第12話:勇者のキセキ

 ドサリと体が床に転げた衝撃だけが感じられた。

 体が動かない。痛みもない。それなのに、妙に意識だけがはっきりとしている。

 おかしいな…死んじゃうときってこんなものなのかな…?

 私は、床に転がったまま、目の前の景色をただ眺めているしかなかった。

「に…人間様…?」

最初に言葉を発したのはサキュバスさんだった。お姉さんの肩を抱いたまま、何が起こったのか、って表情で私を見つめている。

「ゆ…勇者様…?一体、何を…?」

次いで、竜娘ちゃんが絞り出すように勇者様に聞く。すると勇者様は立ち上がって、そして、嘲笑った。

「あはは…!ははははは!まったく、どいつもこいつもおめでたい奴らで助かったよ!どうしてその子のように考えなかったんだ!?」

そう言った勇者様の声は、もう、それまで聞いてきた勇者様のものとは全く違う、おどろおどろしい低く耳障りな声だった。

 部屋にいた全員が、そんな様子に凍りつく。

「何を…何を言ってる…?あいつに、何をした…!?」

お姉さんが、戸惑いながらも鋭い口調で勇者様にそう問いただす。すると勇者様は、ニタリとさっきの気味の悪い笑みを浮かべてお姉さんに聞き返した。

「あなたは、この世界に救うだけの価値があるか、と考えたことはないのか?」

その言葉に、お姉さんは固まった。戦いが始まった直後、お姉さんは同じことを私に言った。

 お姉さんを傷付けるだけの世界を…お姉さんが救わなきゃいけない道理なんてないのかも知れない。私ですらそんな思いが一瞬でも過ぎったんだ。お姉さん自身がどれだけそれを痛切に感じていたかは想像に難くない。

 身に覚えがあるお姉さんを見て、勇者様はまた笑った。興奮して…とても愉快そうに…

「あるだろう…?あたしもだ。戦いのやまない世界。あたしを利用したいだけの人間達ばかり。そんな世界を救ってやる価値も意味もあるわけがない。いっそ、基礎構文と一緒に消えてなくなってもらったほうがすっきりすると思うだろう?」

そう言った勇者様は、お姉さんを見つめて、そして言った。

「あたしは自分を封印したんじゃない。封印されたのさ。この世界を人のいないまっさらな状態にしようと思っていたところを二つの紋章を奪われてね」

勇者様の言葉に、お姉さんの表情が醜く歪んだ。

「待て…待てよっ…!じゃぁ、さっきの言葉は…?あいつらに手を貸してくれてたのは…!?」

「本当にめでたい子だな。決まっているだろう?二つの紋章を手にして封印を解くためだ。世界を更地に変えるためにね」

そう言いのけた勇者様は、突然に太陽のように真っ白に輝いた。

 誰もが目をそらす中で、体の動かない私だけがその様子を見つめる。

 光の中で、勇者様は姿を変えつつあった。

 サキュバスさんのような羽を生やし、竜娘ちゃんのような鱗の肌で全身を覆い、獣人族のように大きくて力強い体付きになり、頭からは天を衝くように鋭い角が現れる。

 その姿はおおよそ勇者様だなんて呼べるようなものではなかった。

 そう、あの姿はまるで、寝物語の中に出てくる魔王そのもの。現実の魔王様とは全く違う、ただの恐怖と絶望の象徴のような姿だった。

 「そんな…そんな…」

その姿を見て、竜娘ちゃんがガクガクと震えて床に座り込んだ。

「嘘だろ…こんなことって…」

十六号さんも、言葉に詰まっている。

「くそっ…最悪だ…!」

魔導士さんは及び腰になりながらも身構えた。

「ふふ、あはははは!いい気分だ…!」

そんな周囲の反応をよそに、勇者様はそう声をあげて笑った。

 その両腕には、二つの紋章がまばゆいばかりに光っている。

 それを見るだけで、私にもわかった。

 まるで、世界が違う。

 お姉さんが二つの紋章を使って見せた魔法もほかの人たちとは比べ物にならないくらいだったけど、こんな感覚ではなかった。こんな…こんな絶望的な気配を感じさせるまでに強力ではなかった。これが、古の勇者…世界を二つに分けた…人ならざる、神様にすらなれる存在… 私達は…なんて…なんてことをしてしまったんだろう…もっと慎重になって考えるべきだった。竜娘ちゃんや魔導協会の話も、サキュバス族に伝わっていた話も、言い伝えにも疑うようなところはなかった。唯一気になったのは、勇者様の話した封印に関することだけ。

 いくら考えたところでこんなことになるだなんて、見抜けなかったかもしれない。でも、私達だけで考えるんじゃなく魔導士さんやお姉さんに事前に相談していたら、この可能性に気が付けたかもしれない。

 それなのに、私達は…

 後悔しても何にもならないなんてことは分かっていた。だけど私達は何かを読み誤って、一番やってはいけないことをしてしまった…

 「サキュバス、零号を頼む」

部屋中に魔力の嵐が荒れ狂う中で、お姉さんが静かにそう言った。

 右腕の勇者の紋章が、鈍く光り輝いている。

「ですが、魔王様…!」

「いいから、早くしろ!十六号、幼女の回復を急げ!」

ペタンと床に座り込んでいたサキュバスさんを叱咤し、私のすぐそばにいた十六号さんにそう声を掛けたお姉さんは、取り落としていた剣を拾い上げた。

「…嘘だと、言ってくれよ」

まっすぐに勇者様を見つめるお姉さんは、勇者様にそう言う。でも、それを聞いた勇者様は

「嘘だったよ。今まで話したすべてがね。全部、あたしが紋章を取り返すための芝居さ」

と嘲笑いながら答えた。

 「そうかよ、残念だ…あんた、いい人そうだったのに」

お姉さんは引きつった笑みを浮かべならそう言って、勇者様に剣を突き付ける。

「でも、ためらわない。人間や魔族を相手にするのとは違う…あんたはここで殺さなきゃいけない」

「ふふふ、できるものならやってみ―――

勇者様が言い終わるよりも早く、お姉さんが床を蹴って勇者様に剣を突き立てた。

 ガキンという鈍い音がして、その体に刃先をはじかれてしまう。

 でも、お姉さんは少しもひるまずに左腕に纏わせた魔法陣を突き出して、勇者様の体に雷の魔法を浴びせかけた。

 バリバリという音と閃光が部屋を包む。

 けれど、勇者様は微塵も動揺していない。

「嘘だろ…」

お姉さんは、勇者様に雷の魔法陣を纏わせた拳を突き出したまま、そうつぶやいた。

 そんなお姉さんに、勇者様が笑いかける。

「誰を相手にしていると思ってんだ?扱いきれない紋章一つで勝てる気でいるんなら、勘違いだってのを分からせてやろう」

勇者様はそう言うが早いか、背中の羽を軽く羽ばたかせた。

 次の瞬間、部屋中の壁に見たことのない魔法陣がちりばめられる。

「くそっ!」

お姉さんはそう吐き捨てて結界魔法を展開させた。

 それを待っていたかのように、勇者様はニタリと笑ってパチンと指を弾く。

 途端に目の前が真っ白になって、そして体が吹き飛ばされそうな轟音が鳴り響いた。

 実際、同時に体が振り回されるような感覚が私を襲う。動かない体では、抵抗もできない。

 怖い、と思う暇もなかった。

 気が付けば私は、結界魔法を展開させている十六号さんの背中を見つめていた。

 世界がひっくり返って見えるのは、誰かが私を抱え込んでいるかららしい。

 そしてそのひっくり返った世界には、それまであった部屋がなくなっていた。

 部屋だけじゃない。

 私達のいたあの部屋から上の魔王城全部が、跡形もなく吹き飛んでしまったようだった。かろうじて残った床からは黒くすすけた煙が幾筋も登っている。

 そんな中で、宙に浮かんだお姉さんが、同じく宙に浮いている勇者様に剣を振り下ろす姿があった。

 勇者様はパッと伸ばした手の平に一瞬にして氷で出来た刃を出現させると、それを握ってお姉さんの剣を受け止めて見せる。

 「うおあぁぁぁぁ!」

突然そう雄叫びが聞こえた。

 次の瞬間、鍔迫り合いを繰り広げていた勇者様に十六号さんが固めた拳を叩きつけていた。

「あんた…騙したのか…!アタシ達を…竜娘を…!姉ちゃんを…!」

十六号さんは全身から怒りを立ち上らせていた。そんな十六号さんにお姉さんが叫ぶ。

「下がれ、十六号!あんたじゃこいつの相手は無理だ!」

お姉さんの言葉通り、勇者様は十六号さんの拳を頬で受け止めていた。

 勇者様は、十六号さんの腕を引っ掴んでニヤリと笑う。

「なんだよ、それ?打撃ってのは、こうやるん―――

「だありゃぁぁぁ!!!」

勇者様が何かを言い掛けたそのとき、真後ろから十七号くんが突撃を仕掛けて勇者様の後頭部を蹴りつけた。

 不意打ちをもらって、流石に勇者様も一瞬体制を崩す。

「やらせない…!」

そこに、十八号ちゃんが勇者様の周囲に幾重にも魔法陣を重ねた。吹き出した炎が一瞬にして勇者様を包み込む。

 十六号さんに十七号くん、そしてお姉さんはすかさず距離を取って空中で体制を立て直していた。

 「トロール、続け!羽妖精、こいつを頼む!」

そう魔道士さんが叫んだときには、私はもう空中に放り投げられていた。

 でも、ほとんど落ちる感覚もなくふわりと風が吹いてきたと思ったら、私は床だった場所にいた妖精さんに抱きとめられていた。

 その間に、勇者様をトロールさんの土魔法で押し寄せたお城の壁だった石の破片が襲い、そしてそれに続けて魔道士さんがありったけの魔法陣を展開させて雷を降り注がせる。目を開けていられない閃光とともに、ドドドドン、と大気が震えた。

