零─ZERO─
碓井 旬嘉
第1話「ストーカー殺人」
見えるものと見えないもの。
見える者と見えない者。
この世にはふたつのものと、それ以外のものが在る。
かたん、と小さな音が深夜の部屋に響いた。何処から聞こえた音なのか、
しかし今は何の音もしない。
──家鳴り、のはずがない。
確かにこの家は築年数こそ古いが、造りはそこらの建売の新築より確りとしている。何せ、美咲の祖父が三年という歳月を掛けて造らせた屋敷なのだから。家鳴りなどするはずがない。
かたり、とまた音がする。今度は先程とは違う場所──ベッドの方だ。ベッド脇にある、ローテーブルが揺れたのが視界の隅に入る。かたり、かたり、とテーブルの足が揺れている。小刻みな動きではなく、ゆったりとした動きだ。
続いて、本棚が震えた。こちらは小刻みなもので、かたかたという音を立てる。
地震ではない。その証拠に、床は全く揺れていないのだ。ただ、テーブルと本棚が揺れているのだ。
ふたつの音はまるで協奏でもしているかのようにリズミカルだ。それは美咲が怯えるのを愉しんでいるかのようにも聞こえる。
「……一体、何なのよ」
美咲は口の中だけで呟いた。これは今夜が初めてのことではない。もう、幾度とあることだ。それがここ最近は毎晩へと変わっていた。
決まった時間になると、部屋の物達はこうして音を立て始めるのだ。かたりと、ことりと。かたかたと、ごとごとと。
本棚だったり、テーブルだったり、ベッドだったり。様々な音が物音を立て、美咲の睡眠を妨害してくるのだ。
「もう、いい加減にしてよ──っ」
美咲は両手で耳を塞ぎ、悲痛の声を放った。
都会の片隅。昼間でも五月蠅い程の繁華街を真っ直ぐに通り抜け、一本細い道へと入る。そこは路地裏がまるで迷路のように広がっていて、入ってからふたつ目の道を右に折れる。そしてそこを十数歩進んだところで、今度は左へと折れる。
その頃にはすっかり喧騒は遠退いている。しかし静かとは言えない空気が漂い始める。遠くに聞こえる喧騒と、近くの笑い声。路地裏特有の重苦しい、それでいてどこか愉悦を含む空気が立ち込めている。
路地裏といえど、見上げるには多少首が痛くなる程度のビルが立ち並び、昼間だというのに薄暗く、陽の光はあまり感じられない。
ビルが聳え建つ間を掻い潜るように一組の男女が足を進めていく。その道を何度も通っているのか、迷うことなく目的地を目指しているようだ。
男は年齢が三十代半ばから後半程で、端正で甘い顔立ちをしている。垂れた目尻と上がった口角が特徴的だ。その男の後ろ、一歩離れたところに女がいる。こちらは三十代前半から半ばくらいだろうか。まるで人形のような無表情さを貼り付けているが顔の造作は美しい。口元のほくろだけが彼女が人間だと言ってるかのように思える。
男は一つの古びたビルの前で足を止めた。五階建てのビルの外壁は雨染みかところどころ色が変わっている。
一見して廃ビルのようなそこだが、ビルの入口のところに一つだけ看板が掲げられており、廃ビルではないことを主張しているようだ。
真っ白なプラスチック板に可愛らしい手書きの文字で『
「じゃあ、行こうか」
男は後ろに控えるようにして立つ女へ向け、囁くように言った。
うららかな午後。『幽霊駆除』事務所内には陽気な鼻歌が響いていた。どこか調子の外れたそれは楽しそうだ。
『幽霊駆除』の所長である
この世には死が蔓延している。
零はそっと溜息を吐いた。自分の仕事を棚上げにして嘆きたくなる現状だ。
「零さん、紅茶とコーヒー、どっちがいいですか?」
途端に鼻歌がやみ、女の声が零に問いかけてきた。零はそれに黒曜石のような光のない瞳をその女性に向けた。視線の先にはセミロングの毛先をくるくると巻いた女性がティーカップとコーヒーカップを両手に掲げ、首を傾げながら微笑んでいる。その顔立ちは目鼻立ちがはっきりとしていて華やかだ。女性にしては肌の色が少々浅黒いが、健康さを表しているようでそれも彼女の魅力のひとつに思える。
彼女と擦れ違う男の殆どが振り返るだろう美貌は、その健康そうな印象が見事に中和し、近付きやすいと思わせる雰囲気を作り出している。
「零さん、聞いてます?」
答えを口にしない零に対し、彼女──
事情もあることから無下に追い返せないまま三年の月日が流れ、今に至る。こうなってしまえばそれは当たり前の光景になり、零としても沙耶香が出勤してくることに慣れていた。
「どっちでも」
零は素っ気無く答え、沙耶香へと向けていた視線を新聞へと戻した。小さな活字が紙面を踊っている。沙耶香は零の答え方など気にした様子もなく鼻歌を再開した。
零は中性的且つ童顔で、二十五歳という年齢より若く見える。零自身それを気にしていて、いつも顔立ちが隠れるように前髪を長めにしているのだが、視線を下げて物を見るときはそれが邪魔になる。零は自分で伸ばしている前髪を鬱陶しく思いながらそれを指で退かした。
「緑茶です」
沙耶香が零の前にことりと薄いブルーの湯飲みを置いた。何がどうして紅茶かコーヒーが「緑茶」になったのかはわからないが、こういったことはよくあることで零は特に疑問も文句も述べることなくそれを口元に運んだ。緑茶の良い香りが鼻腔に届く。小さく啜れば、程好い温度のそれは旨味を舌へと伝える。
