第11話:古の勇者

 魔族の人たちと、それから人間軍とが手を組んで魔王城に攻めてくる、という話が私達の緊張をいやがおうにも高まらせたあの日。

 私や十六号さん、零号ちゃんが眠っていた部屋に、十八号さんに連れられて転移してきた竜娘ちゃんは真剣な表情で言った。 

「そのことで、ご相談したいことがあるのです…できれば、あの方には内密に…」

 あの方、って、お姉さんのこと、だ。

 どうしてお姉さんに内緒なんだろう…?何かまずいことなの…?

「な、内緒にしなきゃいけないのは、なんで…?」

私が聞くと、竜娘ちゃんは難しい顔つきのままで、静かに答えた。

「あの方をお助けするために、です」

「人間…竜娘の話を聞いて欲しい」

竜娘ちゃんの言葉に、トロールさんが続く。

それを聞いて私は、その先を知りたくて、もう一度竜娘ちゃんの顔を見た。

「おそらく…世界にも、あの方にも、どうしても必要なことだと私は思うのです」

竜娘ちゃんは私の目を見てそう言った。

 表情は険しくて、それこそ怒っているように見えるくらいだけど、竜娘ちゃんの縦長の瞳には、言い知れぬ意志と覚悟が宿っているように、私には見えた。

 「私たちは、トロール族の地で、古い文字で書かれた石板をみつけました」

「それが…基礎構文、ってやつだったのか?」

竜娘ちゃんの言葉に、十六号さんがそう尋ねる。でも、そんな十六号さんに竜娘ちゃんは首を横に振った。

「いいえ。それは…物語。いいえ、もっと正しく言えば、きっと、記録。あるいは、手紙だったのかもしれません」

「手紙?誰が誰に宛てたの?」

今度は妖精さんがそう聞く。竜娘ちゃんは、それを聞いてコクっと頷いて続ける。

「恐らく…遠い遠い未来の“誰か”に宛てられた、古の手紙。それも、謝罪文です」

 謝罪文…?いったい誰が、なんのためにそんなことを…?

 そんな私の疑問を感じ取ったのか、竜娘ちゃんは大きく深呼吸をして言った。

「これからする話は…私の憶測による部分もあります。ですが、おおよそ、その内容は真実だと思います。ですから、心して聞いてください。その手紙を書いたのは、きっと、〝古の勇者さま”本人だと思います」

 世界を二つに別った、古の勇者様が、謝罪…?

 私はそれを聞いて、思わず十六号さんを見やっていた。十六号さんも私を見ている。

 そう、ついさっき、そんな話をしていたところだった。古の勇者様は、間違ったんじゃないか、って。世界を平和にするために、世界を二つに割って争いの解決をただ先延ばしにしただけじゃなかったのか、って。

「書き出しは、こうです。『この書を読む者はどのような世に生きているのだろうか?私は平和な世界が訪れていることを願いつつ、それはただ夢幻であるようにすら思っている』…」

竜娘ちゃんの口調は、まるで寝物語を話すような、だれかの手紙を朗読するような、そんな感じだった。

「『私は、人ならざる者となり、世界を眺め、そして、考えた。しかし、私に与えられた役割はあまりにも大きく、そして、私の想像や意志を超えている。私が世界を統べ、あらたな秩序を紡ぐことは難しいことではないだろう。だたし、それが正しいのかどうか、私にはわからない。私が唯一絶対の者になり、そして大陸のすべてをその庇護のもとに平等とするという管理者たちの考えは、理解はできる。理解はできるが、同意はできなかった』」

部屋の中が、しんと静まり返っている。

 みんなが、竜娘ちゃんの言葉に聴き入っていた。

「『私は、意志の弱い者だ。間違っていると思いながら、しかし別の方法を考えることもできない。新たな何かを求めるにも、人ならざる者として一人、この争いの続く世界への答えは導き出すことはできない。この両肩に乗った世界、人ならざる者となったとしても、私には重すぎる。その重みに耐えかね、このような選択しかできない私は自分を恥じる。自らが何も出来ぬことを、恥じる。私ではない誰かにそれを託すことを恥じる。そして、幾年月か先、その誰かが答えを見つけてくれることを願うしかできぬ自分を恥じる』」

 「……それって、つまり…」

「はい」

十六号さんの言葉に、竜娘ちゃんは再びうなずいた。

 「〝古の勇者”様は、世界を二つに別ったことを、最良だと考えたのではないのです。きっと、〝古の勇者”様は、それが解決にならないことを理解していた。 でも、他に手だてがなかったのだと思います」

 そう、だから、謝罪文なんだ。

 世界を別ち、争いを一旦、避けることしかできなかった。〝古の勇者”様は、争いを避けることはできても、魔族と人間との憎しみを取り去ることはできなかったんだ。

「文章は、こう続きます…『私は、土の民と造の民との地に、この大陸を分けた。遥か先、これを読んでいるあなたに、託す他に私はできることがない。だが、どうか聞いてほしい。もしあなたにその意志と勇気と、そして知恵があるのなら、これより記す世界の理を正しく理解し、正しく使い、二つの民を融和させてくれることを切に望む。それは、人ならざる者、すなわち、神として君臨するなどという方法ではないはずなのだ。どうか、意志と勇気と知恵を以って、私の犯した過ちを正してほしい。父上、母上、そして兄弟達。こんな私で、すまない。そして世界中の人々、これから生まれ、そして死んでいくだろう人々。贖罪などが与えられるはずもないが、それでも、私は祈っている。いつか、その答えを探し当てることができるように』」

竜娘ちゃんは、そこまで話して、それから私たち一人ひとりの顔を見て、言った。

「これからお話しすることは、皆さんにとっても大きな重荷になると思います…後戻りも、きっとできなくなります。ですので、もう一度だけ、確かめさせてください。これから私がお話しするのは、あの方にとってだけではありません。私たちの住むこの大陸を、大いに混乱させるだろうことです。それでも、聞いていただけますか…?」

竜娘ちゃんの言葉に、私は思わず息をのんだ。

 まだ、何を話したわけでもない。

 でも、竜娘ちゃんから伝わってくるのは、お姉さんがこの戦いを決めたとき以上の重苦しい、覚悟の気配だったからだ。

 何も言葉を継げず、妖精さんを目を見合わせていると、不意に十六号さんが言った。

「十四兄ちゃんと十八号は、それを知ってるんだな?」

十六号さんの言葉に、ふたりは黙ってコクリとうなずく。

それを見た十六号さんは、ふぅ、と息を吐いて十七号さんを見やって

「なら、アタシは聞く。あんた達がその話を聞いて、今も黙ってる、っていうんなら、何か納得できてる、ってことなんだろ?それなら、アタシもそうしたい。あんた達と一緒に、十三姉ちゃんを助ける。たとえアタシ達の身に何が起こったとしても…」

と言いうなずいた。

 十七号くんもそれを見て

「…そうだな…。十四兄ちゃんはさておき、十八号がそれで良いって思ってるんなら、間違いないだろうし」

なんて言って、無理矢理に笑顔を見せた。

「おいおい、俺の信用ってそんなかよ」

それを聞きつけた十四号さんが笑顔でそう不満を言う。

「だって。十四兄ちゃんの考えることは俺には難しすぎてわかんないんだもんな。その点、十八号は十四兄ちゃんよりはわかり易いし、バカな俺にもわかるように話してくれるし」

 十七号くんはそう言ってまた笑い、それから私と妖精さん、そして零号ちゃんを見て

「そっちは、どうする?」

と聞いてきた。私たちは三人で目を見合わせて黙り込んでしまう。

 正直言って、怖かった。

 これからどんな話が出てくるのかなんて想像もついていないけど、それでも、竜娘ちゃんの重苦しい様子が、私から言葉を奪っていた。妖精さんも迷っているようでムニュムニュ口を動かそうとはしているけど、何を言うこともできないでいる。

 そんなとき、零号ちゃんが申し訳なさそうに口を開いた。

「あの…ちょっと話ズレちゃうかもしれないけど、いいかな…?」

みんなの視線が、零号ちゃんに注がれる。

 その視線を受けて、零号ちゃんはなおも居心地が悪そうにモジモジとしながら、小さな声で言った。

「その、ね…いきなり難しすぎて、よくわかんない…つまり、どういうことなの…?」

それを聞いて、一瞬、部屋中がポカンとした空気に包まれた。

 そして次の瞬間、十六号さんがプっと噴き出して笑いだす。

「わ、笑わないでよ、十六号お姉ちゃん!」

「いや、悪い悪い。まさかそう来るとは思わなくって」

頬を赤らめていきり立つ零号ちゃんに、十六号さんはなんとか、って様子で笑いを収めてから、すこし考えるようにして言った。

「えっと…要するに、“古の勇者”様が伝え遺してくれたものがあって、それがこれからのアタシ達や十三姉ちゃんに役に立ちそうなんだけど、それを聞いて、本当にその方法を使うかどうか考えなきゃいけない、って、そういうこと…だよな?」

 十六号さんは、最後にそう付け加えて十八号さんに尋ねた。

 すると、今度は零号ちゃんがクスクスっと笑い声をあげる。

「十六号お姉ちゃんだってちゃんとわかってないんじゃん」

「フン、自慢じゃないが、アタシと十七号はバカなんだよ!」

「おい、俺を巻き込まないでよ。まぁ、バカなのはホントだけどさ」

三人はそう言い合って、それからなんだかおかしそうに笑い始める。

 少しして、その笑いを収めた零号ちゃんが、どこかすっきりした様子の表情で、竜娘ちゃんに言った。

「器の姫様、それを使えば、お姉ちゃんを助けてあげられるんだよね?だったら、私、どんな話でもそれを聞くよ。私も、お姉ちゃんを守ってあげたいんだ」

 そう…そうだよね。

 これから聞く話がどんなことかは分からないけど…きっと、世界の平和のために悪者として人間と魔族、二つの種族に敵扱いされて悪者だと言われてその苦しみを一心に背負っているお姉さんに比べたら、どんな話でも、私たちみんなで聞けば、きっと大丈夫なはずだ。

