第7話 祝福された門出

 コンコン、という遠慮がちなノックの音。


 すぐにそれがアーニャのものではないと気付いた僕は、無言で『そいつ』と自分を遮る古ぼけた扉を眺めている。


 コンコン。


 再び繰り返されたノックから察するに、諦める気など毛頭無いのだろう。


「――リドル」


 続けて、扉の向こう側から遠慮がちな声がした。


 低くて通りのいい、成人した男の声だ。


「……何だ」


 僕は溜め息をつきながらそれに答える。時刻は未だ早朝。奴の脳内辞書に『遠慮』や『礼儀』という言葉は無いらしい。


「話があるんだ。開けるぞ」


 続けられたのは許可を求める言葉ではなく、もはや宣告だった。


 そして僕の返事を待たずにドアが開かれる。いくら神妙な面持ちをしたって無駄だ。僕は眉間に深い皺を寄せる。


「――開けていいとは言っていない筈だが」

「あんたが許してくれるのを待ってたら日が暮れちまう」


 淡々と話す僕の言葉尻にかぶせるようにして男は言った。


 長い前髪に隠れた眉は凛々しく吊り上がり、瞳には揺らぐことの無い決意の色が見える。


 僕は男の――シドの顔を暫く眺めてから、肩をすくめた。窓辺の椅子に腰かけたまま、再び外の風景に視線を向ける。


「――今から発つことにした」


 静かな声で奴がそう言っても、僕は大して驚かなかった。


「そうか。だったらとっとと出て行くがいい」


 背を向けたまま不愛想に言う僕の態度に、少し前のあいつなら「何だい何だい失礼だなぁ」と肩をすくめる筈だった。


 しかし奴は何も言わない。


 暫く黙りこくった後、口にしたのはこんな言葉だった。


「――どこへ、とは聞かないのか?」


 奴の言いように僕はフン、と鼻を鳴らす。


「思いあがるな。お前ごときの動向に興味を持つような僕ではない」


 見下ろした朝の街に、行き交う人は未だ少ない。


 しかしすれ違った人々は皆一様に笑顔で挨拶をかわす。今にもここまで声が聞こえてきそうだ。 僕はそれを何となく、ただ本当に何となく眺めている。暇だから。退屈だから。理由はそんなところだ。それ以上でも以下でもない。


