千年の彼女
寂しい里
千年の彼女
朝、いつもより冷たいベッドで目を覚ますと、隣で彼女が死んでいた。首筋にそっと触れて、その無機質な冷たさを感じた後、ゆっくりと手のひらを彼女の顔に這わせていく。頬を両手で包んだけれど、やはり冷たかった。唇は赤くて、青かった。彼女は死んでいた。
私はベッドから抜け出して、うーんと伸びをした。それからカーテンを開けて、温かい朝日を部屋いっぱいに入れた。凍えていた空間は少しずつ陽光の中に溶けだしていくようだった。ベッドまでは陽が届かなく、いつまでも凍っていた。私は、向かい合わせに置かれた椅子の片方に座った。
じっと彼女の死体を見てみた。毛布にくるまって寝ているような態勢を取っているが、明らかに死んでいる。肩あたりまで伸ばした黒髪、長すぎる睫毛、少し低めの鼻、浮き気味な赤い唇、すべての部分から、何か大事なものが抜け落ちていた。それは、この世界の食べ物に似ていた。どこからどう見てもカレーライスなのに、口に含んでみると何の味もしない。……
※
昨日の夜ご飯はカレーライスだった。いつもそうするように、決められた時間に冷蔵庫(と私たちは呼んでいる真っ白な箱)の蓋を持ち上げると、二人分のカレーライスが入っていた。
「わぁ、カレーライス」
と私は喜んでみた。無論、何も味はしないので喜びに値する出来事ではない。
そんな私のお道化に、彼女はくすりとも笑わなかった。
椅子に座って、向かい合ってカレーライスを頬張った。何も味はしない。何も匂いはしない。彼女は顔に色を出さず、黙々とスプーンを口に運んだ。私は、そんな彼女の様子にもう慣れっこだった。かれこれ百年くらい、彼女との間にまともな会話はなかった。
彼女はどうやら、この世界に飽き飽きしているようだった。
寝る時間になって、私たちはベッドに入った。いつものように、二人で、一つのベッドに。
「ねぇ、わたし、死のうかと思うんだけど……」
ベッドに入って十分くらい経った時、彼女は思い切ったように言った。
私は心臓にナイフを突き立てられたような心持ちがした。私の目から、どろどろと血の涙が流れ出した。その血はいつの間にか部屋中を満たし、ついには私の喉に流れ込み、肺を侵した。私は寝たふりをしていた。……
彼女は一時間ほど私の返事を待っていた。
私は、ずっと、ずっと寝たふりをしていた。
まるで、私が返事をしなければ、いつまでも彼女が死を決断しないとでもいうかのように。……
夜明けの一時間前だった。彼女はそっと毛布を退かし、音を立てずベッドから這い出た。彼女がワイシャツ一枚の姿で、窓の前に立っているのが見えた。彼女はカーテンの隙間から月を見ていた。月の模様の一筋も見逃すまいと凝視していた。私は、彼女の一挙一動の一遍も見逃すまいと、涙を堪えていた。……
ようやく、彼女は夜空から目を離し、冷蔵庫に向き合った。その側面に張り付いている赤いボタンをゆっくりと押し込んでから、時間をかけて離した。ちん、と軽快な音が響いた。
彼女は冷蔵庫の蓋を持ち上げ、中に入っていたコップの水を一息に飲み干した。……
コップを冷蔵庫の中に戻し蓋をする。そうしたら、彼女は静かな足取りで寝たふりをしている私の前に立った。ひざまずき、私の頬に大事そうに両手で触れた。私は、私の唇に、彼女が口づけるのを感じた。思わず目を開くと、彼女の涙に濡れた瞳と視線がぶつかった。……
ベッドに入ってきた彼女はためらいがちに、私の身体を抱き寄せた。私は彼女のなすがままになっていた。しばらくそうしていた。すると、月に雲がかかったのか、部屋を本当の闇が満たした。その瞬間、私の胸に、言い様のない痛みが走った。私は彼女の腕をふりほどくと、寝返りを打って、彼女の身体を抱きしめた。強く、強く、身体を押しつけた。彼女はじっとしていた。けれど、私が彼女の瞼に唇を押しつけると、何かから解放されたように私に抱きついてきた。それから、私たちはお互いをずっと抱きしめていた。
気付けば、私は眠っていた。……