 それに、竜娘ちゃんはお姉さんのためにも、って言っていた。

 もし、これからの話がお姉さんを助けることになるんだとしたら、私も賛成以外にない。

 私は、チラっと妖精さんを見やった。妖精さんも、私を見ていた。

 お互いに気持ちが決まったのが伝わったのか、どちらからともなく笑顔がこぼれて、それから竜娘ちゃんに伝える。

「わかった。私も聞くよ」

「魔王様を助けるためなら、なんでもするです」

私たちの言葉を聞いた竜娘ちゃんは、少し驚いたような表情を浮かべたけど、それでもすぐに気を取り直して私たちに目礼し、

「ありがとうございます…それでは、話をさせていただきますね…」

と、ふう、と小さく息を吐き、ついに話を始めた。

 「“古の勇者”様の手記をもとに足を延ばした私たちは、あの中央山脈の最高峰の頂上付近で、朽ち果てた祠を見つけました。そこにあったのは、基礎構文に関する説明が書かれた石板と、そして、二つの紋章についてのことでした」

 基礎構文…世界を世界たらしめている物で、世界を戦いの渦中に引き留めている物…それが、本当に、実在したんだ…

 私はそのことだけで、少しドキドキしてしまう。

 まるで…そう、寝物語の中に出てくる幻獣なんかが本当にいた!と言われているような、そんな感覚だった。

「まず、基礎構文についてですが…確かにそれは、この世界を“世界たらしめている物”に相違ありませんでした。つまり、基礎構文とはこの世界の理を規定した、いわば最初の魔法だったのです」

「ま、待ってくれ…最初っからよくわからない…つまり、どういうことなんだ…?」

「はい、つまり基礎構文とはすなわち、この大陸において魔法という力を生み出すための“力場”を規定するためのいわば結界。平和を願い、人ならざる神を生み出そうとした結果、私たちは魔法という、不自然な力を手に入れてしまったのです。一人で魔法を使えない者十人かそれ以上の力を持つに至った結果この大陸から争いは絶えることがなくなり、そして泥沼のように繰り返されるに至ったのです」

 私は、息をのまずにはいられなかった。

 確かに、魔法を初めて見たときにかすかにだけど不思議に思った。

 魔法でもなんでも、身を守るための結界やなんかを使わなければ、どんなに強い魔法を扱える人でもあの日のお姉さんのように毒やナイフで簡単に大きなケガをしてしまう。

 お姉さんに限ったことじゃない。

 魔導士さんが雷をあやつることができるのも…人の傷をみるみるうちに治していくことも…魔法って力は、私たちが道具もなしに生み出すには不自然なんだ。

 信じがたい話だけど…でも、やっぱり引っかかっていたことがある。魔法というものは、私たちの体に対してはあまりにも強力すぎるんだ。一人の人間が、まるで嵐のような風を起こすことなんて、まるでおかしい。腕から火球を放ったり、床を凍らせたり…

 それは自然だけが持つ力のはずで、それを人間が…ううん、生き物が自分の意志でどうにかできるものではなかったんだ。

 畑の作物がゆっくり実って行くのを、一刻でおいしく熟した状態にまで変化させるような、そんなのと同じことだ。

 それを、私たちはまるで当然のように扱えてしまっている…そして、その魔法という力をこの大陸に生み出しているのが、その基礎構文だっていう意味だ。

 さらに、そんな力が存在してしまったからこそ…簡単にたくさんの誰かを傷つけることができる力を得てしまったからこそ、私たちは戦いをやめることができなかった。憎しみを晴らすことしか考えつかなった。

 竜娘ちゃんの言っていることは、そういうことだ。

 「ま、魔法を作り出した魔法、ってことだ…?」

十七号くんが竜娘ちゃんに、確かめるようにそう尋ねる。

竜娘ちゃんはコクっとうなずき、それから

「そして、その基礎構文によって発生した力場の中で、もっとも効率良く強力にその力を扱うために作り出されたのが、二つの紋章でした。先ほどの“古の勇者”様の手記にあった『管理者』というのは、恐らく現在の魔導協会とサキュバス族のことだと思います。手記になぞらえれば、あの二つの紋章が作られた理由は、絶対の神を具現化させるため。すなわち、“古の勇者”様がその力を使って神となり…自然とともにあろうとする土の民である魔族と、畑や街を作る造の民である人間、双方からの信仰を集めることによって争いを鎮めようとした。それが、かつて考えられた出来事だったのだと、私は思います…」

「…む、難しい…」

真剣そうに話を聞いていた零号ちゃんが、ふいにそう言って眉間にシワを寄せたまんまで首をかしげる。

 でも、そんな零号ちゃんをよそに、十六号さんは言った。

「今の魔導協会がやろうとしてることとも大差ない。目的は同じだけど…それは、力と暴力で世界を怯えさせ、従わせて争いを収めよう、ってんだろ」

「それは力を行使する者の人格や方法にも依ると思いますが…ただ、ただの一人、〝人ならざる者”にすべての決定権がゆだねられる、ということに違いはないと思います…」

竜娘ちゃんがそう言ってうなずく。すると、十六号ちゃんはうめいた。

「その方法は…例えば十三姉ちゃんがやるんなら悪くないようには聞こえるけど…実際は、そうでもないよな。十三姉ちゃんはもしかしたら紋章の力でずっと長い寿命で生きていられるのかもしれないけど…それを望むと思わないし。それに、十三姉ちゃんが死んだあと、誰が跡を継ぐのか、って戦争になりかねないし、そもそも両方の紋章を継げなきゃそれもできない。それに、十三姉ちゃんだって“古の勇者”とおんなじだ。たった一人で世界を背負い込むなんてことができるほど、強い気持ちを持ってない。あの人は…寂しがり屋で、甘えたで…どこにでもいる、ちょっと頼りになる姉ちゃん…それ以上でもそれ以下でもないんだ。神様なんて柄じゃないよ」

十六号さんの言う通りだ。

 たとえそんなことで世界を平和にしたところで、それはお姉さんが頑張れる間だけ。

 お姉さんが死んじゃったらそのあとはまた戦いが始まるかもしれないし、今よりももっとひどいことになってしまうかもしれないんだ。でも、そんなことを思っていたら、竜娘ちゃんは意外なことを口にした。

「いえ…恐らく、あの方には、二つの紋章は扱えません」

 扱えない…?

 あの紋章を、お姉さんが使えない、っていうの…?

 私はその言葉に耳を疑った。

 だってお姉さんは、勇者の紋章を光らせることができるし、両方に光をともせば、ほかの魔法なんて寄せ付けないくらいの力を操れていた。扱えていたんだ。

「信じらんないけど…どうして、そうなんだ?」

十六号さんがそう尋ねると、それに答えたのは十八号ちゃんだった。

「十六姉さん。十三姉さんが師団長に刺されたときのこと、覚えてる?」

「え?あぁ、忘れるほど昔のことじゃないけど…」

十八号ちゃんの質問に、十六号さんが戸惑い気味にそう返事をする。

そんな十六号さんに、十八号ちゃんは言った。

「あの日、私は駆けつけてからずっと十三姉さんに回復魔法と活性魔法を掛け続けてた。でも、回復までに随分時間が必要だった。あのときに、おかしいな、ってそう思ったの。今までの十三姉さんなら、同じ傷でもすぐに回復できていた。いくら毒を受けていて致命傷に近い傷だったとしても、その傷さえ回復させてあげられればあとは自力で傷をふさぐことだってできたはず。でも、あのときはそうじゃなかった。体の機能が元に戻るまで、十三姉さんは苦しんでた」

私は、十八号さんの話に、確かにそうかもしれない、と思わざるをえなかった。

 だってお姉さん自身が言っていたことだ。二つの紋章が揃えば、世界を休憩なしに二、三度滅ぼせるくらいの力が出せる、って。

 そうでなくても、自然の力を取り込んで操ることができる魔王の紋章と体の力を何倍にもすることのできる勇者の紋章があれば、つまり自然の力を何倍にもして扱える、ってことだ。

 それなら、あんな傷でも、どんな毒でも、平気だって不思議ではない。十六号さんが言ったように、命を保ち続けることだってできそうなものなのに…

 だけどそもそも紋章が合わなければ、いつの日かのサキュバスさんのように言いようもない苦しみに襲われて消耗してしまうはずだ。

 お姉さんにそんな様子はない。

 だけど、竜娘ちゃんは静かに続けた。

「まだ可能性の話ですが…そして紋章に関する記述によればあの紋章は、ある一個人…つまり〝古の勇者”様のみに合うようにできている魔法陣だというのです。私が目にした古文書が本当なら、魔王の紋章はおろか、勇者の紋章でさえ、合っているのが不思議だと思っています。もしかしたら勇者の紋章のほうも、本来の能力を十分に発揮できていない可能性もあるのです。魔王の紋章に適合していないにも関わらず副作用が出ないのは、比較的適合している勇者の紋章があの方の身体能力を高めているため。それなりに力を発揮できる勇者の紋章のおかげで、魔王の紋章の副作用を強化された身体能力で抑え込めているのではないかと考えています。ですが、その場合、魔王の紋章を最大限に使おうとしたとき、副作用に耐えられなくなる可能性があります。先日の奇襲のお話を伺った際に、私はその可能性を感じました」

「待ってよ…勇者の紋章も適合していないってのか!?」

さすがに十六号さんが声を荒げた。

 それもそうだ。

 お姉さんが魔王の紋章の力をちゃんと使えていないんだとしたら…これから起ころうとしている戦いはどうなってしまうんだろう?

