第05話 ただいま準備中

 俺と雛ちゃんとの間に沈黙が流れ、換気扇と鍋の静かに沸く水音が耳につきはじめた頃、互いの視界の端にあるSTAFF ONLYの扉が静かに開いた。俺たちは同時にその方向に視線を向ける。視線の先には夕陽の顔。多少清潔になったからか、熱いシャワーを浴びたからか、少し血色はよくなっているように見えた。

「…………」

だが、夕陽はひょっこりと扉の影から顔を出しているだけで、それ以上出てこようとしない。

「……? どうした」

「いや、まあ、どうしたというか、ええとですね」

 ウーン、とうなりながら、夕陽は扉で体を隠しながら、下を見たり顎を引いたりしている。その様子を見て雛ちゃんは首を傾げたが、俺はああ、と声を上げた。

「替えの服か?」

「そうそう! それ!」

「乾燥機の中になんかあったろ、適当に着てろ」

「いやーよかった! そう言ってくれると思ってました! すでに借りております! いやはや! 助かりましたね!」

 言葉の合間合間で大げさにこちらを指差しながら、夕陽はぺたぺたとサンダルの音を鳴らしてこちらに近づいてくる。

 彼女が着ているのは、最高にダサいメタリックなドラゴンのような生き物が炎を吐いている絵が一面にプリントされた世界一カッコいいメタルバンド「UNITE」のバンドTシャツ(黒・フリーサイズ)で、俺のいつもの部屋着だ。ちなみにイロチ(※1)で4枚ある。ちょうどジャージの下も洗濯していたようで、多少オーバーサイズではあるがそれを履き、腰紐をグイグイに締めた上ですそを折り返し、短パンのような形にしてなんとかしたらしい。

「な……ッ、な……、そ、……」

 そして口をパクパクさせながら狼狽している雛ちゃんの横にドッカと座ると、首から下げたタオルで半乾きの頭をワシワシかきながら、ちょうどカウンターに置いてあった8オンスグラスに手酌で水を注ぎ、そいつをグイッと傾ける。

「カー! さっぱりした!」

 ちなみにそれは雛ちゃんのおひやのグラスだ。当の雛ちゃんはまだ口をパクパクさせている。どうしたのだろうか。

「それ、なにを、きてるの……?」

「服?」

「いや、違うでしょ。今の質問はそういう意味じゃないでしょ。私が聞いてるのはなんで皆月さんの服をそんなホイホイ着てるかってことで」

「まあ親戚って設定だしOKでしょ」

「よかないでしょ自分で設定って言っちゃってんじゃないのよ」

「ハハハ、雛ちゃんツッコミの切れ味すごい」

「煽ってんの?」

「そういえばさすがに下着は替えがなくて、お金もないしもしスペアがあったらでいいんだけど雛ちゃんのサイズが合えば貸していただけないかなと……」

「いやまあそれはいいんだけどいつのまに雛ちゃん呼びになってんの……? サイズは……合うのかなこれ」

「見た感じ下はいけそうですけど上はだいぶ私がでかくて無理っすね、忘れてください」

「煽ってんの……?」

 そんなテンションの二人の会話の応酬を横目に見ながら、

(……少し、いやかなり――いる。むごいことだ)

 と俺は思う。雛ちゃんが夕日に、というわけではない。夕日の体のことだ。


 俺は改めて夕日の肌の露出している部分――クビや腕、あるいは鎖骨のあたりだ――を見て、改めて大きなため息をつきたくなる。


 シャワーを浴びて血の流れが良くなったからか、あるいはあまりに汚れていたからだろうか、先程まで見えなかった縫い目のような傷がほの赤く浮かび上がっていた。


 注意深く観察すれば、両耳の下から二又ふたまたに別れたそれは、首をまっすぐ鎖骨の上まで伸びるものと、同じ場所から顎の下まで伸び、首の中心で反対側の傷と合流し胸元に降りるものが見える。


 おそらく髪や服で隠れた身体のあちこちにも、あの傷たちは伸びているのだろう。

 不幸中の幸いというべきか、施術した人間の腕が良かったのか、顔の影になる場所に目立たない形に外科手術の跡は集まっていて、そのため強烈に目立つ傷跡ではないものの、一度それに気づいてしまえば目を引くものであるのは変わりなかった。


 ……ここで少し僵尸チィアンシーの話をしよう。

 一般的にイメージとしてのキョンシーと呼ばれているそれは「死体」であり、そのうえ「死してなお動く」、さらに言えば「生者の生き血を吸う」などがあるだろう。それに加え、俺が相手をしてきた死霊術師たち……つまり『作り出す側』の常識を付け加えると、「死体は文句を言わず痛みに声を上げない」し、「使い捨ての便利な道具」であり、「人間が存在する限り材料は手に入れ放題」であると言える。そのため、僵尸チィアンシーは姿形がそのままで生き返らされる場合は限りなく少ない。製作者、あるいは依頼者の望む機能や仕様を満たすよう、プラモデルよろしく望む性能や形状に修正スクラッチされ、混ぜらミキシングされ、そして組み立てらビルドされる。

 アジア版フランケンシュタインとでも言えばわかりやすいだろうか、まあそういうわけで夕日の体にそういう跡が残っているのは当然のことと言えた。


 だが――


「……お前、体は大丈夫なのか」

 僵尸チィアンシーと人間を行き来する非常識な元雑巾娘に、無意識的に俺はそう聞いていた。もし仮に、僵尸チィアンシーのままでいたとしたなら、この憐憫に近い気持ちは浮かんでこなかっただろう。その言葉を受けて、夕日は雛ちゃんをからかうのをやめ、俺のほうをじっと見つめてくる。

