焦げた出汁巻き卵
六畳一間。それが今の彼女の『世界』だった。
床の間には『風清新葉影』と書かれた無記名の掛け軸。箪笥の上の赤べこが首を振り、豪奢な柱時計が静かに時を刻む寂しい部屋。
だが彼女はちっとも寂しくなかった。
「おう、起きてたのか」
音もなく障子が開いて、現れたのは紺の着流しに身を包んだ背の高い男。若々しい容貌はまだ三十代に見えるがその銀の双眸は数世紀を生きたかのように悟りきった光を宿していた。
「あら宗一さん。今日は早いですね」
彼女がそう言うと、男は不機嫌そうに鼻を鳴らしてから部屋の中に足を踏み入れた。
「今日は少しばかり『願い』の数が少なかっただけだ」
そう言って、彼女のいるすぐ横の椅子に男腰かけた。
彼女は小鳩のように小首を傾げる。
「あら。今朝は『幾ら何でも願いの数が多過ぎる』と愚痴をこぼして出掛けて行ったではありませんか」
「知らんな」
「そうでしたっけ。この歳になると物覚えが悪くて思い違いをしちゃっていけませんね」
「…………」
ふふふ……と楽しそうに笑う彼女を仏頂面で睨む男は話を打ち切るように手にした盆を差し出した。
「あら今日も。いつもいつもありがとうございます」
「別に……時間が余ってしょうがないから暇つぶしに作ったまでだ」
「ふふふ……そうですか」
「そうだ」
彼女の目の前にあったのは盆に乗った箸と、白い小皿の上の満月のように黄色い出汁巻き卵。
いや、黄色いというのは少しばかり不適当だ。端が焦げて形は不恰好。でも確かに出し巻き卵だ。鰹と昆布の合わせ出汁のいい香りが鼻腔をくすぐる。
不器用な誰かさんが作ったそれを彼女は少しも嫌な顔をせずに、むしろ幸せいっぱいといった表情で見つめ、箸で割って掴み、口に運んだ。
何度も咀嚼し、静かに嚥下した彼女はしばらく沈黙した。それに耐えかねたように腕を組んでいた男がちらりと視線を向けた。
「……どうだ」
ことん、と箸が置かれ、彼女が男の方へ顔を向ける。
「ええ、ええ。とても美味しかったですよ」
「……そうか」
それを聞いて、気難しい様子だった男の表情が心なしか和らぐ。それから残りを少しずつ食べる彼女を男は静かに眺めていた。
「ご馳走様でした」
手を合わせた彼女の男は小さく「お粗末さま」と言って盆を回収した。それから一旦部屋を出、しばらくしてお茶と菓子を盆に乗っけて戻ってきた。
「今日は氷室だ」
「まあ」
「その……好きだろう?」
「大好きですよ、宗一さんの持ってきてくれるお菓子なら」
「む……」
自然体で放たれた彼女の言葉に男の頬に微かに朱がさす。それを誤魔化すようにそっぽを向くと、男は湯呑と菓子の皿を彼女に突き出した。
「早くとれ」
「ふふふ……頂きます」
しばしの静寂。茶を啜る音だけが空気を震わせる。
少し悲しそうな呟きが漏れ、沈黙を破った。
「私はもうすっかりおばあちゃんになってしまいました」
湯呑の水面に浮かぶ年季の入った皺を見つめながら彼女が嘆息する。
「宗一さんはいつまで経っても若々しいのに私ばかりが醜くなってしまって……」
だが男は彼女の言葉に怪訝そうに眉をひそめるだけだった。
「何を言っている。お前は今も昔も美人だぞ」
さも当然の如く、月や太陽が昇ることに疑問を抱いた者を見るかのような目線を添えて男は言った。
「冗談はよしてくださいな。こんなよぼよぼのおばあちゃんが美しいなんて」
「お前達の価値基準はいまいち分からんが、お前は赤子の時から今の今まで美人だぞ。それは失われるどころか日毎に増すばかりだ」
「そ、そうですか」
今度は彼女がたじろぐ番だった。男の混じり気のない純粋な賞賛、一切揺らがないこの上ない賛美に顔を赤くする。
「ああ。それこそお前が今のお前でない時からお前は美しい」
「それは前世、の私ですか」
「ああ」
「時折漏らしていましたけど、一度としてちゃんと教えてくれませんでしたわ」
「今のお前は今のお前だ。その前に在りし日の事を知る必要はない」
突っぱねるように言った男。彼女は少し面白くないと拗ねた。
「でも今日くらい教えてくれてもいいのではないですか」
「そうさな……少しだけだぞ」
彼女の視線に根負けしたように、男はぽつぽつと語り始めた。
「前世のお前は猫だった」
「猫」
「ああ。どこまでも美しくそして気高く、波打つような銀の毛並みを持った小さな牝猫だった」
「宗一さんはどうしていたのです」
「もちろん側にいた。他の男が寄り付かないように家の中でずっと一緒にいた。お前の毛並みをひと撫ですれば、仕事の疲れも何もかも忘れる事が出来たよ」