 オンオンとその音が響き渡るその中心に、真っ黒に焼け焦げた魔王のような勇者様の姿が浮いている。

 でも、全身が真っ黒なのに、両腕の二つの紋章だけは煌々と輝いたままだ。

 「紋章を狙え!」

お姉さんがそう叫んで、見動きを止めていた勇者様に斬り掛かった。

 腕の魔法陣を勇者様と同じくらいに光らせたお姉さんは、全身を大きく捩って、目一杯に大きく剣を振る。

 でも、そんなお姉さんの剣は再び勇者様の鱗の皮膚に弾けた。

「あぁ、鬱陶しいな…」

勇者様のおどろおどろしい声が夜空に響き渡る。

 「怯んじゃダメ…!」

そう声が聞こえて何かが勇者様の体に取り付いた。それは、剣を携えた大尉さんだった。

 だけど、勇者様に突き立てようとしたその剣は見るも無残に砕けてしまう。

「あははは!そんなことで、あたしの腕を落とせるとでも…!?」

勇者様が大尉さんを嘲る。でも、当の大尉さんはいつもは見せない不敵な笑みを浮かべていた。

「残念、あたしは囮」

「なに…?」

大尉さんの言葉に勇者様が一瞬の動揺を見せたその瞬間、何かがピカっと真っ暗な夜空に翻った。

 焼け焦げていた勇者様の腕の皮膚が微かに切り裂かれ、そこから鮮血がピッと吹き出す。

 そのすぐ傍らには、剣を振り終えた残心姿の兵長さんがいた。

 すぐさまその傷口に、大尉さんが腰から抜いた短剣を突き立てる。鱗に覆われた皮膚の裂け目に短剣がズブリと差し込まれた。

「雷撃魔法!」

大尉さんがお姉さんと魔道士さんにそう声を上げる。

 大尉さんは舌打ちした勇者様に勢い良く蹴り飛ばされてしまうけど、その一瞬の隙にお姉さんと魔道士さんの雷の魔法が閃いて、勇者様の腕に突き立った短剣へと導かれるように降り注がれた。

 勇者様はまばゆい稲妻の中で、ガクガクと体を波打たせている。これは、効いてる…!

 そんな私の一瞬の気の緩みとは裏腹に、お姉さんが叫んだ。

「手を緩めるな!一気にあの腕斬り落とせ!」

お姉さんの号令を合図に、みんなが一斉にそれぞれの魔法を展開させて勇者様に浴びせかける。

 雷や炎、石や風、みんなの得意な魔法が勇者様を押し包んだ。

 「あぁ、本当に…鬱陶しいよ…!」

だけど、そんな耳障りな声が聞こえて来たと思ったら、勇者様がパパパッと眩しく輝いた。

 とたんに、みんなの魔法がまるでロウソクの火を吹き消したように空中にフッと消滅してしまう。その直後、閃光の中を何かが一筋飛び抜けて、十六号さんの肩を貫いた。

 それは、勇者様の腕に突き刺さっていた短剣だった。

「あぁ、もう…!なんでアタシばっかり…!」

弱々しくそう呟いた十六号さんが、体勢を崩して空から落ちてくる。

「十六号!」

「魔王様!私が受け止めます!」

お姉さんの悲鳴にそう応えたサキュバスさんが竜娘ちゃんを小脇に抱えるようにして駆け出すと、風魔法を使って十六号さんをふわりと受け止めた。

 十六号さんは、サキュバスさんの腕からすぐに自分の足で降り立って、そのまま自分に回復魔法の魔法陣を展開する。

 良かった、動けなくなるほどのケガではなさそうだ。

 「あぁ、まったく…邪魔だな、あんた達」

不意にまた、勇者様の声がした。

 空中へと注意を戻すと、そこには焼け焦げた皮膚を内側から再生させ、大尉さんと兵長さんの連携攻撃でなんとか負わせた傷すら、もう跡形もなく消えていた。

「ちっ、攻めたりなかったか…」

お姉さんが歯噛みしながらそう呟く。

 勇者様は、すこし苛立ったような表情でそんなお姉さんを睨みつけた。

 今の一連の攻撃は、確かに効いていたように感じられた。

 殺すことはできなくても、そう、お姉さんが言ったように、あの腕の一本でも落とせれば、それだけでも十分なんとかなるくらいまでに力を削げる。

 勇者の紋章か魔王の紋章、どちらか一つを失えば、それだけで少なくともお姉さん達がまとめて戦えば有利になれるかもしれない可能性が生まれる。

 今のままじゃ、本当に神様か何かを相手に戦っているようなものだけど…一斉に攻撃を仕掛けて、傷を付けることができるんなら、あるいは腕くらい…

 もちろん、勇者様がその気になればそんな機会が一瞬も訪れないままに、世界は滅ぼされてしまうだろう。

 でも、今みたいな不意打ちでなら、やれるかもしれない…

 私は、そんなことをうっすらと考えていた。

 だけど、それがあまりにも甘い考えだっていうのを直後に私は理解した。

 勇者様は、耳障りな声で言った。

「本当に鬱陶しいなその力…二度と立て付けないようにしておくとしよう」

そして、その両腕を夜空へとたかだかと掲げる。

「なにかしてくるぞ…気をつけろ!」

お姉さんの掛け声に、全員が身構えて結界魔法をいつでも展開出来るように準備を取った。

 そんなお姉さん達を見て、勇者様はニタリとあの笑顔で笑ってみせた。

 次の瞬間、パァっと、辺りがなにかに照らされ始めた。

 太陽じゃない…月でもない…でも、それくらいの明るさで、空から光が降ってきているようだ。

 「な、なに…あれ…?」

私を捕まえてくれていた妖精さんが、空を仰いでそう言った。

 私は、妖精さんの腕の中で動かない体のままに、空に目を向ける。

 そこにあったのは魔法陣だった。それもとても大きな魔法陣。

 普通の大きさじゃない。東部城塞のときに、魔導士さんが空に描いてみせたあの大きな雷の魔法陣とは比べ物にならないほどの大きさだ。

 そう、それこそまるで、空全部が魔法陣になったような、それぐらいの大きさがある。見上げているだけでは、全体がどんな形をしているのかも掴めない。

 空の向こうの彼方から、遥か遠くにある中央山脈の向こうにまで続いている。

 「これは…一体…?」

竜娘ちゃんを担いで私と妖精さんのところにやってきてくれたサキュバスさんが、絶望的な表情で空を見上げて口にする。

 私や妖精さん、サキュバスさんだけじゃない。

 お姉さん達も、サキュバスさんに抱えられた竜娘ちゃんも、恐ろしい物を見るように、夜空を覆うその魔法陣を見上げていた。

「あはははは!これが“円環の理”、基礎構文ってやつだ!」

勇者様が高らかに笑って言った。

 これが…これが、基礎構文…?この世界を形作っている…魔法の力の源…

 あの日の晩に竜娘ちゃんは、「基礎構文は結界魔法のようなもの」と、そう言っていた。

 そのときは想像できなかったけど、こうして実際に目の当たりにするとよく分かる。

 これは、この大陸全体を覆っている魔法陣なんだ。この世界を覆って、その中で魔法の力を満たしているんだ…

 「基礎構文を消そうってのか?」

お姉さんが勇者様にそう迫る。

 そんなお姉さんに、勇者様は笑って言った。

「すこし違うな…この基礎構文をあたしの体に移し替えるんだ。そうすればあたしは力を失わない。あなた達はただの人間に戻るだけ。抵抗されると気分が悪いからな…力を失って、何もできないままにあたしが大陸を蹂躙していく様を眺めているといい!」

勇者様はまるで雷鳴のように轟くおぞましい、ビリビリと空気が震えるような大声で、そう宣言した。

 そんな…そんなことをされたら、もう私達に希望なんてない。

 今でも微かなのぞみしかないのに、もし、お姉さん達が今の魔法の力を失ったら…もう、大陸を好きに作り変えることが出来る勇者様に適う手立てなんてあるはずもない…

「させないぞ…この命に代えても、あんたを止める…!」

お姉さんは、そう言って剣を構えた。

 他のみんなも、それぞれに構えを作って勇者様を取り囲む。

 もう一度…さっきのようにあの硬い皮膚をほんの少しでも切り裂いて、そこに刃を突き立てることができたら…あの紋章のどちらかを体から切り離すことが出来る。それを狙う他にない…

「あはっ、あはははは!やれるもんならやってみろよ…!せいぜい足掻け、苦しめ!そしてこのくだらない世界のために死ね!」

そういった勇者様は、両腕に光を灯すと、自分の周囲に次々と何かを顕現させ始める。

 それは、光輝く矢のような形をしたなにかだった。

 きっと、あれそのものが魔法なんだろう。光魔法?炎の魔法?それとも、雷…?あんな魔法は見たことがない…見たことがないけど、あの数は…

 私が危惧した通りに、勇者様はさらに無数の矢を作り出すと

「さぁ、終宴の始まりだ!」

と両腕をバッと広げて見せた。

 つぎの瞬間、光の矢が四方に目でも追えない程の速さで弾けた。

 光の矢は魔道士さんやお姉さんの結界魔法をいとも簡単に突き破り、お姉さん達の体を穿っていく。

 魔道士さんもお姉さんも十七号くんも十八号くんも、兵長さんや大尉さんさえも、全身に矢を受けて空中から叩き落とされた。

 それだけではない。

 光の矢は、城壁の外に草原のように広がっていた人間軍と魔族の兵士さん達にも降り注いだ。

 お姉さん達のように構えを取って身を守ろうとしていなかった城外の兵士さんたちは、その光の矢を受けて次々と地面に崩れ落ちていく。

 矢の明るい光に照らされて…血しぶきが、真っ赤な霧が一面から立ち上り、射抜かれた人達が地面でもがき苦しんでいる。

 あんなのは戦いですらない…ただ、一方的に蹂躙してなぶり殺しにしているだけだ…

 「やめろ…やめろよ!」

お姉さんはいきり立って勇者様に斬りかかった。

 同時に反対側からは兵長さんが鋭い機動で空中を移動して勇者様に迫る。さらにその援護のためか、魔道士さんが雷の魔法を、十八号ちゃんが炎の魔法を繰り出した。

 勇者様は結界魔法を展開させて魔法の攻撃を弾き返し、両手に出現させた氷の刃でお姉さんと剣士さんの剣撃を受け止める。

 さらに、そんな勇者様の背後から今度は大尉さんが剣で突きを繰り出した。

 勇者様はお姉さんと兵長さんの剣を支えながら、ぐるりと体勢を入れ替えるとすぐ後ろに迫っていた大尉さんを蹴り飛ばし、次いで出現させた結界魔法をお姉さんと兵長さんにぶつけて弾き飛ばした。