「大丈夫だけど、なんで?」

 よくよく照明の下で見れば、夕日は左右の瞳の色さえ違っていた。黒い右目と、ほんの少し薄い灰色。その視線から、俺は調理台を拭くふりをしながら、思わず店の入口あたりに目をそらす。

「いや、大丈夫ならいいんだ、ただ――」

 そのタイミングで、どうやら店を訪ねて来た客だろうか、ブラインド越しに動く影がふたつ見える。俺の視線に雛ちゃんは敏感に反応し、ラーメンをすする手を止めると、

「私見てきますよ」

 と立ち上がりながら言う。俺はそれに手で返事をして、改めて夕日に向き直った。

「一応俺もそれなりに僵尸チィアンシーの知識はある、身体が辛くなったり、異常があったら言うんだぞ」

「ん? ああ……まあ、わかった」

 お互いに小声でのやり取り。若干不思議そうな顔をしている夕日とは、現状に対する認識の齟齬そごがある気がするが、まあそれは別にいい。視線を雛ちゃんの方へと動かすと、対応が終わったのだろうか、雛ちゃんは頭を下げながら扉を閉めているところだった。

「なんだった?」

「お客様でした、一応夕方には営業しますってお伝えしときました」

「ああ、助かるよ」

「ただ」

 話しながら雛ちゃんは元の席につき、呆れたように肩をすくませながら言う。

「7番さんでした」

「へぇ、そいつぁ珍しい。未だにいるんだなあ」

「夕方にまたいらっしゃるそうですけど、どうします?」

「まあそれならどうせ閉店後だろ、人目につくようなことは避けるだろうし」

「そうですね、とりあえず午後の営業までヒマですから、夕日ちゃんに店のことでも覚えてもらいますか」

 完全に油断していたのだろう、夕日は自分のことを呼ばれた瞬間、驚いたようにこちらを見る。

「……え、私ここで働くの?」

「えっ、逆になにもしなくていいと思ってたの……?」

「あ、いや、そういうわけではなく、なんというかね、その――」

 しどろもどろに言い訳を続ける夕日を尻目に、俺はキッチンの裏から新品のサロン(※2)を取り出し、同時に雛ちゃんはカウンターの端に積み上げてあったトレンチ(※3)をカウンターの端からひとつ取り、それぞれを夕日の前にドンと置く。

「勤労初日だ、がんばろうな!!」

「ウチは繁盛店だから最初は大変かもだけど、慣れれば楽だから!!」

「えっ、あ、うん、よ、よろしくおねがいします……」

 俺たちの勢いに押され、おずおずと夕日はサロンとトレンチを手にする。

「でも、本当にいいの?」

「いいもなにも、下手にお前を野放しには出来ないんだよ。それに、もう1人ホールのアルバイトを増やすかどうか悩んでた頃だからな」

 それを聞いて、夕日は安心したように頷き、小さく息を吐いた。


(――もしかして)

 ふと、俺は今朝、初めて見かけた時の夕日の姿を思い出す。

 擦り切れ、破れかけた服、ホコリだらけの手足……それと、疲れ切った表情。

 もしかしてだが、こいつはすぐにこの場所から離れるつもりだったんじゃないだろうか。しばらく……あるいはそれよりも長く、この場所に滞在出来るとは思いもしなかったのだろう。

 だが、ひとりの大人として、そして俺個人のポリシーとして、さらに退魔師の立場からも、僵尸チィアンシーと人間を行ったり来たりする、非常識な特徴を持つ武村夕日というズタボロの少女を放っておくわけにはいかなかった。


「今日は席の呼び方を覚えるのと、簡単なホール作業だけでいい、ええと……飲食でバイトしたことはあるか?」

「ううん、初めて」

「なら簡単な隠語をまず覚えるか、食事休憩に行くときは『1番』、それ以外の休憩は『2番』、トイレに行くときは『3番』、それから、これは今日のお前には関係ないが、お得意様だけデリバリーを受け付けててな、それに行くときは『4番』だ。何番に行ってきます、と言えば俺たち店員にはそれが伝わるようになってる」

「へえ、普通に休憩とか、トイレ行きますとかじゃ駄目なの?」

「食事中のお客様にトイレとかの単語を聞かせないようにっていう配慮だよ。まあ、そういうもんだと思って慣れてくれ」

「じゃあ、さっきの『7番』っていうのも、その何かなの?」

 夕日のその質問に、俺と雛ちゃんはにっこりと笑顔を返す。

「それは社員だけ知ってればいいやつだ、気にすんな」

「そういうのもあるのか……労働たいへんだな……」

 フムフムと難しい顔をしながら、夕日は立ち上がり、サロンを腰に巻くと両手を広げてポーズを取る。

「どうどう雛ちゃん、似合ってる?」

「まあ普通かな。あとでサイズ教えて、私が買いに行ってくるから」

「なにを?」

「下着だよ!」

 とまあ若干デリケートな話題となったところで、俺は二人の会話からすごすごと距離を取った。


 ……先程の夕日の質問の答えだが――

 7番は、俺の店だけに通用する隠語だ。


 内容は、『死霊術師を発見した』、あるいは『死霊術師に関わる何かを見つけた』、だ。

 夕日の存在を鑑みるに、今回は前者だろう。


(――追っ手か、あるいは……)

 まあ、なんにせよ、迂闊な奴らもいたものだ。

 この店には、当代最強の怪異狩りが二人もいるというのに。





(※1 イロチ 色違いのこと)

(※2 サロン 腰から下を隠すエプロン。飲食店の店員やバーテンダーなどが身につけているアレ。巻き方に多少コツがいる)

(※3 トレンチ 料理等を運ぶお盆のこと。手前側に重いものを載せると安定する。ホールの猛者は3枚ほど同時に持つ)

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