うららかな午後。
今日も特別なことはなく、こうして一日が終わるのだと思いながら湯飲みを机に置いたそのとき、穏和な空気を破る音が事務所内へと響いた。
ばたん、勢いよく事務所の扉が開き、それに明るい声が続いた。
「ハロー、零くん、元気にしてた?」
ノックも挨拶もなく扉を開けた男は能天気さを露にしたような軽快な声で言った。零はその人物を目にするなり、あからさまに表情を無表情から怪訝なものへと変えた。本当は舌打ちをしたいところだが、それはどうにか堪えた。
本来、来訪ならば扉を開ける前にノックをするべきなのだが、この男にそれを強要することは出来ない。その理由は誰よりも零が一番知っているので、敢えて舌打ちを飲み込んだのだ。
「そんな嫌そうな顔しないでよ」
男は零の顔を見ると、その甘い顔立ちをおかしそうに歪めた。男は端整ながら甘い顔立ちをしていて、下がり気味の目尻と上がった口角が特徴的だ。一見して高級だとわかる光沢の良いスーツを身に纏い、少々派手めのネクタイをぴっちりと締めている。
上背は高く、足が異様に長い印象を受けるが、嫌味のない好感の持てる色男といった風貌だ。
「……何の用ですか、蜂谷さん」
零は手にしていた新聞を閉じてから男──
蜂谷は先程ビルの前で建物に裕に見上げてから此処へと来たのだが、それは零の知るところではない。
「取り敢えず、入るよ」
蜂谷は自分を招き入れない零に痺れを切らしてか、自ら事務所内へと足を踏み入れた。その後ろから、表情など全くない、人形のような女が続く。こつり、というヒールが床を鳴らす音だけが彼女が人間だという証明のようだ。女も蜂谷と同様に高級なスーツを着ている。女性にしては背が高く、零とさして変わらないくらいだろう。
「どうぞ」
蜂谷の言葉に答えたのは零ではなく沙耶香だった。零はそれらの光景に仕方ないと溜息を溢しながら応接用のテーブルへと移動をした。
この事務所は古いながらも、調度品が揃っている。此処は元々探偵事務所だったらしいのだが、その所長はどうやら経営難に陥り夜逃げ同然で去ったらしく事務所内の調度品は全てそのままになっていたのだ。
そこを零が借り、それらの物はそのまま使っているのだ。なので、応接セットや書類棚、証明、机などはひとつも購入せずに済んでいる。
この中で零の私物と言える物は殆どない。コーヒーメーカーや電気ケトル、冷蔵庫に電子レンジは沙耶香が後から持ち込んだ物だ。
「で、何のご用ですか」
蜂谷は零が移動する前に応接セットのソファへと身を沈めていた。年季の入ったそれは蜂谷が腰を下ろしただけで軋む音を立てる。一緒にいる女は腰を下ろすことはせず、蜂谷の後ろに控えるようにして立っている。微動だにせず立つその姿は本当に人形のようだ。
「折角仕事持ってきてあげったっていうのに、感謝のひとつもないの?」
蜂谷がわざとらしく眉を下げるのを見て、零の中に煩わしさが生まれる。この男のことが嫌いなわけではない。どうにも苦手なのだ。嘗ての恩もある為、あからさまに邪険な扱いも出来ないが、彼を素直に受け入れることも難しい。零の中で蜂谷 豊という存在は非常に厄介なものなのだ。
「お仕事ですか?」
蜂谷の言葉に反応したのはやはり零でなく沙耶香だった。沙耶香はいつの間にか蜂谷とその後ろに立つ女の分の茶を用意している。気が利くのも彼女の美点のひとつだ。
「そうそう、お仕事。どうせ、ろくに依頼なんてないんでしょ?」
蜂谷がに、と口角を上げ、僅かに馬鹿にしたような表情を浮かべるが、悔しいことにそれに反論する言葉はない。
『幽霊駆除』。零が所長を務めるこの事務所はその名の通り、『幽霊』を『駆除』することを目的にしている。零は生まれたときからその瞳に幽霊というものを映すことが出来、それらの感情を読み取ることが出来た。そして、それらを「浄化」したり、「消滅」させる、所謂「祓う」力を有していた。零の目の前に座る蜂谷もまた、それと同様──もしかしたら零以上の──力を持っている。
零と蜂谷の職業は『霊媒師』ということになるのだが、持ち込まれる以来は少ない。
いや、少ない程度では済まないだろう。
実際、依頼人は日に一人も来ないことが通常で、時折心霊写真を持ち込む者──それも大半は本物ではない──や、体調不良を霊の仕業だと勘違いした者が顔面蒼白の勢いで駆け込んでくるくらいだ。どれもこれも依頼料を取れる仕事でもなく、事務所の経営は火の車といったところだ。
しかしこの事務所の賃料が発生していないことと、零には生活費を稼ぐ必要がないということから現状で困っているのは沙耶香への給料が満足に支払えないということくらいだ。とはいえ、沙耶香からは「無給で構わない」と押しかけてきたときに宣言されているのでそれも逼迫している状況というわけでもない。
この状況は世間の人々が幽霊という存在を信じていない証にも思えるが、実はそれだけではないことも零はよく知っていた。
「……ないですけど」
零はぽつりと返した。
現状に満足しているわけでもない。しかし、依頼がないならないでいいとも思う。複雑な心境というのは言葉を濁す。
「しかも、いい仕事だよ。依頼料も多い」
