彼女には理解できない喜び[短編]

窓辺の七花

一話完結


 かちこちかちこち、腕時計に目をやる。まだ早いか。

 刈谷は待ち合わせ場所をもう一度見回した。真っ黒なレストランの個室、壁もテーブルもカーペットも黒黒黒。真っ黒なテーブルクロスの上に飾られた白いバラだけが浮き足たって見える。密談向けの個室のレストラン、BGMすらない。

 こつりこつり、と表現するにはいささかか細い足音。ポッキーが折れる音を大げさにしたようなアンバランスなのに転ばない足取りは女性の靴音だ。きっとその足にはポッキーのように細く長いヒールが生えているのだろう。

 刈谷はそんな足音を予想して、ゆうゆうとジンジャエールを飲んでいた。銀座にしては安い店だが、酒を頼む気にはなれない。

「あの、遅れてしまって・・・・・・すみません」

「うわっ!?・・・あ、なんだ美月ちゃんか、びっくりした。音もなく現れるからおじさんびっくりしちゃったよ、はははっ」

 本気で気がついていなかった、無音で忍び寄るとは彼女は何者なのか。ーー背後には美しい女性がたっていた。長い黒髪に小さなヘアピン、ジーンズにブラウンのハイネックという軽装だったが妙に品がある。きっと封を切ったばかりの新品なのだろう。彼女の足下を見るとヒールのない靴を履いており、苦笑いが漏れた。

「ご、ごめんなさい、できるだけ音を立てないようにと」

「音もなく背後から声かけられた方がびっくりするって。二人きりの待ち合わせだから、俺に声を掛けるとした君しかない。なのに驚いちゃったよ、あれもしかして俺難聴?」

「・・・・・・す、すみません」

「いやいや、だから謝らなくていいって!遅れたってもこんな地下迷宮の果てにあるような会員制レストラン初めてなら、予想より早いくらいだよ? 一時間待ってないもん、俺」

「銀座もあまりきたことがなくて駅から迷ってしまいました」

「むしろこの業界としてはさ、美月ちゃんみたいな売れっ子、時の人、実績ある実力派なんて若者は俺みたいな年食っても使い走りの中年を待たせて当然ってのがセオリーなんだから。てか、いいかげん座りなよ?」

 ここはバーカウンターではない、ゆったり座れる木製椅子が三つ。相談室のような構成はここの店が地価の高い場所で細々とやっていける理由だろう。彼女は視線をさまよわせると刈谷から見て斜め右に座った。

「ではお隣に・・・・・・いえ、刈谷さんは使い走りなんかじゃないです。色々な現場を経験された古強者と若手には噂されていますよ」

「まあ裏方長いからね、あっちへふらふら、こっちへふらふらの根無し草は使い勝手がいいからこき使われてる。ーーでも君は違う。

君は間違いなく時代の寵児、いやそんなもんじゃない。十年に一度くらいの天才だ、古強者の俺が保証するさ・・・しかし古強者って、みんな若者の割に古風な噂するね」

 それは事実だった。彼女、本名日野美月は時代の寵児で羨むのもバカバカしいほどの天才だ。しかも謙虚な人格者。そういう人物から褒められるとは、お世辞でもうれしい。

「人気者なんですよ、影では、人の本音の間では」

「もっとおおっぴらに人気者になりたいもんだなあ・・・さて、俺は君を天才だと思う。だから俺風情に君が『絶対に秘密の相談をしたい』って持ちかけた理由がよくわからない。俺と君の関係は現場で何回か仕事して雑談した、知人と友人の中間程度。その程度の奴ならたくさんいるだろう?」

「その、確かに刈谷さんでもなくてもよかったです。でも誰でもというわけではないです」

「そうかな?俺が君の話した秘密をばらすとは思わなかった?なにせ俺は下っ端の貧乏人だからね、若くて美人、周囲からきゃーきゃー言われる実力派音楽演出家香坂美月の秘密なんか知ったら脅すかもしれないよ?