「くそっ…くそっ、くそっ!」

お姉さんが歯ぎしりしながらそう吐き捨てる。

 お姉さんだけじゃない。みんな、必死だ。

「数が足りませんね…妖精様。竜娘様をお頼みします。私も加勢に参ります!」

サキュバスさんがそう言って、竜娘ちゃんを妖精さんに頼んだ。

「でも…サキュバス様…!」

「ためらっているときではありません…もし本当に私達だけ魔法を奪れれば、もう本当に抵抗する術がなくなってしまいます!」

そう言うが早いか、サキュバスさんは羽を広げて夜空へと舞い上がっていく。

 「止めろ…こいつを止めるんだ!」

お姉さんは、光の矢に射抜かれて血まみれになった体を起こすと再び空中に飛び出して鋭く剣を振りかざす。

 勇者様は三度その剣を氷の刃でまるでなんでもないかのように受け止めて笑った。

「まだやるか…諦めろよ、いい加減」

「黙れ!例え世界があたしをどう思おうと、あたしをどう扱おうと!あたしは、あたしの約束を守る…!あたしが大切だと思うものを守る!あんたみたいな重圧に負けるような情けないやつに、あたしはやられたりなんかしない!」

お姉さんはそう叫ぶや、勇者様の胸ぐらを引っつかむと雷の魔法陣を勇者様の体に直接描き出した。

 バシバシバシっと勇者様の体に稲妻が駆け巡り、ブスブスという音とともに煙が上がり始める。

「無駄なんだよ、その中途半端な紋章をいくら使ってもさ」

けれど、勇者様はニタリと笑って自分の周りに魔法陣を浮かび上がらせた。

 つぎの瞬間、バシっという音とともに、お姉さんの両腕と両足が氷に閉ざされてしまう。

 勇者様の前で、お姉さんは無防備に体の自由を奪われてしまった。

「魔王様!」

すぐさまサキュバスさんが風の魔法を勇者様に浴びせかけた。

 旋風が幾重にも勇者様にまとわりついて鱗に覆われた皮膚を切り裂こうとしているけど、切り裂くどころか傷付いている様子すら見えない。

 それどころか勇者様は腕をひと振りし、つぎの瞬間には、どこからか飛んできた大きな石がサキュバスさんの背中を捉えて、サキュバスさんがガクリと空中で力を失い落ちてくる。

 私達のいる床の上に激突する寸前に、さっき結界魔法で弾き飛ばされた兵長さんが飛び出してきてそんなサキュバスさんを抱きとめた。

 「サキュバス!」

お姉さんの叫び声が聞こえる。

「あの女、管理者の末裔だな?それなら、大昔の恨みをあの女に晴らしても構わないな…楽には殺さないようにしよう」

「させない…あんたは、あたしが倒す!」

「そんなザマでよくそんなことがほざけるね?」

お姉さんの言葉に、勇者様は可笑しそうに笑って、その腕をクッと後ろに引いた。

「あなたを殺せば抵抗する気も起きなくなるだろうな」

そう言うと勇者様は、見たことのない魔法陣をその拳に展開させ始める。

「くそっ…!」

そう吐き捨てるように口にしたお姉さんは、氷をなんとかしようと空中でもがいているけれど、落ちてくることもなければ氷を破壊することもできない。

 浮いているのはきっと勇者様がわざわざ支えているに違いない。

 あのままじゃ、お姉さんが危ない…でも、十六号さんたちはさっきに光の矢で負った傷のせいで今すぐにはどうすることもできない。

 サキュバスさんは気を失っているし、それを受け止めた兵長さんも、血をいっぱい流して床に座り込んでしまっている。

 大尉さんすら、傷の回復に手一杯で戦闘への復帰はできそうにない。

 「さぁて、希望を失った人間がどんな顔になるのか、とくと拝見することにするよ」

勇者様はそう言うと、後ろに引いた拳にギュッと力を込めた。

「お姉さん!」

 そんなとき、地上から幾筋もの攻撃魔法が吹き上がってきて、お姉さんを狙っていた勇者様に直撃した。

 炎の魔法も、氷の魔法も、風や、土、光の魔法もあった。

 今の、何…?いったい、どこから…?

 私はそう思ってとっさにそれが飛んできた方に首を傾ける。

 するとそこには、さっきの光の矢の直撃を免れた人間軍や魔族の人達が、勇者様を見上げている姿があった。

 お城の外の兵士さんたちが、お姉さんを助けてくれたの…!?

「手を緩めないで!あのバケモノが我らの敵です!」

そんなお城の外の人達の中に、そう叫ぶ人がいることに私は気が付いた。

 それは、東部城塞でお姉さんを説得しようとしていた、お姉さんのかつての仲間の弓士さんだった。

「あぁ、クソっ…一体全体、どうなってやがる!」

そう別の声が聞こえたと思ったら、お姉さんの動きを封じ込めていた氷がバラバラに切り刻まれる。

 そして、驚いた表情のお姉さんのすぐ隣にふわりと浮いて、剣士さんが姿を現した。

 「あんた…」

お姉さんは剣士さんを見やって、絶句している。

「なんでお前はこんなバケモノと戦ってやがるんだ…?お前は一体今まで、何をしようとしてやがったんだ…?」

剣士さんはまだすこし戸惑いの表情を浮かべながらも、その剣をまっすぐに勇者様に向けていた。

 人間軍や、魔族の人達…それに、弓士さんも、あの剣士さんも…勇者様と戦ってくれるんだ…そうだよ、魔法が消えて困るのは私達だけじゃない。

 魔族の人はもちろんだし、人間だって魔法で生活がなりたっているようなもの。

 それに、魔法がどうとか関係なくなって、勇者様が世界を滅ぼそうとするなんてことを受け入れられるはずがない。

 今、この場にいる誰もがお姉さんと同じことを考えずにはいられないだろう。

 勇者様を倒さなければいけない、って。

「みんな…」

そう思った私は、ふとそう一言口に出していた。

 とたんに、妖精さんが

「人間ちゃん!大丈夫!?」

と聞いてくる。

 あれ…?そうだ、私…さっきまで動けなかったはず…しゃべることも、首を動かすことも出来なかったのに…

 そう気がついて、私はクッと体に力を込めてみる。

 すると、私の意思通りに、手や足が動いてくれた。

「妖精さん、私…」

「大丈夫、傷は塞いだよ!」

体の感覚が無くて分からなかったけど、妖精さんがいつの間にか私の傷を治してくれていたらしい。

 だから、体も動くようになったのかな…?でも、さっきまでの感覚は一体なんだったんだろう?意識だけが妙にはっきりしたまんまで、体だけが動かなくて…

 そんなことを考えていたら、不意に、すぐ近くでパッと何かが明るく光った。

「あ、あ、あなたは…」

妖精さんが息を呑むのが感じられて、私は妖精さんの顔を腕の中から見上げる。

「…あの空の巨大な魔法陣は…やはり、そうなのですね」

次いで別の方から声が聞こえたのでそっちに目をやると、そこには、どこかで見覚えのある黒いローブの中年の女の人が立っていた。

 こ、こ、こ、この人、魔導協会の、オニババだ…

 「こ、こ、ここへ何しに来たですか!?」

妖精さんが私を床に投げ出し、私を庇うようにして身構える。

 でもオニババはそんな妖精さんの様子に構わずにジッと空を仰ぎ見ていた。夜空の大きな魔法陣の光に照らされていて、真っ青になっているのが分かる。

「基礎構文…まさか、このような形で存在しているとは思いも寄りませんでしたね…」

「り、理事長様…!」

不意に、零号ちゃんの声が聞こえた。

 零号ちゃんはすぐさま私達のところに飛び込んできて、私と竜娘ちゃんを背中に庇う妖精さんとオニババとの間に立ちふさがる。

「零号ですか…いい表情になりましたね」

不意に、オニババは零号ちゃんを見やってそういった。

 あまりの言葉に、零号ちゃんが戸惑っているのが分かる。 

 でも、そんなことには構わず、オニババは妖精さんに聞いた。

「あのおぞましい姿をした者が、もしや、封じられし古の勇者様なのですか?」

「…そ、そうですよ」

妖精さんは言葉に詰まりながらもそう答える。

「基礎構文を己が身に移し替え、力を失った世界を滅ぼす…それが、古の勇者様の結論なのですか…?」

オニババは誰となしにそう言った。

 お城の外にいた人達にもあの大声の宣言は聞こえたに違いない…だから、外の人達も攻撃をしてくれたんだ…私はそう思いながら見つめた、オニババの体が震えていることに気が付く。

 そんなオニババの姿が私には、世界が滅ぼされる、ってことよりも、むしろ勇者様がこんなことをしている、ってことに絶望しているように見えた。

 「なにか止める方法はないですか!?あなた、神代の民の末裔って言ってたです!」

 妖精さんがオニババに必死になってそう尋ねる。でも、オニババは力なく首を横に振った。

「二つの紋章が揃ってしまった以上、抗うことなどできないでしょう…そのうえ基礎構文まで消滅してしまうとしたら…もはや我々には…」

基礎構文が勇者様に奪われてしまえば、確かにそうだ。

 でも、違う。

 その前にまだ、できることがある…!

 さっきの私の疑問は、こんな形で真実になってしまった。

 だけど、あの疑問が真実だったとしたら、きっとその方法があるに違いないんだ…!

「オニバっ…じゃない、理事長さん!」

私は、半分以上口から出そうになった呼び名を無理やり飲み込んで、オニバ…理事長さんに聞いた。

「勇者様を封印する方法があるはずなんです…!なにか、知りませんか!?勇者様はさっき言ってました。紋章を奪われてその力で封印された、って。だから、きっと勇者様を封じた誰かがいたはずなんです!何かの方法で勇者様から紋章を取り上げたはずなんです!もしかしたらその誰かっていうのが、魔導協会とサキュバス族の人達だったんじゃないんですか!?なんでもいい、何か、知ってることを教えてください…!」

私は必死になって理事長さんにそう食い下がる。でも、理事長さんはすこし慌てたような表情になりながら

「そんな物はありえません…紋章は所持者の意思なく引き剥がすことなど出来る物ではないのです。腕を斬り落とされ、所持者の意思から離れれば別ですが、あんな絶対的な力を相手にそんなことは不可能です…」

と首を横に振る。

「そんなことない!絶対に何か方法があるんです!そうじゃないと、勇者様が封印されたって説明が付かないんですよ!」

それでも私は、理事長さんにそう迫った。

 そうだ、きっとなにか方法があるんだ…あの紋章を奪う方法が…きっと…

「待ってよ幼女ちゃん、もし紋章を奪っても、あれはあの女の人しか使えないんでしょ!?お姉ちゃんにも、私にも、竜娘ちゃんだって本当の力を引き出せないってそう言ってた…」

不意に、そう零号ちゃんが私に言った。それに続いて、竜娘ちゃんも

「はい、零号さんの言うとおりです…仮に紋章を奪うことが出来たとしても、それを使って封印を行うことは出来ないと思います…ですが、どちらかを奪えば私達にも勝ち目がある…その方法を探しましょう…!」

と表情を引き締める。

 だけど、私はなにか…得体のしれない違和感を覚えずにはいられなかった。

 違う…違うよ。何かがおかしい。

 私は、そんな場合でもないのに口をつぐんで頭を回転させた。

 だって、そうでしょ…?勇者様を封印するためには、紋章を奪ってさらには使えなきゃいけないんだ。

 でも、もし、大昔に誰かが紋章を奪っていたとしても、勇者様はそのときはただの人間になってしまうはずだ。

 ただの人間に戻った勇者様を、本来の力が出せない魔法陣を使ってまで封印しようとするものだろうか?

