セイレーン

冬木洋子

セイレーン

 沼ユリの花の開く音を聴きに行こうと、あなたが言った。

 広大な学寮の敷地の北に広がる“嘆きの森”の奥深く、小さな沼に夜にだけ咲くその花は、黄昏どきに開く時、かすかな、ため息のような音を立てると聞いたのだと。

 これまでも多くの学生たちが――とりわけ恋人たちがしてきたように、立入禁止の簡易結界をこっそりとくぐり抜け、私たちは黄昏迫る森に滑り込んだ。

 学寮の禁を犯すスリルと夜の森への漠然とした畏れに戦きながら昂揚し、内心の怯えと緊張を子供じみた忍び笑いにかえて、体をぶつけあったりつつきあったりしてふざけながら。

 そうしてたどりついた小さな沼のほとりで、私たちは身を寄せあって息をひそめ、水面から立ち上がって揺れている沼ユリの、蒼白いつぼみの群れを見まもった。

 やがて水の匂いのする風がそよいで、星を映した沼のおもてにさざなみが立ち、揺れる茎の先で最初の沼ユリの花が開いた。

 ほっ、と、小さな、星の吐息のような音が耳を掠めた。

 と、見るや、一面のつぼみが、次々と開きはじめた。

 ほ、ほ、ほ、、、と、無数の小さなため息が沼のおもてを渡り、そのたびに、暗い水面に白い花が生まれ出る。

 一面の白い花に淡い月明かりが降りそそぐのを、私たちは声もなく眺めていた。

 

――沼ユリの開く音は、セイレーンのため息なんだって。


 やがて恋人は言った。


 この沼には、セイレーンが棲んでいる。

 セイレーンは、元は人間の娘で、そう、ちょうど君のような、歌がうまくて長い黒髪の綺麗な娘で、まだここに学寮ができる前のこと、この沼のほとりの小屋に一人で住んで、森の外の村に住む恋人がときおり訪れるのを待ち暮らしていたけれど、その恋人が、ある時、戦争にとられて、帰ってこなかったんだって。帰らない恋人をずっと待ち続けるうちに、娘は恋しさに痩せ細って、痩せ細りすぎて姿が消えて、沼の精になってしまったんだって。今でも沼の底で恋人の帰りを待ち続けていて、月の夜には、こうして、恋人を想って、ため息をつくんだって。

 そうして、水底で歌を歌い、恋人を招くんだって。

 だから、この沼には、男が一人で来てはいけないんだ。帰ってこない恋人と間違えられて、セイレーンに沼底に引き入れられてしまうから。

 けれども、恋人同士で来れば大丈夫なんだ。

 だって、もし僕がセイレーンの歌を聴いても、君がその優しい手で引き止めてくれるだろう?


――スール、セイレーンの歌が聴こえる?


 私の問いかけに、恋人は首を振った。


――聴こえないよ。だって僕の心は君のことでいっぱいだから、他の女の声なんか、聴こえるわけがないんだ。


 恋人は笑って、強く熱い腕で私を抱いた。

 月夜の沼のほとりで、私たちは幾度も、啄ばむようなくちづけを交わした。

 金髪のスール。愛に輝くその瞳は暖かく私を包んだ。


 私の恋人は、今も、あの、月夜の沼にいる。永遠に明けない夜の中に。あれから、ずっと。




 今、明るい昼の光あふれる聖堂に祝福の鐘が鳴り響き、薔薇色の頬の娘が花束を抱いて微笑んでいる。満場の寿ぎが、花びらと一緒に可憐な花嫁に降りそそぐ。

 可愛いエンニ、優しいエンニ、私の大切な友人。遠い北方の辺境地帯から、知る人もない学寮に心細げにやってきて、たまたま同室になった私にたちまち懐き、姉のように慕ってくれてきた、無邪気な下級生。

 大好きなあなたには、きっと幸せになってほしい。

 まるで光で出来ているみたいなあなたに、白と金との花嫁衣裳が、とっても似合っているわ。


 幸せに輝く花嫁の隣には、私の恋人と同じ顔をした、知らない男が立っている。

(私の恋人は、今、暗い沼の底に沈んでいる。私が、殺した)


 共に友人である花嫁と花婿のために、私は友人みんなを代表して祝婚の歌を捧げる。

 学寮の歌姫とあだ名される私の歌にみなが聴き惚れ、惜しみない拍手が沸き起こる。

 返礼の花束を抱いて歩み寄ってきた花嫁が、まだ少し気遣わしげにおもてを曇らせて、窺うように私を見上げる。

 ああ、エンニ、心配しないで。前にも言ったとおり、私は何も気にしてないわ。

 あなたが入学してきたとき、私とスールはもう付き合っていて、私たちが交際している間は、あなたは自分のスールへの想いを決して口に出さず、誰からも隠し通そうとしていた。私からも、スールからも。

 それでもその夢見るような瞳がいつも憧れをこめてスールの後を追ってしまうことまでは止められなかったし、そんなのは誰に咎められることでもなかった。スールがそのまなざしに気づいてしまったのも、あなたの罪じゃない。あなたは何ひとつ悪くない。

 あなたがスールから交際を申し込まれたとき、私とスールのあいだは、もう、終わっていた。だからこそあなたは交際を承諾した。

 そうでなければあなたがスールの求愛を受け入れることは絶対になかったと、あなたは言ったし、私もそう信じてる。

 そして、スールの私への愛が冷めてしまった原因が何であったかなんて、本当は誰にも分らない。

 スールの姿を追う可愛いあなたの一途なまなざしが関係あったのかもしれないし、なかったのかもしれない。あなたがいなくても、私とスールは遅かれ早かれ終わっていたのかもしれない。


 でも、もう、そんなことはどうでもいいの。

 私の恋人は、あなたの後ろで少し気まずそうに斜め向こうを見ているその男ではない。

 私の恋人は、今もあの、月夜の沼にいる。明日に繋がらない永劫の夜の中に。

(あの人が眠る静かな沼に、移ろうことない月の光が降りそそぐ)


 ねえ、知っていた?