 君みたいな人は心を開く相手を選ぶべきだ」

 刈谷は飄々とした人間だ、自分でも多少の自覚はある。けれど平凡な人間でもあったから、才能と努力と運に選ばれた人間には嫉妬もある。そんな自分の悪心を抑制する意味も兼ねた忠告でもあった。

 しかし涼しい笑い声が思わぬ事実を告げた。祝福のラッパが小さい音しか奏でないように。

「そういう所をなんども忠告してくれる人だから、お願いしたんですよ」

「へ?・・・・・・そんなこと、あったっけ?」

 そんな善人だった記憶はない。悪人ではないつもりだが聖人になった覚えもない。

 額に指先でつついても記憶は戻らない。彼女に関する記憶は凡人の自分がすごいなあと遠巻きに見上げるものだけだった。しかしこうして呼び出されるということは、自分のやったことの記憶など宛にならないということか。

「善行って自分が他人にしたときは意外と忘れてしまうんですよ。・・・・・・そうですね、あなたでなくてもよかったです。でも他人に話してたまらないけど、絶対に一人二人にしか話せないと思ったとき、一番に目に入ったのが貴方だったんですよ。そしてこの人ならと思えたーー貴方も自分を卑下しすぎです」

「・・・・・・若者達観しすぎて、ナマイキー。俺の半分くらいしか生きてないくせに」

「ふふふ」

 できる若者は、強者がそうであるように静かに笑い、相対的弱者の刈谷の茶化に乗りはしなかった。

「でさ・・・君の悩みって何?」

「・・・・・・・・・・・・」

 視線が逸らされ、地に墜ちる。

「君が俺を信頼してくれてうれしいよ、だから俺はそれに茶化さないで真剣に答えようと思うーー君がどうしても話したけど隠しておきたいことはなんだい?」

「・・・・・・・・・・・・」

「ま、恋の悩みじゃないのは確かだよね。それなら同世代の友達に話せばいいし、ましてやこんな地下レストランにまでくる必要はない。自宅に招いて相談すれば・・・」

「・・・・・・楽って・・・・・・きですか?」

 注意深くページをめくる音のような、小さな声。風どころか空気にすら紛れてしまいそうな細いーー嘆き?

「え?・・・・・・ごめん、よく聞こえな・・・・・・どしたのそんな怖い顔して?」

「刈谷さんはーー音楽って好きですか?」

「・・・・・・はい?」

 完全に予想外の質問で、ジンジャエールのコップをひっくり返す。中身は空だったので、部屋に反響したのは続く美月の声だけだった。

「すみません、やっぱり変なことを聞いていますね・・・」

「はあ・・・・・・それが君の悩み?なんか哲学的だね・・・・・・わわ、そんな怖い顔に戻らないで!」

「哲学レベルでなくて構いませんーー感覚として、好き・嫌いを教えてください」

「え、えーと・・・・・・好き嫌いというか、まあ仕事だね。毎日どうしたら歌手や音楽家の魅力を広く伝えられるかの演出、そのためにかけずり回ってる。結構忙しいから、好き嫌いって感覚はだんだんなくなってる・・・・・・かな?」

「仕事の話じゃなくて構いません、休日に音楽を聴いたり、それを楽しんだりしていますか?」

 なんだそれ、文化的で健康的な最低限の生活?

「そりゃ、まあ適当に・・・・・・若い頃凝った洋楽ロックコレクションとかをたまに懐かしんで聴いたりする程度には・・・これ何の話?」

「通勤途中や仕事の合間に携帯型の音楽プレーヤーを暇つぶしに聴いたことがありますか?」

「そりゃ・・・・・・疲れたときにヒーリングとかなら」

「コンビニやカフェテリアで知っている曲が流れると嬉しくなったりしますか?」

「・・・・・・・・・・・・君は」

「懐かしい曲やメロディはありますか!?聴くだけで思い出が蘇る曲ってありますか!?音楽って日常には欠かせないものですか!?」

 切迫していく、鬼気迫っていく。そんな殺気だった天才音楽演出家の言葉。焦りに飲み込まれぬよう、ばらまかれた言葉から推論を汲み上げることに集中する。彼女は何を言っている・・・・・・?

