第8話

 雲雀が遠くで鳴いていた。


 艶やかな風が、頬を撫でる。僕はただぼんやりとして、丘の上から町が夕闇に翳ってゆく姿を眺めていた。おもむろに立ち上がり、お尻についた芝生の欠片を払い落とした。何時間も座り込んでいたらしく、湿気がパンツにまで染み込んでいて、どうも気持ちが悪い。変な跡がついていたら恰好悪いなあ。


 満開だった桜は、僕を埋め尽くすような勢いで、ざあざあと、はなびらを存分に散らしたあと、青い葉を幾つか残してとうとう力尽きた。この懐かしくて、古くて、大きな桜の木をずっと見上げていると、もう今更、何もかもがどうでもよくなってしまった。結局のところ、今回のこの旅の目的であった、僕の曖昧な過去の記憶についての明確な何かを見つけることはできなかったが、来て良かったとは思っている。 

 日常に戻れば、またあの大声の上司に嫌味を言われるのかと思うと、非常に気が重い。駅前で何か土産でも買っていって機嫌取りでもするかな。いや、仮病がばれると不味いので、それはいいか。とにかく、せっかくの長期休暇なのだから、もう少しだけゆっくりさせてもらうとしよう。


 町は夜に向かって、慌ただしく支度を始めた。見慣れたからなのか、来た時とは違い、幾分違和感は消えていた。なんだか、時間が動き始めたみたいだ。


 それにしても、一体何が不安だったのだろうか。僕には、思い出せないような過去なんてないはずなのに。久しぶりに実家に電話でもいれてみようか。僕はゆっくり丘を降り始める。

 いや、違う。そうじゃない。まるで・・・そう、まるで、記憶が泡のようにぷつぷつと書き換えられていくような、不思議な感覚が、まだ僕の脳ミソを痺れさせていた。ふと、誰かに呼び止められたような感じがして振り返る。

 霞んだ桜の木がゆっくりと揺らめいていた。


 乱反射する、ガラス玉のような雲雀の微かな聲。

「もう、ここに還ってきてはいけない」


 そう言えば昔、ここで少女が死んだことがあった。一度も話したことはないけれど、この桜のような揺れる淋しい瞳に僕は、恋をしたんだっけ。あの少女はどうして命を絶たなければならなかったのだろう。この碧くて暗い池に自ら身を投じたのはなぜだったのか。

 踵を返し、僕はもう二度と振り返らなかった。


 全ては泡沫うたかたのときが魅せた、幻想―――。

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泡沫のとき ひらがなのちくわ @tururun

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