柄谷行人「文学論集」を読みつつ雑筆

ミーシャ

”読者”へ至る道

“他我”はいかに可能か。


一人称の主体を変更して連作していく技法はそれなりに思白いものがあるが、連作の間の距離感をとるのに、読み手側に、ある程度の練熟が必要とされる。応用問題の解法のように、決められた作法を要求する、若干露骨な作者の意図を行間に残す。


私は、書く際に常に疑問に思うのは、要は、乾いた紙面の上のインク、ないし電子信号と光りの創生物である「文字」なるものが、非常に限定的な趣を持ったまま、視覚的道具の立場に甘んじすぎる点である。


目の不自由なものには、文字は、触覚であり、聴覚的道具である。ひとたび人の口、もしくはリリックを経れば味覚、色覚(これは視覚に留まらない第6感におよぶと私は認識している)も呼び起こす。


文字は、それ自体の形態を常に、広範な感覚器官の道具として変化させる自由こそ、勝ち取らねばならないのであって、著者が見ている世界だけを、ただ見させてはならないのである。


私は、自分の書くものが、書かれた世界のままに、読者に認識されるというフィクションを、求めていない。


常に主体は読者であって、恐ろしくも楽しいのは、読者という一個の人間そのものが、私の書いたものを解釈する、唯一無二の媒体として機能する、その場面である。


作品の外における他我とは、いうまでもなく読者であり、著者の展開する内なるもの(作品)に対して、外なるものである。では、作品の中において存在する他我とは、なんであるか。それは著者である私で、でしかない。


何故なら、書くという反復行為によって私は、身を削ぎ、浄めることに成功しているのであり、作品から疎外された自己を生きているのである。


よって作品中における他我の実現とは、書き手でありながら、同時に、反再帰的に自身の作品を読みこむ自由な視点を盛り込むこと、以外の何でもない。


私は自分の「外」を示してくれる読者に敬意を払い、できることなら、私の作品を飲み込むように、包括して欲しいと考える。


そうでなければ、書くことで不断に変化する自我の境界を見失って、永遠に彷徨うことになる。それが書き続けることにつきまとう、不安の正体ではないか。そんなことを思った。


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