「・・・・・・私には、そんなものありません」

「君は・・・・・・音楽を嫌いなのかい?」

「・・・・・・分かり、ません」

「ん・・・・・・ちょっと水飲んで落ち着きなよ、君は興奮しすぎている」

 ミネラルウォーターを繊細な形状のグラスに傾ける。のどを潤す液体ーー彼女の乾きに効くかはわからないが。

「・・・・・・はい」

「ーー正直よく分からない、聞く限りだと君は音楽が好きじゃないみたいだ」

 ゆっくりと話始めると、グラスの水が半分になる。視線は合わない。

「しかし、君が演出を手がけた音楽番組やPVは多くのヒットを生み出した。大きな金を生み、多くの夢見る音楽アーティストに成功の足がかりを作った。何より視聴者を、聴衆を音楽の力で感動させてきた。

 だから俺は、そんな君が好きな曲を聴いて楽しむことがないってのがよく分からない。正直想像すらできない、ごめん」

「・・・・・・すみません」

「好きなことを仕事にして成功して忙しくなって、それ自体がつまらなくなる奴は珍しくないよ。俺はそんなミュージシャンをたくさん見てきた。

 でもさ、そんな奴だって休日にふと自分の好きな音楽を聴くのを止めたってのまでは聞いたことがない。うんざりしてロックをやってた奴がクラシックを、ポップを歌ってた奴が外国のメタルを、クラシックをやってる奴が休日は電子ロックに夢中って言われたって驚かないさ。

 しかし、君の言っていることのニュアンスはそいつらとは違う気がする」

「ーーはい、ジャンルや忙しさの問題ではありません。変な話ですが、私が音楽に関われているのは忙しくて曲を聴く暇もない『仕事』だからですよ。

 ーー刈谷さん、私が初めて音楽の演出の真似事をしたときの話を知っていますか?」

「当然知ってるさ、伝説の始まりだ。誰でも知ってる、音楽関係なら広く知れ渡っている。ーー君はあるアイドルグループ、いや読者モデルで組んでいたグループの一員だった。モデルだったからそれまではオフィシャルには音楽活動はしていない。

でもよくある話で君たちはよく売れたから、ありがちに次は歌ってCDを出さないかって話になった。そして君たちのグループも所属事務所も快く同意したーーあってる?」

「はい、おおむねは。みんなとても喜んでいました、チャンスだって」

「では続けるね。しかし君はこのCDのプロモーション映像の演出に参加させてほしいと頼み込んだ。撮影と平行して、ましてプロでもないのに無理だと断られたのに辛抱強く食いついた。話題作りにもなると言うことで、本業に支障がない範囲でということで了承された。

 参加し始めた君は激務を必死にこなした、それこそ寝る間もないほどに。そしてできあがったプロモーションは駆け出しアイドルのものとしてはあり得ない出来になった。いや、それはもう作品だった」

「・・・・・・」

「昔話したことがあるよ、そのとき君と組んでた演出家と。彼は言っていた「知らないときはただのアイドルもどきが物好きだと思っていたが、私は本当は自分が手をどんなに伸ばしても届かない存在を会話していた」ってなーー演出と出演をアイドルグループの一員が兼ねている話題性もあって人はよく手に取った。

 結果、CDはバカ売れ。一発だけじゃなく、何度かプレスされて結構長生きのCDだった。音楽不況に珍しい持続性だった。PVはテレビで再三放送されて、その頃には音楽演出家・日野美月の伝説の始まりだ。・・・・・・正直俺もあのPVのファンだ。日頃アイドルの音楽なんて聴かないのにな、でも日本中にそんな奴はたくさんいた」

