第8話
「ここで会うのは、およそ一ヶ月ぶりでありますね、あのときはご迷惑をおかけしました」
俺の住んでいるマンションを出て少し歩いたところにある、なんの変哲もない公園。
回るジャングルジムに、使用禁止という貼り紙がされている。最後にこれで遊んだのはいつだったかな。
先に到着したのは俺で、そのあとに黒木が現れた。私服だ。暑くなってきたからか、キャミソールのワンピース。しかも、いつもは三つ編にしている髪を下ろしている。
やばい。超かわいい。おかしくなりそうだ。このままお持ち帰りしたい。
「それくらい経つか。俺はあのとき、後ろにいたのが黒木だってわからなかったけど」
ここのベンチに座っているところを、背後から忍び寄られて咬みつかれたんだったな。なんだか頭が微妙にくらくらする。暑いからか。
「佐々木さん、お体の調子はいかがでありますか。どこかお加減の悪いところなどは」
定型の挨拶になりつつある、黒木のこのせりふ。この一ヶ月で何度聞いたろう。
「いや、俺のことより、黒木はどうなんだよ。学校休んだじゃねえか」
「私はもう、だめなのであります……。やはり普通の女の子として暮らすのは無理なのです。今日は、お別れを言いに来ました。佐々木さん、今まで仲良くしていただいて、本当にありがとうございます」
唐突な言葉を聞いて、俺の頭が真っ白になりかける。黒木は目に涙をためながらも、必死に笑顔を作っていた。
「なんでだ? 俺が悪いのか? 昨日みたいないたずらされても、お、俺が守ってやるよ! 優子だって、あいつはあいつで結構頼りになるやつだぜ。何も心配しなくていいって!」
近寄ろうとした俺を、黒木は手のひらを出して制止する。俺は黒木に拒否されている理由がまったくわからない。口の中がひどく乾いているのを感じる。
「佐々木さんも山田さんも、とてもいい人なのです。でも私がそばにいるとご迷惑をおかけしてしまいます。だから私のことは忘れて、いつまでもお二人、仲良く……」
こらえきれずに嗚咽する黒木。小さな肩が震えて壊れそうだ。
「俺は弁当の恩もまだ返してねえぞ、なにが迷惑だ。そんなものを気にする繊細な神経、どこにも持ち合わせてねえよ」
「あ、あのお弁当は、私なりの謝罪と、理解していただいた佐々木さんへの感謝というだけなのです。でも、それが原因で佐々木さんを好きな、ほかの女性が不愉快になって、いずれ佐々木さんご自身にも害が及んでは」
そう、黒木は周りに気を遣うやつだった。どうしてそんなにと思うくらい。でも俺は、そんな黒木だから好きになったんだ。愛しさがあふれ、俺は夢中で黒木を抱きしめる。それ以外にするべきことがなにも思いつかないし、それ以外のことをしたくない。
「だ、駄目なのです佐々木さん、これ以上は……。あっ」
黒木がなにかに気づいたように、俺の体をトントンと叩く。道路の方向から人の話し声が聞こえる。誰が見てたってかまわない、このまま離れるなんていやだ。でもなんか、黒木っていいにおいするなー……。
「ああ大丈夫、ばれてない。うん、なんか学校休んだみたい。このまま休んでくれたらいいんだけど。ねえ、あんなつまんなそーな子が健太と釣り合うわけないよねえ」
遠くから聞こえた声に、なにやら俺の名前が混じっている。健太なんてどこにでもいる名前だけどな。しかもこの声、聞き覚えあるぞ。優子じゃねえか。
俺は黒木の体を抱きしめたまま、視線を公園の外に向ける。携帯を耳にあてた優子が歩いている。会話に夢中で、こっちには気づいてないようだ。
「ねえ、冗談じゃないって。どこの中学から来たか知らないけどさ。こっちは生まれた病院まで同じなのよ? 横からさらわれちゃ、やってられないってね」
俺と黒木の時間が止まった。
なんだそれ。
なにがばれてないって?
誰が休んだって?
横からさらわれる?
「おい、優子!」
俺は大声を出して優子を呼び止め、公園の外に歩いた。優子は携帯を耳に当てたままこっちを振り向く。俺と黒木の姿を確認して、目をまん丸に見開いて固まった。
「け、健太、黒木さんも。具合悪いって聞いたけど、もう大丈夫?」
「おい、今の電話なんだコラ。黒木の靴に落書きしたの、お前なんじゃねえのか」
「な、なんで私がそんなことするのよ。ばかばかしい」
優子に詰め寄る俺の服を、黒木が力いっぱい引っ張っている。残念ながら、俺の体を止めるのには、なんの足しにもなっていない。
「佐々木さん、落ち着いてください! 聞き間違いなのであります! 山田さんがそんなことするわけがないのであります!」
ああ、俺もそう思う。それなら俺の目をまっすぐ見て、違うって言えるはずだ。優子はそういうやつだ。
少なくとも俺は優子を信頼している。長い付き合いだし、隠しごとをするような関係でもない。言いたいことがあるなら、遠慮なしに言い合える仲だってな。
だからこそ、こんなことは信じたくない。あっちゃいけねえことだ。友情や信頼と言う、美しくて尊いものに対して、泥水をぶっ掛けるような行為だ。
なによりも、黒木を守っているようなポーズで、俺と黒木をだましていたこと。それが許せない。
「おい、どうなんだ優子。俺の勘違いだったらいいんだけどな」
怒りが爆発する寸前の俺から、視線をそらす優子。引きつった顔でなにかブツブツ言っている。
「……な、なによ、健太が悪いんじゃない」
「なんだって? はっきりしゃべれや」
「いっつもアタシが世話焼いてあげてるのに、高校に受かったのだって、アタシが一緒になって勉強に付き合ってあげたからなのに! 黒木さんのことばっかり気にして!」
その言葉を聞き、俺は全身の筋肉を強張らせた。俺の腕にしがみついている黒木からも、はっきりと恐怖の意思を感じ取ることができた。
「い、いけません佐々木さん! 私も女として山田さんの気持ちがわかるのであります!」
「……黒木は、黒木はお前に憧れてんだぞ! その気持ちをなんだと思ってやがる!」
ごめん黒木。俺はいい人なんかじゃい。今、溢れ出る怒りを抑えられそうにないから。
力任せに優子の横っツラを張り倒そうとした俺。その背中から黒木が飛び掛って、首元にすがりつく。
「佐々木さん、ごめんなさい!」
がぶっ。
音が聞こえたわけじゃない。でも、俺は前に覚えのある痛みを左肩に感じていた。
忘れもしない、黒木と俺のつながりが始まったあの感覚。
黒木が俺の体に咬みついたんだ。
「く、黒木、なにを……」
咬まれた場所から、痛みとともに温かさと、微電流のような痺れが走る。俺の視界が曲線を描いてぐるぐると回り、ひざの力が抜け、俺の体は崩れた。
「け、健太! ちょっと黒木さん、どうなってるの?」
怒りで充満されていた俺の全身を、柔らかな快感が波となって押し寄せる。俺を背中から抱きしめる黒木の体温が気持ちいい。あれ、俺、なんで怒ってるんだっけ。なんか、色々とどうでもよくなってきた……。
(第9話に続く)
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