 もしそうなら…私たちに勝ち目なんてない。魔王の紋章を使わず、お姉さんと零号ちゃんの勇者の紋章だけじゃ限界があるだろう。

 隊長さん達や魔導士さん達が戦ったところで、あまりにも数が違いすぎる。

 対応できないくらいの数に取り囲まれでもしたら、あとは一気に押しつぶされてしまう。

 でも、それでも竜娘ちゃんは動じずに言った。

「あくまでも可能性です。これからの戦いで…あの方が両方の紋章を扱うことができればそれに越したことはないと思います。あの方は、むやみに力を使う方ではありませんから、〝古の勇者”様と同じように神としての力も行使しないでしょう。戦いが終わってから、みんなでゆっくり向かう先を考えればいいと思います。ですが、もし、紋章が扱えなかった場合…」

「アタシ達は、勝てない…」

「はい、そうなります」

「…なるほど。それが、十三姉ちゃんを守る、ってことなんだな?」

話を理解したのか、十六号ちゃんはそう尋ねる。

「はい」

竜娘ちゃんは短く答えた。

 「もしも十三姉ちゃんが戦えなくなったとしたら…か。その可能性があるんなら、備えは必要…だな」

十六号さんはそう言って息を飲んだ。

 そう…本当にもしそうなら、そのために備えておかなければ、私たちはみんな殺されてしまいかねない…

「その、備えっていうのは、どうするんです?」

たまりかねたのか、妖精さんが焦った様子でそう声をあげる。

 そんな妖精さんの言葉に、みんなも竜娘ちゃんに注目した。

 そして、竜娘ちゃんはスゥっと息を吸って、そしてまた静かに言った。

「あの方から魔王の紋章を引き離し、零号さんの勇者の紋章と合わせて、あるべきところへと返します」

 あるべき、ところ…?

 それってつまり、本来、紋章に適合している誰か、ってことだよね…?まさか、それって…竜娘ちゃんのこと…?

 そういえば、零号ちゃんも魔導協会のオニババも、竜娘ちゃんのことを器の姫、ってそう呼んでいた。

 つまり…竜娘ちゃんこそが、本当の紋章の適合者、ってこと…?

「あるべきところに返して…それで、どうするんだ?それで、魔導協会とサキュバス族を打ち払うのか?」

十六号さんがそう言って話をさらに先へと促す。

「いいえ」

竜娘ちゃんは、そう答えて一度目を伏せ、そして唇をぎゅっとかみしめて顔をあげ、言った。

 「この世界を、終わらせます」

世界を…終わらせる…?

 ま、待ってよ、それ、どういうこと!?

「りゅ、竜娘ちゃん!それ、どういう意味!?」

妖精さんが声を大きくして竜娘ちゃんにそう尋ねる。

「世界を失くして、みんなを無にしよう、ってことなのか…?」

あまりのことに、十六号さんも戸惑った様子で聞いた。

 でも、竜娘ちゃんは首を横に振る。

「いえ…この世界を、“古の勇者”様が現れる以前の姿に戻すのです」

それ、それってつまり…中央山脈をなくして、誰もが自由に行き来できるようにする、ってそういうこと?

 私がそんなことを考えている最中に、竜娘ちゃんはさらに言葉を言い添えた。

「基礎構文を、消滅させます」

 基礎構文を、消す…?え…でも、待ってよ…基礎構文、っていうのは、この世界を、魔法の力を生み出しているようなものなんでしょ?それが消えたら…世界から魔法の力がなくなっちゃう…

「…魔法にあふれたこの世界を終わらせる…そして、そのあとに残るのは、魔法の力のない新しい世界…」

十六号さんが、つぶやくように言った。

「あるいは、古い世界なのかもしれませんが…魔法を奪いされば、どちらの世界も混乱するでしょう。それまでずっと魔法に頼った生活をしてきたのですから。きっと世界は荒れます。治安も悪化の一途を辿るでしょう。ですが…その中でなら、私はあの方の言葉がどんな人にでも届く可能性があるんじゃないかと、そう思うんです」

「…神様になるか、世界を壊してしまうか…どっちにしたって、姉ちゃんは救われないな…」

竜娘ちゃんの言葉に、十六号さんは引きつった笑顔を見せた。

 それもそうだろう。

 お姉さんの気持ちを思えば、賛成できるような話ではない。世界を平和にしようって思っているお姉さんにとって、そんなことが起こってしまったら辛くないはずがない。

「でも、紋章のない魔王様と私たちだけじゃ、勝てない…」

妖精さんが、ポツリと口にする。

 そう、その通りなんだ。これは、賛成するしないの話なんかじゃない。

 そうする他に、道がなかったときの話だ。

「望むのと望まぬのとにかかわらず、か…」

十六号さんも、喉の奥に押し込まれたような低い声でそう言った。

 そう、お姉さんが紋章を扱えなかったとき、私たちにできることは少ない。

 お姉さんの紋章を魔導協会とサキュバス族に引き渡して全員の命を保証してもらうように頼むとか、あるいは、お姉さんの紋章が使えなくても戦うのか…もっと他に、なにかやれることはないだろうか?

 熱くなった頭でそう逡巡してみるけれど、いい考えなんて浮かんでこない。

 こんなときに浮かんでくるんだったら、もっと前に考えついていたことだろう。これまでだって、お姉さん達とずっとずっと考えて来たんだ。世界を平和にするために…戦い以外にできることを、ずっとずっと。

 でも結局、その答えは…

「世界を、壊すしかない…」

思わず、私はそう口にしていた。

 「はい…あの方や私たちの命をつなぎ留め、なおかつ、平和への可能性を残せる選択だと思っています」

竜娘ちゃんは、沈痛な面持ちでそう言った。

「…魔法を消滅させて、世界を混乱させて…そこでもう一度、ケンカの落としどころを探す、か…まぁ確かに…考えつく限りでは一番、先のことが見える話だな…」

そうは言いながらも、十六号さんの顔には苦渋の色に染まっている。

 当然私も、強烈に胸が痛んだ。

 竜娘ちゃんの話を聞けば、それ以外に方法はないかもしれないって思わざるを得なかった。

 お姉さんが苦しんでも、なんでも、私たちが…なによりお姉さんを救うためには、転移魔法で場所を移してそこで魔法の力を打ち消して世界を混乱させる他にない…

「…難しいけど…わかった。でも、お姉ちゃんの代わりに私が戦うんじゃダメ?私、みんなを守るためなら頑張るよ。もし私が死んじゃっても、みんなが生きててくれれば、そっちのほうがずっといい」

不意に、全身をこわばらせた零号ちゃんがそう言った。

 でも、すぐにそんな零号ちゃんの頭を十六号さんがペシッとはたく。

「バカ。アタシはあんたにも、十三姉ちゃんとおんなじくらい死んでほしくない。アタシだけじゃない、他の連中だってそう思ってる…そういうのはもうナシにしたいから、こんだけ悩んでるんだ」

そう言い終えた十六号さんは、その手で零号ちゃんの頭を優しくなでつける。

 目にいっぱい涙をためた零号ちゃんは、ギュッと噛みしめた唇をほどいて

「…わかった…」

と答えた。

「お姉ちゃんが私をとめるために私の腕を切ったのと、同じ。助けるためには、痛いことをしなきゃいけないときもある…そうだよね…?」

「うん、そうだ。十三姉ちゃんは苦しむだろうけど…それでも、なんにも見届けないまま死んじゃうよりはずっといい。アタシ達も、十三姉ちゃんには生きててほしい。できれば、みんな揃ってそばにいてやりたい。そのためには、ちょっと痛い思い、してもらわないといけないけどな…」

十六号さんは優しい口調でそう言い、零号ちゃんを抱きしめた。

 十六号さんそうして零号ちゃんを抱きしめながら、落ち着いた声色で

「そうか…内緒、ってのはそういうことで、か。そうだよな。世界を壊すほかにやりようがない、って言って、十三姉ちゃんが魔王の紋章を渡してくれるとは思えない。騙して引きはがすか…いや、何も言う前にとにかく削いじゃって、それからことの次第を伝えるほうがいい、か…十三姉ちゃんが紋章を扱えてない状況になったら、十三姉ちゃんの石頭を説得してる余裕なんてないだろうしな…」

「はい、そうなのです…きっとあの方は、それでも、ご自身の扱えうる力を使って何かをなそうとすると思えます。でも、今話の中に出て来たように、それは私達の誰かが命を落とすかもしれない、そんな選択です。そうでない選択があるのであれば、取るべきではありません」

「魔族や、世界の平和、か…やっぱり重すぎたんだよ、十三姉ちゃんにはさ。あのひと、弱いんだ。弱くってとんでもなく優しいんだからさ。いっそ十二兄ちゃんの方が良かったって思うくらいだ。あの人なら、ここまで深刻に悩んだりしなさそうだったのに…」

竜娘ちゃんの言葉を聞いた十六号さんは、零号ちゃんを抱きしめたままに浮かべた涙を、零号ちゃんの髪に、頬擦りと一緒にこすりつけた。

 竜娘ちゃんや十六号さんの言う通り、だ…

 お姉さんやみんなを助けるためとはいえ、事前にそんな話をお姉さんにしてもなっとくなんてしてくれないだろう。

 私が竜娘ちゃんを助けに行くと言い張ったときと同じで、こっちが「もう決めた、やるしかないんだ」って見せつけるまでは、お姉さんは絶対に譲らないだろう。それがわかっていてもやっぱりどこか胸がきしむ。

 黙っているのだって、だましているのと同じだ…でも、そうするのが、きっともしものときにお姉さんやみんなのためになる。

「わかったよ、竜娘ちゃん…」

私は、竜娘ちゃんにそう伝えた。

「あぁ、そうだな…十三姉ちゃんが紋章をうまく扱えなかったら、紋章を力づくで分捕って、竜娘ちゃんに返す。そいつで、世界を終わらせよう」

十六号さんも、静かにそう言い、腕の中の零号ちゃんもコクコクっとうなずいて見せた。

「待ってください!」

そんなとき、急に妖精さんがそう大きな声をあげた。

 あんまりにも急だったので、私はビクッと肩を震わせてしまう。

「ど、どうしたの、妖精さん!?」

私が聞くのも無視して、妖精さんは竜娘ちゃんに言った。

「どうして魔法を消すなんてことをしなきゃいけないんですか?竜娘さんが紋章を引き継げるのなら、竜娘さんが魔王様に代わって魔導協会とサキュバス族をやっつけられれるですよね!?」

妖精さんの言葉に、私はハッとした。

 そう、そうだ…竜娘ちゃんは、紋章をあるべきところに返すと、そう言った。それなら、その紋章の本当の持ち主が…竜娘ちゃんが戦ってくれれば、魔法を消さなくても…

 そう思って私は竜娘ちゃんを見る。

 でも、竜娘ちゃんは少し不思議そうな顔をしてから、何かに思い当たったように首を横に振った。

「確かに私は器の姫と呼ばれ、魔導協会の資質検査ではあの方や零号さんよりも勇者の紋章への適合度は高いと判断されていました。ですが、それはあくまでも比較的適しているというだけで、私が勇者の紋章や、ましてや魔王の紋章を真に扱えるわけではありません」

 えっ…?ち、違うの…?竜娘ちゃんが紋章を受け取って…それで、基礎構文を打ち消す、ってことじゃ、ないの…?