「私はどうして素人のくせに演出なんかしたんだと思いますか?」

「今までは、君が天才だからビビっときたんだと思ってたよ・・・・・・今までは。でも違うんだろう?」

「・・・・・・私たちは元々読者モデルのグループでプロとアマの中間のような集団でした。アイドルになりたいって子も結構いました。

 だから歌ってCDを出さないかって話がきたときチャンスだとみんな喜びました。私は・・・・・・正直どちらでもよかった。人生で音楽に興味を持った事なんてなかったし、有名になれるということも現実感はありませんでした。でも・・・・・・。

 私たちはそのCDが売れたことででたくさんの一に注目されて、仲間もたくさんのチャンスを得ました。夢を叶えたって子もいて一緒に喜びました。でも本当は私は」

「ーー君はそれがきっかけでグループを抜けた。自分が演出をして成功したグループの一員を止めた、そうだね?」

「・・・・・・はい、すぐに辞めました」

「周囲は君は本当はプロデュースがやりたくて今までアイドルの真似事をしていたんだろうと思った。実際君は歌手や芸能人の歌を多く成功させる中で、有名な音大にもいった。俺もそう思っていた・・・・・・でも君は、それは野心や夢でなく、違う理由で行ったと?」

「ーー私は、初めて、CD化の話が出て事務所の人に聞かされた曲を聴いて思ったんです。なんてひどい曲だろうって・・・なんの感動も感情もわかない、ただの雑音、そう思いました。こんなの歌ったら歌手になりたいって言ってる梨花の夢がつぶれるって焦って演出に加えてほしいと頼みました。彼女は私の親友でしたから」

「・・・・・・え?・・・・・・でも」

「だから私はがんばりました!ほとんどスタッフもついていない企画だったから、なんどもああしたらこうしたらとマネージャーさんに頼み込みました。この音楽は曲もメロディもだめだから、映像、演出、私たちの訴えやすいアピールポイントを分析して、仰られたとおり寝ないで何度も提案書を提出しました!このままじゃだめだ、音楽以外のもので勝負しないと話にならないからなんとかしないとって!!」

「でもあれは、新譜の売上一位になったーーもちろん君の演出への貢献もあったろうが、半年はベスト20に入ったんだ。新鋭の作曲家が売り込みで書いた名曲だ。歌唱力は普通だったが熱意は伝わってきて、曲だけ聴いてもの世代の違う俺でも「おっ」って振り返らせる力があった・・・・・・はずだよ?」

「そうなんです!あの曲が酷いんじゃなくて・・・・・・おかしいのは、本当におかしいのは私の方だった!私が私が!」

「水を飲んで、一気に話しすぎだ」

「私はそこで初めて気がついたんです!やっと気がついたんです!音楽って学校で仕方なくむりやりやらされるだけのものじゃなくて、人に愛されているものだって。ただの雑音だと、ビルを壊す音や、テレビのノイズと同じだと、イライラするだけの存在ーーそう思っていたのは私だけだって。全ての音楽が雑音でしかなくて、ただただ不快でストレスにしかならない私の方が・・・・・・異常者だったって事に・・・・・・」

 そのまま彼女は泣き崩れた。泣いた赤鬼の泣き声はこんな悲痛なものだったのだろうか。小さい泣き声なのによく響くーーそういえば彼女の指定したこの店は決して音楽をかけない店だった。



 刈谷は呆然とグラスを持って、記憶の奥から記憶を呼び出していた。

 日野美月は変わった音楽演出家だった。アイドルデビューしたというのに、成功したとたん裏方に徹した。そしてさらなる成功を掴んだ。刈谷も周囲と一緒に囁いたーーいやはや天才ってのはいるんだね。

「でも・・・・・・君は、その後に音大に行ったじゃないか、不快ならなんで?」

「自分が恐ろしかったからです、みんなは音楽が好き、私だけが聴くだけで不快だなんて!

