あの吊り革の穴の向こう側に、僕はドーナツ色の夢を見た

安藤 兎六羽

第1話

――平成三十年、三月二十五日、朝、七時四十二分。


 僕は武蔵浦和駅三四番線のホームへと続く階段を駆けあがった。


 階段を埋め尽くす人波に圧されるようにしてホーム上へと突貫した僕を迎えたのも、また僕と同じように黒い戦闘服をまとった集団だった。


――集団。それは、正しくないかもしれない。

 なぜならば、このホーム上にいる人間の最終目的地のほぼすべてが異なるからだ。

 烏合の衆。まさしくそんな言葉がふさわしい。


……ふっ、……いや。烏合の衆もまた、集団であることには変わりはない、……か。


 僕の脳裏にあの日からきついて離れない光景と、あの言葉が蘇る――



『烏合の衆って、カラスの群れって意味、諸君らは知っていたかな? ――知るカァッ! ……なんちて』


 数年前の今と同じ春のあの日。あの瞬間。確かに、この世界は、『時を流す』という代謝活動を放棄した――

 ただでさえだだっ広いはずの大学の二号館二○四号室が、さらに周縁を延長し、二号館全体を呑み込み、大学敷地内のすべてへ拡大し、さらには空間的な尺度さえ自ら棄却して。

 音速を超越して拡散する『なんちて』は、やがて、光速へと到った――


『……なんちて……』


 何らかの反応を期待して教授の口から再度吐き出された、『なんちて』。

 だが、僕たち学生はそれに対してしわぶきひとつ立てなかった。花粉症罹患者が数多を占めるはずの講堂において、それは間違いなく奇跡だった。

 咳やくしゃみ。まして、しゃっくりなんてものは時間の僕らへの侵略を如実に物語るものだ。


 そのときの僕たち学生一同の、教授が発した『なんちて』に対する忠誠は、万物に襲いかかる『時』の侵攻をさえ食い止めたのだ――


『――講義を続けまーす』


 教授から発せられたその一言によって、僕らはまた『時』の苛烈な侵攻にさらされることになった……はずだった・・・・・



……だが、ただ僕ひとり。僕の『時間』だけが、あの瞬間に取り残されている。

――だからこそ、僕はこの地獄においても戦えるのだ。



 ホーム上に集るカラス色の服をまとった男たちといくらかの女たちは、烏合の衆と呼ぶことが憚れるほどに統制されていた。

 隊列を組む誇り高き戦士のように。

 秩序に殉ずる官吏のように。


 その証拠に彼ら、彼女らは、一歩として『黄色い線』を越えることがない。

 そして、駅員の口を借りて語る駅の意望、「二列乗車にご協力ください」というその言葉を、体現してさえいる。


 この光景を見るたびに僕は思う――

 これこそが、管理社会だ、と。


 そして、風を切ってホームに侵入する鋼鉄の塊。時刻表の規定時間、一分前ちょうどに停止するそれ。

 これこそが、人間の蛮性を解放する、現代の悪魔そのものの姿なのだ、と。


 ぷしゅっー、という悪魔の鳴き声。それを合図に動き出す人々。

 その体を避けながら、僕もひとつの列の最後尾へと紛れる。


――そして、戦闘が始まった。

 心を安らがせるはずの緑色のラインに彩られたにも関わらず、獰猛性さえ感じさせる鋼鉄――いや、おそらくはステンレスの構造物。その口。

 そこに、規律に統御されていたはずの戦士たちが殺到する。


 肘を、肩を打ちつけ合い、それでもなお進むことを躊躇わない戦士たちは、体を軋ませながら呑み込まれていく。

 武蔵浦和駅始発。この特殊な魔物の体内において目指されるものは当然、ひとつだけ。

 そう、座席という名の既得権益だ。一度座ってしまえば、戦闘行為を継続する必要などない。だが、そのパイはなだれ込む戦士たちの数に比べて少ない。あまりに、少なかった。


 戦士たちは死者のように沈黙したまま、あっという間に車内を蹂躙する。

 無事に権益を確保するする者。埋まった座席の前で、力なくつり革へと手を伸ばす者。