 私は戸惑ってしまった。

 だって、ずっとそういう風に思っていたから。

 竜娘ちゃんが魔導協会に捕らわれているってわかって、それがどうしてかってみんなで考えたときから、竜娘ちゃんは魔族と人間との間の子供だから二つの紋章を引き継げるに違いない、って、そう考えて来たんだ。

 でも、私はそのことを思い出して、ふと気が付いてしまった。それは、私たちがあのときそう思っただけで、誰かがそうだ、と言ったわけじゃなかった。

 魔導協会のオニババですら、そんなことは言っていなかった。魔導協会がお姉さんを狙っていたのは本当だけど、もしかしたらそれは勇者の紋章を狙っていただけなのかもしれない。

「私が器の姫、と呼ばれていたのは、勇者の紋章の器であるためだったと思います。あの方から勇者の紋章を奪い、私と零号さんとの二人の勇者を使って、魔王の紋章を奪取し、そして魔導協会に保管する。そして、その二つの勇者の紋章の力で魔族と人間を掃討し、恐らく私を、半人半魔の私を神に据えるつもりだったのだと思います。そこから先は、最初にお話しした通りです。人間と魔族の間の子である私が“人ならざる者”となるのなら、人間界も魔界も掌握しやすいと考えたのでしょう」

「そんな…じゃ、じゃぁ、誰です?二つの紋章を返すのは…その人にお願いするです。魔法を消さないでほしいって…だって…だってそんなことをされたら…」

妖精さんはなぜだかすごくおびえた様子で、絞り出すようにしてそういった。

 どうして妖精さんが急にこんなになってしまったのか考えていたら、私の視線にトロールさんが映った。体を小さく戻して、あの石肌のままの姿でいるトロールさんだ。

 そう…いつだかに、妖精さん達は言ってた。魔族が魔族たるには、魔法の力が必要。

 それがなければ、魔族は人間に姿に“戻って”しまうんだ。

 妖精さんやトロールさんは、ここにいる人たちと触れ合って、理解して、納得できたから今のように、そのときどきに合わせて姿を変えるようになった。

 戦いがあるかもしれなかった基礎構文探しでは、あの小さな体になって全身を石で守るのが必要だったんだろう。お城にいた妖精さんは、今はお姉さんと同じようなちゃんとした大人の姿に戻っている。

 でもそれは二人がここにいたからだ。

 魔界に住む他の魔族は違う。

 すべての魔法の力を失い、姿まで人間に戻ってしまったら、その衝撃はどれほどになるのか、想像すらできない。魔界の民を守るんだ、と言ったお姉さんの言葉は、また、果されることはない…

「羽妖精」

そんな妖精さんに、トロールさんが声をかけた。

「オイ達が魔族の姿でいることの理由を、思い出せ。オイ達魔族は、土の民として、田畑を作り高い城を建てるの民と別たれるために、魔族になった。オイ達は認めるべきだ。この姿は…人間への憎しみと怒りの象徴だ。お前たちとは違う、我らは自然とともにある土の民である、と。森を破壊し、草原を切り開き、畑や水田、果ては山の谷間にかかるほどの建物を造り、自然と我らの生きる糧を奪う人間とは違うという思いでオイ達は魔族になったんだ。この姿は…オイ達がなによりも一番に戦わなければいけない相手だ。そのためにどうするべきか…オイ達はこの城でたくさんまなんだ」

トロールさんのくぐもった声が、それでも室内にどよんと響く。

 その一言で、妖精さんはキュッと噛みしめた唇にさらに歯を立てて、両手で顔を覆って、ひざから崩れ落ちてしまっていた。

 そう、か…基礎構文を消せば、魔族も人間の姿に戻っちゃう。きっと、魔族の中でもそれを受け入れならない、って部族が出て来たっておかしくはない。

 でも、受け入れられなかろうが、基礎構文なしでは魔族は魔族の体を維持できない。どんなにつらくっても、受け入れる他にないんだ。

「魔族には、その混乱が起こるでしょう。対して人間界では、すべての事物において魔法の使用が前提になっている器具や生活用具が無数にあります。それが一気に機能しなくなる、となれば、人々はその日の食事をどう調理したら良いかわからなくなるでしょう…どちらにしても、同じです…」

トロールさんの言葉の言う通り、なのかもしれない。

 私は魔族じゃないし、魔族の人たちの体が人間に戻ってしまうことの衝撃は想像する他にない。

 そして、どんなに苦しくっても、認めてほしい。受け入れてほしい。

 そして、憎しみだけを解き放ってくれるといい…そんなの、過ぎた願いだってわかっているけど、それでも…

 トロールさんの言う通り、その姿を捨てるという覚悟は、とっても大事だって思う。

 「おい、ちょっと待ってくれ…話戻して悪いけど、アタシも紋章を使えるのは竜娘かと思ってた。でも、違うんだよな?それなら、教えてくれよ。紋章は、どのこ誰に返してやるんだ?」

トロールさんの言葉に、全身を震わせ、自分の身を抱きしめてしゃがみこんだ妖精さんをよそに、十六号さんがそんな大事なことを聞いた。

それは、私も聞いておかなきゃいけない。

 竜娘ちゃんじゃないのなら…いったい、誰に、私は魔導協会とサキュバス族の討伐を頼めばいいんだろう…?

 その人さえ、納得してくれるんなら、私達は魔法を失わずに済みながら、安全を手に入れることができるはずなんだ。

 お姉さんが約束した魔界の平和も、そうなってくれればきっと実現できるに違いない。

 だから、私も聞かなきゃ。紋章が誰に手渡されるのか…その人との話次第では、まだ、私たちは選ぶ道を増やせるかもしれないんだ…!

 私はいつの間にか期待のこもった胸を抱いて、十六号さんと同じように竜娘ちゃんを見やった。

 すると竜娘ちゃんは、懐から古びた私の持っているのと同じくらいの長さのダガーを一本、取り出して見せた。

「そのことについては、私も考えていませんでした…少し、相談してみる必要があるかもしれませんね…」

誰もが、ダガーを取り出してそんなことを言った竜娘ちゃんに怪訝な表情を浮かべる。

 そのダガーはとても上等そうには見えないし…本当にボロボロで、古いなんてものじゃない。あちこち朽ちているし、まるで、古いお城の跡から掘り出したような代物だ。

「零号さん、紋章を貸していただけますか…?」

竜娘ちゃんは、十六号さんの腕の中にいた零号ちゃんにそう声をかけた。

 零号ちゃんは首だけグイっと竜娘ちゃんの方に向けて

「紋章を…そのダガーに…?」

と聞き返す。

 「はい」

竜娘ちゃんが短く答えた。

 すると零号ちゃんは十六号さんの腕からするりと抜けて出て来て、それでも十六号さんの手をしっかりと握ったまま二人で一緒に立ち上がって、竜娘ちゃんの下へと歩いた。

 竜娘ちゃんの前に立った零号ちゃんはふわりとダガーに右手をかざす。零号ちゃんの右腕にあった勇者の紋章が光り輝き、その光がダガーへとまとわりついていく。

 やがて零号ちゃんの腕の紋章の光が弱まり、紋章自体がうっすらと消え始めた。

 同時に、ダガーの刃に勇者の紋章が青い光とともに姿を現し始める。そして、竜娘ちゃんの紋章が完全にダガーの刃へと移動したとき、

 私達はまぶしい真っ青な光の中に飲み込まれてしまっていた。





 「い、今…なんて言った…?」

お姉さんは、言葉に詰まりながらもかろうじてそう口にした。

「この世界を、“古の勇者”様が作り変える前の姿に戻すと、そう言いました魔法も、魔族と人間との区別のない、あるべき姿へと戻します」

「そんなことしてなんになる!?そんなことしたら、世界が…魔界のやつらが!魔族が魔族でいられなくなるんだぞ!?」

竜娘ちゃんに、お姉さんは叫んだ。でも、竜娘ちゃんは顔色一つ変えずに言った。

「魔族という存在もまた、不自然なのです。魔法と同じように、世界にあるべき姿ではありません」

竜娘ちゃんの言葉に、お姉さんの表情が歪んだ。

怒りとも悲しみとも取れないけれど、とにかく激しい感情に揺さぶられている表情だ。

「なんでだよ…?あんたが迫害されたからか…?魔族に魔族と受け入れてもらえなかったから…魔界からあんたを追い出したから、その仕返しでもしようっていうのか!?」

お姉さんは、必死だ。

 そうでもなければ、こんなことを言ったりなんかしない。竜娘ちゃんが傷つくかもしれない、ひどい言葉だって、私は感じた。

「いいえ、そんなんじゃありません」

でもそんなお姉さんの言葉に、竜娘ちゃんは、笑った。

「私には、力がありません」

「…?」

「勇者の紋章は受け継ぐことができるらしいですが、それを手にしたこともなければ、満足に魔法を使えたこともないのです。ですが…いえ、だからこそ、考えてきました。特別な力もなく、世界を背負うことができない私は、本を読み、あの人に…魔王様に学び、そして平和とはなんなのかをずっと考えてきました。勇者や魔王…そんな大きな力に頼らずにたくさんの人達が紡ぎだせる平和を。それがあの石碑と基礎構文を読んだことで、ようやくまとまった…というのが、今の私の気持ちです」

竜娘ちゃんは、まるで詩でもそらんじるように、とめどなく先を続ける。

「そもそも、勇者様という存在に平和を託すことそれ自体が大きな過ちだと、私は思います。この世界は、勇者様の所有物でもなければ、勇者様が支配し舵を取っているわけではありません。この世界に暮らすのは、一人では世界を変えることのできない、私のように力のない者達です。ですが、力がないからと言って何もせずにすべてを勇者様に託し、押し付け、自分たちは何事もないように暮らしていくことが正しいとは私には思えません。ここにいる皆さんは、あなたがそのことでどれだけ傷つき、どれだけ苦しんだかをよくご存知のはずです。世界は、一人一人の存在があって作られているのです。一人一人が苦しみ、悩み、ときに傷ついて、それでも平和であろうとする努力をしていく必要があります。これまで、あなた一人が平和のためにしてきたように」