 もしその当時に勇者様が紋章を取り上げられなきゃいけないようなことをしでかしていたのなら、封印なんてしないで殺してしまえば済む話だ。

 それなのに、勇者様は言ってた。自分は紋章を奪われて、その力で封印されてしまったんだ、って。

 だけどそうなると、今度は零号ちゃん達の言っていた問題が出てくる。

 あの紋章はある一個人、つまり勇者様にしか完全に扱い切ることができない紋章なんだ。紋章を奪った誰かに何かの理由があって勇者様を殺さずに封印しなきゃいけなかったとしても、紋章の力を完全に扱うことができない状態でそんなことが可能だったのだろうか?

 お姉さんですら、合わない魔王の紋章の力を出し切る前に体に拒否反応が出て戦いどころではなくなってしまっていたのに。

 それに、単純に奪い取る方法ってどんなことがあるんだろう?

 今の勇者様は腕を切り落とすのだって難しい。剣の腕が一番だって言う兵長さんですら、鱗を弾いてその下の皮膚に薄っすらと血を滲ませただけ。

 力づくで紋章を奪うような方法ではどうしようもない。

 もしかしたらあの紋章の力を弱めたり、封じ込めたりする魔法があるんだろうか…?

 いや、でも、もしそんなことができるんなら、やっぱり勇者様を封印しなきゃいけない理由が分からない。

 だって、勇者様は結果的に紋章を取り上げられているんだ。“封印する他に方法がなかった”わけじゃない。

 紋章を取り上げて、勇者様を殺して、それで済んでしまう話なんだ。

 どうしてその「誰か」は、勇者様から紋章を奪うことができたの?

 どうして勇者様を殺さずに封印したの?

 どうして扱いきれない紋章を使うことができたの…?

 ダメだ…やっぱり、考えれば考えるほど、思考が同じところに戻ってきてしまう。

 もしかして勇者様は、何か嘘を言っているんだろうか…?

 勇者様は私達を騙して利用して、紋章を自分の体に取り戻したんだ。そう考えると、今も嘘を言っている可能性は低くない。あの紋章には私達の知らない弱点があって、それを隠すためにこんな矛盾する説明になってしまっているんだろうか…?

 もし勇者様の封印や紋章に関する話が嘘なら、その他の話はどこまでが本当のことだったの…?大陸に伝わっている“古の勇者”の伝説は、どこまで本当なのだろう?

 もしかつて勇者様が、今と同じように世界を滅ぼそうとして封印されたのなら、伝わっている物語も偽りだと考える他はない。

 でも、そんなことをしたって何か良いことがあったんだろうか?

 世界を滅ぼそうとした悪者を封印した、って話を語り継ぐ方がよほど良い気がする。

 それに竜娘ちゃんが聞かせてくれた勇者様の日記のこともある。

 あれは、少なくともあの伝説と大まかな内容は一致していた。

 あの勇者様の日記はきっと本当に勇者様の心境が綴られていたのだろうか…?

 でも、そうなるとやっぱり勇者様が封印された理由が分からない。

 あんな日記を残すような人が、どうして紋章を奪われて封印されることになってしまったのだろう?

 もしあの日記が嘘ってことになると、伝説自体も嘘ってことになってしまう。

 何度も聞いた伝説が嘘だ、って言うより、勇者様が当時に世界を滅ぼそうとしたって話の方が信じられない。

 そうじゃないと、伝説や勇者様の日記が私の知っている形で伝わっている説明がつかないんだ。

 それなら、勇者様は封印されている間に世界を滅ぼそうと決めたってことになる。

 確かあのとき、封印されてもどこか遠くで意識が残ってる、って話をしていた。

 長すぎる時を過ごして、勇者様の心のどこかが歪んでしまったのだろうか…?

 分からない…でも、きっと封印に関わることについて、勇者様が困る事実が隠れているに違いない。

 どう考えても、やっぱり、封印に関する部分に嘘があるとしか思えない。

 そしてその嘘に隠された何かは、きっと勇者様の弱点なんだ…

 不意に、夜空から一際大きな破裂音が聞こえて、私はハッと上を見上げた。

 そこには、真っ黒に体を焼かれた剣士さんがこっちに向かって真っ逆さまに落ちてくる姿あった。

「あのバカ野郎…!」

魔導士さんがそう歯噛みする。

「おいが!」

トロールさんがそう叫びながら私達の前に現れて、瞬く間に体をあの大きなトロールに変えて落ちてくる剣士さんを受け止めた。

 見渡せば、勇者様の周りには飛ぶ魔法を使える人間軍や魔族のたくさんの人達が飛び交い、弓士さんや魔導協会のローブの人の指揮で勇者様に攻撃を仕掛けていた。

 それでも、次々に魔法や打撃、剣撃で地表へと叩き落とされている。

 その合間を縫って魔道士さんや十六号さん達、お姉さんが強力な魔法で攻め立てているけど、勇者様にはまったくと言っていいほどに堪えていなかった。

 「まったく…大人しく死ぬのが待てないのか…?」

勇者様がそう言って不気味に笑う。

「あんたの勝手にはさせない!」

お姉さんが、勇者様へと斬りかかった。

「何度も何度も、芸がないんだよ!」

そう叫んだ勇者様は、お姉さんの前に魔法陣を展開させると、そこから雷を迸らせてお姉さんの体を縫い上げた。

「ぐふっ」

お姉さんがそう声を漏らして減速し、空中でふらついて体勢を崩した。

「ま、魔王様!」

いつの間にか意識を取り戻していたらしいサキュバスさんが闇夜に飛び上がってその体を支えた。

「手を休めないで…!」

 弓士さんの号令で、人間軍と魔族の人達が再び勇者様に魔法を集中させるけど、それはほとんどなんの意味もなく勇者様にかき消されてしまう。

 それどころか、勇者様の周囲に現れた渦巻きが近くにいた人達を切り刻み、吹き飛ばし、まるで小虫の群れのように散り散りにする。

 魔導士さんや十六号さんたち、兵長さんに大尉さんが果敢に攻撃を繰り出すけど…そのどれもが勇者様には軽くあしらわれている。

 もうみんな、ボロボロだ…

 十六号さん達は、もう最初程の力で魔法を扱えていないのが分かる。

 魔導士さんも、魔法陣を展開させる速度が徐々に遅くなっていた。お姉さんも、体中に作った傷を治す暇さえない様子だし、人間軍や魔族の人達はもう、地上にその体が積み重なるほどに犠牲を出している。

 そんな中で、勇者様が笑った。

 そして、大きくおどろおどろしい声で、

「あははははは!もう終わりか…最初の一撃で決められなかったのが残念だったな!あたしも、これ以上は退屈しそうだ!」

と私達を嘲るように言うと、夜空に紋章の輝く両腕を突き上げた。

 その途端、頭上を覆うように広がっていた基礎構文が急激に強い光を放ち始める。

「さぁ、見ろ!これがこの大陸を割った力だ…!」

ズズン、と、地響きがした。

 いや、地響きなんてものじゃない。

 地面が…揺れてる…!?

 私はその揺れに、思わず体勢を崩しそうになって床の上にしゃがみこんだ。

 妖精さんや零号ちゃん、竜娘ちゃん達も同じようにして床に這いつくばっている。

 そんな中で、空中にいる人達の視線が、同じ方向を見ていることに、私は気が付いた。

 その見つめる先を目で追って、私は、震えた。

 お城の東の方。そこにそびえている中央山脈が、まるで…そう、パンの生地をならしているかのように、みるみるうちに平たく変形を始めていた。

 降り積もっていた万年雪がまるで空に吹き上がる雨のように舞い上がって、空に光る基礎構文の灯りに照らされる。

 あれだけの雪が溶けたら…周りの街は水に押し流されてしまうかもしれない。

 この地面の揺れだけで、建物が壊れてしまっているかもしれない。

 そこに住んでる、何百、何千って人達が…今、命を失おうとしている…その原因を作っているのが、ただのひとり、勇者様…

 分かってはいた。それがどれだけ途方もない力か、だなんて。

 でも、こうして目の当たりにしてしまうと、それだけで膝が笑って、全身から力が抜けてしまうような、そんな感覚に襲われる。

 「砂漠の街は…ダメかもしれないね…」

妖精さんが、揺れる床に足を取られる私と零号ちゃん、そして竜娘ちゃんを抱きしめながらそう言う。

「私は…なんということを…私は…」

竜娘ちゃんは頭を抱えて、ただ取り乱しておいおいと泣き続けている。

「お姉ちゃん…」

勇者の紋章を失い、戦うことのできない零号ちゃんは、唇を噛み締めて、夜空に浮かぶお姉さんを見つめていた。

 だけど、絶望はそれだけでは終わらなかった。

 見上げていた夜空から、フワリ、フワリと光り輝く雪のような何かが無数に舞い降り始めた。

 それに呼応するように、夜空に広がっている基礎構文が、うっすらとその光を失いだす。

「そんな…」

妖精さんがポツリとそう口にした。

 基礎構文が、消え始めてる…ううん、消えかけているんじゃ、ない…

 空から降る光の粒は、吸い寄せられるように集まっている。

 あれはきっと、勇者様が基礎構文を自分の体に宿し始めているんだ。

 私は、言葉も出せずにただ息を飲んだ。

 このままじゃ、私達は今のような些細な抵抗すらもできなくなる…そうなったらもう、勇者様に滅ぼされるのをただ待つしかない…そんなことって…あっていいの…?