 あるいは、それらの戦闘行為を初めから避け、ひとつのドアにつきふたつしかない、手すりの狭間――セーフゾーンの確保にかかる者もいる。


 戦士たちのその姿は、殉教者のようでもあり、はたまた蛮族バルバロイのようでもある。

 しかしながら、ホーム上で列を作る人間の数に比して、その数は少ない。あまりに少なかった。

 なお、大蛇のごとき本命の列はその威容を誇っていた。


 一羽の私服の鳥がステンレス製の門へと猛進する群れを最後尾から眺めて、首を傾げている。


「……素人めっ」


 僕はその様子を眺めて口汚い罵りを囁いた。


 すべての戦士は『時間』という槍衾にせっつかれているのだ!

 貴様のような、戦場に立ってなお、自分がどこに、いつまでに到達すべきなのか把握していないような初心者は、この時間のホームせんじょうに立つべきではないっ!


 新たに登場した後続に押されて戸惑いながらも呑み込まれていく春めいた薄い菫色のジャケットをまとった一羽の鳥に、僕はそう心の中で吐き捨てる。


……ここには二種類の人間しかいない。

 理想のポジションを盗る者と、流される者の二種類だけだ。これも戦場におけるひとつの通過儀礼。


 彼は、きっと後者だろう……。


 そう思いながら、発射するステンレスの怪物を見送って、僕は腕時計に目をやった。

 時刻は七時四十六分を刻む。


 僕が今の一本に挑まなかった理由は単純。

 あれが、各駅停車・・・・だからだ。次の通勤快速は、五分待たずに駅に侵入してくる。

 そんな常識もわかっていない甘ちゃんは、自分のポジションを考える暇さえも与えられず、魔物の体内ですべてを、自分の体幹さえ奪われるだけだ。

 おそらくはさきほどの、彼を待ち受ける過酷な運命のように。


……だが、各駅停車に乗れることがどれだけ幸福なことだろうか?


 この時間帯の各駅停車の攻略難度を星一つとすれば、通勤快速は五つ星だ。

 今の僕に各駅停車を選ぶことは許されない。


……なぜならば、既に寝坊しているからだっ!!


 止まっていたはずの僕の時間が動き出す――

 あの世界の終わりさえ食い止めただろう『なんちて』も、それ以上の危機には無力だった。



――そのとき、風が吹いた。

 僕の髪がなびく。

 顔を上げた僕の目に、緑色のラインが鮮やかに尾を引いていた――


 次の怪物が侵入してきたのだ。

 停車。

 そして、高まる緊張と、高鳴る僕の鼓動。


 落ち着け。

 僕は自分にそう言い聞かす。

 間に合うはずだ、と。あの迷路のような新宿駅をノーミスで駆け抜ければいいだけだ、と。


 僕の思惑とは別に、戦闘は既に始まっていた。

 右へ、少し間を置いて左へとステップを踏みだす直ぐ前の男。おそらくは五十代の歴戦の戦士。

 僕は直感していた。――こいつ、狙ってる。


 そう、順番抜かし。もっとも単純にして、もっとも高難易度のウルトラC。そして――禁忌。

 流れ出す二筋の列。その間には当然、間隔がある。降車する戦士を讃えるためのウィニングロード。

 それを、戦士たちの誇りを、僕の眼前の男は汚そうとしていた。


 対向車線にはみ出して車間に鼻づらを突っ込む狂気のドライバー。

 それを思わせるような速足で、彼は魔物から吐き出される群衆と、戦いへと赴く戦士たちの間に肩をねじ込もうというのだ。


 僕はその行為を黙認することに決めた。

 それでいい。

 いや、それがいい。


 通勤快速においては、下手をすれば最後尾に続く者は最低限の権利であるはずの乗車権すら与えられない。

 僕の現状は良くて、ギリギリのところだ。攻めるしか方策はなかった。


 この世界には二通りの人間しかいないのだ。自分が希望する電車に乗れる者と、それを見送る者。それだけだ。


 ぷしゅっー――


 そのとき、ステンレス製の怪物が、吐息を吐いた――

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