ドロップシャドウ
富良野兄弟
第1話 知らない夜
追いかけて来る何かの全貌は見えない。およそ分かるのは暗闇の中でやみくもに走る僕の背中に吹き付ける生暖かい腐臭がそれの吐息で、少なくとも人間の形をしてはいないであろう幾つもの粘着質な器官が蠢くような足音は着実に僕に迫っているということだ。もう随分長いこと走り続けているというのに、足元に浅く水の張った暗渠の先は一向に闇にふさがれている。漆黒の中で距離感もわからないまま引きつる筋肉を叱責してただ不確かな目の前へ走る。あるいは数メートル先に真っ黒に塗りつぶされた壁があったとしても、僕は気付かずに激突したのかもしれない。しかしいくら足を振り上げてもその先にはちゃんと着地するべき地面があり、無限とも思われる道を僕は走り続け、背後にはそれが追ってくる。
視界の閉ざされた空間の中で水音が反響する。内とも外ともつかないところで聞くともなしに僕の上がった呼吸が響く。上も下も右も左も定かではないが、地面をけり上げ交代に前に振り出す両足の規則的な意識と耳から聞こえる水面をはじく音の符合だけが僕を僕としてつなぎとめる。もしどちらか片方がなくなったとしたら、たちまち僕は闇に溶けてしまうだろう。不意に水音のリズムが途切れる。何かに足を取られたことに気付くより先に僕はぬかるんだ足元につんのめった。ぬめりとした水の一層むこうの地面に身体を打ち付け動転する僕とは反対に、それは歩みを止めることなく僕に近づいてくる。無数の繊細な触手が細かく水をかき混ぜるような音はすぐ目の前に迫っていた。走りださねばと両足に力を入れるも、その意志は行き場を無くして闇に溶ける。僕はもう立ち上がる力を残さない両足に観念して瞼を固く閉じた。目頭に深く皺が刻まれるほど力を入れたけれど、黒く塗られた視界は目を開いていた時と変わらず、僕は僕を見失う。今やその荒い息は含まれた湿気を頬に感じられるほど接近していた。
時が永遠に止まったような一瞬の間があり、突然瞼の裏に閃光が走った。するとみるみるうちにその光は燃え上がり、視界を明るく照らす。さっきまで追いかけて来たものが、轟轟と炎を上げていた。光の向こう側に照らし出される黒いマントを着た背中が翻る。遠ざかる足音は確かに人間のそれだった。辺りは生き物の焼けるにおいに満ちていた。
***
僕はしばらくの間立ち上がることもできずただその青白く光る炎をなんの感慨もなくみつめていた。ふと足元に目を凝らすと、ゆらゆらとゆれる光を反射して浮かび上がった水面に浮かぶ幾つもの白い曲線が見えた。思考を停止しようとする無意識の制御を引きはがす、それは自分を守ろうとする自己防御の本能だろう。しかし、もはや僕にはそんなものが必要ないところまで来てしまったことを僕自身知っていた。無数に沈殿するその複雑な形の華奢な曲線はすでに肉を失った骨、人間のそれだった。見渡すと岩を切り崩したような壁面に囲まれた五メートル幅の通路をずっと走ってきたようだ。荒い岩肌を呈しているが自然のものではなく人為的に削られた洞窟だろう。マントの人は僕がきた方向へと消えていったけれど、僕はとてもじゃないけれど引き返す気にはなれず、先を目指して歩き出した。
どれくらい歩いただろうか。先にほんの小さな明かりが見え、通路はだんだんとぼんやりとした明かりに照らされ始める。相変わらず地面には人骨が散らばっている。通路の中央の骨は誰のものともつかないほどあらゆる部分の骨が混沌と混ざり合っているが、端の方のものは、まだ一人の人間の形を留めていた。うずくまるような形で白骨化した頭蓋骨、肋骨、そこから伸びる腕に、骨盤の先にある大腿骨。僕は顔をしかめることもなくなっていた。
出口が大きくなるに連れて、外の空気のにおいを感じられるようになった。吹き込んでくる清冽な夜風に心が軽くなる。またその解放と比例するように、血なまぐさいこの暗渠への嫌悪が胸にこみ上げる。走ってこの場所から抜け出したいと思うのに、足は思うように動かず水は重くからまる。