 だからきっともっと勉強すれば、そんなことなくなると思った。きっと狭い世界しか知らないせいだ、きっと広い世界には私にもみんなと同じようにこれが私の好きな音楽だと言える曲があるはずだ、あってほしいって!

 知識があれば経験があれば世界が広がれば、それがきっと見つかるって信じてました。・・・・・・でもどこにも、なかった・・・・・・」

 日野美月は困難な学業と仕事の合間にクラシックのコンサートへ行ったり、最新のロックを聴くために海外へ渡った。周囲は確かこう囁いていたーーやはりあの娘は本物だよ、天才は努力を怠らないもんさ。

「クラシックもポップミュージックも、古典邦楽もアンダーグラウンドの曲も! 全部一緒! 私にはノイズでしかない、みんなはどれかは好きなのに! 私だけはどれもだめなんです!」

「君は・・・・・・君が一度音楽業界から引退していた、それはそのせいかい?」

「ええ、もう私はだめだ。どんなに努力したところで一生音楽で感動できないーーそう確信したからやめました。聴覚や脳や精神的な問題かと病院にも行きましたが、全て正常とも宣告されましたから」

 それは彼女にとって死刑宣告だったのだろう。

「でも君は戻ってきた、どうしてだ?そんな君を苦しめる真似をどうして」

「どこにも逃げられませんでした、この世に、人間の住むところに音楽のない所なんてない。

 自分に絶望したからでしょうか? 私はだんだんと音楽が聴こえるのが不快でなく、恐怖となりました。自分が異常者だと断罪されているようで、聴けば苦しくて堪らない。・・・・・・レストランのBGMで吐き気がするんですよ!? 小学校を通りかかってふと聞こえた音楽で目眩がするんですよ!?

 これがおかしくなくて何がおかしくないんですか!?」

「だったら尚更、なんでまたこの世界に!?」

「仕事にしてしまえば、一番楽だからです。作業として音楽以外の良い部分を抽出して、かき集めて、元がどんな音楽でも魅力的に魅せる。そうして集中している時が一番音楽を部品として扱えて、気分がましなんです・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 絶句、だった。

 刈谷は彼女を手の届かない天才だと思っていた。そしてそれは間違いではないーーしかしその理由は余りに凄惨なものだった。彼女が天才と呼ばれる理由は、自分が異常者であるという恐怖から逃れたい一心だったから、など・・・・・・。

 そこにあるのは創作の苦しみでも、理解されない苦悩でもなく、みんなと同じものを愛したいけれどできないという自分への失望と恐怖に突き動かれただけだった。

 なんて悲劇だ、しかも救う方法が全く思いつかない。彼女の言うとおりだ、人の世に全く音楽のない場所などない。

 音楽は世界に愛と平和をもたらす。そんなキャッチコピーをキレイゴトだと苦笑しつつ、同時に言語を越えて感情を伝える音楽に可能性も感じていた。

 しかし、それは彼女にとって地獄だった。彼女には届かない、どんなに手を伸ばしても傷つくばかりで届かない。

「刈谷さん・・・・・・私ね、大学には行ったときからずっとお金を貯めてきたんです。どうしてもダメだったとき、これで私は誰も人の住まない所にいこうって。人がいなければ音楽もないから。

 そして目標金額までとっくに貯まって、場所の目星もついています。何ヶ月かしたら私はそこへ行くーー」

 遠い場所をみている。月の裏側をのぞくような、地獄の釜を見下ろすようなーー寂しい目。

「だからあなたに聴いてみたいことがありです、ここまで私の話を聴いてくれたあなたに」

 流れる涙はとても透明で美しい、それなのに刈谷には美月が血を流しているように見えた。

「ねえーー私はついに恐ろしいものから解き放たれて旅立つんでしょうか?・・・・・・それとも人の愛するものを理解できない化け物としてこの世界から追放されるんでしょうか?」