 私は体から抜けた力が戻らずに、そんなことを考えながらただ呆然と空を見上げて妖精さんに抱きしめられているしかなかった。

 もう、何も考えられなかった。何も、思い浮かべられなかった。

 時間もない。力もない。戦う術もない。

 もう、私にはどうすることもできない。

 「あぁ…」

魔導協会の理事長さんは、そう呻いて床に膝を付いた。

 まるで祈りを捧げるように手を組んで、ガタガタと震えている。

 「おいおい…敵の様子がおかしいから来てみたら…どういう状況なんだよ、こりゃぁ…」

不意にそんな声がしたのでそっちをみやると、そこには隊長さん達の姿があった。

 階下にいた六人と、そして黒豹さんが、呆然と空を見上げている。

「古の勇者様が、世界を滅ぼそうとしているです…」

妖精さんが、強ばった口元をなんとか動かして隊長さんたちにそう説明をする。

「なるほど…世界の危機、ってわけだ」

妖精さんの言葉に、そう応えた隊長さんは力なく笑った。それから

「あの空に浮いてやがるバカでかい魔法陣はなんだ?」

と聞いてくる。

 「あれは、基礎構文と言うです。私達の魔力の源、らしいです…」

「ふむ…薄れて行くな…なるほど…要するに、あのバケモノを叩けばいいんだな?」

「無理です…あれは古の勇者様です…見てください、中央山脈がもう、半分もないですよ?」

「バカ言え。古の勇者だろうがなんだろうが、あそこで生きてやがるんだ。生きてるってことは、殺すことだってできらぁ」

隊長さんは、剣を握り締めて妖精さんにそう言い、笑った。

「雇い主が諦めてねえんだ。こっちが何もなしに戦いを投げたんじゃぁ、傭兵の名が廃る」

「傭兵に捨てる名があれば上等だ」

そんな隊長さんの言葉に、虎の小隊長さんが応えて空笑いをあげる。

 そんな二人は、まっすぐな視線でサキュバスさんに支えられたお姉さんを見ていた。

 お姉さんは、体中の傷を回復魔法で治療している最中だった。

 その目は、まだ、するどく勇者様を睨みつけている。

 隊長さんの言うとおりだ…お姉さんはまだ、諦めてない…戦う気力を削がれていない…

「なんだ、その目は…?」

そんなお姉さんの視線に気付いたのか、勇者様は憎らしげに言った。

「まだやる気か?」

問いかけに答えないお姉さんに、勇者様はさらにそう問い立てる。

 すると、お姉さんは微かに口元を緩めて見せた。

「あんたを叩きのめすまで、やめるつもりはない」

「ふふっ、あはははは!身の程をわきまえろ!」

お姉さんの言葉に、勇者様はそう言うが早いか魔法陣を展開させた。

「さぁ、本当の紋章の力を思い知らせてやる」

 刹那、お姉さんとそれを支えるサキュバスさんの周囲に無数の氷の刃が現れて、そのすべてが二人に殺到した。

 逃げる隙間もなかったお姉さん達は、体中をズタズタに切り裂かれて血しぶきを上げる。

「お姉ちゃん!サキュバスさん!」

 零号ちゃんがそう声をあげたときには、お姉さん達は再び体勢を崩して、床へと激突していた。

 ダメ、ダメだ…やっぱり、このままじゃダメ…考えて…考えなきゃ!

 きっと何かあるはず…腕を斬る以外にも、勇者様から紋章を奪う方法が…!

 そう思って、私は勇者様の一挙手一投足をジッと見つめる。

 空から降ってくる光の粒が集まるほどに、勇者様の両腕の紋章が光をましているのが分かる。

 それに対して、お姉さんの紋章は基礎構文と一緒に徐々に光が鈍くなってもいた。時間はない。

 勇者様は封印に関することで、何か嘘を付いているはずなんだ。そうでもなければ、納得がいかない。

 勇者様から紋章を奪うことは難しい。

 奪えたところで、勇者様を殺さずに封印する意味も分からない。

 もし封印する理由があったとしても、他の人はあの紋章の力をきちんと扱うことは難しい。

 そう考えれば、「誰かが勇者様を封印した」ということ自体が疑わしい。

 だとするなら、やっぱり勇者様は自分で自分を封印したのだろうか…?

 確かに、日記や伝説のことを考えればその方が納得が行く。

 でも、そうなると勇者様が紋章を持っていないままに紋章を使って自分を封印した、っていう、最初の疑問に立ち返ってしまう。

 それに、もしそうなら勇者様自身が「紋章を奪われた」と言っていたことが嘘ってことになってしまう。

 そんな嘘を吐く意味があるの…?そこに弱点があるから…?

 自分で自分を封印しなきゃいけなくなるような、そんな弱点を隠している、っていうの…?

 ………

 ―――隠している…?

 私は、自分の思考のその言葉に引っ掛かりを覚えた。

 勇者様は、弱点を隠しているの?ううん、違う。勇者様は隠してなんかいない。

 だって、勇者様が言ったんだ。「自分は紋章を奪われて封印された」って。

 それはつまり、そもそも自分には紋章を奪われるような弱点があるんだ、って言っているようなもの。

 弱点を隠すつもりなら、そんなことを言うなんてことはしないはずだ。

 でも、なんだろう…何か、変な感じがする…隠しているんじゃなければ、いったい、なんなの…?

 ダメだ…ますます分からない…あんまりにも情報が少なすぎて、時間がなさすぎて、仮定が多すぎて、決定的な何かを見つけ出せない…どうしよう…このままじゃ、みんな…

 私は、そんな強烈な焦燥感に身を焼かれるような感覚になって、思わず

「妖精さん!一緒に考えて!絶対に勇者様は何かを隠してる…!零号ちゃんも、竜娘ちゃんもトロールさんも…お願い!」

と、ひとかたまりになって瓦礫の影に身を潜めていた皆と、そばで弾け飛んでくる魔法を石の魔法で防いでくれているトロールさんにそう声をかけていた。

「で、でも、人間ちゃん…に、人間ちゃん…!?」

私の言葉に返事をしてくれようとした妖精さんが、私の方を向いて何故だか言葉に詰まった。

 え…?なに…?

 その表情があまりにも、その、なんていうか、怯えたような、驚いたような表情だったので、私も思わず身を固くしてしまう。

「幼女ちゃん…そ、そ、そ、それ…なに…?」

今度は零号ちゃんがそう言って、私を指さしながら声を震わせて言う。

 それって…?なんのことを言ってるの…?

 私は、それでも何かが変なのかな、と思って自分の腕に目を向けていた。

 そして、息を飲んでしまった。

 私の腕に、何か、真っ白に光る筋が網の目のように浮かび上がっていたのだ。

 魔法陣のような古代文字だったりって感じじゃない。例えて言うなら…そう、まるで血管みたいに、本当に網目状に腕全体を覆っている。

 ハッとして、私は袖をまくってみる。光の筋は、腕の方から肩の方までずっと続いていた。

 な、なんなの、これ…?

 私はそう不安になりながら、来ていたシャツの襟を引っ張って、体の方も覗いてみる。

 お腹も、胸にも、同じように光の筋が張り巡らされていた。

 そして、その光の筋は…私の左の胸の辺りが出発点になっているようだった。

 その出発点は、たぶん心臓のすぐ上で、それで、この場所は…

 私は、片手で襟を抑えながら、さっき勇者様に魔法を打たれて服に空いた穴から指を入れて確かめる。

 やっぱり、だ。

 この光の筋の中心は、勇者様に魔法を打たれた場所だ。

 勇者様が、これを…?もしかして、呪いの一種…?それとも、遅効性の攻撃魔法か何か…?私、今度こそ死んじゃうの…?

 一瞬にして自分に起こっている得体の知れない事態からの不安が込み上がる。

 ドクン、と心臓が強く脈打った。

 そしてつぎの瞬間には、私はその不安をぬぐい去った。

 …これは、そういう物じゃない。

 ドクンと、心臓が鳴る。

 体の、心臓の辺りがポカポカと暖かくなる感覚を私は覚えた。

 ドクンと、心臓がなる。

 体の奥底から、何か得体の知れない力が込上がってくるのが感じられる。

 こんな魔法は受けたことがないし、そもそもそれほど多くの魔法を知っているわけじゃない。でも、私は今の自分の体に起こっていることが、悪いものではないっていう、根拠のない確信があった。

 これ、勇者様がやったの…?あのとき、私に魔法を放って傷つけるのと同時に、私に何かしていたって言うの…?いったい、何のために…?

 そう思考を走らせたとき、私は、まるで頭の中でパツン、と何かが弾けるような、そんな衝撃にも似た閃きを覚える。

 あぁ、そうか…

 私は、全身に溢れ出る力に後押しされたように、自然とその答えに導かれた。

 もしかしたら、何かの魔法でそう気付かされたんじゃないか、って、そう思うくらいに考えもしなかったことだった。

 でも辿り着いてみたら、今はもう他の可能性なんて考えられないくらいに、私はその答えに確信を持っていた。

 そう、それなら、すべてが納得行く。でも、それなら、その役目は私じゃない…

 私はすぐさま立ち上がって駆け出し、サキュバスさんと一緒に床に崩れ落ちていたお姉さんを助け起こした。

「お姉さん、大丈夫?」

「大丈夫だ、だから下がってろ…あたしが止める…あんなやつの思い通りになんてさせない…!」

そう言いながらも、お姉さんはすでに力が入らないのか剣を杖のように床に突き立てて、それにすがりながらでないと立ち上がれないような有様だった。

 そんなお姉さんに、私はそっと手を当ててあげた。そして、意識を集中させて、回復魔法を練習したときのように体に沸き起こる力をお姉さんへと送る。

 光が消えかかっていたお姉さんの紋章に再び光が戻り始めた。

 そのときになって、お姉さんはようやく私を振り返って、そして引き攣った笑みを浮かべる。

「おい、なんだよ、それ…?魔法陣、なのか…?なんて言うか…血管みたいな…」

「何かは分からない…でも思い当たることはある。後で説明するよ…だから、今は戦わなきゃ」

私はお姉さんにそう伝えて全身の魔力をお姉さんに注ぎ込んだ。その途端に、お姉さんの腕の紋章が今まで見たことないくらいに輝き始める。

 体を穿っていたあちこちの傷が、目を見張る速さで塞がっていく。

「あぁっ…なんだこれ…」

お姉さんは動揺しながらも、すでに私の魔力をうまく扱えているようだった。

 剣を力強く握りしめ、つい今まで立つのでも精一杯だったお姉さんは、力強く床を踏みしめて上空の勇者様を見上げた。

「もう、時間がない……あんたの力、あたしが使わせてもらうよ」

「うん、きっとそれがいい。私がやっても、きっとうまくやれないだろうし…」

私がそう答えたら、お姉さんは傍らで二人に回復魔法を掛けていた十六号さんの剣用のベルトをピッと引っ張り抜いて、それから私を背負いあげると体が離れないように固定した。