そこで一旦男は言葉を切り、「もういいか」と彼女に尋ねる。
だがいつも無口な男がここまで饒舌なのは滅多にない。彼女はもう少しだけ聞きたかった。
「ではその前は。猫である前の私はどんな私でしたか」
男はしばらく沈黙していたが、彼女の視線に根負けしたように唇を開いた。
「そうさな……猫で在る前のお前は金魚だった」
「金魚」
「ああ。太陽の光のように輝いていて、泳ぐ姿は天女のようだった」
「宗一さんはどうしていたのです」
「もちろん側にいた。猫に食われてはかなわんと、大きな水槽をこさえて部屋の中でずっと一緒にいた。お前が泳ぐ姿を見ていると、仕事の疲れも何もかも忘れる事が出来たよ」
そこで一旦男は言葉を切り、「もういいか」と彼女に尋ねる。
だがいつも無口な男がここまで饒舌なのは滅多にない。彼女はもう少し、もう少しだけ聞きたかった。
「ではその前は。金魚である前の私はどんな私でしたか」
「まだ聞くか」
「もう少しだけ」
「うむ……」
男はしばらく沈黙していたが、彼女の視線に根負けしたように語り始めた。
「そうさな……金魚で在る前のお前は刀だった」
「刀」
「ああ。比類なき斬れ味を誇る天下の名刀。波打つ波紋を見つめると吸い込まれそうになる美しさを持っていた」
「宗一さんはどうしていたのです」
「もちろん側にいた。お前で何かを斬るのは嫌だったが、本当に厄介な物の怪に対してだけお前と一緒に戦った。まるでずっと一緒に連れ添ったかのように手に馴染み、そしてその稀代の斬れ味を持って全てを斬り伏せてくれたよ」
「まあまあ」
「なんだ……なぜそんなに嬉しそうにする」
「なんでもありませんよ」
いつも守られてばかりではなく、彼と一緒に戦っていたという事が彼女には嬉しかった。それが他の誰かなら妬けるが紛れもない『私』であるなら構わない。記憶がないのが少し残念だった。
男は「もういいか」と彼女に尋ねる。
いつも無口な男がここまで饒舌なのは滅多にない。彼女はもう少し、あともう少しだけ聞きたかった。
「ではその前は。刀である前の私はどんな私でしたか」
「まだ聞くか」
「もう少しだけ」
「だが……」
「ではあと一つ」
「うむ……」
男はしばらく黙っていたが、彼女の視線に根負けしたように話し始めた。
「そうさな……刀で在る前のお前は姫だった」
「なんと……姫ですか」
「ああ。母を亡くして毎日屋敷の端っこにある庭で泣いていたお前は誰よりも可憐で美しかった」
「宗一さんはどうしていたのです」
「庭に現れる白狐としてしばらくお前の話相手になっていた。書物の事や母のこと、厳しくとも優しい父のことを話してくれたよ」
「まあ」
「だがある日お前は嫁ぐことになった。ふた回りも歳上の男のもとへ」
「それで。宗一さんはどうしたのです」
「お前が幸せそうならよかった。だがお前はとても辛そうでな。思わずさらった」
「えっ」
「誰もこない社の奥まで連れてった。『父に叱られる』と真っ青な顔をしていたが、ずっと一緒だと言ったら嬉しそうに笑ってな。お前が死ぬまでずっと一緒にいた」
「あらあらまあまあ」
年甲斐もなく両手で顔を覆って悶える彼女。それを少し照れた様子でちらちら窺う男。
「もういいか」
男の問いかけに彼女は顔を覆う手をどけて笑顔を見せた。
「ええ。とてもとても大切にされていたのだと分かりましたから。私は幸せものです」
「そうか」
「このままずっと一緒に、いつまでも一緒にいれたらいいのに」
悠久の時を生きる男とただの人である彼女。その願いは叶わない。
悲しそうに俯いた彼女の手を男の大きな手が包み込んだ。
「大丈夫だ」
少し不機嫌そうに見える表情。だけど精一杯の思いやりと溢れる優しさがあることを彼女は知っている。
「お前はもうすぐ死ぬ。だけどまた見つけよう。どんなところでどんな姿になっても必ず見つけて一緒にいる」
「ふふ……それなら安心ですね」
「うむ」
ぱあと花が咲くような笑顔を見せた彼女からはもう一切の憂いも無くなっていた。安心したように男も微笑を浮かべた。
「でも……」
と彼女は付け加える。
「次もできたら人間がいいです。不器用な宗一さんにかわって綺麗な出汁巻き卵をまた作ってあげたいですから」
男は「ちゃんとやればできる」と少し拗ねた。彼女はふふふと笑った。
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主人公殺しの悪役令嬢 うろこ雲 @cirrocumulus512
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