竜娘ちゃんは、そこまで言うと傍らにいた零号ちゃんを見やって頷く。

 零号ちゃんも頷き返して、腰に提げていた革袋から、あの古びたダガーを取り出した。

 そんな様子を気にも留めずに、お姉さんは竜娘ちゃんに叫ぶ。

「そうかもしれない…そうかもしれないけど、だけど…!あたしは勇者なんだ!勇者で、先代に魔王の名と役割を頼まれたんだ!約束したんだ…あいつは命を懸けて魔族を守ったんだ!それをあたしは受け継いだ!だから、あたしも魔族を守ってやんなきゃならないんだよ!だから、頼む…その紋章、返してくれ!さっきのは何かの間違えだ!今度は大丈夫に決まってる…あたしは、魔王の紋章だって使えるはずだ!」

お姉さんは竜娘ちゃんを睨み付けているんじゃないかって思うほどに強くて鋭い眼差しを向けている。

 でも、そんなお姉さんに声をかけたのは、零号ちゃんだった。

「お姉ちゃん…」

「零号、頼む。あんたならわかるだろう?あたしは戦わなきゃいけないんだ。魔族と人間と、それからあんた達全員を守るために!」

泣きじゃくるでも、しゃくりあげるでもなく、ただただポロポロと涙を流している零号ちゃんに、お姉さんは言った。

 でも、それを聞いた零号ちゃんは、ギュッと目をつむって、まるで辛い気持ちをこらえるかのようにして、お姉さんに聞いた。

「じゃぁ、私が試しても、いい?」

「…えっ…」

零号ちゃんの言葉に、お姉さんは固まった。

「私の体は、お姉ちゃんと同じだから…お姉ちゃんに使えるんなら、私にも使える。お姉ちゃんが使えないんなら、私もさっきのお姉ちゃんみたいに苦しくなるでしょ…?」

「だっ…ダメだ!」

「…どうして…?」

「そ、それは…」

零号ちゃんの問いかけに、お姉さんは黙る他になかった。

 お姉さん自身にも、きっとわかっていたんだ。もう一度紋章を体に戻したところで、力を出せっこない、ってことが。

 それどころか、お姉さんが零号ちゃんに味わわせたくないって思うほどに苦しむことになるんだ、ってことが。

 また、部屋の中が静まり返った。お城の外からの怒号や鬨の声が、返って静けさを際立たせる。

 お姉さんはがっくりとうなだれ、そして、零号ちゃんは涙をぬぐっている。

 そんな中で、竜娘ちゃんだけは、引き締まった表情のままでいた。

「この場を切り抜けるためにも、他に方法がありません」

竜娘ちゃんは、端的に言った。

 世界のこととか、平和のこととかじゃない。現実的に、何か手を打たなければいずれ私たちはここで追い込まれて、そのあとはどうなるかわからない。

 でも、それを聞いてもお姉さんは折れなかった。

 引きつった表情で、それでも顔をあげて竜娘ちゃんを見やると

「それも、なんとかする。これまでだって、どんなヤバいときでもなんとかしてきた。今回も、きっとあたしが切り抜けてみせる」

と、表情とは裏腹に、声を張って言った。

 さすがに、それには竜娘ちゃんの表情が曇る。

 無理だよ、竜娘ちゃん。

 私は心の中で思っていた。

 説得して、納得してもらってから進めようって思っているのはわかるけど、お姉さんはそんなんじゃ絶対に譲らない。こうと決めたら、絶対にそれを貫く人なんだ。

 それがどんなに辛くても、苦しくても…お姉さんは、そんなことには負けない。負けないで、傷だらけで、それでも立ち上がって前に進むような人なんだ。

 だから私はお姉さんのそばにいてあげたい。その苦しみを少しでも和らげてあげられるように、その傷を少しでも癒してあげられるように…

 それは、これから先もずっとずっと変わらないことだ。

 だから、お姉さん…ごめんね。

 今は、もうやるしかないんだよ…

「零号ちゃん」

私はそう心を決めて零号ちゃんに呼びかけた。

 零号ちゃんは、ビクッと肩を震わせて私を見る。

 零号ちゃんは、おびえていた。もしかしたら、勝手なことをしたらお姉さんに嫌われちゃうとか、そんなことを思っているのかもしれない。

 それは…零号ちゃんにとってはやっぱり怖いことなんだよね。

 でも、大丈夫だよ。お姉さんはこんなことで嫌いになったりしない。あとになればきっと分かってくれる…

「零号ちゃん。“助けるためには、痛いことをしなきゃいけないときもある”よ」

私はあの日零号ちゃんが言った言葉をなぞった。

 すると零号ちゃんは私の思いを受け取ってくれたのか、また胸が詰まったような表情を見せてから両手でダガーをギュっと握った。

 あの日のように、零号ちゃんの勇者の紋章が青く輝いて、そしてその光がダガーへと移っていく。

「な、何する気だ…!?」

お姉さんが戸惑って誰となしにそう声をあげる。

「基礎構文から世界を解き放つために、紋章を、あるべきところに返すのです」

竜娘ちゃんは、静かにそう言って零号ちゃんを見つめた。

 青い光がまるで泉から水が湧き出るようにダガーから噴き出し、そして、零号ちゃんの紋章がダガーに移り切ったとき、あの、目を開けていられないくらいのまぶしい光がほとばしった。

 こうなるのは分かっていたけれど、それでも目を瞑らずにはいられないくらいだ。

 やがて、その光が収まる。

 そして、そこには、ダガーを手にした零号ちゃんと、もう一人。

 あの日見た、お姉さんと同じ暗い色のもしゃもしゃの髪を無造作に後ろで束ねた大人の女の人が立っていた。

 年齢はお姉さんよりも少し上くらい。サキュバスさんと同じくらいだろう。

 髪の色なんかもそうだけど、目元もどことなく、お姉さんに似ている気がする。

 お姉さんもサキュバスさんも魔導士さんも兵長さんも、目を見開いてその女の人をただただ見つめていた。

 何が起こったのか分からなかったんだろう。私も最初はただただ驚いて、おんなじように唖然とするほかになかったし、驚くのも無理はない。

 そんな視線を浴びながら、女の人はあたりをぐるりと見まわして竜娘ちゃんに目を留めると

「話はついた?」

と尋ねた。竜娘ちゃんは、力なく首を横に振る。

 すると女の人は、ふん、と鼻で大きく息を吐いて

「そう…か。まったく、血は争えないっていうかなんて言うか…」

なんて言いながら床にペタンと座り込んでいたお姉さんの前に歩み出ると、お姉さんの前髪をクシャっと撫でた。

「でも、あの子達に話は聞いてる。すまなかったな…」

そう言った彼女の手をお姉さんはハッとして振り払った。

と、次の瞬間には後ろに飛びのいて腰に提げていた剣を引き抜く。

 「な、なんだあんたは!?零号から紋章を奪ったのか…!?」

お姉さんは彼女にそう叫んだ。

確かに、彼女の腕にはさっきまで零号ちゃんの腕にあった勇者の紋章が輝いている。

 お姉さんは敵意に表情をゆがめて、剣の切っ先を彼女に向けて構えた。

 お姉さんの腕にも勇者の紋章が輝き始める。

「待ってください」

不意に、そう声がしたと思ったら、お姉さんと彼女の間に竜娘ちゃんが割って入った。

 竜娘ちゃんに剣を向けるわけにはいかないお姉さんは、しぶしぶと言った様子で距離を取り、それでも彼女をジッと睨み付けている。

「彼女が、紋章の本来の持ち主なのです」

竜娘ちゃんが言った。

 でも、その言葉の意味はあまり伝わらなかったようで、お姉さんはなおも鋭い目で

「零号の紋章は、元の持ち主がいたってことか…?何モンなんだ、あんたは…!?この紋章に適合できるってことは…魔導協会の差し金か?!」

と言葉を投げるつける。

 そうだろうと思う。私だって最初は信じられなかったんだから。

 いくら、“自分の身を”時間の外の世界に封じ込めていたからって、まさか、こんなに若い人が出てくるだなんて思わなかった。

「いいえ、違うのです…この方は…」

お姉さんの言葉に、竜娘ちゃんはそう言って最後は言葉を切り、みんなの表情をひとつずつ見やってから、はっきりとした口調で、彼女のことを呼ばわった。

「この方が…二つの紋章を操りかつて世界を二つに分かった伝説の人。“古の勇者”様です」






 あの日、零号ちゃんの紋章がダガーに移ったあとの部屋を埋め尽くすほどの青い光が収まったとき、私が目にしたのは、裸姿の女の人だった。

 彼女は、ぐったりと床に倒れこんでいて、ランプの暗がりでは息をしているのかどうかも分からなかった。

 でも、そんなことを気にしている心の余裕は、私達にはあるはずもない。

 まるで光の中からあふれ出てくるように、この女の人は現れた。今のは、転移魔法なんかじゃない。こんな魔法は、見たことがない。

 この人は、誰…?いったい、どこから出てきたの…?