 彼女の涙は悲しみを訴えるだけのもので激しくはない、けれど刈谷にはその顔が夜叉に見えた。人から恐れられる化け物の面を刈谷はずっとこう思っていたーーなんて悲しい顔をしているんだと。

「美月ちゃん」

「はい」

「俺には君の気持ちは分からない」

「・・・・・・すまないと思っている。けれど俺は平凡な人間でーー悲しみを想像することもろくにできない。君が救われるのかどうかもわからない」

 一人きりの地獄に堕ちていくのかも、分からない。

「・・・・・・そうですね、私にも分かりません。もしかしたら永遠に、死ぬまで」

 席を立つ気配。何かが切り離され、取り返しのつかない事が起きる予感。彼女は遠くへ行き、きっと帰らない。

「待てよ」

 だから彼女の腕を掴んだ。彼女は立ち上がれず、遠い世界にまだ旅立てない。

「でもいつか君の気持ちが理解できる日が来るかもしれない。だからーー本当に誰もいない場所に行くのはやめてくれ」

「・・・・・・」

「勝手なことを言っている。君は自分の特性を理解して、一人で自分の始末をつけようとしている」

「・・・・・・あなたは勘違いしています、私は自殺しに行くんじゃありません」

「でも、もうほとんど人と接触しない生活を始めるつもりなんだろう。だったら俺の世界では死んだも同然だ」

 一体何を話しているんだろう、彼女なんてろくに会話もしていない存在だったのに。どうして必死になるんだろう。

「捨てないでくれ、今までいた世界が辛くても何も言わず全てを絶つことは俺には許容できないーー予定してた出発は中止してくれ」

「あなたに何が分かるんですか」

 夜叉の顔に怒りの灯がともる。けれどさっきより理解できる色だった。

「ああ、分からない。けどこれは分かるーー君はこれから君を理解できるかもしれない人々に何も告げずいなくなろうとしている。それはダメだ」

「腕を離してください!」

「誰にでも彼にでも自分の心の内なんて喋るもんじゃない、けどさたまに相手が傷ついたとしても漏らすことは必要だ。君はさっきデビュー作の演出をがんばったのは親友の為だって言った、じゃあ彼女のためにやめよう」

「軽蔑されたくないんです、怖がられたらどうします? あなたには分からないでしょうね! 自分が普通であることが当たり前の人に!」

 平手打ちが炸裂した、友人を出される方が意外と人は激高する。そんな経験を思い出すが、もういい加減離せばいい。彼女の人生じゃないか、好きにすればいい。理解されない苦悩の果てに自分で始末をする、人に迷惑もかけないで大したことじゃないか。

「・・・・・・放っておいてください」

「君のご両親は? 友人たちは? 彼氏は? そして君を尊敬する哀れで無能で夢を捨てきれない凡人たちは?」

「うるさいうるさい、うるさい!」

 もう二発、目に火花が飛び散る。バカな男だ、どうしてろくに話もしなかった女にそんなに真剣になる? 彼女に憧れていたからか? 惚れていたか? 可哀想だからか?

「誰も私の気持ちを理解できない・・・・・・いつかそのことで私はきっと彼らを責める、傷つける! そんな日の前に」

「君を理解しようとしない連中なんて迷惑かけてやればいい、痛みは教訓なるかもしれない。こうやってビンタくらいいくらでもしてやればいいさ。

 俺は君が特殊だと思う、とても可哀想だ。けど自分から望みを捨てるなら、もう助けてやれない。自分で幸せになろうとすることをやめる人間を助けることはとても難しいんだ」

「私は、誰にも助けることは出来ない!」

「いいや、そんなことは絶対にない!君が救いを求める限り、思わないところから助けは差し伸べられる! それを捨てないでくれ!」

 四度目の一撃は顔面への平手打ちではなく、鈍器だった。刈谷が飲んでいたジンジャエールのコップが掴んでいた手に降り下ろされた。痛みに手を離すと彼女は風のように消えていた。