足元をぐらつかせる白骨が少なくなり、月明かりに照らされ水面があらわになる。足元を小さな魚が暗渠の奥に向かって通り抜けていった。水を吸って膨張した革靴を引っ張り上げ歩くむき出しになった足首がか弱い背ビレにくすぐられる。視線を落としても素早い魚は振り返ってもとうに視線で捉えられないところへと消えていた。ふと視線の先に不思議な塊をみつけた。人間のそれにしては異様に長く、鋭いカーブを描く骨。見渡すと、奇妙に屈折した形の塊状の骨や、一抱え程もあるゆがんだ頭蓋骨など、見たこともない形の骨が半分水につかり月明かりに照らされてつやつや光っていた。生き物の道を外れた、非合理的な造形。指先でそっと触れると、そこを基点にして全身に広がるようにじわりと鳥肌が立った。
僕は吐き気を催しつつも平静を装い、淡々と足を出口へと運ぶ。一度取り乱してしまえば、全てが崩れ落ちそうだった。できる事はただ何も考えずに出口へと歩みを進める事。そう考えていても心臓は激しく鼓動を打ち、胃液はのど元へせり上がり、視線は水面をなぞりおぞましい骨を探した。出口に近づくにつれて骨の数は少なくなり、比例するように形の奇妙は度を増していった。外に出た頃には、骨は見上げるほどの大きさになり、造形も人間はおろかどんな動物にもあてはまらないような出鱈目な立体を澄んだ空気にさらしていた。しかしその質感は普通の骨と変わらないように、白い象牙質のその質感は、それがかつて確かに生き物だったということを切実に示していた。
***
月は驚くほど大きく空を覆っている。高い木々に囲まれた森を抜ける術など知らぬ僕は、月の方向へと歩き出した。やっと外の新鮮な空気を吸うことが出来たというのに、暗渠は僕の心をつかんで離さなかった。それはあの生臭い匂いだったり、奇妙な骨を前にした時の背徳的な高揚感だったり、足元を包んだ生暖かい水だったりのことである。驚くべきことに僕は、なによりあのなつかしい闇に安らかささえ感じていた。
魔物は人の心を捕らえる。あんなにも身の危険を恐怖を感じていたにもかかわらず、あの瞬間の恍惚は僕の心をつかんで離さなかった。ちっぽけな僕の生命を超えた大きな力に押し流される。その波に抗うことは出来ない。
ここがどこかもわからず森をさまようよりもやみくもに駆け抜けた暗渠の方がどんなにかいいだろう。未だ乾く気配のない水を吸ってずっしりとした革靴は、足枷のように僕の軽やかな歩みを奪った。歩けどもひっそりとした木々が動くものすべての気配をそっと吸い込み、夜の静寂をかたくなに守る森を進む退屈さといったらなかった。確かにあの暗渠で僕はこことは切り離されたどこかにいた。
僕は道の無い森の中を月の方角へひたすら進んでいた。下草を踏み、胸いっぱいに夜風を吸い込み、星の無い空を見上げた。そういえば、星が隠されたのはいつ頃からだったろうか。幼い頃見上げた空に零れ落ちるほど輝いた星たちは、ある時を境にその姿を消した。町の人は誰もその理由を知らなかった。星が消えた夜からしばらくは教会で集会が開かれ、有象無象の言説家が辻に立ち雄弁をふるい不安に苛まれた人々から今宵の酒代を集めたものだが、数か月もすれば誰も星が失われたことなど気にしないようになっていた。みんな腹の膨れない遠くの星よりも、明日のパンに関心があるのだ。
突然近くの茂みが揺れたかと思うと、おもむろにひょろりとした男が現れた。男はくたびれた山高帽をかぶり、ところどころ糸のほつれたセーターを着ていた。大きな鷲鼻の上には、小さな丸眼鏡がちょこんと乗っている。そのガラスの向こうで神経質そうな細い目が月明かりを受けて光った。
「教会から来たのか?」
男はおもむろに声を発した。僕はあまりに久しぶりに言葉を耳にしたものだから、意味が取れずしどろもどろに答える。「教会……?」
「あの裏道から来たんだろ?」
男は畳みかけるような調子で間髪を入れずに聞いてきた。それはまるでどこにも逃がさないぞと僕を威嚇している風だった。
ドロップシャドウ 富良野兄弟 @furano
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