第6話 開かずの書庫にて

 アーニャちゃんが満面の笑みを浮かべながら「書庫の掃除を手伝ってほしいの!」と言ってきた時は何事かと思った。飯代のかわりか? それともこれから一生ここで召使いとしてこき使われるのか? 身構えた俺の強張った表情を見て、アーニャちゃんがぷっと噴き出す。


「違うの! そういうんじゃなくて! ――あーもうっ!説明してる時間が惜しいわ!」


 そう言うなりアーニャちゃんは、見た目によらず強い力で俺の手をぎゅっと握りしめると、二の足を踏む俺を叱りつけるような勢いでとある部屋の前へと向かった。


 重厚な扉。見るからに立ち入りにくそうな雰囲気だ。


 ますます尻込みする俺をよそに、アーニャちゃんは無造作に扉を開く。


「うおぉ……!!」


 思わずため息交じりの言葉が漏れた。


 目の前に広がるのは壁中を埋め尽くす本棚と、所狭しと陳列された本、本、どこまでも続く本の山。


「――ここを掃除しろって?」


 棚やら本やらの隙間を一つずつ綺麗にしていたら、いつの間にか朝になっていそうだ。


 げんなりする俺を見て、アーニャちゃんがぶんぶんと首を振る。


「名目上は、そうなんだけど……ここの掃除はつい最近済ませたばかりなの。だけどリドルは『掃除をしておけ』と言ったわ。そしてその為に、貴方をここに入れても構わないって!」

「はぁ……」


 彼女がどうしてそんなに興奮しているのかわからない俺は曖昧に頷いた。


 もどかしそうに顔をしかめたアーニャちゃんは、俺を部屋の中に引きずり込みながら言葉を続ける。


「この部屋は、古来から少しずつ蓄えられてきた貴重な書物が眠っているの。民話や伝説の類から、あらゆる技術の解説書、それに最新の医学書まで! それらがとっても貴重だから、この部屋にはリドルの許可無しに立ち入ることができないようになってるの!」


 興奮しきりのアーニャちゃんは、真っ直ぐな瞳で俺の両目を見据えていた。


「つまり、今から私達はこの部屋の書物を調べ放題! もしかしたら、妹さんの病気を治す方法も見つかるかもしれない!!」

「……!!」


 俺はひゅっと息を呑んで、頭一つ分は下にある女の子の肩に、恥も外聞も無く縋りたいような気持になった。


「――でも、そんな……今まで何をどうやったって駄目だったのに……?」

「既に絶版や発禁になっている貴重な書物の山よ? 調べてみる価値くらいはあるわ」


 アーニャちゃんがあまりに屈託なく笑うので、俺もその『可能性』を少しばかり信じられる……いや、信じなくてはならないような気分になる。


 それでもまだ頭の整理ができずにぼーっとする俺を引っ張って、アーニャちゃんはずんずんと部屋のなかほどまで進んだ。


「まずは医学書の棚を探してみましょう! ほら、しゃきっとして!」


 高くて柔らかい声に叱咤されながら、俺は恐る恐る目の前の棚から一冊の本を手に取る。


 黄ばんだ古い紙と、長い時間の経った埃とカビの匂い。


 俺達は貪るようにありとあらゆる書物を読みつくした。

 

 カチコチと定期的に時を刻む時計の針など、全く気にもとめずに。





 かれこれ三時間は経過しただろうか。


 俺達は、昔医者から聞きかじった『ミーレス・ハムリア症候群』という病名だけをたよりにページをめくっている。


 病気の起源について言及するものはあった。


 患者の不幸な生い立ちを綴ったドキュメンタリーも見つけた

 しかし肝心の治療法については、何の手がかりも得られないままだ。


 俺は浅い溜息をつきながら、すっかり強張ってしまった肩を鳴らした。


「――アーニャちゃん……」


 少し離れた所に座っている彼女に声をかける。


「ちったぁ休んだらどうだ? さすがに疲れただろう」


 しかし俺の言葉になど見向きもせずに、アーニャちゃんは古びたページを捲り続けた。まるで俺に構っている時間すら惜しいみたいだ。


 数秒の沈黙の後、彼女には俺の問いかけに答えるつもりが無いとふんで、再び俺も作業を開始する。しかし予想に反して、彼女はぽつりと小さな声で零した。


「――リドルは……」

「――うん?」


 飛び出したのは予想に反した言葉だった。


 しかしその語調があまりに真剣なので、俺は続きを促すように相槌を打つ。


「――リドルには、妹君が居たの。名前はエリザ様。年はリドルより三つほど下だったわ」

「……」


 俺は黙って彼女の言葉に聞き入る。要所要所で使われている過去形に、嫌な予感を覚えながら。


「エリザ様は、とても優しい人だったわ。そして、塔の下に住んでいる人間に、とても興味をもっていらした。恐らく寂しかったんだと思うわ。お姫様が世界を冒険する物語を読んで、毎日溜息をついておられた」