 結局、日野美月は世捨て人になった。

 けれど彼女は元々の定住先を海外の辺境から、国内の山奥に変更してくれた。電車どころか車もろくに走らない北の山地、けれど四輪駆動を使って近くの国道まで午前中に行けば日が暮れるまでには会える。ハードルが高いが全てを断絶もしない。それが刈谷の説得の影響か彼女の躊躇故かは分からない。

 どちらにせよ彼女はハードルは高いが手の届くところにいる。もっともそれは彼女を雲の上の存在と思っていた頃と変化はないのかもしれない。刈谷は会いに行ったことはない。ーー家族と友人がたまに会いに行っていることは知っていたから。

「さて相変わらず、事務的なような、詩的なような」

 文字を並ばせても常人ではない。常人に心底あこがれた彼女らしい。

 休日に刈谷は筆を走らせることが増えたーー美月とは月一の手紙のやりとりでつながっている。彼女の住所には手紙は届かないが、近場の郵便局に留めてもらっているのを耳栓をして受け取っているらしい。

 便せんはシンプルなものだった。かっちりした文字に不安定な文面、けれど彼女は全てを捨てることはなかった。今のところは。ほとんどは捨てたが彼女が理解されないと怯えていた親しい人々は彼女の行動に驚愕し、すぐ山奥まで追いかけてきた。ーーそれを聞いて「ああやっぱり止めて良かったなあ」と旅行鞄をしまった。

「まあ親御さんを泣かせなくてすんだって事なのかな、彼女の友達も」

 わあわあ泣いて奥地を訪ねたに違いないが、そんな事を自己満足で思う。手紙の向こうでは彼女が計画的に自給自足の生活と巨額の富を雀の涙ほどきり崩している様に苦笑してしまう。折角なので豪邸でも建ててドーベルマンを飼えばいい気もするけれど、まあ彼女らしい。

「ただ俺が行くと音楽の話とかぽろりとしちまいそうなんだよな」

 あの夜叉のように美しい女性がどんな隠遁生活を送っているのか、この目で見たい願望はある。でもあの会話以来思った以上に刈谷が自分が音楽を愛していると思い知った。骨の髄まで音のコントラストと人の悲喜の相関性が愛おしい。

「だから一人寂しくしてないなら、会いに行く必要なんてないさ。彼女と俺はほとんど他人だし」

 けれどーー同時に思う、あんなに人を真剣に説得したのは初めてだった。彼女が美しかったから? 哀れだったから? 違うーー結局刈谷は愛する音楽が人を不幸にする姿を見たくなかった。毎日毎週毎年、振り向いてほしい、聞いてほしい、これを感じてほしい、理解してほしい、そう思って音楽の仕事をしてきた。それがあんなに人を不幸にするなんて認めるわけにはいかない。

 まあ山奥に引っ込むほどなんだから幸せとはいかないだろうが、最悪の事態は避けられた。

「音楽で不幸になんて、俺の目の前ではいやなんだ」

 今でも彼女が不幸にされていないか、確かめたくてこうして手紙を書き続けている。音楽愛好家と音楽恐怖症、いつか分かりあえたらと祈る気持ちをまだ捨てきれずに万年筆を便箋に走らせる。

 ーー拝啓、お元気ですか。そちらの暮らしはいかがでしょうか・・・・・・。





あとがき


 天才と呼ばれる人の自伝や逸話はたくさんあります。

 そんな中で脅迫的に努力を続ける人も結構いると知りました。そういう人はどんな気持ちだろう、私がそんな人を書くならどんな感じだろうと思い、こんな風になりました。その道を究めることが目的ならよかったのにね。

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