「ピライエ山脈に向かうことにした。そこに、もしかしたら『希望』があるかもしれない」


 シドが口にしたのは、遥か南にそびえるというきりたった山脈の名だ。


 僕は奴の言う『希望』についても詳しいことは聞かなかった。何せ僕は『人間』に興味がない。 コトラの民に害を為し、口を開けば不平不満ばかりの人間になんて――……。


「有難う」


 男は確かにそう言った。ゆっくりと振り返ると、腰をほぼ直角に折り曲げながら、自分より一回りは年少の僕に深々と礼をするシドの姿が目に入る。


「無礼な真似をはたらいて本当にすまなかった。気を悪くするどころの騒ぎじゃあなかったろう。しかしそれでも、あんたは俺に情けをかけてくれた」


 男はそう言ったきり押し黙る。僕は暫く考えて口を開いた。


「――何のことをいっているのかわからないな」


 そう言ったきり両腕を組んで、男のつむじをじっと見つめる。


「……わかって欲しくて言ったわけじゃないさ。ただ、言いたかった、言わなきゃあならんと思っただけで」


 シドはそう言うと、顔を上げてへにゃりと笑った。


「あんたは忘れてくれていい。哀れな男が一人、あんたの住処に乗り込んできたことも、無茶な願いを口にしたことも、全部、全部」


 その言葉に、僕は昨日の夕刻から起こった出来事を頭の中で思い返してみた。


 街の人間の罵声、コトラを騙る奇術師、そして、三人で囲んだ食卓で湧くにぎやかな笑い声。


「――そうだな。早々に忘れることにしよう」


 僕はそう言って、再び男から視線を逸らした。


「――しかし昨日のチキンソテーは、特別美味かった。……そのことはしばらくの間、覚えているかもしれない」


 部屋の隅、何もないところをじっと見つめる僕に、シドはそれ以上何も言わなかった。


 ただふっと、何ともいえない柔らかさで破顔して、再び僕に一礼する。


「――本当に、有難う。……いつか。いつか、必ず、また会おう」


 シドはそう言ってきびすを返した。


「……おい」


 その背中に、僕は思わず声をかける。


 振り返ったシドに一言、問うた。ニヤリといかにもニヒルな表情で笑って見せながら。


「――僕に願うのは諦めたのか? コトラの力にかかれば、恐らくその『希望』とやらもたやすく手に入る」


 シドは両目を見開いた数秒の後、こらえきれずといった感じで噴き出した。


 ひとしきり笑ってから、清々しい表情で僕に告げる。


「……わかったんだ。誰かを悲しませながら願いを叶えても、結局誰も喜んじゃあくれないってことがさ」


 それは宣誓にも似た誠実さで、静かに僕の鼓膜を震わせた。


 それじゃあ、という一言と共に、男の姿が室内から消える。パタンと閉じたドア。次いで僅かに聞こえる階段を下る足音。


 僕は窓の枠に頬杖をつきながら、誰にともなく呟いた。


「忘れろと言ったり『また』と言ったり、頼むと言ったり『いい』と言ったり……矛盾しているだろうが」


 そう、人間という生き物は、かくも矛盾をはらんでいる。


 生きたいと言った口で死にたいと言ったり、好きだと言えば嫌いだと言う。


 全くもって理解不能だ。近寄りたいとも思わない。


 嘆息しながら窓の外を眺めていると、白銀の鎧を身にまとった男が死角から現れる。笑いながら手を振っているのはアーニャに対してだろうか。全く、僕の朝飯の用意もせずに、ふざけたメイドだ。


 何度も何度も振り返りながら、最後にはちゃんと背筋を伸ばして、前を向いて歩き出す。


 一歩、また一歩と踏み出すごとに、鎧はカシャンカシャンと硬質な音をたてている筈だ。


 迷うことなく、見つかるとも知れない一縷の希望だけを頼りに。


 不意に男が立ち止まり、振り返った。


 二つの瞳がこちらを仰ぎ、ふっと細められる。


 唇が形作ったのは、何という言葉なのか。


 僕にはわからなかった。わからなかった、筈なのに。


「……っ……!」


 その瞬間、喉の奥でぐっと息がつまるのを感じて、僕はたまらず窓を開いた。


 シドの瞳が驚きに見開かれているのがわかる。当然だ。僕だって自分が何をしているのかわからない。


 ――柔らかに吹き込む風。生い茂る緑と、温められた朝食の匂い。


 この窓を開いたのは、生まれてこの方これが初めてだった。


 なんだ。どうしていつも指をくわえながら、ガラス越しに眺めていたのか。


 世界はこんなにも、こんなにも。




「――“花よ”!!」


 僕は窓の外に向かって右手を突き出すと、厳かにそう口にしていた。


 ……あいつに『コトラの力』を見せつけてやる為だ。二度と偽物なんか騙れないように、この圧倒的な力の差を。その為だ。その為だけだ。


 僕の掌からあふれるように、色とりどりの花が舞い落ちる。


 慌てた男がそれを受け止めようと走り回る。しかしとても拾いきれない。何せ花は大量だ。




 ピンク、白、黄色、紫。


 鮮やかに舞うそれらは色こそ違えど、みな同じ花弁の形をしていた。


 ミリアの花。学名ミリア=ラ=フィーネ。


 ――花言葉は『祝福された門出』だ。




 くるくると走り回る男の姿を見てひとしきり笑った後で、僕はゆっくりと歩き出した。


 朝食の用意をさぼっているメイドに喝を入れて、一足先に卓についてやろう。あいつには良いプレッシャーになるはずだ。


 用意ができたらトレイを並べ、ゆっくりと朝食を頂くのだ――勿論二人で。


 窓を開けたまま、ゆっくりと部屋の扉を閉める。その瞬間、紫色のミリアの花が、風のいたずらで一輪、ふわりと迷い込んだ。

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ことばの魔法のすむところ あだがわ にな @adagawanina

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