ご意見番

 井伊直政を終いに、信幸を呼び止める者が絶えた。

 ほんの一日のことであるのに、信幸は疲れ果ててしまった。

 自分の一挙手一投足が真田家と信濃の命運を分ける、そんなすこぶる危険な立場に置かれている。

 ――いや、そのような危うい立場には馴れていたはずだ。武田が滅びて以降、信幸がそういう状況の中で暮らさなかったことはない。


『槍を持って戦場にいる方がよほど気が楽だ』


 胃ののあたりを軽く撫でた。信幸は生来頑丈な肉体をもっていたが、時折の調子だけが崩れることがある。


 信幸は徳川家康はから駿府城下へ屋敷を与えられていた。そこには上田や沼田から連れてきた気心の知れたにん達が居た。無論、徳川方から付けられた家臣もいる。それらを年若い新妻の小松殿が取り仕切っていた。


 その新居に、早く帰りたい。


 前屈みになりがちな背筋を、意識して伸ばした。

 視線が高くなる。

 胸を張った。

 虚勢ではあったが、勢いが湧き出る。

 歩を進めた。

 その一歩が、すべった。


「待て、待て、少し待て!」


 背後で叫ぶ声がする。振り返れば、廊下の端から武士が一人駆けてきていた。

 体に見合わぬ長さに仕立てられた袖には、金銀の蝶が舞う模様がらが描かれ、ひらひらとなびいている。あげちょうが羽ばたいているかのように見えた。

 その可憐な文様の衣服をまとっている人間は、こつその物だった

 中肉中背、骨太の体つきに四角い顔。城中だというのに腰に三尺五、六寸はあろうかという太刀を手挟んでいた。鞘の先が床に擦れている。


 信幸はこの武士の顔も見知っている。

 おおひこもんただたかだ。

 信幸よりも七、八歳程は年長の筈だが、顔つきはそれ以上に年寄りじみている。


 猛烈な勢いで駆けてきた忠教は、信幸のいっけん前で、急に走るのをやめた。

 両足をぴたりとそろえる。

 みがかれた廊下と走った勢いは、忠教が両足が揃えて止まってもなお、彼の身体をすぅっと滑らせた。

 滑って、信幸のとぶつかろうかという直前、さんずんばかり手前でぐっと止まった。

 背の高い信幸の鼻先に、忠教のまげがある。


 信幸は一歩引いて頭を下げた。

 忠教は家康が大名として自立する以前より仕えている、古参の三河武士である。新参者としてはまず敬意を表する必要があった。

 すると忠教が一歩前へ出た。

 信幸が今一歩下がる。また一歩前へ。下がる。前へ。下がる。前へ。

 幾度か繰り返した後、信幸は、


「大久保様、まえに何かご用でありましょうか?」


 不信感を胸三寸に隠し、努めて穏やかに問うてみた。


「用も用。大ありも大ありじゃ」


 忠教はあごをぐいと持ち上げた。見上げて、しみじみと、じっと、信幸の顔を見る。


「うむ、そのつらじゃ。間違いない」


「手前の顔が、どうかいたしましたか?」


「お主、真田源三郎と言ったな。上田の、かんかわの戦のおりは、ようも儂らを散々な目に遭わせてくれた」


 忠教の口振りは、心底怒っているようであり、懐かしんでいるようでもあった。


なにぶん、手前も武士にございますれば、主命を拝すれば存分な働きをいたすのみにて」


 それ以外に言いようがない。主君に「敵の横腹を突いて隊列を分断させよと」命じられれば、伏勢を率いて突撃を仕掛ける。「火攻めをせよ」と命じられれば、丹精した城下町であっても火を掛ける。それが武将の役目である。