 「トロール、妖精ちゃん、サキュバス。残ってるのはあたしらだけだ…掩護を頼む」

お姉さんは、そう言って三人を振り返った。

「おいも、まだやれる。今度こそ何とかするべき」

「や、やれと言われれば精一杯やりますけど、だ、大丈夫です…?」

「この身は魔王様の物。魔王様が行くと言うのなら、例え地獄への扉でも修羅が住まう世界でも、どこへなりともお供します」

三人はお姉さんに三人三様の返事を返した。

 お姉さんはそれにコクっとうなずいて、そして再び勇者様を見上げる。

 勇者様は、基礎構文から降ってくる光の粒をさらにたくさん取り込みながらこっちの様子を伺っていた。

 そんな勇者様に向けて、お姉さんは空を蹴って一気に上空へと飛び上がった。

 私は魔力をお姉さんに送りながら、お姉さんの背中に魔法を使って、手探りしながら一対の翼を顕現させた。

 右の翼は天使の翼、そして右の翼は、サキュバスさんと同じあのコウモリのような翼だ。

 「だぁっ!」

お姉さんは、急な加速で勇者様の懐に入り込むとその剣を下から切り上げた。それは、勇者様の氷の刃に簡単に弾かれてしまう。

 でも、お姉さんは、続けざまに短剣を引き抜くと勇者様の喉元目掛けて振り下ろした。

「甘いんだよ!」

勇者様は、それを軽々躱してフワリとお姉さんから距離を開けた。

 そしてニンマリと笑うと、黙って二つの氷の刃を一つにまとめ、長い槍のような形状に作り変えた。

「そんな強化魔法は見たことがないな…あなた達、何をした…?」

勇者様は、そう戸惑っているかのような嘯くような表情を浮べている。

 そんなお姉さんに辺から行く本もの光の筋が降り掛かった。

 これは、妖精さんの光魔法だ…!

 勇者様は、その攻撃を身を翻して回避する。だけど、その先にはトロールさんが固めた石の塊が在って、それが一斉に勇者様へと叩き付けられる。

 一瞬、石の隙間から見えた勇者様の表情は驚きに満ちていた。私が目にしたくらいだ。お姉さんがそれを見逃すはずがない。

 お姉さんは紋章を真っ青に光らせて、私が背中の羽を羽ばたかせて勇者様へと突っ込んだ。今度は斜め下から勇者様を切り上げようとする。

 しかし、その剣もまた、勇者様が氷の魔法で作った防壁に阻まれ、ガキンと動きを制される。

 さらに勇者様は高笑いしながら無数の魔法陣を辺りに展開し、飛び込んで来た私とお姉さんに狙いを付ける。

 ギクッと、思わず体を怖ばらせたその時だった。

 「何でもいい…とにかく撃て!」

そう叫ぶ魔道士さんが強力な雷魔法で勇者様の魔法陣を撃って掩護してくれる。

 そしてそれに応えるように十六号さん達や大尉さんや兵長さん、隊長さんに外にいた兵士さん達が一斉に魔攻撃法を勇者様に向けて放った。

 勇者様はさらに身を翻そうとするけど、そんな一瞬の隙にお姉さんが展開させた結界魔法に進行方向を遮られて動きを止めた。

 魔法への対処が出来なかった勇者様は、強烈な無数の魔法をボコボコと言う音をさせながら全身に浴びてしまう。

 そして初めて、勇者様の体がグラッと揺れた。

「でやぁぁぁぁぁ!」

それを見逃さなかったお姉さんは私が送った魔力のすべてを剣にまとわせて、そして一気に勇者様の胸元に突き出した。

 その切っ先はあの、どんな攻撃も寄せ付けなかった勇者様の胸に突き立った。

 ほんの、ほんの少しだったけど…

 その剣の刃を勇者様は、ぎゅっと握った。手に力を込め、突き立った剣を押し込もうとしているお姉さんをグイグイと押し返していく。

「くそっ…これもダメか…!?」

お姉さんがそう呻いたとき、バッと目の前にサキュバスさんが現れて、お姉さんの握った剣に手を添えた。

「魔王様…!」

サキュバスさんはそうつぶやき一緒になって剣を勇者様の体へと押し込む。

「力なら任せろ!」

「魔王様!人間ちゃん!!」

そこに、トロールさんと妖精さんも駆けつけてくれる。

 トロールさんは剣に手を添え、妖精さんはお姉さんの肩を支えて風魔法で大気を蹴る。

 剣を抑える勇者様の腕がブルブルと震えている。もう少し…あと、少しだ…!

「小癪な…この程度の力で…この程度で…!」

勇者様は、剣の刃を握って堪えながら苦悶の表情でそう繰り返す。

 剣は、ズブリ、ズブリと少しずつ深く深くに刺さり込んで行く。

「あんたなんかの勝手にはさせない!」

お姉さんはそう叫ぶとまるで青い太陽なんじゃないかってほどに紋章を光らせて全身に力を込めた。

 ズブ、ズブブッと言う湿った感触があった直後、

「バッ…バカな…こんなことが…」

と勇者様が呻いた。

 そしれ、ズシャッと言う軽い衝撃とともに勇者様の体の向こうへと刃が抜けた。

 それでも、お姉さんは安心しない。

「トロール、サキュバス、妖精、離れろ!」

そう言うや否や、お姉さんは両腕に青く光る雷の魔法陣を展開させると、剣伝いに雷を勇者様の体内に送り込んだ。

「ふぐっ…あぁっ…ぐああああああああ!」

勇者様が低いザラッとした声で絶叫する。

 勇者様は、ゲフっと口から血を吐きながら、それでも、お姉さんの剣の刃に手を添え直し、そして食いしばった歯を開いて叫んだ。

「おのれ…おのれ…!そのままで…そのままで生かさん…あたしと、基礎構文の道連れにしてやる!」 

勇者様は、そう言うが早いか、私とお姉さんごと自分を卵のような丸い魔力の塊に飲み込んだ。

 その光の魔力の中は、なぜか静かだった。雷のような電撃が来ると思っていたから、全身に力が入ってしまっていたけど、自然とそれを緩めてしまう。

 この塊は結界の一種だろうか?外の様子が見えない。音も聞こえない。

 まるで光り輝く不思議な空間に包まれているような、そんな感じがする。

 これが攻撃や何かでないっていうのを理解した私は、はたと勇者様の考えに気づいた。

 だから私は、まだ勇者様の体に雷魔法を送り続けていたお姉さんと私をつなぎとめていたベルトを外して、お姉さんから体を離した。

 途端に、出力を失ったお姉さんはガクリと膝が落ちそうになる。

 そんなお姉さんをとっさに支えたのは、剣を刺されたままの勇者様だった。

 その顔には、ほぐれた笑みを浮かべていた。あの日と同じ、お姉さんと良く似た悲しげな瞳をたたえたままの…

「おい…な、何してんだ…?」

お姉さんが私にそう聞いてくる。

「うん、お姉さん…私、勇者様に聞かなきゃいけないことがあるんだ」

私は、驚いた表情を浮べているお姉さんに笑いかけて、そのまま勇者様の前にすすみでた。

「勇者様…これで、良かったのかな…?」

すると勇者様は、鱗に覆われその下には獣人族のような巨大な筋肉を膨らませていた腕を私に伸ばしてきて、そして、その手のひらだけを人間の姿に戻すと、クシャッと私の頭を撫でてくれた。

「本当に、あなたは頭の良い子だ…おかげで三文芝居がしやすかったよ」

そう言った勇者様の表情は、とっても優しい顔つきだった。

「途中はもうだめなんだって思いましたけど…」

「申し訳なかったけど…そう感じてくれてたのなら良かった」

「おい…何の話だよ…?何が、どうなってんだ…?」

お姉さんが目をパチクリさせながら私と勇者様に聞く。

 私は、私からではない方がいいかな、と思って勇者様に視線を向けたら、勇者様は小首を傾げてなにかを考えるような仕草を見せてから、またクスっと笑って

「いろいろ話はしたいけど、もう時間がない。基礎構文が崩壊する前に決着を付けよう」

勇者様はそう言うと、別の魔法陣を無数に周りに張り巡らせた。そして、

「爆破と同時に結界魔法で身を守れよな」

と、今度は自分に剣を突き指しているお姉さんの髪を梳く。

「待てよ…何、言ってるんだ…?」

「本当に頑張ったな、これまで…」

戸惑いを隠せないお姉さんの、今度は頬を愛おしそうにつまんだ勇者様はそう言って、それから穏やかな口調で付け加えた。

「この世界はきっと荒れる。だから、あなたが居てくれて良かった。あなたと仲間たちとでこの大陸の光となってくれよ…あなた達なら、きっと出来る!」

そうして勇者様は優しく微笑んだ。

 バシバシと、辺りの魔法陣が音を立て始める。

私はまたお姉さんに飛びついて

「お姉さん、結界魔法!早く!」

と急かした。

「えっ…あ、あぁ…」

お姉さんはワケが分からない、って顔をしてたけど、お姉さんはすぐさま結界魔法を展開させる。

 勇者様が自分に突き立った剣を握っていたお姉さんの手の手を添えて言った。

「ごめんな、そして、ありがとう。本当はもっと姉らしくしてやりたかったけど、状況が許さなかったからな」

突然、ポロリと勇者様の目から涙がこぼれる。

 お姉さんは相変わらず身を固めてしまったままだ。

「もし…この先もう一度会えたら、その時は…」

勇者様は、そこまで言うと、ハッとして顔を上げた。

「…時間だ…それじゃぁね」

そう、落ち着いた様子で言った勇者様は、自分に突き立った剣をギュッと握りしめ、そして、それを手にしていたお姉さんを力一杯に蹴り飛ばした。

 次の瞬間、私達は、またあの夜空の元に飛び出していて、そんな私達を激しい爆発の炎と風圧が飲み込んだ。

 ぐるぐると体が振り回され落下していく中で、私は、剣が突き刺さったままの勇者様の体が、まるで魔法で出来た翼やトロールさんの体が消えていくのと同じように、光る霧のようになって消えながら地上に墜ちて行くのを見た。

「くっそ、魔力がもう空だ!おい、さっきの力、もう一回送ってくれ!」

風の音に混じって、お姉さんがそう叫ぶのが聞こえる。私達だって、落下中だ。魔法で着地をしないと、無事では済まない。

 私は、お姉さんの体にへばりついて意識を集中させる。体の奥底から湧いてくる力をお姉さんに送り込…めない。

 あ、あれ…おかしいな…焦ってる?集中が足りないのかな…?でも、もう一度試してみるけど、やっぱりさっきのような力が出せない。

 ハッとして私は自分の体を見やった。そこのは、あの真っ白に光る不思議な模様は跡形もない。あの日に勇者様にもらった魔法陣も消えてしまっている。

 も、も、ももしかして…?!

