“悲劇”は誰のものか

悲劇は、主人公の認識の中に納まらない、主人公を翻弄する生の現実の名前の一つに過ぎない。

もし彼が、己の運命を自分のものにできるなら、その可能性が、わずかにでも存在するのなら、それは決して悲劇として結実しない。

 

 悲劇は傍観者たる観客のものであり、劇中の主人公の心理とは何ら関係ない。もし彼が自身の現実を“悲劇”と回顧するだけの理性と勇気を持つのなら、彼は少なくとも悲劇の主人公ではない。彼が己の行為の結果、己をとりまく世界の諸相、酷さを受け入れてしまったなら、それは悲劇のシナリオではない。


 現実から目を背け、かといって己の命運から逃れる知恵も、狡猾さも持たない弱さをそのままに、明瞭な意思といえるものも持たない。だからこそ、抵抗も順応も選ぶことをしないで、ただ“いいようにされる”だけの彼の姿に、私たちは共感を覚えることこそ、忌避しなくてはならない。それが悲劇を観る者の正しいスタンスのはずである。


 しかしそんな主人公を、私たちだけは見捨ててはならないと思ってしまう。観る者に慈悲の心と共感を呼び起こさずにはいられないことが、悲劇の持つ最たる魅力なのかもしれない。もし彼を愚かだと卑下できるのなら、あなたこそが、また別の悲劇の主人公となれる素質を有していると云えるのだ。


 見える、見えない。怖い、怖くない。


 じっくりと目を見開いて、世界を見るために伴う辛苦と、あの心臓を抉るような感覚は、本当に人生を生きてみないと、分からないのかもしれない。そうでなければ、例え私が何をしようと、真に私を止める者は、存在しないことになる。マクベスには、世界の誰一人の姿も目に入っていなかったのだ。彼の辿った末期は、彼の観客たる我々全員との訣別を意味せずして、なんであろう。嗚呼。

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柄谷行人「文学論集」を読みつつ雑筆 ミーシャ @rus

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