 信幸は小さく頭を下げ、斜め後ろに一歩引いた。そのまま振り向くつもりだった。忠教が同じ方向に動かなければ、そうできた。


「おお、その身のこなしよ! あのときもそうであった」


「あのとき、と申されますと?」


 聞き返しはしたが、信幸には、いずれ上田城下の合戦の時のことであろうという察しが付いていたし、事実そうであった。


「うぬらのざかしい火攻め水攻めに、口惜しくも逃げ出そうという我が勢の殿軍しんがり儂がふんじんこらえ働いたそのときよ!」


 獅子奮迅に堪える、というのは、なんともおかしな言いようである。


「はあ……」


 信幸は神川合戦の状況を思い起こそうとした。その思考を忠教の大声がはばむ。


「お主、天から降ったか地から湧き出たか、突如として現れ、小勢を率いて追い打ちを掛けてきたであろう。馬をあおり、【おおなぎなた】を振り回して攻めてきた。

 ここだけの話ゆえ正直に言うが、あのときはやいばが風斬る音が耳元に聞こえて、肝が冷えきったぞ。

 肝は冷えたが、儂は踏みとどまって『あの見事な将を討ち取ってやろう』と決めた。ところが馬めが竿立ちになるは足踏みするわで、前に出ぬ。そうなれば逃げ出すより他に手がない。

 ああ、思い出すだにくちしい、口惜しい」


 まくし立て、ぎりりと奥歯をんで後、さらに、


「儂は真田と手打ちをするのは反対だった。あんな小賢しい策をろうする者共は、儂は好かぬ。火攻めは嫌じゃ、水攻めは嫌じゃ、待ち伏せは大嫌いじゃ」


 その手を喰らうのが好きな者などおりますまい……と、喉元まで出かかった言葉を、信幸は呑み込んだ。

 忠教の大声は続く。


「ところが殿は儂の言などよりもめの言葉の方が耳に良く聞こえるらしい。あげく平八郎までが殿をそそのかしおった。ああ、思い出すだに口惜しい、口惜しい」


 また奥歯をぎりぎりと噛む。


「しかし、殿がお決めになったことゆえにいたかたはない。その代わりに、その真田のちゃくなんとやらがこちらへ来たならば、一言言って聞かせねば気が収まらぬと心に決めて待ち構えその面見れば……なんとあのときのあの強者ではないか!

 あれほどの戦い振りをする男であれば、たとえ小賢しき卑怯者であっても、徳川の臣として申し分ない!」


 ここまで一息に言うと、忠教は胸を反り返し、鼻息をフンと吹き出させた。どうやら言いたいことを言い終えて、満足したらしい。


 信幸は困惑した。

 どうやら己の不満を吐き出しきった様子の忠教ではあるが、まだ自分の前に立ちふさがっている。


 振り向いて戻りたい。城から出たい。そして、


『早く我が家に帰りたい』


 信幸は額をでた。


「大久保様、残念にございまするが、仰せの荒武者は、おそらく手前ではないかと存じます」


「むっ? 儂がかたきの顔を間違え覚えていると申すか!」


 忠教の脳天から湯気が噴き出した。信幸は首を小さく振って、


「いえ、大久保様でなくともお間違えになられましょう。お話を伺いましたところから察するに、彼の武者は、当家の家老にて手前には従兄叔父いとこおじにあたるざわさんじゅうろうよりやすであったかと存じます。

 この三十郎めは手前と背格好がよく似ておりますれば、にんであっても、遠目に見間違えることが多うございまして」


 忠教が足を踏みならす。


「いや、そのようなことはあり得ぬ。儂が目は節穴ふしあなではないぞ。確かにあれはであった!」


 信幸は苦笑いした。


「大久保様、手前のつねものやりにございます。不器用者にて、なぎなたながきは、よう使いませぬ」


「何と!?」


 忠教はぴょんぴょんと三歩ばかりも跳ね飛び下がった。眼と口とが大きく開いている。

 この好機を、信幸が逃すはずはない。


「それに手前は小心ゆえ、ぜいで追撃する戦はにございまして」


 信幸はすっと頭を下げ、素早くきびすを返し、


「ではこれにて」


 と言い残して足早にその場を立ち去った。


 しばらくの静寂を置いて、信幸は背後に大声を聞いた。


「ええい、小賢しい真田の小僧めが!

 あのおり、あましょうはちろうのヤツが、十七、八ばかり鑓使いのせがれと斬り結んでいるのを

『そんな子供を殺すことはない。むごいではないか』

 と止めて、そやつをば逃がしてやったが……あのときの儂は目も当てられない大たわけであった!

 小憎らしや、真田のものは片端から討ち取るべきじゃった!!」


『胃が痛い』


 信幸は振り返らず、しかし小さく一礼して、大きく息を吐いた。

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