蜂谷はふふ、と口元に笑みを浮かべた。
「本当ですか?」
やはり零ではなく沙耶香が食い付く。沙耶香はいつの間にか零の隣に腰を下ろしている。
「本当本当。真咲ちゃん、資料」
蜂谷は自身の後ろに控えている女──
「依頼主は
蜂谷は真咲から受け取った封筒の中身をテーブルの上に広げながら説明をしていく。零の隣では沙耶香が懸命にメモを取っている。
「藤ヶ丘って、あの藤ヶ丘ですか?」
沙耶香がメモを取る手を止め、視線を蜂谷に向ける。
「そう、あの藤ヶ丘だよ」
零には二人の会話を理解することが出来なかった。しかし推測は出来る。
沙耶香は元社長令嬢という生い立ちから、大きな家柄に詳しいのだ。資産家やら企業経営をする家。そういったことに通常より詳しい。なので藤ヶ丘というのもそういった家柄なのだろう。
「零くんにも説明してあげるね。藤ヶ丘家は昔は華族だったという資産家だよ。主に多数ある不動産が収入源となっていて、後は一族経営の会社が幾つかあるね」
要は金持ちということだ。零はそれだけを心に書き留めた。実際、依頼を請ける上で家柄は関係ない。
無論、蜂谷としては関係あるのだろう。家柄や財産次第で依頼料が決まる、『
「で、どんなことが起きているんですか?」
蜂谷の人を小馬鹿にしたような口調が苦手だった。「お前と俺とは違う」と暗に言われているような気分になるのだ。それは零自身理解していることだったが、直視出来ることではなかった。
「家に二体、出るらしい」
蜂谷は言いながら、二本の指を眼前に持ち上げた。それはすう、と持ち上がり、まるで催眠術にでも掛けられるような感覚に陥る。
「以前、ストーカー殺人があったのは覚えているかな。有名な資産家のお宅で、てやつなんだけど」
蜂谷はすぐさまその指を下ろし、一枚の資料を零に手渡してきた。一枚の紙は零の前でひらりと揺れる。零はそれを受け取りながら内容に目を通した。
それは記憶に新しい事件だった。半年前に起きたもので、何故か妙に記憶に張り付いていたのだ。恐らく、一度報じられただけでその後どうなったのかや、事件の詳しい内容が新聞に載ることがなかったからだろう。
事件の内容は、当時の藤ヶ丘家当主が娘の元交際相手であるストーカーに殺されたというものだった。娘──美咲のストーカーをしていた男は自宅に不法侵入し、当主を刺殺。その後、美咲の手に因って男は刺し殺された。事件の三日目に警察にストーカー被害について相談をしていたようだが、その警察が動く前に事件は起きてしまい、当時は警察も責められていたのが記憶に新しい。
しかし昨今、こういった事件は多く、続報が報じられないのも無理はない。何せ、犯人も死亡しているのだ。
「娘は正当防衛ということで罪には問われていない」
蜂谷は娘の写真が写った紙も零に渡してきた。そこには二十歳前後の女性が写っている。清楚な面立ちをし、気弱な印象を受ける娘だ。それが、この事件の顛末ということ。
「被害状況は?」
「所謂ポルターガイスト現象だね。家の中で物が動いたり、足音がするらしい。因みに、発生は三ヶ月前」
二体ということは恐らく、
「何で自分で請けないんですか」
相手が資産家であれば成功報酬はたっぷりと貰えるはずだ。そんなおいしい案件を零に回すメリットはない。蜂谷は零に恩を売る必要などないのだから。
「忙しくてね。手が回らないんだ」
蜂谷はしらじらしく言ってのけた。
蜂谷の事務所が随分盛況なことは嫌でも知っている。『咲谷除霊事務所』は『幽霊駆除』のような弱小なところとは違う。
オフィス街にある高層ビルの上階に事務所を構え、除霊師も何人かいるということだ。蜂谷の事務所を訪れたのは一度きりだが、この部屋の何倍もある広さを誇り、それは大手の弁護士事務所を想起させるようなものだった。
そんな蜂谷の事務所に依頼が殺到しているのも蜂谷が多忙なことも知っている。実際、蜂谷の事務所に依頼をしようとしれば数週間から場合によっては数ヶ月待たされることもあるらしい。けれど、蜂谷の方針は「依頼料優先」なのだ。
それを鑑みれば、藤ヶ丘家の依頼を零に回してくることは不自然極まりない。しかし零は深く突っ込まずに会話を終了させた。突っ込んだところで蜂谷が答えないことを知っているからだ。
「詳しいことはそこに書いてあるから、後は宜しく。依頼料も参考までに書いてあるけど、もっと吹っかけてもいいからね」
蜂谷はそれだけ言うと、忙しいからね、と言って颯爽と事務所を後にしていった。
相も変わらず喰えない男。零は蜂谷が去った後の扉を眺めて溜息を吐いた。
蜂谷の相手をした後は無駄に疲れる。蜂谷と出会って、四年弱の歳月が過ぎたが、それは未だに慣れないことだった。
根本的に違うのだ。同じような境遇、同じ職業を生業とはしているが零と蜂谷は徹底的に違っていた。
「零さん、これ、請けるんですか?」
沙耶香が蜂谷と真咲に出した茶を片付けながら訊いてきた。その茶はふたつとも一口も飲まれていない。忙しいというのは嘘ではないのだろう。そんななか、メールや電話でも済むような案件を零に持ってきた。
それが不可解でならない。
