猫に噛まれた手が痛い

不二式

第1話

「はぁ!はぁ!」

 男は息を荒げながらゴミだらけのアスファルトを蹴って走っていた。寒空の下、天へと伸びる摩天楼にまばらに光が灯っている。闇に覆われた暗い世界を温かみのないLEDライトが照らしている。最下層のゴミだらけの貧民街を男はつまづきそうになりながら走る。


 目に光のない浮浪者だらけの貧民街の違法な出店で、朝鮮系や中国系の太った女が料理を所狭しと並べて売っている中、男は人を掻き分けながら、白い息を漏らしつつ走っていた。

「どけ!邪魔だ!」


 男の振り払った手が女を突き飛ばして出店に当たり、料理がめちゃくちゃになる。口論する女店主と女や引き止める手も振り払い、男は人混みを掻き分けて走っていた。

 すると、天から何かが落ちてきた。出店の屋根にどすんと着地し、出店をゴミの山に変えながら落ちてきた…否、降りてきたのは、一人の少女だった。


 両の手には肉球のような配置の滑り止めが付いたグローブと長い鉤爪を付けており、肩までの黒髪をポニーテールに結っている。頭にはまるで猫耳のような形の特殊な集音器の付いたヘッドセットを付けており、目は異常に見開いており、まるで猫のような目をしている。肌は白い。


 赤い首輪を付けており、そこには“YAMATO”と刻印されたドッグタグが付いている。黒い衣装はまるで拘束服のような形をしており、至る所にベルトが付いている。拘束服のスリットからは黒いストッキングに覆われた艶めかしい脚が覗いている。


 足には黒いブーツを穿いている。全体的に艶かしい輪郭線をしたボディーラインだ。胸も尻も大きく、口元はにやりと片側だけ歪んでいる。少女は言った。

「見つけたわよ…“ネズミ”ちゃん…。」


 らんらんと輝く黄色い目が、死にものぐるいで走っていたネズミと呼ばれた男の動きを止めた。周囲の人々は恐怖で顔を引きつらせて走って逃げ出した。出店の店主さえ失えば生きて行けぬ出店をもほっぽり出し逃げ出した。逃げ出した一人の女が言った。

「忌々しい“黒猫”め…。」


 猫。普通はそれは人間によく懐くことで、ペットとして有名な肉食獣だ。だが…この街では“黒猫”というと、必ずしも動物の方を指さない。ベリィ人間兵器工業…通称“キャットショップ”と呼ばれる組織の、飼い犬ならぬ“飼い猫”。その通称が“黒猫”である。


 “黒猫”は、ベリィ人間兵器工業の製品の愛称である。人間を殺戮のためだけの道具として遺伝子から作り上げ、育て上げ、戦争代行会社の忠実な下僕として戦場へと送り込まれる、いわば殺戮のためだけに生み出され育てられた、人間兵器である。


 少女は白い息を漏らしつつ、屋根の上で両腕をだらんと下げ、身体を反らし、男を笑顔で見つめながら言った。

「“ネズミ”ちゃんって呼ばれたくない?じゃあ、M-O-useマウス-15-674と呼ばれたいのかしら?」


 男はトレンチコートに付いた埃を払いながら、少女を睨みつけて言った。

「俺のことを“被験体マウス”って呼ぶんじゃねえ!糞忌々しい!」

 少女はクスクス笑って男を見て言った。

「あらとってもお似合いよ。その泥まみれの姿。いかにも地面を這いずり回るネズミちゃんだわ。」


 男は眉を寄せて少女を一層強く睨みつけ、トレンチコートからナイフを取り出して自分の袖を切り裂き、腕に長く傷を付けて叫んだ。

「“スカーフェイス”!」

 傷口が開き、男は歯を食いしばりながら傷口に開いた異次元空間より拳銃を取り出して素早くスライドを引いた。


 少女は男が撃つより早くスッと音もなく地面へと降り立ち、ダカダカと走りだした。

「速い…!」

 男は少女の足の速さに拳銃では対応できないと悟ったのか、拳銃を放って傷口からスモークグレネードを取り出して投げると、路地裏へと走りこんだ。


 煙の中、少女は冷静に目を瞑り、小型のマスクを付けると、集音器に手を当ててチューニングし、男の足音を探し出した。

「まだ遠くには行ってない…うふふふ…ネズミは追い込むのが楽しいのよ。」

 少女はにやりと笑うと、スッと走り出した。正確に音のする方へと走っていく。


 路地裏へと逃げ込んだ男は、少女の足の速さと、“黒猫”としての耳の良さを考え、すぐに追いつくと思ったのか、傷口から耳栓を取り出し、装着すると、傷口からすぐにスタングレネードを取り出し“黒猫”のいる方角の遠くへと放り投げ、反対側へと走りだした。


