駿府
『胃が痛い』
まだ木の香りが残る
この時、信濃の小豪族に過ぎなかった真田家は大名の扱いとなり、徳川の
といっても、実のところ昌幸――というか、真田家は、秀吉から妙に気に掛けられていて、もっぱら豊臣の直臣のように扱われ、働いている。
当主昌幸は本領上田三万八千石と沼田領二万七千石を安堵されているし、次男の源二郎信繁には父兄とは別途に一万九千石が与えられて馬廻衆に取り立てられていた。
さてそれはともかくも。
争っていた武家の間で和議が成ったという場合、おおよそ証人、
徳川から真田への
彼女は家康の養女・
そして真田から徳川への証人は、その信幸自身である。
信幸は故郷と親の元を離れ、徳川家康の居城・駿府に出仕することに相成った、という訳である。
居並ぶ徳川家臣団の内のいくつかの顔を、信幸はよく見知っている。
ついこの間、上田城下で……後の世で「第一次上田合戦」であるとか「
信幸自身がさんざんに翻弄し、さんざんに
逆から見れば、彼らにとって信幸は、悪く言えば元々敵将であり、良く言ったとしても
信幸は広間の隅に座った。一番後ろの列のその又後ろ、人の背中と襖の間の狭い板間にちんまりと座っている、
その末席に、居並ぶ者達の間を無理に通り、小身の者達を押し退けて割り込んで、信幸の隣にどすりと座った者がいた。
背丈は信幸よりも幾分低いが、
三河以来の徳川譜代の家臣であり、重臣でもあるその彼が、信幸が座らねばならない末席に並んで座って良いはずがない。
「
穏やかに微笑しつつ低く鋭い声音で言う
「お歴々の皆様を前に、己の小ささを感じ入り、なにやらもの悲しい心持ちにございまして」
大柄な背丈を丸く縮こめて小さく折りたたむようにすぼめた信幸の両肩へ、忠勝の大きな掌が二つ、ドスンと落ちた。
「抜かせ。この六尺豊かな身の内に収まる肝っ玉が小さい筈がなかろう」
雷が落ちたかと思うほどに大きな声音で言い、城が崩れるかと不安になるほど大きな声音で笑う。
当然、人々の視線は集まる。左右の者とひそひそと言葉を交わす者あり、失笑する者あり、また忠勝同様に大笑する者もあった。
笑い声が満ちる中、忠勝は小さく、
「それとも、その肝の小さき男に、散々な目を見させられた儂らは、なおの小心者と言いたいか?」
言って、にたりと笑う。底意地の悪い、同時に楽しげで嬉しげな笑みだった。
信幸は薄く微笑した首を横に振り、今一度小さく頭を下げた。
『胃が痛い』
下に落とした
さて、
いや、彼自身は一刻も早く城から下がることを願っている。足早に進みたいのだが、どうしても幾度となく足を止めざるを得なかったのだ。
舅の本田忠勝ばかりではなく、上田合戦のおりに対陣した
中でも井伊直政は
井伊家は、元を正せば徳川と敵対していた
徳川家の旧来の家臣でないという点で、初期の直政の立場は今の信幸と近い部分があったと言える。
体の大きさも良い勝負だ。直政の背丈は信幸よりも僅かに低い。おそらくは
まだ
その旧武田家家臣というのは、すなわち、
「
そういった直政の声には、押し殺した静けさがあった。
真田は元々武田の家臣だ。徳川と武田が戦い、徳川が敗走した「
「確かに、知らぬ訳ではない者が幾人もお世話になっておるようです」
その顔見知り達は新しい主君に「古い同僚」のことをなんと評し告げたものであろうか――信幸は心中で苦く笑った。
直政は、
「
ぽつり、と言うと、後は無言で僅かに頭を下げ、去った。
この二言三言の会話が、彼を良く知る者からすれば
「大分にご執心の様子」
と映るらしい。
井伊直政は平素はひどく無口だったのである。
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