今までも蜂谷が仕事を回してきたことはあった。しかしそれは全て急ぐべきことだが、蜂谷の手を煩わせることもないうようなものばかりだ。簡単な仕事や、多額の依頼料が見込めないもの。
今回のようなものはない。
実際、仕事としては簡単なものだというのは推測出来る。家に出る二体の幽霊を祓うだけのものだ。事件のことを考えても、そこまで強力な霊だとも思えない。しかし、相手が相手。
「霊さーん?」
沙耶香の声で零は思考を止めた。
気付けば沙耶香が顔を覗き込んできていた。茶色がかった瞳がはっきりと零を捉えていた。
「請けるんですか?」
沙耶香に今一度同じことを訊かれ、零は小さく頷いてから口を開いた。
「断る選択肢は与えられてない」
蜂谷はもし断っても構わない案件であればはっきりとそう言うが、今回はそういったことは何も言っていなかった。そうなるとこの仕事を請けるしかないということだ。
「あ、そうですね」
沙耶香も遅れながらもそのことに気付いたようで一人で頷いた。
しかもいつまで、と言っていなかったところを見ると急いで片付ける必要もありそうだ。だとしたら、今日中に動かなくてはならないだろう。恐らく、明日の午後辺りに結果報告を求める連絡があるはずだ。
零は蜂谷が置いていった資料に目を通した。幸いなことに藤ヶ丘家はここからさして遠くない。今から向かっても夕方のチャイムが街に響き渡る前には到着出来る。
「行くか」
零は仕方ないといった溜息を漏らしつつも出掛ける支度を始めた。
さすがに圧巻だ。
零は眼前に広がる屋敷をその目に映しながら胸中で息を吐いた。藤ヶ丘家というより、藤ヶ丘邸だ。屋敷の写真は資料の中に入っていたが、写真に写ったものと実物は全く別物に思えるほどだ。
写真では古い洋館だという印象が強かった。大きいだけで風体としてはたいしたものではないという印象だ。しかしこうして実物を見ると、築年数こそ経ってはいるが、厳かさと豪華さがあった。
「さすがですねぇ」
沙耶香が零の隣で言うが、さして驚いているような印象はない。こういった屋敷などは見慣れているのだろう。しかし、沙耶香の元の天真爛漫さからか、その言い方に嫌味のようなものは感じない。
「取り敢えず、事前に連絡は済んでますので行きましょうか」
沙耶香の言葉に零は内心で感謝を述べた。零だけではアポなして突撃する事態になっているところだ。こうしたことから、零は沙耶香を追い出さずにいるのだ。
零だけでは仕事が舞い込んできたところでスムーズにこなすことは難しいだろう。零は全くの無口だというほどでもないが、必要以上のことを口にすることはまずない。なので、いざ依頼相手を目の前にしても言葉が足りないことが多いのだ。そういったとき、沙耶香のように気さくで人好きのする助手がいるというのはこのうえなく助かる。
「はい」
沙耶香が立派な門のところについているインターホンを鳴らすと、機械を通した声が聞こえた。中年の女性らしい声。藤ヶ丘邸に現在家政婦などはいならしい。資産家といえど、大豪邸と呼ぶほどの広さではない為、自分達だけでも掃除などは行き届くのか。
ハウスキーパーを時折雇っている可能性もある。零はそう思いながら、沙耶香の対応を聞いていた。
「先程ご連絡した、『幽霊駆除』の者です」
沙耶香が対応をしているうちに零は屋敷を見渡した。淀んだ空気を感じることはない。屋敷が広いというよりは、敷地が広い為、植木が並ぶ庭がある。それは屋敷を囲むようにあり、職人を雇っているのか植木はどれも綺麗に手入れされている。その庭を囲むように、ぐるりと鉄製の柵がある。
インターホンのところに、有名な警備会社のシールが貼ってあり、歴史を感じる屋敷には不釣合いに見える。それに、こんな屋敷にわざわざ空き巣に入ろうと思う者もいないだろう。
実情を知らなければ、この家が無人になる時間があるようには思わない。実際、この家の現当主となっている美佐枝は仕事をしているわけではないので殆ど家にいることが多いらしい。
「お入り下さい」
機械を通した声はそう言い、中へと入ることを許してくれた。もし断りなく侵入すれば警備会社の人間が駆けつけてくるのだろう。
零はちらりと、今一度屋敷の周囲を見渡した。
「お待ちしておりました」
玄関へと辿り着く前に中年の女性が姿を現した。どうやら零達をわざわざ出迎えてくれたようだ。
「
美佐枝はそう言い、ぺこりと頭を下げてから零達に後に続くように指示をした。小奇麗にしたその女は低姿勢を見せながらも事を急いでいることが窺えた。それと。少々の不満さ。
それもそうだろう。彼女が依頼をしたのは『咲谷除霊事務所』なのだ。勿論、優先してもらえるように大金を積む用意もしていたことだろう。だというのに、こうして訪れたのは蜂谷のところの者ではないのだ。
蜂谷からもその旨の連絡はいっていたようで、沙耶香が「これから伺います」と名乗った際も驚いた様子はなかったとのことだ。
零は沙耶香と共に美佐枝の後に続きながら、己の服装を見下ろした。Vネックの黒いシャツにスラックス姿だ。蜂谷のようにきっちりとスーツを着ているわけではない。隣に並ぶ沙耶香は春物らしい淡い色のワンピース。こちらはきちんと見栄えのする物だ。
しかし、見た目で相手を選ぶような者の為に服装を改めようとは思えなかった。