 私は、そう思ってふと、零号ちゃんが手にしていたダガーを見やった。

 そこには、勇者の紋章が、まるでお姉さんや零号ちゃんが扱っているときのように、煌々と短い刃に輝いている。それはまるで、ダガーが意志を持って勇者の紋章を光らせているような、そんな風に私には見えた。

 「お、お、おい…」

十六号さんが誰となしに、詰まりながら口を開く。

「誰か、あれ、毛布…毛布だ」

「は、はいです!」

十六号さんの言葉を聞いて妖精さんが気を持ち直し、そう返事をしてベッドから毛布を引っ張ってきて女の人に掛けてあげた。

 そんな様子を見ながら、十六号さんは竜娘ちゃんにどうにか、と言った様子で尋ねる。

「な…こ、こ、これ、誰…?」

すると、それを聞いた竜娘ちゃんも、どこか不安げな表情で答えた。

「恐らく…この方が“古の勇者”様、です」

「い、いにしえの…」

「勇者…?」

「この人が!?」

十六号さんと十七号くん、そして妖精さんがとぎれとぎれに驚きの声を口にした。

 声を出せるだけ良い。私なんて、のどがつっかえちゃって言葉らしい言葉は何一つ出てこない。

 「はい…古文書によれば、大陸を二つに分けた後、“古の勇者”様は、この短剣に身を封じたと書かれていました。封を解くには、二つの紋章をそろえなければならないと…そう書いてあったのですが…」

竜娘ちゃんも戸惑った様子でそう言い、そして女の人…勇者様を見やった。

「零号の紋章だけで、解けちゃったみたいだけど…」

「魔力の感じがする…もしかしたら、実態ではないのかもしれない」

「なんだよそれ…?ゴーレムとか、そんなのの類か?」

「分からない…こんな奇妙な感じの魔力は初めてで…」

こうなることが分かっていたのかどうか、十八号ちゃんも戸惑いを隠せない様子だ。

 そんなとき、床に倒れこんでいた勇者様が、突然バチっと目を開けた。

「お、お、お、おい、あんた!大丈夫か…?っていうか、何モンなんだ…?」

それに気づいた十六号さんが、すかさずそう勇者様に聞く。

すると勇者様は部屋をぐるりと見まわしてから、パクパク、っと口を動かして、何かに驚いたような表情を見せた。

「しゃべれないのか…?」

「いいえ、十四兄さん。待って…」

何かをやりかけた十四号さんを十八号ちゃんが制して、勇者様に視線を戻す。

 十八号ちゃんだけじゃない、みんなの視線を浴びながら、勇者様は何度か息を吸い込むと

「あー…うー…んー…」

と、まるで喉の調子を確かめるみたいに鳴らして、それから改まった様子で顔をあげて私達一人一人を見やった。

 「ずいぶんと幼い子達に呼び戻してもらえたようですね」

勇者様はそう言って、どこかで見たことのある…そう、お姉さんがうれしいときの笑顔とそっくりな表情を見せてそう言った。

「こっちの言葉は、ちゃんと聞こえてる?」

「はい、大丈夫。聞こえていますし、理解もできています」

勇者様は、十六号さんにそう返事をして、それからややあって突然私達に向かって頭を垂れた。

「呼び戻していただけて感謝します。ところで、性急で申し訳ありませんが、今は開歴何年ですか?あぁ、開歴という年号はまだ使われているのでしょうか?」

勇者様はそう言って、私達一人一人の顔を覗き込むようにして見つめてくる。そんな勇者様に、十四号さんは言った。

「現在は国歴と改められていますが、開歴に計算し直すと…およそ開歴180年くらいだと思います」

「180年…随分時が流れてしまっているのですね。でみは、この時代では、土の民と造の民達はどうなっているのでしょうか?」

「ついこないだまで戦争をしてたよ…いや、もしあんたが“古の勇者”だっていうんなら、あんたが世界を分けたそのときから、戦争が何度となく起こってる」

そう言った十六号さんは、どこか憎らし気な顔をしている。まるで、勇者様のせいだ、とでも言いたそうだ。

 確かにそう考えてしまうところもある。でも、戦いならそのさらに前から続いていたんだ。それこそ、世界を分けなきゃいけなくなるほどに。

「戦いはやまなかったのですか?」

勇者様は十六号さんの言葉を聞いて、表情を変えずにそう言った。それを見て、私はなんだか奇妙な感覚を覚える。

 そう、なんて言うか…人間と話しているんじゃないって感じるような、そんな感覚だ。

 同じことを十六号さんも感じたらしい。さっき以上に敵意をみなぎらせた十六号さんは

「よくそんなのんきに言えるな!」

と声を荒げる。

 でも、それを再び十八号ちゃんが押し留めた。

「待って、十六姉さん」

十八号ちゃんはそう言うと、勇者様に聞いた。

「あなたのその姿は、魔法か何かですか?」

すると勇者様はやっぱり顔色を変えずに

「その通りです。抑揚がないのはご容赦ください。まだうまく制御が出来ていません。まだ寝起きですので」

と答える。

 「寝起きだぁ?」

十六号さんは、やっぱり気に入らないのかそう言葉を返す。すると今度は十四号さんが

「落ち着け、十六号。もし本当にそのダガーに自分を封印してたって言うなら、開歴って年号が使われだした前後の出来事になる。開歴自体が世界が分かれたときに始まった年号のはずだったから、かれこれ180年近く眠り続けてたってことになる」

と割って入った。それを聞いた十六号さんは、納得はしていないみたいだったけどそれ以上突っかかっても意味がなさそうだってことは分かったらしく、

「気に入らないな、まったく…」

と悪態をつきつつ、それでも何とか矛を収めて

「それで…何がどうなってるんだ?」

と勇者様に尋ね直す。

 「はい。本来なら二つの紋章がなければ私は封じられたまま。ですが、増幅の理の紋章を戻していただけたことで、短剣の中で意思だけは覚醒している状態です。そしてその意思と増幅の理を用いて光と風を操り、この姿を顕現させています。故に、こに体は虚像に他なりません」

「ふぅん…いまいち信用出来ないな…」

勇者様の返答に十六号さんはそう答えた。

 すると突然、勇者様がガクッとその場に膝から崩れ落ちる。あまりに突然で、私は思わず

「わっ」

と小さな声を上げてしまっていた。

 でも程なくして、勇者様は再びゆっくりと立ち上がった。そして、今まで無表情だった顔を、一目見てわかるほどに申し訳なさいっぱいの表情に変えて

「ふぅ…うまく出来てる…かな?意識をこっちに反映させて見てる。確かに、人形まがいのままに話だなんて失礼だった。ただこれ、長い時間は持たないだろうと思う…でも今はこれで許して欲しい」

と言い、十六号さんに目礼した。

 あまりの急激な変化に、今度は十六号さんが

「あ、あぁ、うん…」

と戸惑いを隠しきれない様子で返事をした。

 それを見た勇者様は、それからみんなを見回して再度頭を垂れ、

「君たちも、申し訳なかった」

と謝る。

 私は、そんな様子にハッとした。なんだかその仕草がお姉さんによく似ていて、まるでお姉さんに謝られたように感じたからだった。

 零号ちゃんもそれを感じたらしく、ふとした様子で

「お、お姉…ちゃん…?」

と言葉を漏らした。するとすぐに勇者様がその言葉に反応する。

「ん…?君は…」

そう言いながら勇者様は足音もさせずに零号ちゃんに近づくと、その額にそっと手を置いた。フワリと微かな風のようなものを感じたと思ったら、勇者様の全身が微かな青い光を纏う。

 零号ちゃんは、そんな勇者様にされるていることを、何事もなく受け入れていた。

 やがて零号ちゃんから手を離した勇者様は、その両腕で零号ちゃんを抱きしめた。

「わぷっ」

「驚いた…遠い子孫が居てくれただなんて…」

 し、し、子孫…?零号ちゃんが…?

 で、でも待って…零号ちゃんは、お姉さんの体から取り出された肉体の一部から生まれた存在だから…その、つまり零号ちゃんがそうだって言うことは、お姉さんが、古の勇者様の子孫、ってことになるの…?

 「あの、わ、わ、私は…」

腕にだかれていた零号ちゃんがそんなふうに慌てて、自分の生い立ちと成り立ちを説明した。

 すると、勇者様は、零号ちゃんから体を離し、深いため息とともに、お姉さんや十六号さんがするように、零号ちゃんの頭を撫でた。

「そう…じゃあ、君もそうだけど、君の体の元となったって子が私の妹の孫の孫の孫…くらいに当たるんだろうな…」

零号ちゃんを愛おしむようにして撫で付ける勇者様は、どこか切な気な表情だ。

 もし十四号さんが言うように180年もの間眠り続けていたんだとしたら…妹さんって言う人は、きっと遠い昔に死んでしまっているんだろう。零号ちゃんに手を当てただけで彼女が妹さんの子孫だってことが分かるっていうのもなんだか不思議だけど…でも、なぜだか、勇者様にはそんなことが出来ても納得してしまうような雰囲気があった。

 そんなことを思っていたら、勇者様は不意に顔を上げて私達の間に目配せをしながら

「それで…あたしの封印を半分解いてくれた理由を聞かせてくれないか?」

改まって言った。

 そう、そうだった。いけない、あまりのことに驚いて、大事なことをすっか忘れてしまっていた。私は、気を取り直して竜娘ちゃんを見やる。

 竜娘ちゃんも私を見てコクっと頷くと、世界に今起こっていることを事細かに説明し始めた。

 勇者様は竜娘ちゃんの話を、まるで胸が避けてしまうんじゃないかっていうくらいに辛そうな表情で聞き、

「…これが、この大陸にこれまで起こったこと、そして今起こっていることの全てです」

と竜娘ちゃんが話を締めると、しばらくの間、その場で見動きせずに固まってしまった。

 あの謝罪文だという古文書にあった通りなら、勇者様は当時、他にすべもなく、世界を二つに分けて争いを止め、二つの民の間に満ちた怒りや憎しみを拭うための方法を探す時間を作ろうとしたんだ。

 勇者様は根本的な解決にはならなくても、二つの民が持つ憎しみや怒りを取り払うことは出来なくても、大きな戦いは一旦避けられると、そう考えていたんだろう。

 でも、現実はそうは行かなかった。争いを止めるために「管理者」と言う人達の手によって作られた基礎構文によって、世界には魔法があふれた。

 そしてその魔法は、分け隔てたはずの世界を簡単に越え、戦いが繰り返されたんだ。

 さらには繰り返される戦いで拭おうとした怒りや憎しみが、さらに深まってしまった…

 私はそのときになって、ふと、基礎構文とは何か、って話のことを思い出していた。

 基礎構文はサキュバス族には“世界を世界たらしめている”ものとして話が伝わっていて…そして、魔導協会のオニババが竜娘ちゃんに言ったのは“争いを促した忌むべきもの”… 二つの言い伝えは、まさしく基礎構文がもたらしたものを確かに示していた。