 私は夜空に目をやった。そこにはもう、あの輝く大きな魔法陣はない。基礎構文ももう、跡形もなく消え去っていた。

 そっか、もう魔法は使えないんだね…じゃぁ、これ、今、すっごいまずい状態じゃない…!?

「お姉さん、私も出来ない…!」

「何ぃぃぃ!?」

そう言っている間にお城の床がグングンと迫ってくる。

「おい、受け止めろ!」

下で隊長さんがそう叫んで、女戦士さん達が私とお姉さんの落下点に駆けつけた。

 私は空中でお姉さんにギュッと抱きしめられた瞬間、ドスンと言う強烈な衝撃が体に走るのを感じた。

 全身がガクガクして、頭もクラクラとする。

 周りには、私達と一緒に倒れ込んでいる女戦士さん達の姿があった。

「あぁ、なんだよ…どうなってんだ?」

女戦士さんが打ち付けたらしい肩をさすりながら不思議そうにそう言い

「力が、入らない…?」

と女剣士さんも、自分の手を見て呟く。

「あっ…痛ってぇぇぇぇ!」

お姉さんが腕を抑えながらそんなうめき声を上げた。見ると、お姉さんの左腕がおかしな腫れ上がり方をしている。

 お、お、お姉さん、それ、骨が…?

 私がそう青ざめていたら、そこへ十六号さんが駆け寄ってきた。

「大丈夫か、二人共…?じゅ、十三姉、それ腕折れてんじゃないか!」

十六号さんはそう言うなりお姉さんの腕に両手を掲げて、しばらくしてから、

「あぁ、そうか…」

と口にして、夜空を見上げた。

 「…間に合わなかったって言うべきか…何とか間に合ったって言うべきか、悩むところだな」

そんな十六号さんに、お姉さんは笑ってそう言い、そのまま腕をかばいながら床にごろっと横たわった。

 そして、安堵のため息をついてから、静かな声色で言った。

「終わった…終わっちゃったよ…」

ポロリと、お姉さんの目から涙がこぼれた。でも、そんなお姉さんはあの悲しい顔をしてはいなかった。かと言って、嬉しいんでも、喜んでいるんでもない。

 ただ、その表情は私には、どこか清々しく見えるような、そんな気がした。


「魔王様!」

そう声が聞こえて、私は、ふと顔を上げた。そこには、サキュバスさんがいた。でも…なんだか違和感がある。

 それもそのはず、サキュバスさんには、あの頭に生えていた角がない。尖った耳も、背中の翼もない。

 そこにいたのは、栗毛色の長い髪をした、人間のサキュバスさんだった。

「あぁ…サキュバス…だよな?」

「はい、私です…魔王様、よく、よく、ご無事で…」

サキュバスさんはそう言うなり、お姉さんの手を取って泣き出してしまった。

 基礎構文が消えてしまったら、魔族は魔族の姿を保っていられなくなってしまったんだ。

 それを思い出して私は、辺りを見回した。

 ソファーの部屋だった場所の隅に、見知らぬ男の人が二人に、それからたぶん鬼族の戦士だった女の人と、鳥の剣士さんだった二人の姿があった。

 見知らぬ二人は、軽鎧の方が黒豹さんで、ゴテゴテした鎧にたくましい体をしている方が虎の小隊長さんだろう。

 お姉さんの言葉の通りだった。

 戦いは終わった。

 世界も、終わってしまった。

 お姉さん先代様と交わした魔族達に平和をもたらす約束は、ついに叶わなかったんだ。

 だからあんな表情で涙を流していたんだ。

 でも、これで終わりじゃない、って、お姉さんはきっと分かってくれているんだろう。

「みんな…聞いてくれ」

お姉さんはすぐに、仰向けに寝転んだまま、駆け寄ってきていたみんなに向けてそう声を掛けた。

 「すぐに、ケガ人の手当てをする。あたし達の手当てが終わったら、その次は外の連中だ。重傷者がかなりいるはずだからなるだけ急いで指揮を取って、重傷者から優先的に罠用に作っておいた広間に引き入れて治療をさせてくれ」

そんなお姉さんの言葉に、みんなもようやく、一様に安堵の息をホッと吐いてみせた。

「まったく、人使いの荒さは変わってねえな」

「おし、アタシらが表の偵察してこよう。触れて回らなきゃいけないし」

「十六姉ちゃんは東を頼むよ。俺は西に行く」

「よし、西にはうちの剣士を付けよう」

「それなら私が東の方に着いて行きます」

「あぁ、頼むぞ鬼戦士」

「虎だった旦那は、兵長の意識が戻るまではここの指揮を頼む」

「わ、私も何かするよ!」

「零号様は私と一緒にお湯を沸かすのを手伝ってくださいますか?」

「私は…医療品と薬草を持って出します」

「確か倉庫に山ほどあったねぇ、あたしはそっちかな」

「おいも、手伝う」

みんなが口々にそう役割を確かめ合ったのを聞いて、お姉さんはクスっと嬉しそうに笑ってみせた。

 「まったく…本当に休む間もないよな」

お姉さんはそう言いながらも、私の顔を見やって

「さっきの話は、後回しだ」

なんて満面の笑みで笑いかけてくれた。



***



 「おーい、誰かこっちに手を貸してくれ!」

「重傷者は二階の大広間へ!手当てがまだの軽傷者は、中庭の救護所が空いているので、そっちへ回って!」

「待たせたな、炊き出しだ!まだの連中にどんどん回してやってくれ!」

「おぉい、誰か責任者の所在知らんか?追加の輸送隊がついたんだ」

長かった夜が開けた。

 昨日の晩まで、人間軍と魔族の人達に埋め尽くされていた城壁の外には軍隊の駐留用のテントが張られて、あちこちが仮設救護所に成り代わっていた。

 昨日まで武器を持っていた人達は、今日は包帯や固定具、止血の薬草なんかを持ってあちこちを駆け回っている。

 魔王城の中の台所にも人が詰めかけ、残りの食糧を全部供出した炊き出しだも行われている。

 それだけでは足りないけれど基礎構文が消えたあとのことを想定していて、大尉さんが手を回していた救援隊の物資が時間を置いて馬車数台ずつ到着しては、食糧や医薬品を運んできてくれていた。

 どうもこの救援隊を指揮しているのは、あの竜族将さんらしい。大尉さんがどう頼んだかは分からないけれど、竜族将さんはこの物質輸送にかなり積極的に協力してくれているらしかった。

 お城も開放して、特に安静が必要な人達に休んでもらう場所になっている。

 そう指示を出したのは、もちろんお姉さんだった。

 私はお手伝いの合間の僅かな休憩時間に、昨晩に吹き飛んでしまったソファーの部屋まであがって、そこからお城の内外で動き回る人達を眺めていた。

 そこには、土の民も造の民もない。ただの人間達が、傷付いた仲間のために行き交う姿があった。

 「よう、大丈夫か?」

不意にそう声がしたので振り替えると、そこにはお姉さんがいた。

 お姉さんはあちこちに包帯を巻き、当て布を貼り付けられている。右腕はやっぱり骨折していて、首から三角布で吊り下げていた。

「うん、平気。お姉さんは?」

私がそう聞いてみたら、お姉さんは苦笑いを浮かべて

「いやぁ、あちこち痛くって…ケガが治らないなんて、初めてのことだからな」

なんて言って肩をすくめた。

 基礎構文が消えた。私達の世界にはもう、魔法が存在しない。

 骨折も切り傷も火傷も、治るまでには長い時間がかかってしまう。

 それを不便がり、やっぱり絶望を感じる人達もいるようだけど、そもそも生き物っていうのはそういう存在なんじゃないか、って私は思う。

 畑で作物がゆっくり育つように、人の成長も、傷の治癒だって、本来はきっとそういうものだろう。もし今を不便だと思うのなら、それはきっと、魔法の力に甘え過ぎてしまった結果だ。

 「ごめんねお姉さん。私を床にぶつけないようにしてくれたんだよね」

「あぁ、まぁ…うん、いいよ」

私がお礼を言ったら、お姉さんはそう言って照れ笑いを浮かべながらポリポリと頬を掻いた。

「外の人達の被害は分かった?」

「あぁ、死んだ奴はそう多くないみたいだ。地上にいた奴らはケガだけ。死んじゃったのは、上空から叩き落とされた連中で、着地をやれずに打ちどころが悪かったやつらだ。今のところは、八十九人…」

「そんなに…」

「いや、総数三万八千の中で、死んだのが八十九人だ。ケガした奴らはもっと膨大だけど、死者の数だけみたら、被害なんてなかったに近い」

そうか…あれだけの数の人達が勇者様に挑んだんだ。

 勇者様にはそうするつもりがなくても、あの高さからお城じゃなく地面に落ちてしまえば助からない人がいたんだろう。

 ううん、逆に、光の矢や、氷の刃を散々に降らせたのに、誰ひとり死んだ人がいないというのなら、勇者様にはそうする意思が本当になかったんだ。

 …やっぱりそうだったんだね。

 私が内心、勇者様の行動に納得していたら、ややあって表情を引き締め直したお姉さんが私に聞いてきた。

「教えてくれないか、あのときのこと」

あぁ、うん、そうだね…

 あれからは、混乱する戦場を治めてケガ人の救護を組織立てるために、忙しく動いて、あの話をゆっくりとする時間なんてなかった。

「うん、分かった」

私はそう返事をして、お姉さんに向き直る。そして私は、勇者様が考えたのだろう物語をお姉さんに聞いてもらった。

 「昔々ある大陸では、終わることのない戦いが続いていた。果てのない戦いによって人々は疲弊しきっていて、心の内の憎しみや怒りを見つめ直す余裕すらなく、ただ武器を取り敵を傷付けていた。ある日、戦いの最中に、世界を繰り返す憎しみと怒りに突き落とした“古の災い”が蘇って、大陸を滅ぼそうと暴れまわった。たくさんの人々が傷付いた…けれど、その憎しみと怒りが満ちた大陸でそんな感情に飲まれずに、平和を夢見た人とその仲間達が多くの人達の前に立って災いと戦い、遂にはこれを討ち破った…」