玄関の扉は大きなものだった。洋館特有とでもいうのか、木製の両開きのものだ。開けるときにぎい、という音が鳴り、この屋敷の年季の入り方を教える。恐らく、五十年以上は経っているのだろう。
「いらっしゃいませ」
扉を開けた向こうには娘の美咲が立っていた。母娘のことは事前に資料で顔を見ていたが、屋敷同様に写真とは違った印象を受ける。それは毎日起こるポルターガイスト現象のせいで表情が疲弊しているからだろう。
化粧をしていても二人の顔色が悪いことは一目瞭然だ。白を通り越して、青い。目の下にも隈が出来ているし、髪質も悪い。
写真の中の彼女達は何の苦労も知らないといった、所謂無垢そうな表情をしていた。いや、無垢とはまた違うのかもしれないが、そこには苦労や疲労といったものは存在しなかった。
資産家に嫁いだ女とその娘。苦労をするようなこともないのだろう。
しかし今の彼女達はよく似た面立ちに揃って、疲弊の色を滲ませていた。しかし、顔の形だけは似ていない。顔のパーツは二人ともそっくりなのだが、美佐枝は瓜実顔で、美咲は丸顔をしている。
「こちらにどうぞ」
美佐枝は年齢のわりに皺ひとつない手で、廊下の奥を示した。板張りの廊下は綺麗に磨き上げられていて、塵ひとつない。やはり、ハウスキーパーなどを雇っているのだろう。廊下に置いてある棚や、その上に置いてある花瓶も、壁に掛けられた絵画を飾る額縁もどれも埃を被っているということもなかった。
零は屋敷内の気配を嗅ぎながら、美佐枝と美咲の後をついていった。見た目こそ古いが、手入れが行き届いている為か中はあまり古さを感じさせない。日本家屋と違うせいか、廊下が軋んだりなどの家鳴りもない。
となれば、ポルターガイスト現象が家鳴りなどを勘違いして、といったこともなさそうだ。
零達が通されたのは客間だった。立派過ぎる応接セットは零の事務所にあるものとは比べ物にならないような代物だ。アンティーク品だろうか、革張りのソファは良い具合に色がくすんでいる。
「お茶のご用意をしますね」
美咲が言い、部屋を出て行った。
客間にある調度品は一目で高級品だとわかるような物だけだ。茶器を飾っている食器棚は実用性よりも装飾性が強いし、テーブルの下に敷かれた絨毯も分厚く、刺繍が施されたものだ。
零は若干の気後れをしながらも美佐枝に言われるまま、ソファに腰を下ろした。そのソファの座り心地は零の事務所にあるものとは雲泥の差だ。これが新築の洋館や高層マンションであるならまた違った気分なのだろう。それらなら、まだ落ち着いた気分でいられる。
気後れと同時に、様々な感情が脳に流れ込んでくるのだ。古い分、此処に思念を残した人間が多数いるということだ。それだけで胸焼けに似た感覚が零を襲う。
勿論それらが良い感情ばかりではないからだ。だからこそ、こうして軽い頭痛がするのだ。
「ご主人、素敵な方だったんですね」
沙耶香が窓際の棚に置かれた写真を見ながら美佐枝に言った。それに釣られるように零もその写真に視線を向けた。
家族写真だ。
美咲がまだ制服を着ている頃のもの。写真館で撮られたのだろうそれは、ドラマなどでよく見る構図で、美咲が椅子に座り、その後ろに藤ヶ丘夫妻が並んでいる。美咲の幼さから見るに、中学校の入学記念だろうか。三人とも微笑んでいて、数年後の悲劇など全く予想していない幸福感を漂わせている。
「ええ、そうですね」
沙耶香の言葉に、美佐枝が頷く。
「娘さん、ご主人には似ていないんですね」
突然口を開いた零に美佐枝が驚いた顔を見せる。それもそうだろう。零はこの屋敷に来てから、今始めて声を出したのだ。
「え、ええ。そうなんです。美咲は私によく似まして」
美佐枝はそう言い、微笑んだ。写真の家族は幸せそうで、面長の故当主はその中で一際幸せそうだった。
「お待たせ致しました」
沙耶香がソファに腰を下ろしたタイミングで美咲が茶を乗せたトレーを持って客間へと戻ってきた。そこで初めて客間の扉が閉まる。それだけで薄ら寒い空気が辺りに漂うが、それに気付いているのは零だけのようだった。
「蜂谷さんから詳しいお話は伺っていますので、被害状況だけお聞きしても宜しいですか?」
沙耶香が美咲が腰を下ろしたのを見てから口を開いた。手にはメモ帳とペンが用意されている。可愛らしくもはきはきとした口調は相手の警戒心やら不安を取り除く作用があるようで、藤ヶ丘母娘は既に安堵したような表情を浮かべている。
まだ何をしたわけではないが、これで大丈夫、という安心感を抱き始めたのだろう。
──都合がいい。
零はこの仕事を始めてから幾度となく抱いた感情を今回もまた抱えた。
人というのは基本的には幽霊といった存在や怪奇現象の類を信じてはいない。そして、それらを信じているもの馬鹿にするのだ。
例にするには少し違うかもしれないが、ホラー映画を怖がる者を馬鹿にするのと似ているだろうう。
そして、そういった存在を目にすること出来る者を「普通」ではない人間とカテゴリーするのだ。勿論、それは悪い意味で、だ。
だというのに、自身がそういったことに直面するとそういった「普通」ではない人間に頼ってくるのだ。それを都合が良いと表す以外になんと言えばいいのか零は知らない。