 そしてそれは、古の勇者様が想像した以上に、この世界に悪い作用をもたらしてしまっていたんだ…

 勇者様はしずんだ表情でしばらく黙り込んでいた。

 しばらくして、勇者様は重々しくその口を開く。

「戦いを避けることはできないと、そうは思ってた。でも、まさか“円環の理”のせいで、そんなにも悲惨に戦いが続いていただなんて…」

勇者様はケンカの落としどころを間違えたんじゃないか、って、ついさっきまで十六号さんと話をしていたけど、それも少し違ったようだった。

 竜娘ちゃんが教えてくれた謝罪文にもあったし、勇者様が言ったように、そのことは勇者様の想定内だったんだ。魔族と人間との世界に分けて、解決はできなくても一旦は争いを回避できるとそう思ったんだろう。

 勇者様はその場にひざまずいたまま、頭を抱えるようにして深いため息をついた。

 でも、それからすぐに顔をあげた勇者様は、食い入るように私達を見つめて

「それで…あたしを呼び出してくれたのは、どうしてなんだ?」

と聞いてくる。

 それに答えたのは、竜娘ちゃんだった。

「今ここには、勇者の紋章と魔王の紋章が揃っています。ですが、神代の民…勇者様が書き残したところの『管理者』達の末裔一派がそれを狙っています。神代の民の末裔は人間と魔族の連合軍を率いて、近日中にもこの城へ迫ってくるでしょう。私たちは戦うつもりですが…勝敗はどうなるか分かりません。いえ、今、二つの紋章を持っている方の意志に従えば、勝ってはいけない戦いです。もし私たちが敵わないと突き付けられたとき、私達には生き残るための方法が必要なのです。そのために、勇者様をここへお呼びいたしました」

「そう…ユウシャとかマオウとかマゾクとか…分からない言葉も多いけど、とにかくこれから、二つの紋章が揃ったここに、土の民と造の民が手を携えて攻め込んでくるってことだな?」

勇者様はそういうとほんの少しだけ口元をゆがめた。

 みんなにはどう映ったか分からなかったけれど…私にはそれが、かすかな笑みのように見えていた。

「はい…皮肉ながら、二つの紋章を持っている、その…勇者様の子孫にある方は、この時代で一時は人間軍を率いて魔界へと攻め入った先鋒でしたが、

戦いのあとは、二つの民の融和を願って尽力されてきました。ですが、勇者様がいらっしゃった時代に『管理者』達がしたように、今この時代でも、その末裔たちが人ならざる者を求めて暗躍しています。結果的に、私達と『管理者』の末裔は反目し合っている状態です。」

「そうか…そのあたしの子孫ってのは、あたし以上の苦しみを背負わされてるんだな…」

竜娘ちゃんの言葉に、勇者様は再び表情を曇らせて悲しみを浮かべる。

 そんな勇者様に、竜娘ちゃんは続けた。

「いくつか伺いたいことがあり、そしてその内容次第では、勇者様にお願いしたい儀がございます」

それを聞いた勇者様は顔をあげ、そして悲しげな表情をなんとか引き締め返事をした。

「うん、わかった。すべてはあたしの責任だ。どんなことでも聞いてくれていい。知っている限り答えるし、頼み事っていうのもできる限り意に沿うようにしよう」

でも、その目にはやっぱり、言い知れぬ悲しみが満ちているように、私には思えてならなかった。










「い、いにしえの、勇者…?」

「その女が、そうだっていうのか…?」

「そんなことが…ありえるのですか…!?」

 その瞬間、部屋が凍り付いたように感じたのは、私だけじゃなかったはずだ。

 サキュバスさんに魔導士さん、そして兵長さんがそれぞれ信じられない、って顔をしてそうつぶやく。

 だけどそれを聞いた勇者様は、

「二つの紋章を使ってね。時間の流れの外にこの体を封印してた」

なんて、初めて私達が会ったときとは違って、随分と軽い調子でそう言い、右腕に浮かんだ勇者の紋章を掲げて見せた。

 それから小首をかしげて

「もっとも、その“ユウシャ”って呼び名、しっくりこないんだけどさ」

と苦笑いを浮かべる。

 そんな様子に、三人とお姉さんは言葉を継げなかった。

 何を言ったらいいかわからなくなるのも当然だろう。

 だって、目の前にいるのはこの大陸に伝わる伝承の登場人物なんだ。生きていること自体がそもそも信じられないだろうし、そのうえ、何にもないときのお姉さん以上に奔放な感じがする。

 もうずっとずっと昔の人のはずなのに、まるで本当にちょっとお昼寝をしてた、くらいの気軽さだ。

 「あんたが…古の勇者…?」

不意に、お姉さんが何とか口を動かして、そう勇者様に聞いた。

「今はそう呼ばれてるんだってね。うん、そう。あの高い山を作った張本人。たぶん、あなたの遠い先祖の、その姉さんだよ」

勇者様は、そう言って屈託なく笑い、それから

「ついこないだ、このおチビちゃんに紋章を返してもらえてね。それで、ようやく戻ってこれたんだ」

と、おびえた表情の零号ちゃんにかぶりを振って言った。

 「あ、あいつらの魔法陣は…あんたが…?」

そんな勇者様に、お姉さんは声を震わせながらそう聞く。

「そう。もしものときのために描いておいたんだ。この紋章ほどじゃないけど、それなりに強い効果が見込めるからね」

 勇者様は、肩をすくめてさらりと答えた。

 そう、あの日の夜に私たちは勇者様に魔法陣を描いてもらった。

 それは勇者の紋章によく似ていて、勇者の紋章と同じように青く光る魔法陣だ。基礎構文のことを話す前に、お姉さんの説得がうまくいかなかったときのために、お姉さんから魔王の紋章をはぎ取る必要があった。

 そうしようと思えば、魔導士さんやサキュバスさんがそれを防ごうとするのも想像できる。私達には、少なくともお姉さんを含めた三人を取り押さえられるだけの力を、勇者様の紋章に与えられていた。

 そうでもなければ、私が魔導士さんの動きを抑えるために力を貸せるほどの魔法を扱えるはずがない。このために、あの夜から私達はずっと長袖を着て過ごしていた。

 暑い日も、日焼け防止を理由にして、長袖を着続けた。腕に浮かぶこの魔法陣が見つからないように…

 「そ、それで、自分を封印してたって…?いったい、なんのために…?」

お姉さんは、剣を握りしめたままにさらにそう尋ねる。

「長い話になるけどね…伝わってる話だと、土の民と造の民との長い戦いがあった、ってのは知ってるよね?それを治めるために、“円環の理”を使って力場を作って、この紋章は生まれた。“円環の理”ってのは基礎構文っていうとチビちゃんは言ってたな。あぁ、それはまぁともかく、紋章の力があったって争いが止められるってわけじゃなかった。作り出した連中には、力づくで平和にしろだなんて言われて…まぁ、早い話が秩序そのものになれ、と言われたんだけど、そんなことが正しいとも思わなかった。結局あたしは答えを見つけられないまま、ただ二つ民を分けた。それじゃあ、根本的な解決にはならないだろう、って分かってたけどね…それ以上、血が流れるのを見てられなかったから。その代わりに、あたしはあたし自身を封印した。戒めの意味もあったし、封印された遠い感覚の中でも少しは考えることだってできた。あたしはそこで答えを探してた。もし、民の側が答えを見つけられたのなら世界をもとに戻すつもりでいたから、二つの紋章をそれぞれに分けさせて管理するように言ったんだ。二つに分けた世界をもとに戻すためには両者が手を取り合って紋章を持ち寄らなきゃいけない…そんな風に考えたんだけど…結局、あたしのしたことは、戦いを回避させるどころかもっと大きな泥沼にさせちゃったみたいだ」

そういうと、勇者様は肩を落とした。

 「だから、すまなかった…あなた達とこの大陸を苦しめたのは、他でもないこのあたしだ」

勇者様はそう言うと、お姉さんの前にひざまずいた。

「償いはなんでもしよう…罰を受けろというのなら甘んじて受けよう。でもその前に、あんた達の役に立たせてくれないか…?死ぬにしても、このまま世界をほったらかして逝ったんじゃ、死にきれない」

そして、顔をあげた勇者様は、お姉さんの目をまっすぐに見つめた。

 その目をあの日私が見た勇者様の瞳だった。

 そしてそれは、お姉さんと同じ目でもあった。あの、悲しい顔をして笑うときにいつも見せる、苦しみと傷つく痛みにおびえる瞳だ。

 お姉さんは、それを聞いてしばらく黙っていた。

 それまでの驚きと戸惑いの表情を浮かべていたお姉さんは、まるで今の話を何度も頭の中で整理しているような、そんな風に見えた。

 そして、それがお姉さんの中で理解されてきたんだろう、やがてその表情が、泣き出しそうに歪み始める。

「それじゃぁ、あんたなら…二つの紋章を使うこともできるんだな…?」

お姉さんは、静かに、私が見ても分かるくらいに、心を落ち着けようとしながら勇者様に聞いた。

剣の切っ先が、かすかに震えている。

「うん」

そんな短い返事を聞いたお姉さんは、握りしめていた剣を震わせ、そして、ガチャリと床に取り落とした。

 それを拾うでもなくお姉さんは床に崩れ落ちて、ついには全身を震わせはじめる。

「本当なんだったら…頼む…魔族を…土の民ってやつらを救うために、あたしが言うやつらを殺してきてくれないか…?二つの紋章を使えるんなら、それができるはずだ。頼むよ…あたし、約束したんだ。魔族を、魔界を、平和にするって…基礎構文を消したら、魔族が魔族でいられなくなるんだ。そんなの、あんまりだろ…?」

お姉さんは、床に這いつくばりながらそう勇者様に頼んだ。

 懇願って言った方がいいのかもしれない。

 そこにはいつものお姉さんの凛々しさも不敵さもない。

 ただただ魔族を救いたいだけの、ただの人間の女の人の姿だった。

 でも、そんなお姉さんに、勇者様は言った。

「それで、何が変わるわけでもないよ」

その言葉に、お姉さんがビクっと体を震わせて顔をあげる。

 その両頬は、大粒の涙でいっぱいにぬれていた。

「殺してしまったら、結局のところ何にもならない。一人や二人じゃないんだろう?大勢を殺せば、それだけでこの力は恐怖の対象になる。誰かがその惨劇を語り継ぎ、この力は神になる。あとは誰かがそれをあがめ始めれば、すべてが決まっちゃうよ。そしたら、やつらの思うツボだ。もしかしたら、そうさせるためにこんな軍勢をけしかけているのかもしれない。不安や恐怖で作られた秩序の下に生きるのは、平和とは言わない。あなただってそう思っていたはずだろ。そしてそれとは違う方法をずっと考え続けて来たはずだ。ここへきて、それを手放さないでほしい」

