第9話

 暗闇の中から、甘くてかわいらしい女の声が聞こえる。これは、黒木の声だな。俺が知っている中で、一番聞いていて安らぐ声だ。

 声だけじゃない。黒木はなんかちっこくて守ってあげたいところとか、たまに見せるこぼれるような笑顔とか、あと、作ってくれる弁当が美味いとか、しゃべり方がなんか面白いところとか、とにかくいろんなところがいいんだ。黒木のためなら、俺にできることはなんでもしたい。黒木がそれを望んでくれるなら。


「佐々木さんは、寝顔がとてもかわいいのであります。食べちゃいたくなるくらい」


 食い物扱いかあ。でも、黒木にだったら食われてもいいや。そのうち俺も違う意味で黒木を食べ……。まあ、その、なんだ。ごにょごにょ。


「本当でありますか? その言葉、忘れませんよ」

「え。いやさすがに、三枚におろされて食卓に並ぶのは勘弁」


 

 寝言で会話しちまった。しかもかなり恥ずかしい内容じゃないか、これ。

 目を覚ました俺が見たのは、街灯に照らされた黒木の顔。結構な至近距離で俺を見つめている。なんか頭の後ろが気持ちいいぞ、これは膝枕か。もう一度寝た振りしようかな。

 頭を横に向けると、不安げな表情で傍らに立っている優子の姿まである。なんでいるんだ。しかも、今の聞いてたのか。うっわ、穴があったら飛び込みてえ。

 体を起こし、寝ていたベンチに座りなおす俺。あたりは暗い。もう夜だってのに、無駄に目覚めが爽快だ。体はなんだか脱力してふわふわしてるけど。

 優子の顔と黒木の顔を交互に見る。そういえば俺は気を失う前、猛烈に怒ってたんだよな。優子が黒木にした仕打ちに対して。


「健太、大丈夫なの?」

「別に問題ないぜ。むしろ気持ちいい。黒木、膝、ありがとな」

「いいのであります。前に咬んだときも、佐々木さんが目を覚ますまで、私が見ていようと思っていたのです。山田さんが通りかかるのが見えて、あわてて逃げてしまいましたが」


 そうだったのか。確かにあのとき、目を覚ました俺のそばには優子がいた。 


「なあ黒木、最初のときも思ったんだけど、どうしてお前に咬まれると、その、なんだ。すげえ気持ちよくなるんだ」


 黒木は憂いを帯びた顔で、俺の質問に答えた。


「……私が、ときおり人様の血を吸いたくなるということは、佐々木さんにお話したとおりであります。それは私の母や祖母、この家系に生まれた女にはよくあることなのです」


 俺は前に聞いた話なので驚かない。けれど、はじめて聞く優子は信じられないといった表情を浮かべる。


「それは、遺伝ってことなのか」

「はい、そして佐々木さんにもお話していないことがもうひとつあります。私に咬まれた方、特に男性は、私の唾液に含まれる酵素が体に侵入し、ホルモンの分泌を狂わせる場合があるのです。気持ちがよくなったというのは、佐々木さんの脳から脳内麻薬が大量に分泌されたことが原因でしょう」

「黒木さん、脳内麻薬ってアドレナリンとか、ドーパミンとかそういうの? 部活の先輩に聞いたことあるけど……」

「はいです。山田さんは陸上部なので、いつかランナーズハイというものを経験するかもしれませんね」


 難しい話になってきた。俺にはいまいちなんのことかわからないのに、優子はどうしてついていけるんだ。


「私の一族に生まれた女は、この体質を使って小さな村の中枢に収まっていたのであります。私たちは理想の血液を持った、丈夫で健康な男性を婿にとる。咬まれた男性は至福のときを過ごし、また私たちに認められるだけの勤勉で誠実な人物であろうと努めます。このことで両者の利益は合致し、閉鎖的ではありますが村の秩序は保たれていたのです。しかし村がダムの底に沈み、私たちは別の生きかたを迫られるようになりました」


 黒木は小さいころから病院に出たり入ったりの生活を送っていたと言う。故郷の村がなくなったことで、新しい環境でも適応できるように、自分たちの体質を一般の人間に合わせようと思ったそうだ。


「ですが、やはり蜂は蜂の巣を作らないと生きられないように、私たちの体は私たちなりの生きかたしか選べないのでありますね。薬である程度抑えていたのですが、佐々木さんにはじめてお会いしたときから、私はいてもたってもいられなかったのであります。お別れする覚悟をして、佐々木さんを遠ざけるように努めても、電話で佐々木さんの声を聞いてしまっては」