「零さん?」
柔らかな呼び掛けに零は意識を戻した。いつの間にか俯いていた視線を上げると、そこには瞳に不安の色を宿した藤ヶ丘母娘がいた。
今の状況を何とかしてくれる人間が現れ安堵したのも束の間、その相手の異様な様子に途端に不安が戻ってきたのだろう。
「では、改めて被害状況をお伺いしますね」
沙耶香が気を取り直したように明るい声を出す。それだけのことで場の空気が和らいだように思う。
「自称」といえど、零は沙耶香の存在に感謝していた。『幽霊駆除』の所長である零は無口な上に無愛想と、とてもではないが客商売に向かない。零が人前で笑みを溢すことは皆無で、沙耶香ですら零の笑顔を見たことはないだろう。
そんな零なので、人当たりが好く愛想があり、明るい性格の沙耶香が依頼主から話を聞くことが専らだ。沙耶香がいることで仕事がスムーズに進む。そんな感謝を口にしたことはないし、沙耶香の方もそういったものを求める態度は見せない。そんなふうに『幽霊駆除』は成り立っているのだった。
「三ヶ月ほど前からです。家の中で小さな物音がするようになりました」
最初に説明を始めてのは母親──美佐枝だった。整った顔に嫌悪を浮かべて言う。
「それが次第に大きくなり始めたのです。まるで、自分達の存在を主張するように」
続いて美咲が口を開く。歪められた口元が美人に分類される顔を台無しにしている。零は二人の話を聞きながら部屋の中に意識を集中させながらも、違うことを考え始めていた。
「それで、ここ一週間は寝ているときに首を絞められたり、胸を圧迫するように押さえつけられるようになりました」
そう言う美咲の表情は怯えの中に煩わしさを含んでいた。
それで命の危険を感じ、蜂谷のところに依頼をしたのだろう。名家や資産家であれば、調べずとも蜂谷のことを知っている者が多い。それは蜂谷がそういった人間からの依頼を中心的に請けていて、顔を広げているからだろう。
──最後に仕事をしたのはいつだったか。
気乗りのしない案件に零はそんなことを考え始めていた。
心霊写真の類を持ち込まれることは意外と多い。本物は少ないが、そういったものの持込は想像以上に多いが、実際にこういった幽霊絡みの事案はかなり少ないのだ。
──一ヶ月前だ。
零はここ最近で一番新しい仕事のことを思い出した。
行方不明になった恋人を探して欲しい、と一人の男が事務所を訪れたのだ。最初は『幽霊駆除』をふざけた名前の探偵事務所だと思って依頼をしに来たのかと思ったのだが、その男は恋人が既にこの世のものではなくなっている可能性も考慮して、零のもとを訪れたのだった。
理由は、夢で恋人がひたすら自分を呼んでいるから、とのことだった。
警察にも相手にしてもらえず、いなくなった恋人が心配で堪らなく、信じたくはないがそういった方面から探すしかないといった苦汁の選択だったようだ。零に依頼をし、恋人が見付からなければ生きている。そういった心持だったようだが、事態は最悪の結末を迎えた。
零には彼を呼ぶ女性の声がはっきりと聞こえてしまったのだ。
男の恋人は愉快犯に殺され、林の奥に棄てられていた。彼に見つけて欲しくて、彼女は恋人を呼んでいたのだ。
──それと較べれば。
零は再度意識を部屋の中に集中させた。
──確かに、いる。
それらの感情を読み取ろうと、更に意識を集中させた。周囲の音──主に沙耶香と藤ヶ丘母娘の声──は小さくなっていき、いつしか耳に届かなくなる。長袖の下の腕に鳥肌が立つのは死者の感情が流れ込んできている証。
感情は血液内を回り、やがて心臓へと達する。そこで漸く「声」がはっきりと聞こえる。それはその声が不特定多数に届けられているものではないからだ。個人へと向けられているから意識を集中させなければ聞こえないのだ。
ここにはそれ以外にも様々な感情が漂ってはいるが、それらは脆弱なもので人間に影響を与えるものではない。
死者の思念というものはそこかしこに溢れていて、それは少なからず人体に影響を与える。なんとなく、理由もないのに気分が憂鬱になる、体調が優れない。それらは心や体に原因があるのではなく、「場所」にある場合がある。
その「場所」に死者の思念が渦巻き、そして人体に影響を与えるのだ。そういったことから、それを強く感じる零の心も靄がかかることが多い。
聞こえるということは影響を受けやすいのだ。しかし、生まれ持った体質のうえ、それに自身で原因がわかることもあり、耐性もついているし、振り払う術も知っている。
「一刻も早く『駆除』して頂きたいのです。報酬は言い値で宜しいです。この状況をなんとかして下さるのであれば、幾らでもお支払いします」
美佐枝が強い口調で言い放ったとき、がたん、と大きな物音が客間の中に轟いた。それは茶器などを飾っている棚が揺れた音だった。中に飾られている茶器達は揺れで開いてしまった扉のせいで床へと落下した。しかし床には分厚い絨毯が敷かれていた為、それらが割れることはなかった。
「そんな……今までは夜中だけだったのに」
美佐枝が顔を真っ青にして、口紅で彩った唇を震わせた。顔色は青白いのに唇は赤いというアンバランスがやけにおかしく感じられた。