※
彼女の死体から目を離し、私は窓の外に目を移した。相変わらず、どこまでも砂漠が続いている。行ってみたことはないけれど、地平線の向こうの向こうまで、無限に砂漠が広がっているという話だ。比喩ではない純粋な無限に、私は途方もない気分になった。
冷蔵庫の蓋の裏に、経過した時間が表示されている。私は蓋を持ち上げ、数字を見てみた。九九九年、三六四日、八時間、二九分。
「そっか……」
今日を生き延びれば、この世界に来てから千年だったのだ。私は彼女の間の悪さに、ちょっと微笑んだ。
それからふと気付いて、冷蔵庫の中に目を落とした。
朝食のサンドウィッチは、一人分に減っていた。……
朝食を食べ終わり、食器を冷蔵庫の中に片付けると、やることがなくなった。昨日までは、この退屈に彼女も加わっていたからそれほど嫌ではなかった。けれど、今日からはそうはいかない。私は一人で生きていかなくちゃいけないんだ。
ひとまず、私はベッドの上でいつまでも同じ姿勢のまま死んでいる彼女を、埋葬してあげることにした。きっと、この世界では死体が腐ったりはしないのだろうけれど、ベッドの上に死体が寝ているのはなんとなく収まりが悪い気がした。それに、彼女の抜け殻を見ながら生活するのは、私には堪えられそうになかった。
どこに埋葬しようか。私は外に出て、手頃な場所を探してみた。数分後、そんな場所はないことに気付いた。どこからどこまでも、砂漠しかないのだから。
私は、私たちの住む真っ白な家の窓のあたりの砂に、彼女を埋葬することにした。そうすれば、私が窓から見る景色に新たな意味が付け加わることになる。新鮮な朝陽や、寂しげな夕陽、のらりと横切る満月に彼女の面影が浮かぶのは、素敵なことだ。
シャベルがないので、手でひとかきひとかき、砂を掘っていった。湿り気のない砂は掘っても掘ってもさらさらと自然に埋まっていった。私は冷蔵庫から飲み水を取り出してきて、掘るたびに、そこに流し込んだ。そうやって、少しずつ穴を深めていった。
単純な作業の中、思考は時間を逆流していった。……
※
千年前、彼女と私の間にはまだ会話があり、二人は都心から一時間くらいのアパートで暮らしていた。彼女は浪人生相手の予備校で先生をしていて、私はその下のパン屋さんでレジ打ちをしていた。私と彼女の帰る時間はだいたい同じで、彼女の方が早かった時には、店の外から私にずっと視線を送っていた。彼女と目が合うたびに赤くなってしまう私を、からかって楽しんでいるのだった。
家に帰ると色々な話をした。彼女は自分の教えている生徒たちのことをおもしろおかしく語って聞かせた。私は彼女の思惑通りのところで、いつも声をあげて笑ってしまった。そんな私を、彼女は愛おしそうに眺める。私はひぃひぃ言いながら、彼女のそういう様子に気付くと、途端に顔を赤くして俯いてしまっていた。……
夜になると一緒にお風呂に入り、一緒の布団で寝た。同じ目覚まし時計で起きて、一緒に朝ご飯を食べた。朝ご飯はだいたいが、前の日に売れ残ったパンで、特にあんぱんが多かった。
「あんぱんおいしいのにねぇ……」
彼女はあんぱんが売れないことに文句を垂れながらも、おいしそうに頬張っていた。あんぱんを頬に詰め込んでもぐもぐしている彼女の子供っぽい仕草が、私はたまらなく好きだった。……
※
そんな幸せなある日、彼女は用事があるからと言って、私をひとりで家に帰した。
私が一人でぼーっとテレビのバラエティー番組を見ていると、彼女が帰ってきた。
「おかえりなさい」
ソファーから立ち上がり迎えると、彼女は私に抱きついてきた。私は突然の行動に戸惑いながらも、彼女に抱きしめられるままになっていた。それから彼女は私を離し、テーブルに書類を広げた。
「これは……?」
聞くと、彼女は私にソファーに座るように促し、自分はテーブルの椅子に座って話し始めた。……
