上げる。

 慣性によろめく肉の塊。僕はわずかに踏みとどまり、隣の戦士の体を支えてやった。


 戦闘はまだひとつの段階を越えたに過ぎない。続いているのだ。

 溺れる者は藁をも掴み、倒れる者は他者の袖をも引く。

 この時間の車両を満たす戦士たちは、日常の疲労を蓄積させた者たちばかり。


 押し付けられる適温の体。自由を奪われた己の肉体。睡魔に襲われる者すら中にはいる。

 そして、もっとも度し難い、他者にすべての望み――体重を預ける者。

 それらをどのように躱すのかという永遠の命題に僕はこれから挑まねばならない。


 そして、何よりも、僕が今掴んでいるものは仮初かりそめの安寧に過ぎないのだ。

 少しでも、油断して手を離そうものならば、即座に奪われる。

 そう、この車内には二通りの人間しかいない。体重を自ら支えることが適う者と、それを他者に預ける者だ。


 さらには、赤羽駅に到着すれば、僕を待っているのはさらなる地獄だ。

 赤羽は乗降者数が多い。かの停車駅に到着すれば、僕は否応なく希望つりかわを手放し、数センチの深淵を跳び越え、魔物の体外へと吐き出されることになるだろう。


 そして、また静かに、劇的に躍動する肉の海へと挑むことになるのだ。


 これが、戦場の作法。それこそが、通勤戦士の戦闘。

 この問題は、おおよそほかの社会問題と比肩しうるほど根深く、フェルマーの最終定理に比較しようとも見劣りしないほどの難問だ。


 都心に集中する企業オフィス。それが産み出す首都圏周縁部のベッドタウン化と、夜間昼間人口比の、場所によっては二十倍をも超える落差。

 加えて、より都心から遠くの駅の、早い時間に電車に乗り込んだ者が、終点まで座しているとは限らない。彼らの目的地は、次の赤羽かもしれないのだ。

 それらの要因が複雑に絡まり合い、この車内と乗込んだ者の尊厳をうねって蹂躙する、混沌と狂熱に支配された原始のごとき、あるいは電子レンジに放り込まれたブリトー内の分子のごとき度し難い流動が産まれている。


 ふつうに考えるなら、より遠い目的地を持つ者が座席に座るべき。そうすれば、車内の奥底から湧き上がるような天地をひっくり返したような騒ぎには至らないはずだ。おそらくは誰もがそれを理解している。

 だが、そうはならない。


 ここにいる戦士の誰もが、座りたいのだ――

 できることなら、少しでも脚を休めたいのだ。

 腰を、背中を、柔らかい座席によって慰撫してやりたいのだ。


 その根源的とも言うべき当然の欲求の前には、ゲーム理論の初歩の初歩、協力関係を結ぶことでより大きな利益と効率を求めるという基本的な計算すら通用しない。

 そもそも、誰がどこへ向かうかなど、当人以外は誰一人として知らないのだ。……僕たちが、僕たち自身の人生において、どこへ向かっているのか知らないように。


 満員電車という、この環境こそが社会の縮図である。そう、主張しよう。

 座席に腰掛けるという既得権益。少ない吊り革と手すりパイを争う中間層。そして、己の運命たいじゅうを他者に委ねるほかない底辺層。


 これこそが、社会。

 人間はおそらく、どこに行ったとしてもそれを形成するだろう。

 未だ見ぬ辺境においても、この小さなステンレス製の車両内においても。


 自己保全本能と公共の利益という理性が衝突し、ドラマを織りなすこの、偉大にしてどうしようもなく下らない社会を。



 僕は、効率的な乗降車方法を考えずにはいられない。

 だが、先にも考えたように、この問題はポアンカレ予想にも遜色の無い難問だ。

 この問題に対しては位相幾何学的トポロジックな発想が必要とされるはず。なにせ、問題の根幹がドーナツ化現象にあるのだから間違いがない。


 そして、今、僕が握っている物も、それに負けず劣らずに見事なドーナツ状の物体。吊り革なのだから。


 僕は静かに僕の指に握られた、白い、光沢さえも放つような吊り革を見つめた。

 この穴の中にこそ希望があるのではないか、と――



――そのとき、不可解な車内放送が流れる。



『只今ぁ、真理の扉をノックする脳内信号を受けましてぇ、この電車内は次の段階に移行しますぅ――』

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