それを嘲笑うかのように今度はテーブルが揺れ始めた。テーブルの上にあるカップ達も盛大に揺れ、中身が零れる。かたかた、かちゃかちゃと音を立てる。
次第にそれは激しさを増し、部屋中の物が揺れ出す。そこかしこから物音が響き、それは地震を思わせた。しかし、当たり前だが足元は少しも揺れていない。
──強い怒り。
零ははっきりとそれを感じ取った。
「沙耶香」
名前を呼ぶと、沙耶香は確りと頷いた。そこに怯えたりする様子は見られない。沙耶香の精神力というものはとてつもない。こういった事態でも顔色ひとつかえないのだ。それは慣れからではない。そのことは最初に出会ったときから知っていた。
「一度、外に出ましょう」
沙耶香は驚愕する藤ヶ丘母娘を客間の外へと連れ出した。
「あの……大丈夫なんですか?」
綺麗に掃除をされている廊下で訊かれ、沙耶香が聖母を思わせる笑顔で頷いた。それは穏やかであり、相手に安心感を与えるものだった。
「大丈夫ですよ、零さんですもん」
その口調には信頼以外のものない。
ぴったりと閉められた扉の向こうからはまだ物音が響いていて、美人母娘は顔色を更に悪くさせている。激しさを増す物音ともに低い声が聞こえ始める。
──始まった。
沙耶香はそう思いながらも、笑みを絶やさずにいた。自分が出来ることはこの程度のことだ。零の仕事が滞りなく進むようにすること。
くぐもったような零の声は扉越しでは何を言っているのかはわからない。耳を澄ませても重低音のみが聞こえるだけだ。どこか念仏のようなものを思わせる声。
沙耶香は不安そうにしている藤ヶ丘母娘を宥めるように微笑を浮かべた。
──零なら大丈夫。
沙耶香は何度となくこういった場に遭遇してきた。その度に零は仕事を成功させてきた。その零なら今回だって大丈夫だ。
沙耶香はそう思いながらも零の安否を気にせずにはいられなかった。
──早く終わって。
沙耶香が心の中で祈りを捧げたとき、客間の扉が開いた。
「零さん」
相変わらずの無表情のまま姿を現した零に安堵の息を漏らした。
零は客間の扉を開け、まず最初に沙耶香に小さく頷いてみせた。これは仕事完了の合図なのだが、今回は少し違う。
「終わったんですか?」
美佐枝が震える声で零に尋ねてきた。当然だが、状況が理解出来ていないようで、不安さを隠せずにいる。
「それより先に聞きたいことがあります」
零が自ら口を開いたことに藤ヶ丘母娘は驚きの表情を浮かべている。
「な……なんでしょうか」
美咲が顔色をそれまで以上に悪くしながら零を見てくる。昼間に起きたポルターガイスト現象がそれほどまでに恐ろしかったのだろう。
「悔いる気持ちはあるんですか?」
零は怯えた表情の藤ヶ丘母娘に向かい、そう訊いた。その声は先ほど扉の向こうから聞こえてきていたものと同じくらい低い。
やけに冷たい空気が辺りに漂っている。
「なんの、ことですか」
わなわなと美佐枝の唇が震えている。その唇はやはり赤くて、青白い顔には不釣合い過ぎる。
「悔いる気持ちはあるのですか、と訊いているんです」
零は低い声のまま、平坦な口調で訊いた。それでも藤ヶ丘母娘がそれに対して口を開く様子はなく、零はそれに溜息を吐き出すと同時に、舌打ちをしたい気分になった。
──何故、生きている人間だからというだけで優位になるのだろう。
死人に口なしとはよく言ったものだと思う。しかし、そうでないことを零はよく知っていた。死者だって伝えたいことがあるのだ。
「貴女方は嘘を吐いていますよね」
零は一度息を吐き出してから口を開いた。人前で話すというのはどうにも苦手だ。それはあまり他人と接することなく生きてきたせいだろう。五年前まで、零はとてつもなく狭い世界で生きていたのだから。
この仕事を始めてから他人と接するようになったのだが、それでもまだ三年で、その大半以上は沙耶香が対処をしてきてくれた。
そんなこんなで、零は未だに人と会話をすることが苦手なままだった。
こんなことなら、客間に沙耶香も残し、彼女に事情を教え、説明役をお願いすればよかったと今更な後悔が頭を過ぎる。しかし、仕方がない。
零は観念し、再度口を開いた。
「美咲さん、貴女はストーカー被害になど遭っていないですね」
零が言うと、美咲は先ほどよりも顔色を青くした。頬の辺りなどは全く血の気を感じられないほどだ。
「そんなことはありませんっ。警察にだって……」
「警察にも嘘を吐いたんですね。そして、それが露見する前に事を起こした」
当時の状況は既に零の中に刻まれていた。だから、警察が動く前に事件は起きたのだ。
「ひとつずつ、説明をしましょうか。美咲さんの元交際相手は確かに、貴女からの別れ話を承諾しておらず、それを周囲に相談はしていました。だから、事件の後も彼がストーカー行為を行っていたという話を否定する人もいなかったのでしょう」
もしかしたら、その別れ話から仕組まれたことだったのかもしれない。
「警察に相談をして間もないうちに、貴女方は彼をこの家に招いた。そうですね──復縁話を持ち掛けたんですか。だから、彼はほいほいとこの家を訪れた。貴女とやり直せると思って」
暫く振りに長々と話しているせいか、喉に何か引っかかるような違和感を覚え、零はひとつ咳払いをした。そして再び口を開き始めた。出来れば喉を潤すものものが欲しいところだが、今は無理だろう。