 炸裂音と閃光がスタングレネードの着弾点を覆った。少女の集音器で拡張された聴覚に、直に激しい炸裂音が響いた。

「ぎゃああ!」

 少女は叫び声を上げ、耳を押さえて座り込んだ。

「うぐぅ…おぇええええ。」

 少女は地面に手を付き、吐瀉物を辺りに撒き散らすと、涙目で口を拭った。


「はぁ…はぁ…。」

 少女は眉を寄せ、呼吸を整えると、ギリリと歯を軋ませ、凶気を孕んだ笑みを浮かべると、また走りだして言った。

「うふふふ…やってくれるじゃない、ネズミちゃん…もう一思いには殺してあげないわ…さっさと殺されておけば良かったと後悔させてあげる…。」


 少女は走りながらヘッドセットの集音器をチューニングし直すと、男の足音は遠くはなったが、まだ追いつける距離から聞こえていた。少女は黄色い目をさらに見開いてにやりと笑い、男のいる方角へと走った。


 男はというと、耳栓を捨て、コートを脱いで、歯を食いしばって、胸を服ごと大きくナイフで切り裂くと、血がにじみだしてきた服の隙間の大きな傷口から、クレイモア地雷を取り出し、慎重に地面に配置してはそっとそこを離れ、足を引っ掛けそうなところへといくつも配置した。


 少女の方は男の足音が静かになり、逃げていないこともあって、近づいていると思い、にやにやと笑って走っていたが、そこにヘッドセットへ伝令が入った。

「ヤマト、気を付けろ。ネズミはクレイモア地雷を配置しだした。」

 少女は伝令を聞き、忌々しげに足を止めた。


 少女は憎々しげに言った。

「生存のためになら頭は働く…本当にネズミちゃんね。」

 伝令の主は言った。

「奴は元傭兵だからな。一筋縄ではいかん。奴の“呪い(カース)”は戦場で発現したのだ。」


 少女はチューチューと鳴きながら、ぶちまけられたゴミ箱の中の生ゴミを食べている、ネズミを睨みながら言った。

「傷口に異次元空間を開いて、物を取り出す“呪い(カース)”ねえ…。随分と便利なポケットね。ネズミちゃんの癖に、どっかの青い猫型ロボットじゃないの。」


 伝令の主は言った。

「親近感が沸くか?」

 少女は笑って言った。

「まさか?私はネズミちゃんなんて怖くないわ。怖いのはボスだけよ。そうでしょ、レイ?」

 レイと呼ばれた伝令の主は言った。

「まあな。ボスよりも怖い奴なんてこの世にはいないさ。」


 少女は笑って言った。

「ネズミちゃんなんて、楽勝よ。あなたが付いてるんですもの。」

 レイは言った。

「ああ、俺の指示は完璧だ。そう、お前が作戦通りに銃を持って行って、建物の上から奴を狙っていればこんな苦労はせずに済んだ。」


 少女は不満気な顔で言った。

「あら、私の射撃能力を一番酷評してたのは、他ならぬあなたじゃないの。」

 レイは言った。

「事情があったんだよ。スナイパーの“黒猫”は別の事件で出払っていたんだ。近距離戦闘用の“黒猫”ではお前が一番射撃は優秀なんだ。」


 少女はむすっとして言った。

「今頃褒めても遅いわ。私は近距離戦でいつも褒められてたから、外すかもしれない遠距離射撃をやめて、近距離戦を挑んだのよ。」

 レイは言った。

「それならもっとやりようがあったろう?変装して人混みの中で、奴を至近距離から撃てば良かった。」


 少女は、生ゴミを食べていたネズミの近くに石を蹴って逃げるネズミを見ながら言った。

「ふん。初めからそういう作戦にすれば良かったのよ。」

 レイは忌々しげに言った。

「ああもう、これだから“黒猫”は…言うことを聞かないな、まったく。」


 少女はむっとして言った。

「用件はそれだけ?」

 レイは言った。

「そんなわけあるか。作戦だ作戦。今度こそ建物の上に行ってもらう。」

 少女は座り込んで言った。

「また銃撃戦?私は嫌よ。近距離戦で鉤爪でネズミちゃんを殺したいの!」


 レイは呆れた声音で言った。

「はあ…わかったよ。建物の上から奴を見つけて、降りて殺せ。チャンスは一度きりだ。」

 少女はにやと笑い言った。

「了解したわ。確実に仕留めてあげる。…ああ、そういえば。」

 レイは言った。

「なんだ?」


 少女は凶悪な笑みを浮かべて言った。

「ネズミちゃんは、捕まえたら、遊んでから殺しても構わないわよね?」

 レイはため息をついて言った。

「止めてもやるんだろ…お前は。」

 少女は舌を出して言った。

「まあね。」


 男は走って逃げては、クレイモア地雷を仕掛けたり、ワイヤーを張ったりと、トラップを仕掛けつつ逃げていたため、あまり速くその場を離れられなかった。車を捕まえられればいいのだが、この貧民街には車は愚か原付すら一台もないのだ。置いてあればすぐに盗まれ売られるのだ。