勇者様はそう言って、お姉さんの頬の涙をぬぐった。

「“円環の理”…基礎構文は、この世界に恐怖と怒りをのさばらせてしまった。その結果が今だ。あのチビちゃんがやったように、多少の痛みを伴っても消し去らなきゃいけない」

だけど、お姉さんの涙はあとからあとからあふれ出てきて止まらない。

 勇者様は、なおもそれをぬぐいながら、私の方を見やった。

「あの子は、ずっとあなたと共にいてくれたんだろ?」

勇者様の言葉に、お姉さんも私の方を見て、それからコクっと頷く。

「あの子だけじゃないんだろうけど…あたしは、あなた達のような人をずっと待っていた。苦しみに耐え、痛みに耐えて、その先の何かを探せるような意志を持った人だ。確かに基礎構文を消し去れば、この大陸に満ちた円環の力は消える。あの、自然と一体になって生きるための魔族って人たちの姿も人間に戻る。その痛みは、想像を絶するだろう…だから、あたしはあなた達に頼みたい。そうなってもなお、彼らの味方で在ってほしい。あの子達があなたにしてくれたように、誰よりもあなたが、彼らの痛みに寄り添い、そばにいてあげてほしい。きっとそこから、世界は変わっていく…基礎構文によってゆがめられた世界が終わって、新しい次の世界が始まっていく。苦しく辛く、暗い時間が続くかもしれない。きっと、明日を照らす希望の光が必要だ。あなたと仲間たちとで、土の民の…いや、この大陸の光となってくれよ」

勇者様は、よどみなく、まっすぐにお姉さんにそう伝えた。

 お姉さんは、全身をこわばらせてさらに震え、勇者様のシャツの襟首を握り、嗚咽をこらえながら

「あたしに…できるかな…?」

と、かすれた声で聴く。

 そんなお姉さんに、勇者様は優しい声色で答えた。

「できるよ。あなたと、あなたのそばにいてくれる人達なら」

 それを聞いたお姉さんの手がずるりと勇者様の服から滑り落ちて、ついにお姉さんは床に崩れ落ちた。

 そして、泣き出した。

 まるで子どもみたいに…このお城に攻めてきて、お姉さんに諭された零号ちゃんとおんなじに、声をあげて…

 「魔王様…」

ふと、サキュバスさんがそうつぶやいた。

 それを聞き、十四号さんがサキュバスさんを恐る恐るといったようすで開放する。

 サキュバスさんは小走りでお姉さんのもとに駆け寄ると、その肩をそっと抱いた。

「魔王様…もう、もう充分です…」

そう言ったサキュバスさんも、顔を涙でいっぱいに濡らしている。

 そんなサキュバスさんに縋りつくようにしてお姉さんは言った。

「ごめん、サキュバス…ごめん、ごめん…あたし…約束守ってやれないよっ…!」

「もういいんです…終わりにしましょう、魔王様…先代様も、きっと分かってくださいます…同じことを願われたと思います…だから…もう…」

サキュバスさんがお姉さんにそう言って、お姉さんの肩を強く抱き寄せる。

 私は二人の様子を、一緒に涙をこぼしながら見つめていた。

 お姉さんが先代様を討ったとき、お姉さんは何を感じたんだろう?

 私に出会うまで、何を思って旅をしていたんだろう?

 サキュバスさんは先代様が目の前で息を引き取って何を感じたんだろう?

 お姉さんがこのお城に帰ってくるまでの間、なにを思っていたんだろう?

 そんな疑問が頭の中にあふれかえって、胸を締め付ける。

 先代様とサキュバスさんは夫婦みたいなものだった、と聞いたことがあった。夫を殺され、殺した相手の従者になって、それでもサキュバスさんはお姉さんに心を開いた。

 サキュバスさんはお姉さんを誰よりも思いやって、誰よりも信頼しているし、お姉さんも、サキュバスさんには誰よりも頼って甘えて、そしてサキュバスさんの気持ちを何よりも大切にしている。

 それは、そばにいる私が一番よく分かっていることだった。

 そんなことを思って、ふと、私は気が付いた。

 この二人こそ、きっと怒りや憎しみを超えた二人なんだろうって。

 気持ちや、事実や、その他のいろんなものを一切合切に抱きとめて、それでも先のことを見据えて来た二人だからこそ、できたことなのかもしれない。

 そう考えたら、勇者様の言葉は確かにその通りだ。

 お姉さんなら、ううん、お姉さんとサキュバスさんなら、魔法がなくなって魔族が人間に戻った世界でも、きっと大丈夫…二人の姿を見ていて、私はそう強く感じて、そして不思議と安心した心地になっていた。

 どれくらい時間がたったか、お姉さんが泣き止んで、サキュバスさんに支えられておもむろに体を起こした。

 そして、ふぅ、と息を吐いて、勇者様に言った。

「分かった…」

そんなお姉さんの手をサキュバスさんがギュッと握りしめる。

「基礎構文を消してくれ」

低く、かすれてはいたけど、お姉さんは力のこもった声でそう言った。

「うん、わかった。任せて」

勇者様は、相変わらずの優しい笑みでそう答える。

 その返事を確かめたお姉さんは、黙って様子を見つめていた零号ちゃんを見やった。

「零号、頼む」

そう言われて零号ちゃんは、ようやくあのおびえた表情を解き、おずおずと、魔王の紋章を移し替えた自分のダガーを手に、三人の下へと歩み寄る。

 これで、勇者様に魔王の紋章が戻れば、世界が終わる。そして、新しい世界が始まるんだ。大変な世界になるかもしれない。

 でも、今のままでは、いずれもっと大きな戦いが起こって、もっとたくさんの人が傷つくだろう。

 そうでなくても、もう数えきれないほどの人たちが傷つき、苦しんできたんだ。

 ずっとずっと昔から続いてきたしがらみをほどくことができるかもしれない機会がやってくる。

 そのときには私も何かの役に立とう。

 私は、知らず知らずに心の中でそう決意を固めていた。

 零号ちゃんが、自分のダガーから魔王の紋章をペラリと引きはがした。

 そして、持ち替えた勇者様が封印されている古いダガーの刃に、その紋章をゆっくりと押し当てていく。

 青い勇者の紋章の光をまとっていたダガーに赤い光が加わって、白く明るく輝き始めた。

 これで、勇者様の封印が解ける。自分で自分を封印して、それで、ずっとずっと長い間眠り続けて来た。

 あの古文書にあったように、自分のことを責め続けていたのかもしれない。

 それも、今日で少しは楽になるのだろうか?

 世界が二つに分かれた日から大陸に起こった出来事がなかったことになるわけじゃない。

 それでも、新しい世界を切り開くために力を貸してくれた勇者様は、訪れた新しい世界で何を感じるんだろうか?

 すべてが終わって、新しい世界が始まったら…勇者様は、何をするのかな?普通の人として暮らすんだろうか?それとも、まさか自殺したりはしない…よね?

 いや、その心配はちょっとある…もしものときのために、みんなで勇者様を見張ってないといけないね。

 基礎構文が消えたら紋章もなくなるし、強い力も消えてしまう。

 そうなったら普通の一人の大人と同じ。

 大陸の真ん中に人が踏み入れないような高い山を作り出したり、自分を封印したりもできないはずだからね。

 そんなことを考えていて、私はふと、頭の中に奇妙な疑問が湧いて出るのを感じた。

 そう、紋章がなければ、自分を封印したりもできない…

 その疑問を自分の頭の中で繰り返して、私は、なぜその疑問が湧き出たのかを理解した。

 勇者様は、自分で自分を封印した、とそう言った。

 でも、それじゃあなぜ、二つの紋章も一緒に封印されなかったのだろう?それとも、封印するのに紋章は必要ないのかな?

 だけどそんな魔法が魔法陣やましてや魔族の自然魔法でできるわけがないし、そもそも勇者様は紋章の力で自分を封印したと言っていた。

 でも、それじゃぁ、どうして…どうやって…?いったい、勇者様はどんな方法で、紋章を持たないままに紋章を使って自分自身をダガーの中に封印したっていうの…?

 ゾワリ、と背筋を何かが走った。

 つい今まで感じていた安心感がボロボロと崩れていって気持ちが落ち着かなくなる。考えすぎだと自分に言い聞かせてみても、その不安は私の中でどんどん膨れ上がっていた。

 もし…もしも…

 そんなこと普通に考えたらありえないし、竜娘ちゃんが聞かせてくれた話にも疑うところはない。

 でも、でもだよ…

 もし、誰かが何かの理由で、勇者様から二つの紋章を引きはがして、それを使って勇者様の身を封印したのだとしたら…

 勇者様が紋章もなしに自分を封印するなんて、そんな方法しか思い浮かばない。

 もしそうだとしたら…その理由って、なに…?

「ゆ、勇者様!」

私は思わずそう声をあげていた。

 確かめられずにはいられなかった。考えすぎならそれで良い。あとで謝ればいいんだ。でももし、そうじゃなかったとしたら…もしかして私達は、取り返しのつかないことをしようとしているのかもしれないんだ…!

「ん、どうしたの?」

勇者様は、相変わらずの優しい笑顔で私にそう聞き返してくる。

 そんな勇者様に、私は聞いた。

「勇者様は…どうやって自分を封印したんですか…?紋章を持たないまま封印されていたってことは、封じ込めるときには紋章がなかった、ってことですよね!?」

私は、不安にせかされて早口で大声でそう聞いた。

 私の言葉に、今までのやりとりで出来上がっていた悲しみと決意の雰囲気に満ちた部屋の時間が止まったようだった。

 でもそんな中で一人、当の勇者様だけが、ニタリ、と気味の悪い笑顔で私に笑いかける。

「あなたは、頭のいい子だな」

次の瞬間、勇者様が突き出した指先から一筋の光が伸びてきて、私の胸を穿った。

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