「そしてその直前に美佐枝さんがご主人を殺した。まあ、これは簡単だったようですね。不意を突いて、刺した。警察への供述は、美咲さんの元交際相手が一刺しに殺した、とのことですが」
蜂谷が何処かから入手した情報にそう書いてあったのだ。しかしそれは、警察への供述のみのこと。
「次に、美咲さんが元交際相手を刺殺。これは少し揉み合ったみたいですね。彼はご主人の死体を見ていたせいで相当動揺していた為、そこまで大変ではなかったみたいですが。そのお陰で、正当防衛が成立したのかもしれません」
「な、何を根拠に言っているんですか」
美佐枝が今にも倒れそうなくらいに全身を震わせている。顔色は完全に血の気が引いている。人は恐ろしいものに遭遇したとき、こういった表情になるのだろうというほどに歪んだ顔。そこに美人の面影はない。
恐怖に怯える般若のような表情だ。
「聞いたんですよ」
零がはっきりとした声で言うと、母娘は顔を見合わせた。その顔は瓜二つで、二人の般若がそこにいるかのようだった。
「ご主人と、元交際相手の方から直接お聞きしました」
彼らは今も客間に鎮座しているはずだ。
「お二人とも、亡くなってからなぜ殺されたかを知ったようですね。美咲さんはご主人のこどもではない。なのでそれが発覚する前に殺された。元交際相手の方はそれに巻き込まれただけのようですね」
二人の女のあまりに身勝手な行動だ。
「そ、それで除霊の方は……?」
この期に及んでもあまりに身勝手な発言に零は吐き気が込み上げるのを感じた。どうしてこうも、生きているというだけで優位だと信じているのだろうか。消されるべきなのは自分達なのだと思いもしないのだ。
「していませんよ。こちらの仕事は『幽霊駆除』です。駆除の必要がないと判断した場合は駆除はしません」
零はそこまで言ってから一度口を閉ざした。そして、たっぷりと一呼吸置いてから無表情のまま言葉を続けた。
「このまま、四人で仲良く暮らされたらいいのではないですか──?」
背後にある藤ヶ丘邸は訪れたときよりも空気が淀んでいるように感じた。
「それにしても、びっくりですね。お二人とも、大人しそうな女性だったんですけどね」
沙耶香が言ってからふう、と息を吐く。
「彼らに聞かずとも、おかしなところは沢山あった」
「沢山、ですか?」
零の言葉に沙耶香が首を傾げる。女性らしい仕草が彼女にはよく似合う。
「まず、警察に相談して直ぐに事件が起きるというタイミングの良さ」
そこは敢えて「悪さ」とは表さなかった。
「それに、警備会社のシールがあった。ということは、不法侵入は難しい。それに彼女らは被害状況を話すとき、怯えよりも煩わしさを感じているようだった」
美咲の元交際相手が不法侵入をしたということ自体、無理がある設定なのだ。よく警察がそこを見落としたものだと呆れてしまうほどだ。
「ああ、成る程。さすが零さん。で、後は被害者の方から聞いたんですね」
──さすが、零ちゃん。
沙耶香の言葉で昔のことが脳裏に浮かんだ。狭い、狭い世界で生きていた頃のことだ。
「でも、あのままにしてもいいんですか?」
沙耶香としては警察に連絡するべきだと言いたいのだろう。しかし、誰が零の言葉を信じるというのだろう。警察にこのことを言ったとして、真面目に取り合ってもらえるとは思えない。
「いいんだ。どうせ、彼らとの生活に耐えられなくなって、自分達で警察に行くだろう」
そうすれば、彼らの怒りは収まる。彼らは元々温厚な性格の持ち主だ。彼女達が自主をすれば、自分達で成仏をするだろう。だとすれば、零がすることなど何もない。
「零さん、夕飯食べに行きませんか?」
沙耶香がいきなり話題を変え、零の顔を覗き込んできた。大きな瞳がはっきりと零を捉えている。
「……行かない」
零はわざと視線を逸らし、そう答えた。
「いっつもそれじゃないですか。たまには行きましょうよ。私がご馳走しますから」
沙耶香は明るい声で言い、零の腕を引いた。見かけによらず強い力で引かれ、思わずよろけそうになるのをどうにか堪えた。
「ほら、ちゃんとしたお食事しないと体力もつかないですよ」
「わかったから引っ張るな」
零はそう言うと、沙耶香は嬉しそうににっこりと笑い、漸く腕を引く手を離した。するりとしたその仕草は、いつか彼女がいなくなる瞬間を連想させた。
「何がいいですか? イタリアン? フレンチ? あ、がっつりお肉もいいですね。焼肉」
沙耶香は零の二歩ほど前をスキップするかのような足取りで進んでいく。零はそれを苦笑しながら眺め、後に続く。
「なんでもいい」
零が答えると、沙耶香はくるりと顔だけを零の方に向け、焼肉ですね、と会話にならないことを言った。
夕日が殆ど沈みかけた空がやけに眩しく感じられた。
──都会の片隅にある、不思議な名前の事務所。
『幽霊駆除』。
幽霊にお困りの方がいらっしゃいましたら、そこを訪ねてみては如何ですか?
第一話『ストーカー殺人』完。
零─ZERO─ 碓井 旬嘉 @shunkausui
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