 男は痛む傷口を毎回包帯を傷口から取り出しては巻いていたが、その出血量は馬鹿にならなかった。

「糞が…もう少しで駅なんだ…電車にさえ無理やりでも乗ってしまえれば、遠くへ一気に逃げられる…。」


 男は吐き捨てるように言うと、また走って逃げ出した。少女はというと、建物の上から建物の上へと飛び、様々な音の中から男の靴の音だけを正確に集音器でチューニングして聞き取り、望遠モードにも出来る暗視スコープを付けて建物の上から男を探していた。


 少女は笑って言った。

「…見つけた。」

 少女は走って建物の上から建物の上へと飛び、跳躍して猫のようにバネを効かせて地面へとすたっと降り立ち、男の首元を掴んで、引きずりながら近くの壁へ走り、思いっきり壁にぶつけ、首元に鉤爪を突きつけた。


 少女はにやりと笑って言った。

「観念しなさい…まあ観念してもなぶり殺すけどね♪」

 その瞬間に男が撒いておいたスタングレネードが炸裂した。少女は暗視スコープも捨て、集音器もオフにしていたが、激しい閃光と炸裂音の中で驚きつつも、逃がすまいと鉤爪で深くえぐった。


 男は鉤爪でえぐられた首の傷口から瞬時に拳銃を突き出させ、少女へと撃ちだした。少女は高い反応性でかろうじて頬を掠める程度で済んだものの、いくつもの傷口から銃口が覗いて、さっと飛び退いて走って物陰へと逃げ込んだ。


 少女は忌々しげに言った。

「あんた!悪魔にさらに代価を差し出したわね!?傷口の中で武器を操作するだなんて!」

 男は笑って言った。

「“スカーフェイス”…この“呪い(カース)”は血を大量に失う。だが、その代わりその失う血を悪魔に差し出すことで、また力を得るのだ。」


 男は身体を広げ、大量の傷口からサブマシンガンの銃口を突き出して、激しく乱射した。傷口が銃の反動でぐちゃぐちゃになり、熱で焼けていく。少女の隠れている壁面がサブマシンガンで激しく削れる。少女は走って、ブーツから鉤爪を出して、壁を駆け上がった。


 男は忌々しげにチッと舌を鳴らすと、アサルトライフルを取り出してフルオートモードで少女を狙い撃った。頭上の敵は傷口からの射撃では、仰向けに寝でもしないとできないからだ。少女の横腹を銃弾がえぐる。少女は壁を蹴って男の頭上からナイフの雨を降らせた。


 降ってくるナイフを、男は頭上に上げた手のひらに開けておいた傷口から、高圧ガスを当たる寸前に出して弾いたが、男の後に降り立った少女の、素早い鉤爪での連続攻撃で、ズタズタにされた傷口は、荒いために銃口も出せず、垂直に伸びた鉤爪は背骨の間から深く心臓を貫いた。


 男はにやりと笑うと、大きく開いた傷口から、安全ピンの抜かれたグレネードをいくつも取り出した。少女はとっさにグレネードを空高く蹴り上げ、男を盾に地面へ寝た。炸裂したグレネードの破片が男の身体をバラバラにした。少女もいくつか受傷したものの、致命傷ではなかった。


 少女は死んだ男の破片を払って立ち上がると、血や男の肉体の破片で汚れた顔を手で拭った。どろどろに赤黒くなった拘束服のまま、少女はレイへと連絡した。

「レイ…聞こえる?ネズミちゃんを殺したわ。ちょっと手こずったけど。」

 レイは言った。

「…随分と荒い息遣いだが。」


 少女は憎々しげに言った。

「ライオンはウサギを狩るにも全力を尽くすって言うでしょ?」

 レイは言った。

「お前は猫だろ。それに実際にはウサギの方が足が速い。ライオンはウサギは逃しがちだよ。」

 少女はしょんぼりして言った。

「…ちょっとくらい褒めてくれたって…。」


 レイはため息をついて言った。

「早く帰って来い。たっぷり褒めてやるさ。今日の夜食はお前の好きな飛騨牛のステーキだ。特上だぞ。」

 少女は嬉しそうに言った。

「本当!?絶対食べないでね!ちゃんととっておいてよね!」

 レイは言った。

「分かった分かった。」

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