彼女は、大学時代の友人に会いに行っていたようだった。その友人はかつて彼女が勤めていた研究所の研究員で、長い付き合いであるようだ。私は彼女が数年前まで相当優秀な研究者であったのに、所長とトラブルがあって研究所辞めてしまったことを知っていたが、彼女が何の研究をしていたかは知らなかった。
彼女は不死について研究していると言った。
「『不死とは肉体からの脱出であり、継続した永遠の思考によって成される』」
内緒の話をするみたいに、彼女は友人の言葉を引用した。
頭の中で考えることだけが、時間の影響から逃れることが出来る。例えばほとんどの人は、ほんの数十分の眠りの中で数日に渡る夢を見る経験をしたことがあるし、逆に、何時間も寝ていたはずなのにそれが一瞬だったと感じる経験をしたこともある。つまり、思考は時間を操作することが出来る。このことを応用すれば、不死に到達することが可能だ。
そんなようなことを彼女は言った。
「それでね、不死の研究はもうほとんど完成しているんだって。あとは、最後の実験を残すのみなの」
「最後の実験……?」
「人を実際に不死にする実験よ」
私の目をまっすぐと見て、彼女は言った。
「ねぇ、二人で永遠に生きてみない?」
※
手術の一ヶ月ほど前から、私と彼女は大きな病院に入院し、色々な検査を受けた。身体にたくさんの黒いシールを貼ったまま一日中眠り続けたり、金切り声のような音を聞きながら何十桁もの数字を五時間暗記し続けたりさせられた。かと思えば、一週間好きに過ごして良いと許可をもらえたりした。目的の見えない検査に戸惑いを覚えたが、彼女と一緒であったのでそれほど苦でもなかった。
その間に、私たちは不死についての説明を受けた。私たちはある手術を受けることになる。手術は麻酔で寝ている間に済ましてしまうから、痛みはない。そして、次に目を覚ますと、不死になっている。そこは現実世界とまったく同じだけれど、実は違う世界で、二人の思考が生み出した世界。その世界で、私たちは永遠に生き続けることが出来る。現実世界では、私たちはベッドで眠り続けたままなのに。
「永遠に生きるってどんな気分なのかな?」
ある日、検査が終わって病院の庭で夕陽を眺めていた時、彼女に聞いてみた。
「うーん、まあ今の生活とほとんど変わらないんじゃない?」
「そうなの……?」
「だってさ、『あぁ、明日死ぬかも……』なんて思って生きてる人なんてほとんどいないでしょ? 明日死なないなんて保証、どこにもないのにさ。つまりね、人間は本能的に自分の不死を信じてるわけだよ。そうじゃないと、死ぬのがこわくて生きていけないもん。だからさ、自分の不死が保証されるってだけで、向こうの世界に行っても気分はほとんど今と変わらないってわけ」
私は納得して、オレンジ色の空を見上げた。そして、向こうの世界に行ってもこの夕焼けと同じ夕焼けを見るために、しっかり記憶に刻んでおこうと思った。彼女と一緒にこの夕焼けを永遠に見ていきたいなと思った。
彼女は飄々とした風に、沈んでいく太陽を眺めていた。……
それから数日経って手術を受けた。本当に、寝ている間に手術は済んだ。私たちはいつものように一緒のベッドで目を覚ました。その部屋は真っ白で、ベッドと窓とカーテンと二脚の椅子と冷蔵庫くらいのサイズの箱しかなかった。窓の外には永遠に砂漠が広がっていた。
テーブルの上に一枚の紙が置いてあって、そこには食事は一日三回白い箱から供給されること、飲み水の入ったペットボトルはいつでも供給されること、箱の蓋の裏側にこの世界に来てから経過した時間が表示されること――そして、箱の側面にある赤いボタンを押すと、毒薬が供給されること、が記されていた。
彼女は呆けたように「嘘でしょ」と呟いた。……
※
最後の一砂をかけ終えた時には、千年前に見たものと同じ夕焼けが広がっていた。私は墓標代わりに、空になったペットボトルを半分ほど埋めて立てておいた。そのペットボトルの前に腰を下ろし、疲れに身を任せながら、私はなんとはなしに爪の間に入り込んだ砂を掻きだしていた。しばらくすると陽は沈み、深い藍色の空に星が輝き始めた。