私の話に、お姉さんは真剣な表情で首を傾げて

「なんだよ、それ?」

と聞いてくる。そんなお姉さんに、私は笑って答えた。

「これから先、この大陸に伝わって行く…ううん、勇者様が、この大陸に伝えて行って欲しい、って、そう願った物語だよ」

「あいつが…?」

お姉さんは、なおも怪訝な表情で首を傾げている。

「うん…私達の見込みは、きっと甘かったんだと思う。基礎構文を消さなきゃ、紋章を扱えなかったお姉さんと私達は、人間軍と魔族の人達には勝てなかった。だから基礎構文を消して世界を壊して、人間と魔族の差異をなくして、新しい世界を紡いで行くしかないってそう思った。でも、勇者様は知っていたんだと思う。世界を飲み込んだ怒りや憎しみが、そんなことでは消えないってこと。悪くしたら、基礎構文が消えたあともその感情だけが残って、“古の勇者”様が現れる以前の世界に以上のひどい状態になる可能性だってあった」

お姉さんは意味を掴みかねている様子で私をジッと見つめながら話を聞いてくれている。

「…争い合う二つの人達がいるところにもっと強い恐ろしい何かがやって来たから、二つの人達が手を取り合ってその恐ろしい何かを討つ…良く出来た物語だよね」

私は、いつだったか十六号さんが言った言葉をなぞってそう言った。その言葉に、お姉さんの表情が曇る。

「…そう、それは、お姉さんが引き受けていた役目だった。魔導協会に押し付けられた役目、かな。大陸を滅ぼす悪として、大陸中の怒りと憎しみを背負う“生け贄のヤギ”…」

「待てよ」

不意に、お姉さんはそう言って私の話を止めた。曇った表情のままに、お姉さんは私に聞いてくる。

「それじゃあ、あいつは…あたしの代わりにそう言う悪い感情を引き受けて、進んで“生け贄のヤギ”になったってのか?」

「うん、そうだったんだと思う」

私は、お姉さんに頷いて見せてから、話を続けた。

 「勇者様は言ってた。今の世界を作ってしまったのは、勇者様自身だって。正直、私もそう思うところがあった。それしか方法がなかったとしても…世界を二つに分けるなんてことは、悪い感情を放置して悪化させてしまうだけのものだったんじゃないかな、って。だから勇者様は、私達を騙して裏切って…世界を滅ぼそうとした。大陸中の悪い感情すべて背負って、それと一緒に世界から消えることが、自分の役目だって、そう考えたんだと思う…」

 私がそう答えたら、お姉さんは

「そんな…」

と呟いて、力なくその場にへたり込んだ。私は、それでも話を続けた。

「でも…勇者様のおかげで世界は、大陸が二つに分けられる前の姿に戻った。中央山脈がなくなって、魔法がなくなって…長い間に歪んでしまった、いびつな悪い感情も消えた。勇者様は、そのために“生け贄のヤギ”を買って出たんだ。勇者様はお姉さんに言ってたでしょ?世界の光になってやってくれ、って」

 怒りや憎しみを奪い去っても、一つの大陸に住む、二つの違った文化を持つ民はそのままだ。放っておけば、いつまた衝突が起きるか分からない。

 そしてその衝突にちょうど良い落としどころを付けられるかどうかは、勇者様には分からなかったんだ。

 でも、勇者様はお姉さんの話を聞いて…お姉さん自身の言葉を聞いて、お姉さんなら二つの民の衝突を治められると感じたんだと思う。

 もしかしたら、二つの民を融和することだって出来るんじゃないか、って感じたのかもしれない。

 何しろ、私達は人間も魔族もなくお姉さんと一緒にいて、お姉さんを助けていたから。

 勇者様が“生け贄のヤギ”になったのは、勇者様自身が責任を取りたかっただけじゃない。お姉さんに、大陸の未来に生きていて欲しかったからなんだ。勇者様もお姉さんと同じで、この大陸の平和をずっと望んで来た人だったはずだから…

「なんで、そう思ったんだ?」

「だって、そう考えるしか理屈が合わなかったんだ。どう考えたって、勇者様から紋章を奪う方法なんてない。だから、それ自体が嘘なんじゃないかな、って、そう思った。勇者様は、最初に封印から出たときにはもう、今回の事を計画していたんだと思う。封印の事を私が聞いて、紋章の受け渡しが上手く行かないと困るから、魔法で私を黙らせた。でも、代わりに私に、勇者様を討つ役割りをさせるために、あのおかしな紋章みたいなものも一緒に埋め込んだんだ。たぶん、だけど、あれは…基礎構文の一部だったんだと思う。消え始めた基礎構文を勇者様自身と私とに分けて、力を与えてくれたんじゃないかな。あの結末を迎えるために」

 私は、お姉さんにそう言った。

 直接確かめたわけじゃなかったし、想像によるところも大きい。でも、不思議と私は、それが間違いなんじゃないか、とは思えなかった。

「それが本当だったら…」

お姉さんはポツリと口を開いた。

「あたし、あいつに随分とひどいこと言っちゃったな…」

「それで良かったんだと思う…勇者様が私達を裏切ったのはそのためだったんじゃないかな。恨みとか憎しみとか、そう言うのを背負うためには本当に私達を傷つけるくらいの気持ちじゃないといけなかったんだと思う。だって、そうじゃないとお姉さんは勇者様ですら助けようってそう思ったでしょ?」

 私がそう言ったら、お姉さんは「あー」なんてうめき声をあげて

「まぁ、そうだよな…そんな話を事前にされたら…あたし、また傷付けるのを避ける方法を探してたと思う」

と納得してくれたようなことを言った。でも、それでもお姉さんは

「でも…やっぱり、そうと知ってたら…もっと何か、感謝とかそういうことを伝えられたんじゃないかな、とも思うよな」

なんてぼやく。

「きっと伝わってるよ」

「そうだと良いけど…」

お姉さんはそう応えて、「よっ」という掛け声とともに体を起こした。

 何かな、と思ったら

「さて…お呼びかな?」

とお姉さんが振り返ってそう言う。

 お姉さんの視線を追うとその先には、サキュバスさんに妖精さん、トロールさんがいた。

 「魔王様、サボりはダメですよ!」

妖精さんがそんなことを言って笑う。

「魔王様、とお呼びするのも今更なんだか違う気が致しますね」

妖精さんの言葉に、サキュバスさんがそう笑顔を見せた。

「会議室で魔導士が呼んでる」

トロールさんは、いつもの様子でお姉さんにそう言う。

そしたらそれを聞いた妖精さんが

「魔法が使えないのに魔導士様、っていうのも、なんだかおかしいね」

なんて言ってまた笑った。

 そんな様子を見て、お姉さんはふぅ、と溜め息を吐きながら両肩をすくめて

「ほんと、勇者でも魔王でなくても、楽は出来ないな」

なんて言って笑った。

 勇者様が言った通り、竜娘ちゃんが想像した通り、この先のことも、きっと簡単じゃないだろう。

 今はこの戦いの終わった戦場で、みんなが手を取り合って助け合おうとしている。

 でも、魔法が消えたこの世界がどうなっていくのか、まだ誰にも分からない。

 人間界の王国はこれからどうなって行くんだろう?

 魔族から人間の姿に戻ってしまった魔族の人達の暮らしはどうなっていくんだろう?

 まだまだ心配しなきゃいけないことはたくさんある。

 私達は、基礎構文を消した当事者として、勇者様に願いを託された者として、それを考えていかなきゃいけない。

 それはもしかしたら、お姉さんが勇者や魔王をやっているとき以上に大変なことなのかもしれない。

 でも、私は以前ほどそのことに心配はしていなかった。

 だって、これからはもう、勇者や魔王なんかに何かを押し付けることなんてできないからだ。

 これからは、みんなひとりひとりがその責任を負っていかなきゃいけなくなる。

 お姉さんが全てを背負っていた頃とは違う。戦いがすべてだった頃とも違う。

 そこには、私に出来ることもきっとあるに違いないからだ。

 「魔王様、急ぐですよ!」

「ケガ人の扱いじゃないよなぁ、まったく」

妖精さんの言葉に、お姉さんがそう言って笑う。

 「ケガをされていても政務ができますからね」

「そもそもあたしに政務って向いてないんじゃないのか?兵長とあんたが居れば十分だろ?」

そう言ったサキュバスさんに、お姉さんは、わざとらしい嫌そうな顔をして応えた。

 「救援隊の物資の振り分けも頼みたいと言っていた」

「それこそ、兵長あたりがやればいいだろ!」

トロールさんの情報にお姉さんは笑いながらそう文句を言う。

 「ほら、お姉さん!お仕事お仕事!」

私もそう言って、お姉さんの服を引っ張った。

 「あぁ、もう!分かった分かった!行くよ、行けばいいんだろ!」

お姉さんは私に引っ張られて、そんな事を言いながら立ち上がる。

 「ほんとにまったく…楽じゃないよ!」

お姉さんはそんなことを言いながら、満面の笑顔で笑ってみせた。

 そして私達は、荒れ果てたソファーの部屋を揃って後にした。

 これから始まるのは誰も知らない新しい世界。

 その世界を、私達は作っていかなきゃいけないんだ。

 止まってる暇も、迷っている暇も、怯えて不安になっている暇もない。

 私達は歩いていくんだ。何が起こるかわからないけれど、きっと私達は大丈夫。

 だって、私達はひとりじゃない。

 いつだって、困ったときにはそばにいてれる仲間がいる。

 だからきっと、私達は大丈夫!


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勇者のキセキ Catapira @catapira

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