 伏せられた瞳には暗い影がさしている。彼女の睫毛が小さく震えるのを見つめながら、俺は言葉の続きを待った。


「ある日――エリザ様の、八歳の誕生日の日ね。お祝いの宴の後、彼女はこっそりこの塔を抜け出した。もう眠るって言って部屋に戻った後だったから、気付くのが遅れてしまったの」


 細い指が、きゅっと掌に食い込んでいるのがわかる。彼女の中でも辛い思い出なのだ。後に続くのが非情な惨劇であるということは、想像に難くなかった。


「街の人々は、エリザ様がコトラの民だと知るなり様々な願いを投げつけたわ。さっき貴方が連れてきた人達みたいに、『お金持ちにしてくれ』とか、そんな利己的な願いだった」


 声が少し震えているのが気にかかった俺は、立ち上がってアーニャちゃんの肩にそっと手を置く。


「『それはできない』と答えたエリザ様を待っていたのは、ひどい罵声の嵐だった。内容なんて思い出したくもない。――エリザ様の不在に気付いた私は、街まで彼女を連れ戻しに行った。あの時エリザ様は震えていたわ。そして泣いていた。自分は、なんて無力なんだろうって」


 アーニャちゃんの真ん丸い瞳が、俺の両目を見つめた。


「それから日に日に、エリザ様の心は弱っていった。『私達は何の為に居るんだろう』『何の役にもたたないのに』……そう言ってずっと苦しんでおられた。……勿論、私もリドルも、たくさんの言葉をかけたわ。でも、彼女には届かなかった。エリザ様は、優しすぎたのよ」


 ぽろりと零れた涙が、丸くて白い頬を伝う。彼女は右手で涙の痕を拭うと、喉の奥から吐き出すようにその事実を告げた。


「――エリザ様が最後にその言葉で願ったのは、『己の命の最期』だった。――私達は、あのひとを救えなかった……!!」

「――アーニャちゃん……」


 肩に置いていた手を持ち上げて、彼女の黒髪をそっと撫でる。何度かの小さな嗚咽の後に、彼女は小さく息をつき、言葉を続けた。


「――リドルは嘆き悲しんで……心を閉ざすことを選んだ。――今はああでも、昔はよく笑う、年相応の男の子だったのにね」


 小さく吊り上った口元は、まるで母親が手を焼かせる息子に対して浮かべる笑顔みたいだ。ひどく優しくて、ひどく哀しい。


「――だから、貴方のことを拒絶するのと同時に……助けたいとも、思ったんだと思う。そういうことにしておきたいの。私の中では……ね」


 そう言うと彼女は、まるで何事もなかったみたいな笑顔を浮かべて手元の本のページを捲った。


「さぁ、作業を再開しましょ! ――サラさんが、一日でも早くよくなるように!」

「――ああ」


 俺はそう言って頷くと、最後にアーニャちゃんの頭をひと撫でして、持ち場に戻った。


 積み上がった『チェック済み』と『未チェック』の山の間で、目を凝らしながらページを捲る。


 少しずつ怠さをおぼえる瞼になんて構っていられなかった。


 俺が背負っているのは俺だけの思いでは無い。そう感じることが、できたからかもしれない。





 日の出を前にして、部屋には少しずつ橙色の朝日が差し込んでいた。


 散乱した書物に遮られて、僅かに届く光が、今、その文字列を燦然と照らしている。


「――あった……!!」


 俺の声は震えていた。


 背表紙が今にも剥がれそうに古びた、民族療法を記した本。その一ページに書かれた、『ミーレス・ハムリア』の文字。この頃にはまだ症候群として定義されていなかった。それくらい古い時代の、根拠なんて一切無いようなただの言い伝え。


 『ピライエ山脈に自生する薬草、ピライエ=ル=スマス』


 紫色の花をつける希少種らしい。その根を煎じて飲ませると、少しずつだが病は快方に向かうという。


 俺は興奮のあまり、今にも手元の本を引きちぎりそうだった。


 しかしそれをぐっと堪え、部屋中に轟くような大声で叫びくる。


「アーニャちゃん! アーニャちゃん!! ちょっと来てくれよ!!」


 声が涙に滲んでいようが、鼻水が垂れてこようが関係ない。


 俺は大人げなく少し泣いていた。それは多分アーニャちゃんも、同じだったと思う。



 少しずつ高くなってきた太陽が室内を明るく照らしだす。


 朝の訪れを告げる野生の鳥達の、まるで祝福するみたいな高い声が、分厚いガラス越しに俺達の鼓膜を震わせた。

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