雨音に混じって、室内から異質な水の音が聞こえる。ぴちゃん、ぴちゃん、と雫の落ちる音。わたしは手探りで玄関の電灯を燈した。靴を脱いで上がり込み、次にしたのは廊下の電灯を燈す作業だった。マンション中の明りを片っ端から付けて回り、風呂場を覗いた。真新しいはずのシャワーからは僅かばかりの水流が零れて、蛇口から落ちた雫がタイルの上で合流していた。ぴちゃん、ぴちゃん、と飛沫を微かに跳ね上げている。知ってみれば、何ともないような原因だった。わたしは怖れを抱いていた事に、無性に腹が立った。頭に来た。なんなんだろう、欠陥マンションかも知れないと、咄嗟には思っていた。さっさと蛇口をひねって水を止め、脅かしてくれたこの忌々しさに舌を打った。

 指に髪の毛が絡まっている事に気付いたのはその後だった。今朝は一本だった長い黒髪が、この時には三本くらいに増えた。絡みついている黒い糸は、まるで意思があるかのように食い込んで痛かった。わたしの髪の毛はもうショートカットに変わっている。明るい栗毛に染め変えたから、この髪はわたしのものではないと、すぐに理解が出来てしまった。そして。

 だったら、きっと、今朝の髪の毛もわたしのじゃない。ぼんやりと、連想が働いた。

 激しい水流が濁音を生み出した。咄嗟にわたしは走り、キッチンの流し台で勢いよく水を噴き出す蛇口をひねって止めた。右手にはごっそりと、誰かの長い黒髪が絡みついて束になっていた。悲鳴を上げそうだった。


 玄関のチャイムがタイミングよく鳴った。希望の音だとわたしには思えた。助けて、と叫んだかも知れない。絡みつく大量の長い髪を振りほどこうともがきながら、私はキッチンから走り出た。突っ切った居間の、半分引かれたカーテンの奥に窓がある。ガラスの向こうに街並みが覗いている。真っ暗な街を背景に、ちらりと見てしまった視界の片隅に、ずぶ濡れの女の姿を認めてしまった。

 べたりと両手を窓ガラスに貼り付けて、女は半開きの口と目で、わたしを眺めていた。廊下の電灯が明滅を繰り返す。誰かの、救いの神さまの押すチャイムの音が再び鳴らされた。

 恐慌を来たし、ほとんど意味の分からない言葉を発しながら、わたしは玄関のキーチェーンを外そうともがいた。チャイムはもう一度鳴った。間髪入れずに、もう一度。心が励まされた。

 玄関の外に立つ誰かの為に、わたしは大慌てでドアを開けなければならなかった。指先までが小刻みに震えるものだから、チェーンを外すことは少し難しくなっていた。先にドアの鍵を開ける事にした。外に立つ誰かが励ましてくれたなら、きっとすぐにでも落ち着きを取り戻せる。ドアの外に立つ誰か、チャイムをまた押した誰かの声を、心の底から期待した。

 内鍵のロックを捻って開錠した途端に、ドアノブがガチリと鋭い音を立てた。外の誰かが思い切り回したらしかった。続けて、ドアが勢いよく開きかけた。チェーンが引っ張られ、太い鎖が耳障りな音を発して、ぴんと伸びた。武骨な手が、ドアを掴んでいた。軍手をはめて、指先には力が漲っていた。

 視線を上へとずらしたわたしは、血走った眼と、眼が合った。わたしの見開かれた眼と同じくらいに、扉の隙間からこちらを覗く眼も、見開かれていた。


 わたしの背後に、ゆらりと女性の影が立っている。振り返って確認などしなくても、女が近付いてきたことは察した。ひやりとした白い手が、わたしの肩を掴んだと思う間に、わたしの身体を通り抜けた。彼女はドアの隙間から逃げていった。

「見たんだろ? 見たんだよな、そうだろ?」

 ぎょろりとひん剥かれた充血した両目が、にたりと笑う薄気味悪い顔の中で狂気を宿している。わたしは金切り声を上げて、ドアノブを掴み、懸命に押し込もうとした。がつん、と何かに当たってドアは閉じてくれなかった。下を見れば男が靴先をこちらに突っ込んでいた。

 わたしは無我夢中で叫び、喚き、何かを大声で怒鳴っていた。男が大きな鋏みたいな工具でチェーンを挟み込んだところが見えた。泣き叫ぶわたしは、自分でも何を言っているのかが解からなかった。


「なんだ!?」

「警察呼んで、警察!」

「誰かー! 誰か、来てー!」


 ご近所の人々が騒ぎ出すと、男は切断途中でチェーンを放り出して逃げた。ようやく玄関扉を閉じて、わたしはずるずるとその場にしゃがみ込んだ。放心状態で、誰かがまたドアを激しくノックしている事は解かっていたけれど、何も反応出来そうになかった。

 出ていったはずの、ずぶ濡れの女がキッチンの傍でうずくまっている姿が見えた。





 彼女が殺されていたのは、もう何年も前の話だそうだ。犯人は未だに捕まらず、ほとんど迷宮入りになっていたと、隣のおばさんが教えてくれた。逃げた男の行方もまだ解からない。だけど、これでやっと浮かばれるわね、とおばさんは言っていた。この部屋にはその後、何人もの住民が入り、いつの間にか告知義務は消滅していたらしい。

 事故物件だとは知らずに、わたしはこの部屋を借りていた。

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【文芸】あめおんな 柿木まめ太 @greatmanta

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