 あの日、あの、丘の上のピクニックは、私たち三人の他にもう一人一緒だった私の同級の男の子、ミカヤに頼まれて私が計画したんだったのよ。あなたはもう、彼の名前も憶えていないでしょうけれど。

 彼はあなたにひとめぼれして、あなたと同室の私に仲を取り持ってくれと頼みにきたから、私が四人でのピクニックを提案したの。

 それなのに、金と緑の木漏れ日が降る大きな木の下であなたがスールに林檎を手渡したとき、スールの指先があなたの白い手に触れ、あなたはさっと頬を赤らめて、ふたりの視線が一瞬絡みあい、すぐに逸らされた。


 私、見てたのよ。

 でも、ほんの一瞬のことだもの、たったそれだけのなにげない偶然だもの、何でもないことと思って、忘れることにしてしまった。

 そして結局、ミカヤのほうは、あんなにいっしょうけんめいあなたを笑わせようとしていたのに、たぶんあなたに顔も憶えてもらえなかった。可哀想なミカヤ。滑稽なミカヤ。


(私の恋人は、沼の底に沈んでいる。私が、沈めた。そこには永遠に朝が来ない)


 あの時、あなたを、あるいはスールをピクニックに誘わなければ、何かが変わっていたかしら?

 いいえ、私たちは同じ学部の仲間としてしょっちゅうみんなで連れ立って歩いていたんだから、あのピクニックがなくたって、どうせそのうちに同じことが起きていたわね。


(私の恋人は、沼の底に沈んでいる。セイレーンの長い黒髪が、水底に横たわる恋人に絡みつく)


「アリョーナ……」

 まっすぐに私をみつめる可愛い花嫁の空色の瞳に、長い黒髪の、蒼ざめた女が映っている。

(そう、沼のセイレーンは、きっとこんな姿をしている)


 ねえ、エンニ、可愛いエンニ、そんな不安そうな顔をしないで。あなたの幸せに少しでも影を落とすものがあるなんて許せない。あなたはいつも笑ってて。

 私は口の端を持ち上げて、微笑みを作ってみせる。

「エンニ、大好きなエンニ、おめでとう。幸せになってね」

 エンニはたちまち輝くような満面の笑顔になって、私に抱きついてくる。

「ああ、アリョーナ、ありがとう、私もあなたが大好きよ、離れ離れに別れても、ずっとずっと大好きよ!」

 それを見た誰もが、思わず微笑む。

 素直なエンニ、無邪気なエンニ。

 花束を私に手渡しながら、潤んだ声でエンニがささやく。

「あなたも幸せになってね、きっと幸せになってね、私、祈っているわ」

 ありがとう、エンニ。私もきっと幸せになるわ。


 私はこれから三年間の実地研修の後、栄えある王立ズエリャ学寮の卒業生として故郷に戻り、郷土の発展のために力を尽くすのだ。技士様と呼ばれて敬われながら、祖国に役立つ充実した人生を送るだろう。そのうちに、幼なじみの若者の誰かと、結婚もするかもしれない。きっとその人を愛するだろう。王都の学寮での短い恋は、過ぎた青春の遠い想い出として心の小箱にしまわれたまま、ゆっくりと色あせてゆくだろう。


 けれど今、私の胸の奥の暗い沼で、ちいさな無数のため息のように、沼ユリの花が開く。

 沼ユリのため息が、帰らない時を引きとめて、つかのまの青春を永遠の中に閉じ込めて、沼のほとりで、あの一夜が、永劫に繰り返される。

 白い花に飾られた沼の底では、あの人が眠っている。美しいスール、金髪のスール。もはや年を重ねることもなく、二度と開かない瞼に、瞳に宿る永遠の愛を閉じ込めて。そっと閉ざされた唇の端に、決して訪れることのない明日に発せられるはずだった真実の愛の言葉を漂わせて。

 明日あしたの来ない永遠の夜の国で、明けることのない月夜の沼の底で、あの人と私は、とこしえの愛を紡ぐ。暗緑の水藻がセイレーンの指先のようにあの人の頬を愛撫する。沼底の重たい泥があの人の脚を飲み込んで、ぬるくやわらかな足枷に、あの人は永劫に囚われる。二度と目覚めぬ恋人の、閉ざされた瞼に、私はそっとくちづける。


(光明るい聖堂を、花嫁と花婿が喝采を浴びて歩み出て行く。まひるの光の中へ。ふたりの未来の中へ。私はここに取り残されて、ふたりの背中を見送る)



 私の恋人は、沼の底に沈んでいる。私が、沈めた。

 私はそれからずっと、明けない夜の中にいる。明るいまひるでも、月夜の沼にいる。

 暗い沼の底から、セイレーンの歌が聴こえる。

 通りすぎてゆくものを歌声で搦めとり、沼の底に引き込んで繋ぎ止めようと、私の胸の奥で、セイレーンが歌う。

 私がここを離れても、私の心はいつまでもこの場所で、悲しいうたを歌い続ける。




 学寮の北の外縁に広がる“嘆きの森”の奥の沼には、セイレーンが棲んでいる。

 沼の底で、恋人の亡骸を抱いて、今もセイレーンが歌っている。

 いつか学寮の禁を犯して“嘆きの森”に忍び込み月夜の沼を訪れた誰かは、私と同じ声をしたセイレーンの歌を聴くだろう。


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セイレーン 冬木洋子 @fuyukiyoko

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