 恥ずかしそうな表情を浮かべ、黒木は言葉を切った。そして、小さな手で俺の腕を弱々しく抱える。


「我慢なんてしなくていいよ。前にも言ったろ、無理すんなって。俺は……、黒木に咬みつかれようが、なにをされようが、黒木のことが好きだぜ」


 やっと言えたこのせりふ。黒木が俺の腕に力いっぱいしがみつき、続いて優子のあからさまな溜息が聞こえた。


「はーあ、バカらし。体質がどうのこうの言う以前に、アタシが入り込む余地なんてないじゃない。お邪魔みたいだから帰るわね。……二人とも、ごめん」

「おう、こっちも悪かったな。カッとなっちまって」

「謝らないでよ、みじめになるだけだわ」



 地面に置いていた自分のカバンを持ち上げ、優子は歩き出した。立ち去っていく優子の背中を、黒木はまっすぐににらみつけている。


「黒木、止めてくれて本当にありがとう。最低な男になっちまうところだった。あと優子のこと、許してやってくれよな。二人がギスギスしてると、俺もつらいしよ」


 怒りに任せて手を上げた俺に、そんなこと言えた義理じゃないけど。


「あ、はい。大丈夫であります。ですが、山田さんは強い人なのです。いつかまた佐々木さんを狙うかもしれません。しかも今度は正攻法で。単純に女としての魅力で勝負した場合、私は山田さんに勝てる自信がまったくないのであります」


 俺は声を上げて笑った。よかった、ちょっとずれてるいつもの黒木だ。俺の大好きな黒木エリカだ。


「そんなことねえよ。黒木はスゲエかわいいって」

「本当でありますか? 佐々木さんも、優しくて温かい人なのですよ。首根っこにかじりついて、絶対に離れないつもりですから。今さら迷惑とか言ったって遅いのですからね」

「いくらでもかじりついて、好きなだけ血を吸ってくれ。血の気と体力は売るほどあるぜ」


 その言葉を聞いて、黒木は笑いながら目に浮かんだ涙をぬぐった。


「佐々木さんと山田さんのお二人は、とても深い関係にできあがってしまっていると思っていたのです。私に対しては同情でかまってくれているだけなのだと。だからこの体質のせいでお二人の負担になるのが申し訳なかったのであります」

「それだからっていきなりバイバイはないだろ。転校でもするつもりだったのか?」

「は、はい。それに私の両親が、私に好きな男性ができたと知ったら、大騒ぎになるかもしれないのですよ。エリカはもう婿を決めたのかと、故郷の慣習に従い遠慮なく話を進めるでしょう。母も祖母も、血の衝動が選ぶ相手に間違いはないと固く信じているので。どんな手を使ってでも、佐々木さんの周りから他の女性を排除しようとするに違いありません。泥沼であります」


 家に電話したとき、黒木があせっていた理由はそれか。エキセントリックな家族だこと。

 黒木の家はもともと小さな村の長老みたいな感じで、そこそこの資産もあるらしい。

 長い間、一族で地元を仕切っていたせいか、一度決めたらなんとしてでも、思い通りにことを進める傾向があるそうだ。二十一世紀だって言うのに、そんな感覚が日本にもまだ残っているんだな。


「ぜんぜんかまわんよ。ドンと来い。なるようになる」


 俺がそこまで思うのも、脳内麻薬物質だとかホルモンバランスだとかの作用なのかもしれない。けれど、そんなの知ったことか。俺と黒木は今この瞬間、同じことを考えている。一緒にいたいという、ただそれだけを。それで十分だ。

 俺は、華奢な黒木の体をそっと、でもしっかりと抱きしめる。黒木は俺の胸に顔をあて、安心したように体の力を抜いている。ずっとこの時間が続けばいい。心の底からそう思う。


「あの、佐々木さん、もう一度、いいですか?」

「え、なにをだ」

「生理が終わった直後でして、その、体中の鉄分やアミノ酸などが足りておらずにですね。早い話が、さっき吸っただけでは物足りないのであります!」



 抱き合った姿勢のまま、黒木は俺の左肩にあいた傷跡に吸いついた。甘咬みされた傷口から、どくどくと血液が滲み出す。そういえば、女の生理って月に一回くらいのペースだっけ。相変わらず、恥ずかしくなることをハッキリ言うなあ。


「く、黒木、痛くて気持ちいい。っておい、その舌、ちょ、ヤバいって」

「はむっ、ん、おいしいっ。やはり佐々木さんの血は最高なのです。コクがあるのに喉ごしさわやかで。はあっ……」


 小さな舌と唇の、濡れたやわらかい感触が俺の体を這う。

 徐々に全身を幸福感が満たし、抱き合った黒木と俺の体が、溶けて一つになるような錯覚を覚える。首のあたりでは、俺の肌に黒木がキスをする音が絶え間なく鳴り続いている。

 近いうちに、今度は俺が黒木を美味しく食べてやるからな。覚悟しとけ。

 と、その前に。

 週末には手をつないでお祭りに行こう。夕日に染まる縁日を歩き回り、甘いものをたくさん買い食いしよう。クレープをほおばりながら、目を細める黒木の顔が浮かぶようだ。黒木は浴衣を着て来るだろうか。ヤバい、ニヤニヤが止まらん。


「むむ? 佐々木さん、以前より少し血糖値が高いのであります。しっかり食べるのも大事ですが、適度な運動も心がけてください」


 はい、食い物のことばかり考えてすみません。



(完)

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がぶ 西川 旭 @beerman0726

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