部屋に入ると、ベッドに身を投げ出した。一人だけのベッドは妙に広く感じた。とてもお腹が空いていたけれど、今は何も食べられないような気もした。私はふと思い出し、彼女の枕に顔を埋めてみた。彼女の匂いがした。まだ卸したばかりで柔らかい茶色をした学校の机と、焼きたてのあんぱんを混ぜたみたいな匂いだ。私は何時間もそうしていた。
がた、と何かが鳴った。私は彼女の枕から顔を上げ、音の方向を見た。窓が風で揺れたようだった。私は立ち上がり、窓の前に立った。ちょうど、昨日の夜の彼女のように。
そこからは、ペットボトルが見えた。月光を反射して、ぼんやりと輝いている。その下に彼女が眠っているんだ。昨日まで、私の隣で眠っていたのに。
そのとき、一際強く風が吹いた。
風に背を押され、ペットボトルは傾いた。傾いたと思ったら、そのままどこかへ吹き飛ばされた。彼女の墓標は永遠の砂漠に消えた。
「ぁ、ぁ……」
呟きが漏れた。
唐突だった。
胸から熱い液体がこみ上げてきた。喉を通り、鼻に流れ込んだ。目にまで達した。手のひらに痛みを感じた。強く握りしめたせいで、爪が皮膚を裂いていた。膝ががくがくと震えた。彼女との千年が、一秒に凝縮されて脳を通過した。悪戯っぽい微笑み、地平線をじっと眺める表情の消えた横顔、月夜に濡れる泣き顔、目を腫らした怒り顔、仲直りを申し出る気まずげな笑顔、頬を染めて唇を突き出した照れ顔、温度のない冷たい無表情……彼女のすべての表情が一瞬にして夜空に浮かび、そして消えた。星の煌めきが線を成し、彼女をかたち作った。愛していた、たまらなく好きだった、永遠に一緒にいたかった、そう約束した、そう約束したのに。
「ぁ、ぁ、ああ、あ、あ、あ、あ、あっ、あああ、あ……」
振り向いて、駆けだした。ドアを叩き開けた。飛び出した。遙か向こうに、ペットボトルが転がっていた。風が強かった。唇を噛んだ。叫んだ。自分の頬を殴った。月を見つめる彼女がいた。ワイシャツ一枚だった。走った。走って、抱きついた。彼女は消えた。砂に叩きつけられた。口に砂を感じた。噛んで吐いた。立ち上がった。満月が浮かんでいた。ペットボトルが地平線と同化した。走って、走って、とにかく走って、走っても、ペットボトルはどんどん霞んでいって、私の足は砂に捕らわれて、月は昨日と同じように明るくて、だけど彼女はもういなくて、私はそんな彼女が死ぬのを止められなくて、これからは一人で生きていくしかなくて、永遠に、本当に永遠に、こんな世界でひとりぼっちで、私は、私は、私は……私は砂に倒れ込んだ。
髪の毛に砂が侵入してくるのを感じた。目の前には満月があった。月面のでこぼこが妙にはっきりと見えた。星が綺麗だった。風が心地よかった。新鮮な気持ちだった。昨日の彼女の気持ちがわかった気がした。死を前にすると、どんなものでも美しく、そして大事なものに思われるんだ。
私は立ち上がった。小さくなった白い家に、ゆっくりと一歩ずつ近づいていった。指と指の間を砂がさらさらと流れるのが気持ちよかった。風は止んでいた。あとには、ひんやりとした心地よい大気と静寂が残った。私が足跡をつける音だけがこの世界のすべてだった。私は自分の足跡を愛した。月を愛し、星を愛し、ベッドを愛し、椅子を愛し、カーテンを愛し、冷蔵庫を愛し、砂の下の彼女の死体を愛した。千年と数十年の長い人生の中で、こんなにも世界を愛しいと思ったことはなかった。彼女を愛するように、世界を愛することが出来た。そして、永遠を愛せなかったことをちょっとだけ悔やんだ。
私は部屋に入り、冷蔵庫の前に立った。それから、側面についている赤いボタンを押した。昨晩の彼女の姿が一瞬だけ思い浮かび、たちまち霧散した。
千年が経った。
彼女のいない永遠に、ちん、と軽快な音が響いた。……
千年の彼女 寂しい里 @samishiiri
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