第5話 彼の理由
アールグレイの香りが仄かに鼻腔を刺激する。食後のティータイムは僕にとって欠かせない時間のうちの一つだ。いつもはこの広間で誰にも邪魔されることなく茶葉の味を楽しむことができるのだが、今日は残念ながら余計なオマケが二人もいる。
「それでね、その時のリドルったら本当にひどくて」
「なんだって? ったく、こんな可愛い女の子を泣かせるなんて、人の風上にも置けないな!」
どうでもいいが、そういう話は僕のいないところでするか、二度と口にしないと誓いを立てるかしてほしい。僕のカップの中身の減り具合よりも、いかにして日頃の不満を晴らすかに執着しているメイドに、僕は眉間に深い皺を刻む。
大体この不審者とうちのメイドはいつの間に結託し始めたのか。男は相変わらず動きづらそうに白銀の鎧をガシャガシャいわせている。僕は少し考えてから、コホンとひとつ咳払いをした。
「――時に、男」
やいのやいの騒いでいたアーニャとシドが、口をつぐんでこちらを見る。
「今僕はとても退屈している。何か面白い話でもしてみせろ」
「はぁ? そんな無茶な……」
僕は残り少ないカップの中身を口に含みながら、奴の顔を見ずに言った。
「例えばそうだな。お前の愉快な身の上話でも、今なら聞いてやらんことはない」
僕の真意を察したのか、シドが目を剥きながら息を呑む。「本当にいいのか」と少し迷う素振りをみせたので、僕はその間そっぽを向いて黙っていた。この程度で揺らいでしまうような決意の話なら、僕は別に聞きたくなど無いのだ。
「……俺はスーダの町で生まれ育った。別に騎士でも何でもない。小さなサーカスの下っ端奇術師だ」
スーダの町。はるか東にあるという、山間ののどかな農村だと書物で読んだことがある。
「親父もお袋も、俺が小さな頃に流行り病で死んじまった。だが俺には家族がいる。十離れた可愛い妹だ。名前はサラ。優しくて健気で、本当に、俺の生き甲斐なんだ」
シドはそこまで言うと一旦口を閉ざして、机の上に置いた拳を握り締める。何かにじっと耐えるような、そんな表情をしていた。
「昔から病弱な子だったが、最近とくに体調が悪くてな。医者に診せたが、珍しい病でどうにもお手上げらしい。隣町の有名な先生でもだめだった。だから俺は必死で調べたんだ。もう藁にでも何でも縋る思いさ。怪しい宗教に騙されかけたこともあった。だが、俺はようやく見つけたんだ。リドル、あんたのことを」
彼の方を見なくても、その目がこちらに向けられていることがわかった。それくらい強い、意思をもった視線だ。
「この街にはコトラっていう、言葉にしたことを何でも本当にしちまう力をもった奴がいるらしいと知って、俺はすぐに旅の支度をした。どんなことをしてでも、あいつを助けてもらおうと思った。その為に俺がどうなってもいいっていう気持ちは、今も変わらない」
そう言うと、シドは机に額をぶつけながら、僕に向かって頭を下げた。
「……あんたの力を誰かの為に行使するってのが、どういうことか必死で考えた。拒絶するのは当然だ。何て勝手な人間だと思うだろう。だけど俺はどうしてもあいつを、サラを助けたいんだ」
僕は何も答えない。シドの顔を見ることもない。それでも彼は頭を下げ続ける。
「頼む。一言でいい。あいつが助かるように願っちゃくれないか。引き換えに何をしたっていい。頼む。頼む……!」
シドの訴えを最後に、広間には重い沈黙が立ち込めた。時計の秒針だけが、カチリコチリと耳障りな音をたてている。アーニャは縋るような瞳でこちらを見ていた。何故かって、そんなことわかりきっている。僕が彼の願いを聞き入れることなど有り得ないと、彼女自身が一番よく知っているのだ。
「……コトラの民は」
僕は重々しく口を開いた。
「今まで身勝手な人間達にことごとく蹂躙されてきた。何でも願いが叶うのだろうと頼み込み、時には力でねじ伏せて、己の欲望を満たそうとする人間が、僕は大嫌いだ。だからコトラの民が他人の為にこの力を使うことはない。絶対にだ」
シドの表情がどんよりと曇るのを視界の端で認めながら、僕は言葉を続ける。
「仮に僕がお前の妹の為に力を使ったとしよう。僕にはお前と同じ境遇の人間を救わなくてはいけない“理由”が生じる。決してこの世界でお前だけが不幸なわけではないんだ。同じように何に縋っても助かりたい人間が、ごまんと居る。その全ての人間の人生に責任をもてるほど、僕は寛容な人間じゃない」
そう言って僕は静かに席を立った。力なく項垂れているシドがどんな顔をしているのか、今の僕にはわからない。知る必要もない。
ゆったりとした歩調で広間を後にした僕は、自室へと向かう階段を上がる。ゆらりゆらりと蝋燭の炎が揺れる中、騒々しい足音が背中の方から僕を追いかけてくる。聞きなれたその音を僕が間違える筈もない。
「騒々しいぞ、アーニャ」
ハァハァと呼吸を乱したアーニャが僕に追いついて、咎めるような視線を向けてきた。
「……僕は掟を遵守している。何か間違っているか?」
「だけど、シドさんあんなに必死で……!」
「アーニャ」
「……」
僕の言外の言葉を感じ取ったのか、アーニャは下唇をきゅっと噛み締め、下を向いてしまう。彼女だってわかっているのだ。自分がどんなに聞き分けの無いことを言っているのか。
僕は暫く悔しそうな召使の顔を見下ろした後、くるりと彼女に背を向けた。
「……そうだ」
蝋燭の炎はか細く揺らぎながら、僕たちの距離を仄かな明かりで照らしている。
「……書庫に埃が積もっていた。掃除をしておくように」
「――そんな、この間掃除をしたばかりで……」
「お前の『掃除をした』はあてにならん。念入りにやれよ。何ならあの朴念仁に手伝わせてもいい」
その言葉を聞いて、アーニャははっと息を呑んだ。
「リドル……!」
僕はアーニャにそれ以上何かを言われるのが面倒臭いので、足早に自室へと向かう。背中の方からは無駄に元気を取り戻したメイドが「シドさん! シドさん!」とやかましい声をあげているのが微かに聞こえてきて、僕は大きな溜め息をついた。
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